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第五話


 試合が終了し、リング上で勝者がコールされた。


 滅多に見ないほどの大逆転劇だった試合。


 勝者となってコーナーに戻った渡瀬は、涙を流していた。彼にとって、それほど嬉しい勝利なのだろう。高校時代からのライバルに勝てた。しかも、敗色濃厚な状況からの大逆転。嬉しくないはずがない。


 リングを降りた市川は、試合後のドクターチェックを受けていた。試合後は、勝敗に関わらずドクターチェックを受ける義務があるのだという。ボクシングという競技の過酷さを物語るルールだ。


 ドクターチェックを受けた市川が、こちらに来た。美由紀がいる場所。応援に来たジムメイト達が、集まっている場所。


 市川は、苦笑いを浮かべていた。


「すみません、最後の最後で気を抜いちゃいました」


 違うでしょ? 気なんか抜いてないでしょ? 


 つい、美由紀は、市川の言葉を否定しそうになった。最後の試合に、気持ちを注ぎ込んでいた。そんな彼が、気を抜くはずがない。すでに、彼の体力は限界に達していたのだ。それでも、強い意志で戦い続けた。


 市川の苦笑には、影がある。本心の影。彼が隠している、今の気持ち。


 痛いほどに悔しい。どうしようもなく悲しい。苦い。辛い。


 ──そんな本心を隠す彼を、支えたくて。


 美由紀の足が、市川に向かって一歩踏み出そうとした。無意識のうちに、彼に近寄ろうとしていた。


 けれど、その足は、すぐに止まった。

 いち早く市川の側に行った、詩織を見て。


 詩織は、泣きそうな顔をしていた。目には涙が浮んでいる。それでも、彼女は泣かなかった。分かっているからだろう。一番悔しいのは誰か。一番悲しいのは誰か。その彼が泣いていないのに、自分が泣くわけにはいかない──そんな思いがあるに違いない。


 詩織の気持ちが分かる。

 美由紀も、同じ気持ちだから。


「明人、お疲れ様」

「ああ。悪いな。せっかく来てくれたのに」

「ううん。凄くいい試合だった。最高試合(ベストバウト)だね」

「そうか。最後の試合が最高試合(ベストバウト)になったなら、それはそれでよかったかもな」


 はは、と市川は笑った。満足した。悔いはない。そう、詩織に伝えるように。


 そんな市川の様子が痛々しくて、美由紀はつい、拳を握り締めた。


「とりあえず、トイレ行ってくる」


 詩織の肩をポンと叩いて、市川は試合会場の出口に向かう。詩織や美由紀達に背を向ける。


 その瞬間の市川の表情が、美由紀の目に焼き付いた。


 お芝居が下手だね、市川君。


 市川の顔は、笑みの形をしていた。無理矢理、笑っていた。けれど、その瞳は、今にも泣きそうだった。


 トイレに行くわけじゃないんでしょ? そうじゃなくて、本当は──


 自分もトイレに行くと言って、美由紀は、市川の後を追うように試合会場から出た。


 市川の後ろ姿が見えた。彼は、トイレなんかに向かっていない。体育館の出入り口に足を運び、外に出た。


 市川の後を追った。


 市川は、体育館の裏側に足を運んだ。足場の砂利を踏み締める。建物を背に、寄りかかった。そのままズルズルと崩れ落ちるように、その場に座り込んだ。顔を伏せて、膝を抱えるようにして。


「……ぅ……」


 必死に堪えているようだが、かすかな嗚咽が、市川の口から漏れていた。


 美由紀は、建物の影から市川を見ていた。彼の本心が、美由紀の耳に届いていた。嗚咽という本心。


 悔しいけれど、人前では泣けない。そんなボクサーの本心。


 それは、美由紀が、小説家として取材したかったものだ。そんなボクシングのリアルを求めて、わざわざボクシングジムに入会したのだ。市川を取材したのだ。


 それなのに美由紀は、メモ帳を持ってくることすら忘れていた。ペンを持つはずの右手で。メモ帳を持つはずの左手で。自分の胸を押さえた。痛い。苦しい。市川の辛さが、悔しさが、悲しさが、伝わってくるようで。


 美由紀の足は、無意識のうちに、一歩踏み出した。市川に向かって。試合直後は、踏み出せなかった一歩。詩織がいたから、止まってしまった足。


 周囲に誰もいないこの状況だと、美由紀の足は、抵抗もなく歩みを進めた。


 手が届くほど近付くと、市川は、ようやく美由紀の接近に気付いた。膝に伏せていた顔を上げた。


 彼の顔は涙でグシャグシャで、すでに目は赤くなっていた。泣き顔を見られて、途端に頬まで赤くした。


「……いや……その……えっ……ぅ……」


 市川は慌てて誤魔化そうとして。でも、涙は堪え切れないようで。


 美由紀は、彼の側でしゃがみ込んだ。足下の砂利が音を立てた。


 そっと、彼の頭に手を乗せる。


「悔しいよね。苦しいよね」


 取材のために、ボクシングジムに入会した。取材のためにここに来た。ひとりの小説家として美由紀が取るべき行動は、市川の側に来ることではない。遠くからでも、彼の姿を見守ることだった。その姿から、彼の心情を推し量り、メモに残し、作品に活かすことだった。


 でも、そんなことは、考えられなかった。


 高校二年のときに初めて物語を書いてから、十五年。美由紀は初めて、自分が書く物語を二の次にした。その自覚もないままに。


 ただ、悲しむ市川の側にいたいと思った。


 たった一発のパンチで、追い求めてきた勝利を逃してしまった。自らを追い込み、練習し、ひたすらに求めたものを逃してしまった。


 その悔しさに胸を痛める市川を──


 美由紀はそっと、市川を引き寄せた。自分の小さな胸で、彼の頭を抱えるように。


「泣いてもいいと思うよ。皆の前で──詩織さんの前で泣けないなら、今のうちに泣いたらいいと思うよ」


 市川の口から、嗚咽が漏れた。嗚咽に混ぜて、しゃくり上げながら言葉を紡いだ。


「すみません、笹島さん……」


 笹島。夫の名字。愛していない、夫の名字。愛着などない名字。


「その名字、未だに慣れないんだけどね」


 本心をやや誤魔化して、口にした。


「夫の名字で呼ばれても、自分のことみたいに思えなくて」


 あざとい言葉。本心を誤魔化す程度には、頭が働いている。頭を働かせながら、市川に求めている。


 夫の名字で呼ばないで。


 恋愛感情のなかった──人を好きになったことのない美由紀にとっては、精一杯の言葉。この気持ちを何と呼べばいいか分からずに、口にした言葉。


 嗚咽を漏らしながら、市川は、途切れ途切れに言葉を紡いだ。


「少し……だけ……こうして、くれませんか……」


 市川の涙が、美由紀の服に染みてくる。冷たいような、温いような、そんな感触。決して嫌じゃない感覚。


「……少し……だけ……」


 市川の腕が、美由紀の背中に伸びてきた。甘えるように。縋るように。


「お願い……します……」

 

 彼の声に、涙の色が濃くなった。


「……美由紀、さん……」


 結婚しても変わることのない、名前。

 その名で、市川は、美由紀を呼んだ。


「うん」


 美由紀は、少しだけ、市川の頭を抱える腕に力を込めた。


「落ち着くまで、好きなだけ泣きなよ」


 彼の頭を、優しく撫でる。愛おしむように。


「明人君」


 なぜか、美由紀の脳裏に詩織の声が浮んだ。市川の──明人の婚約者の声。


 彼女が、明人を呼ぶ声が。


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