第四話
国体予選決勝。
大会最終日の、日曜日。
選手のコールがされて、市川はリングに上がった。
相手は、高校時代からのライバルで、これまで三勝三敗の渡瀬啓介。
注目されている試合のようで、多くの観戦者がいた。熱気と歓声。リングの周囲は、多くの人に囲まれていた。
もちろん美由紀も、この試合に注目している。
渡瀬と同じ大学のボクサーや、同じ高校のボクシング部出身と思われる人達が、彼に声援を送っている。うるさいくらいの大声で。
負けじと、ジムのメンバーも市川に声援を送っていた。喉から声を絞り出すように。
試合開始のゴングが鳴った。
「明人! ガンバ!」
詩織の声が、多くの声援に混じって響いた。
強打者で攻撃型の渡瀬が、開始早々から仕掛けて出た。左足と左手を前に、斜に構えている。右構え。前進しながら、左のパンチを軽く真っ直ぐ出してゆく。左のジャブ。それを、二発三発。
市川は、渡瀬が前進した分だけ後退してジャブを避ける。しかし、真っ直ぐ下がったことで、開始早々ロープを背にした。
市川をロープに詰めた渡瀬が、ジャブから右ストレートを放った。この決勝に勝ち進むまで、相手をことごとく倒している強打。中には、担架で運ばれた選手もいた。
渡瀬の右ストレートが、市川の顔面に向かってゆく。
その瞬間。
鋭い破裂音が美由紀の耳に届いた。
渡瀬の右ストレートを避けながら、市川が左フックを放った。カウンタ-。開始早々にクリーンヒットを奪った。
すかさず市川は時計回りに動き、ロープ際から脱出した。
クリーンヒットを貰った渡瀬に、ダメージはない。市川のもっとも得意なパンチが当たったのに。準決勝までの相手を、ことごとく仕留めたパンチなのに。
美由紀は、取材時に市川から聞いたことを思い出した。
『もう六回も戦ってますからね。手の内は知り尽くしてますし、俺のパンチは効かないと思います』
手の内を知り尽くしていると、パンチが効かない。その理屈が、美由紀にはよく分からなかった。
市川は、丁寧に理由を説明してくれた。
『来ると分かってるパンチって、どんなに強くてもあまり効かないんですよ。例えば──交通事故を想像して下さい。結構なスピードで正面から電柱にぶつかるより、低速でも後ろから追突される方が、首とかの怪我に繋がりますよね?』
確かに、と思った。時速十㎞未満のスピードで後ろから衝突されても、むち打ちになったりする。
『それは、目測も予測もできないからなんですよ。ボクシングのパンチも同じなんです。目測や予測できないパンチは軽くても効きますけど、目測や予測ができていたら、よほど打たれ脆くない限り強打でも耐えられるんです』
渡瀬は、市川の攻撃パターンを知り尽くしている。だから、あれほど見事にクリーンヒットされても、大して効いていない。
渡瀬は再び、市川に仕掛けていった。
市川はリング中央で足を踏ん張り、迎え撃つ体勢を取った。強打者である渡瀬を相手に、打たれ脆い市川が。
再び美由紀は、市川に聞いた話を思い出した。
『正直なところ、今回の試合は俺の方が不利だと思います。俺のパンチは効かない。でも、渡瀬の強打は、来ると分かってても効くと思います。俺、打たれ脆いんで。だから、今まで通りの戦い方をしても、絶対に勝てない』
『じゃあ、どうするの?』
『ここを、わざと打たせます』
そう言って市川は、自分の左脇腹を指差した。
『ここって、打たれてもそんなに効かないんですよ。肝臓とかみぞおちと違って』
みぞおちは腹の中央付近、肝臓は腹の右寄りにある。
『でも、痛いんだよね?』
『そりゃあ、まあ』
市川は苦笑していた。悲壮なほどの覚悟が見える、苦笑。
『でも、肝臓とかみぞおちを打たれたときと違って、呼吸困難になることはないです。顔面を打たせるわけにもいきません。だから、ここに防御の隙を作って、打たせます』
『それで、どうするの?』
『ここにパンチが当たると分かったら、あいつは狙ってくるでしょうから。一発撃たせて、引き替えに三発は殴ってやります』
それは、自分の体を餌にしたカウンター。
『肋とか折れたら、どうするの?』
『覚悟してます』
美由紀の質問に、市川は即答した。
『今回が最後なんで。そう思えば、痛くても耐えられます。顔面を打たれて意識が飛んだり、肝臓やみぞおちを打たれて呼吸ができなくなることを考えれば──それで負けることを考えれば、痛みくらいは耐えられます』
リング上で、重そうな破裂音が響いた。渡瀬の右フックが、市川の左脇腹を捕えた。胴体にめり込むんじゃないか、というほどの強打。
市川は歯を食い縛りながら、鋭くパンチを返した。立て続けに三発。全て、渡瀬の顔面にヒットした。
渡瀬が、市川の顔面を狙って左フックを放つ。
市川は上半身を反らして避けた。卓越したディフェンス能力を持つ彼は、左脇腹以外を打たせない。
『今まであいつとは三勝三敗ですけど、俺が負けるときは、あいつの強打に捕まって倒されました。俺が勝つときは、捕まらずに捌いての判定勝ちでした』
市川は、これまでの渡瀬との試合を、ひとつひとつ解説してくれた。六回戦った。三勝三敗。戦績だけ見れば、五分と五分。
『でも、俺が勝つときの判定の内容が、少しずつ僅差になっていって。完全に追い詰められてきてるんです』
だからこそ今回は、覚悟が必要だという。今までにない戦い方で、自分の体すら犠牲にする覚悟。それくらいの気持ちがないと、今回は勝てない。
その市川の発想は、今のところ正解と出ている。渡瀬のパンチで当たっているのは、市川の左脇腹に放つ右フックのみ。だから渡瀬は、そのパンチを中心に攻めるしかない。
左脇腹にパンチを受けるたびに、市川は、その三倍ものパンチを渡瀬に当てた。打たれた痛みを、表情に出すこともなく。
奪っているクリーンヒットの数は、圧倒的に市川の方が多い。
美由紀の隣では、詩織が、必死に声援を送っている。市川の左脇腹に渡瀬のパンチが当たる度に、顔をしかめながら。それでも、決して目を逸らさない。
相手の首を刈り取るような渡瀬のパンチ。準決勝では相手を担架に乗せ、病院送りにしていた。市川は、その強打を紙一重で避けている。
打たれ脆いという市川が、あんなパンチをまともに食らったら。そう考えると、美由紀の背中に冷や汗が浮き出た。ただのジムメイトである自分でさえ、こんな気持ちになるのだ。婚約者である詩織がどれほどの心配を抱えているか──彼女の心境を考えると、胸が痛んだ。
きっと、恋愛感情を抱けない自分では想像もつかないほど、恐いのだろう。目を逸らしてしまいたいほどに。でも、彼の最後の戦いから、目を離すわけにはいかない。
まるで物語を紡ぐときのように、美由紀は、詩織の心情を思い浮かべていた。
第一ラウンドが終了した。左脇腹に渡瀬の右フックを食らっていたとはいえ、クリーンヒットの数は圧倒的に市川の方が多い。このラウンドは、間違いなく市川が優勢だ。
休憩──インターバルを挟んで、第二ラウンドが始まった。
展開は変わらない。市川は、自分の顔面に放たれた強打を紙一重で避ける。その合間に、軽くても鋭いパンチを打ち込む。強打を左脇腹に叩き込まれたら、その瞬間に三発以上のパンチを返す。
第二ラウンド終盤になると、市川に疲労が見えてきた。
市川のパンチは何発当てても効かない。それなのに、渡瀬のパンチは、一発でも顔面に食らえば倒される可能性がある。そんな状況で戦っている市川の精神的重圧は、どれほどのものだろうか。
ボクシングという競技の理不尽。その厳しさの中で、市川は戦っているのだ。
気が付くと、美由紀も、隣にいる詩織と同じように声援を送っていた。喉が痛むほど大きな声で。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。
市川に勝ってほしい。努力が報われてほしい。打たれないでほしい。傷付かないでほしい。彼を思う気持ちが、胸中から溢れていた。
第二ラウンドが終了した。このラウンドも、市川が優勢だった。
ラウンド間のインターバルを挟み、最終ラウンドを迎えた。
市川の疲労は、明かに濃い。一分のインターバルでは、回復などしないほどに。それでも彼の目には、光があった。勝利を追い求める光。自身の戦略を遂行する意思。最後となる大会で、ライバルを打ち破る執念。
三ラウンド目の市川は、一、二ラウンドと比べると明かに精彩を欠いていた。足下がおぼつかない。
勝つための意思の強さがある。練習で、自分を限界まで追い込める厳しさがある。最後の大会に対する執念がある。だが、肉体的限界には逆らえない。
それでも市川は、美由紀に語っていた戦略を、忠実かつ正確に実行していた。左脇腹に渡瀬の右拳が叩き込まれたら、すかさずパンチを返す。顔面へのパンチは紙一重で確実に避ける。疲労で足がフラつきながらも、体に染み込ませた動きを出している。
三ラウンド目の、半分の時間が過ぎた。残り一分半。
渡瀬のパンチを避けた拍子に、市川が転倒した。バランスを崩したのだ。パンチは当たっていないから、ダウンではない。
ゆっくりと、市川が立ち上がる。このわずかな時間で、少しでもスタミナが回復できれば。
見ると、渡瀬も肩で息をしていた。彼も疲れているのだ。当然だろう。自分のパンチは市川の左脇腹に放った右フックしか当たらず、その三倍以上のパンチを打たれ続けているのだから。
大丈夫。大丈夫だ。この展開は、市川の想定通りなんだ。クリーンヒットの数は、市川の方が圧倒的に多い。判定までいけば、間違いなく市川が勝つはずだ。
無意識のうちに、美由紀は、汗ばむ手を握り締めていた。
市川が立ち上がり、試合が再開された。
渡瀬が、渾身の右ストレートを放つ。市川が、的確な左フックでカウンターをとった。
時間が経過する。残り一分。
渡瀬が、肋を折る勢いで市川の左脇腹を殴った。
ほとんど条件反射のように、市川は連打を返した。
殴られた渡瀬は、強引に、市川の顔面に向かってパンチを放つ。
市川は上半身を反らして避け、その直後に右ストレートをクリーンヒットした。
残り三十秒。
殴られ続け、敗色濃厚な渡瀬が、強引に前に出てきた。
前進してきた渡瀬に、市川は右ストレートを叩き付けた。
渡瀬の顎が跳ね上がった。
打たれながらも、渡瀬は強引に打ってきた。
市川のパンチは効いていない。
市川の足は、疲労で、リングのキャンパスをしっかり踏み締めていない。もう足に力が入らないのだろう。それでも、目は死んでいない。
残り二十秒。
渡瀬が、市川の左脇腹に右フックを叩き付けた。
市川が連打を返した。
打たれながら、渡瀬は渾身の左フックを放つ。
市川は、上半身を反らして避けようとして──
その足が、もつれた。蓄積された疲労で。
次の瞬間、市川の顎が跳ね上がった。
渡瀬の左フックに、首を刈り取られたかのように。
市川が倒れた。彼の背中がリングに叩き付けられるまでの時間が、いやに長く感じた。スローモーションのように崩れ落ちた。
ダウン。
レフェリーがカウントを数える。ワン、ツー、スリー、フォー……。
市川は、フラつきながら立ち上がった。その足が、疲労とダメージでもつれ、フラついて。
レフェリーは、市川の体を抱くように片手で支え、もう一方の手を頭上で振った。
「ボックス、ストップ!」
レフェリーの声が響いた。ストップの合図。試合終了の宣告。決着の宣言。
試合の残り時間は、わずか八秒だった。
最終ラウンド、逆転のRSC──レフェリー・ストップ・コンテスト──負け。驚くほどの、それこそ物語のような、大逆転劇。
劇的な終幕で、市川の最後の試合が終わった。