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第三話


 初めてジムを訪れた日から一ヶ月少々。

 その間、美由紀は、可能な限り市川の取材を行った。


 美由紀がジムに通うのは、火曜日と土曜日。ジムに行くとまず市川の練習を見学して、彼に話を聞く。その後に、自分のトレーニングを始める。


 会長が気を遣って、美由紀のトレーナー役に、練習後の市川をつけてくれた。美由紀は「練習で疲れてるのに」と最初は遠慮したが、市川は快く引き受けてくれた。


「人に教えると、それが自分自身の復習にもなるんで」と言って。


 取材と、運動。美由紀にとって、有意義な一ヶ月となった。同時に、市川に話を聞き続けることで、彼というボクサーに愛着が湧いてきた。


 もともと、スポーツにはそれほど興味がなかった。特定の選手のファンになったり応援したりする人の気持ちが、分からなかった。そんな人達の気持ちが、ようやく分かってきた。


 美由紀は、この一ヶ月で、すっかり市川のファンになっていた。ハードな練習を自らに課し、さらに練習後は、美由紀にボクシングの指導をしてくれる。そんな彼に愛着が湧くのも、自然な流れと言えた。


 充実した一ヶ月を過ごし、国体予選の日となった。八月最終週の、木曜日から日曜日。


 市川の階級は、51㎏~54㎏リミットのバンタム級。トーナメントの第二シードだった。


 第一シードは、市川と三勝三敗の渡瀬啓介(わたせけいすけ)。市川の、高校時代からのライバル。


 ボクシングのルール上、一人の選手が戦うのは一日一試合。トーナメントなので、勝てば次の日も試合。負ければその日で終わりとなる。市川と渡瀬はトーナメントの端と端に位置していて、二人が顔を合わせるのは決勝となる。もちろん、二人とも順当に勝ち上がれば、だが。


 試合会場には、市川の婚約者も応援に来ていた。宮田詩織(みやたしおり)。茶髪のショートボブがよく似合う、可愛らしい女性だった。市川と同じ歳で、同じ大学に通っているという。外見は活発そうに見えるが、運動は苦手と苦笑しながら言っていた。


「明人、喜んでましたよ。可愛い作家さんに独占取材されてる、って」


 悪戯っぽく笑いながら、詩織が言っていた。笑ったときにかすかに見える八重歯が、可愛らしかった。身長は美由紀よりも10㎝ほど高く、抱き心地の良さそうな体をしている。男に好かれそうな体だ、などと失礼なことを思ってしまった。かつての夫の不倫相手が頭に浮んだ。その女も、胸が大きく、抱き心地が良さそうな体をしていた。


 市川と詩織は、仲睦まじい、という言葉がピッタリと当てはまる。試合会場でも、二人で笑いながら話していた。


 結婚したら、仲のいい夫婦になるんだろうな。互いに、互いが大切なんだろうな。愛し合っているんだろうな。若い二人を見て、美由紀の心の中にかすかな(よど)みが生まれた。自分と祐二の夫婦にはない、温かい感情が伝わってくる。


 二年前の不倫を精算してから、祐二は、確かに美由紀を愛するようになった。今でも、彼は毎日、美由紀に「好きだ」と言ってくる。毎日、朝と寝る前にキスをする。週に二回はセックスを求めてくる。


 けれど美由紀には、祐二に対する愛情がない。美由紀は今まで、誰かに恋愛感情を抱いたことがない。


 恋愛感情を持たない人間。Aセクシュアルというのだと、何かの本に書いてあった。


 自分は、感情に欠陥のある人間だ。美由紀は、自分のことをそう思っていた。誰も好きになれない。恋愛感情を抱けない。


 だからこそだろう、と自己分析している。だからこそ、小説を書いているのだ。物語の中で登場人物達に命を吹き込み、様々な感情を抱かせる。誰かに惚れさせ、恋愛を成就させ、もしくは失恋させる。


 自分にできないことを、自分が書く小説で実現させている。


 もしも、と思う。もし、これから、遅すぎる初恋をすることがあったなら。もし、全てを捨てても一緒にいたいと思える人が現れたなら。その恋が成就してしまったなら。


 自分は、小説を書けなくなるかも知れない。小説を書くことで、自分を満たしているのだから。登場人物に、自分にできないことをさせることで。


 恋をして、恋が成就したら、小説を書く目的がなくなってしまう。

 

 そう考えると、誰も好きになれないのも悪いことではない。小説を書くことが楽しいから。好きだから。これを捨てるなんてできない。小説を書けなくなるなんて考えただけで、血の気が引く。


 自分は、市川のようにはなれない。安定した結婚生活のために、自分が必死にやっていることを辞めてしまうなんて。


 試合初日。木曜日。計量が終わった。市川は問題なく計量をパスした。勝てば、次の日も試合がある。計量は、試合の度にあるそうだ。つまり、初日の計量をパスしたからといって、安易にドカ食いはできない。


 大会規程上、試合開始は、計量終了後から三時間以上空けることとなっている。減量後の胃に食べ物を入れ、それからすぐに試合を行うのは危険だという健康上の配慮からだ。


 計量を済ませた市川は消化のよさそうなゼリーなどを口にし、スポーツドリンクを飲んでいた。大会の第一試合が始まると、しばらくしてからウォーミングアップを始めた。


 準備を始めると、市川の表情はガラリと変わった。少し前まで詩織と話していたときとは、別人になっている。可愛らしい、童顔と言える顔立ち。しかし、その目には、ボクサーらしい鋭さが宿っている。


「惚気に聞こえるかもですけど──いや、実際、惚気なんですけど」


 そう前置きして、詩織が言った。


「凄く格好いい、って思っちゃうんですよね。試合前の明人のこと。本当に、凄く」


 明人を見つめる、詩織の目。その目はどこか熱っぽくて、彼女の気持ちを明確に語っていた。目は口ほどにものを言う、とはよく言ったものだ。


 本当に、市川さんが好きなんだな。端から見ている美由紀にも、詩織の気持ちがはっきりと伝わってきた。羨ましい、と思ってしまうくらいに。


 試合が、次々に消化された。

 市川の試合になった。

 木曜、金曜、土曜と日程が進んだ。


 市川は、決勝まで順当に勝ち上がった。全試合、最終ラウンドでのRSC──レフェリーストップコンテスト──勝ち。1ラウンド目に相手を観察しながら仕掛け、2ラウンド目に完全にペースを握り、3ラウンド目に仕留める。全て、同じパターンで勝っていた。


 ライバルである渡瀬啓介も、順当に勝ち上がった。パワーのある強打者の彼は、市川とは違って、全試合豪快に相手を倒していた。


 最終日の決勝で、これまで五分五分の戦績の二人が、ぶつかる。

 


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