第二話
初めて間近で見るスパーリングは、想像していた以上の迫力だった。
多少勉強をしたとはいえ、美由紀は、ボクシングに関しては素人だ。技術的なことは何も分からない。しかし、市川の動きが凄いことは簡単に分かった。国体予選の優勝候補だというのも納得だった。
市川は、二人の相手と三ラウンドずつ、計六ラウンドのスパーリングをこなした。
ボクシングは、一ラウンドを三分として、アマチュアの試合は三ラウンド戦う。ラウンド間の休憩時間は、試合では一分。しかし、ジムでは、休憩時間を三十秒に設定していた。
市川とスパーリングをした二人の相手は、いずれも、彼より身長が高かった。
市川は、自分より長い腕で放たれるそのパンチを、手で払い落とし、あるいは上半身を反らして避け、その瞬間瞬間に鋭いパンチを打ち込んでいった。美由紀が見る限り、彼は、六ラウンドのスパーリングで一発もまともなパンチを食らわなかった。
とはいえ、二人も相手にしてさすがに疲れたらしい。スパーリングを終えてリングを降りると、市川は、ぐったりとして床に座り込んだ。息が荒い。ゼイゼイという呼気音が、美由紀の耳にも届いている。
「とりあえず、市川は少し休むだろうから。今のうちに色々聞いたらいいよ」
強面に笑みを浮かべて、会長が言ってきた。
「いいんですか? 市川さん、かなり疲れてるみたいですけど」
「大丈夫大丈夫。いつもなら、あの状態で練習続けるんだから」
ハードな競技だとは思っていたが、想像以上だ。初めて見るボクシングの世界に、美由紀は、少なからず驚いた。あんなに疲れている状態から、さらに自分を追い込んでいるなんて。
会長に促され、美由紀は市川に近付いた。最初に挨拶をしたときの彼は物腰が柔らかかったが、今はどうだろうか。こんなに疲れているときに話しかけられたら、さすがに苛立つのではないだろうか。
そんなことを考えながら、美由紀は、市川の近くでしゃがみ込んだ。
「あの、今、大丈夫ですか?」
呼吸が荒いまま、市川は美由紀に視線を向けた。大量の汗が滴り落ちている。彼の細い顎から落ちた汗が、水音を立てて床を叩いていた。
「ああ、大丈夫ですよ」
幼い顔立ちに、市川は柔らかい笑みを浮かべた。優しげな表情。つい先ほどまで、相手を殴りながら翻弄していた人物とは思えない。
美由紀は手持ちのメモ帳を開き、ボールペンの芯を出した。その場で座り直し、市川と向かい合う。
「作家さんなんですよね?」
これから質問をしようと思っていたところで、逆に質問をされてしまった。
「ええ。それで、今度はボクシングを題材にお話を書こうと思って」
「本は、もう出してるんですか?」
「はい。八冊」
「凄いですね。まだ若いのに」
市川の表情に、お世辞の色は見えなかった。本心なのだろう。本を出すのが凄いということも、まだ若いのに、ということも。
美由紀はつい、苦笑した。意図しなくても、自然に表情が動いた。いつもは無表情なのに。
「いえ、実はそんなに若くないんですよ」
「俺と同世代くらいですよね?」
「市川さんはお幾つですか?」
「大学四年です。二十二歳」
「じゃあ、私の十個も年下なんですね」
「ぅえ?」
市川は一瞬、わけが分からない、という顔を見せた。疲労で流れる汗は、相変わらず。けれど、荒かった呼吸が一瞬止まった。再び呼吸を始めて、じっくりと美由紀を見てくる。
二人の間に、沈黙が流れた。
ジム内に流れる音楽や、他の選手が叩くサンドバッグの音が、いやに大きく聞こえる。
「えっと……え?」
「今年、三十二になったんです。もう、おばさんですね」
「はい?」
「市川さんの十歳年上の、おばさんなんです。若くはないんですよ」
市川は、再び沈黙した。驚いた顔をそのままに、髪を短く切り揃えた頭に触れた。少し汗が飛んだ。
「えっと……なんかすみません。失礼しました。最初に見たとき、やたら可愛い作家さんだな、なんて思って」
「可愛いなんて、久し振りに言われた気がする。ありがとう。じゃあ、ボクシングのこととか市川さんのこととか、聞いていいかな?」
美由紀は敬語を使うのをやめた。意識してやめたのではない。市川の様子に、話しやすさを感じた。
美由紀のことを「若い」と言っていた市川自身も、実年齢より若く見える。可愛らしい童顔。間近で見ると、高校生のようだった。
「何でも聞いて下さい。答えるんで」
「ありがとう。じゃあ──」
美由紀はまず、市川に、彼自身のボクシングに関することを聞いていった。始めたきっかけや、彼自身の戦い方、ボクシングに対する考え方。
市川がボクシングを始めたのは、高校一年のとき。テレビでたまたま見たボクシングの世界タイトルマッチが、格好よくて。淡い憧れを抱いていたときに、都合よく自宅の近くにボクシングジムがあることを知って。
高校時代の最高成績は、三年のときの国体ベスト八。スパーリングでもほとんどパンチを貰わなかったのは、非常に打たれ脆いから。だから、ディフェンスは徹底的に磨いている。得意は、パンチを避けた瞬間やパンチを避けながら打ち込むカウンター。特に、左フックのカウンターが得意。
地元に、現在三勝三敗のライバルがいる。そのライバルは、高校時代に市川を破って出場したインターハイで三位になっている。
技術的なことを途中で解説してもらいながら、市川というボクサーのことを聞いてゆく。メモに残してゆく。
市川は大学四年。すでに就職先も決まっており、ボクシングは今年で最後だという。つまり、もし負けたら、一ヶ月後にある国体予選が引退試合となる。
「卒業してもやろうとか、プロを目指すとかは思わなかったの?」
それは、美由紀にとっては素朴な疑問だった。ボクシングのプロの世界がどういうものか、美由紀は詳しく知らない。また、会社員をしながらアマチュアで続ける事に関しても、何も知らない。ただ、先ほど見た市川の動きは、引退してしまうのが惜しいと思わせるほど凄かった。
美由紀の質問に、市川は、照れ臭そうに頭を掻いた。口元が緩んでいる。スパーリングで荒くなっていた呼吸は、もう、落ち着いていた。
「あの、俺、大学卒業したら、結婚することが決まってまして。もう、婚約もしてるんですよ」
なるほど、と思った。結婚が決まっているから、就職して、仕事に専念して、安定した生活をしようということか。
「若いのに、しっかりしてるんだ。結婚、おめでとう」
「ありがとうございます。そんなわけなんで、結構必死です」
「試合には、彼女さんも来るの?」
「はい。なんで、無様に負けるわけにはいかないな、なんて」
「そうだね。頑張らないとね」
事情を聞いて、あまり取材に時間を取らせたら悪いと思った。最後の大会に向けた練習なのだ。美由紀は質問を切り上げた。
小説家として、市川の状況には魅力を感じた。
大切な人がいる主人公。彼が、最後の戦いに向かう。
卒業後の結婚生活を考えて引退する、という現実は、物語としては使えない。夢がなさ過ぎる。けれど、最後の戦いとなる理由をドラマチックにすれば、市川をそのまま主人公として物語が書けそうだ。そのために、じっくりと彼を見たい。
トレーニングウェアに着替えたものの、美由紀は、結局、今日はトレーニングをしなかった。
ずっと、市川の練習を見学していた。