第一話
ボクシングジムに見学予約を入れた翌日。
iPhone11のナビを頼りに、美由紀はジムに行ってみた。
時刻は、午後六時。
ジムは、美由紀が想像していたよりも大きかった。小中学校のプールくらいの大きさだろうか。さらに、駐車場も広かった。
乗ってきた軽自動車を駐車場に停め、降りる。
祐二には、朝のうちに伝えておいた。今日はジムに取材兼短期の入会に行くから、遅くなるかも、と。
二年前に不倫相手と別れさせてから、夫の祐二は、美由紀にすっかり惚れ直していた。今でも、週二回はセックスを求めてくる。執筆業で家事が多少おろそかになっても、何の文句も言わない。それどころか、小説で賞を取りデビューしたことを、手放しで賞賛していた。
「美由紀は凄いな」
そんなことを言いつつ、自分も仕事に真面目に取り組んでいた。結婚したときはSVだった祐二の職位は、今では、そのひとつ上のマネージャー職になっている。
祐二はモテる。さらに、女好きだ。
美由紀は、祐二が不倫相手と別れたときに、確信していた。彼はまた不倫をする、と。彼のように積極的でモテる男が、妻ひとりで満足するはずがない。
その予感は、今のところ外れている。祐二が不倫をしている気配は、今のところまったくない。少なくとも、美由紀の見える範囲では。
小説で問題なく生活できるようになったら、祐二とは離婚したい。そう考えている美由紀にとって、彼が美由紀ひと筋なのは、都合が悪かった。
だから美由紀は、二年前の不倫の証拠を、今でもしっかりと保管している。いざとなったら、それを使って離婚できるように。
もっとも、不倫の時効は「行為を知ったときから三年」なので、あの証拠が使えるのはあと一年だけなのだが。
車から降りると、美由紀は、後部座席からドラムバッグを取り出した。中には、トレーニングウェアやランニングシューズ、替えの下着等が入っている。今日からトレーニングを始められるなら、早速始めたい。そう思って持ってきた。もちろん、取材用のメモ帳とペンもバッグの中に入っている。
ジムの入り口に足を運ぶ。ガラス張りのドアで、ジムの中が見えた。
建物内の中央あたりにあるリングで、三人の男がシャドーボクシングをしていた。三人のうちの一人の動きが、他の二人よりも際だって鋭い。まだ若い男だ。大学生くらいだろう。
リングの近くに、中高年と思われる男がひとり。あれが会長だろうか。
リングの向こうには、大小合せて六機のサンドバッグが天井から吊されていた。リングの陰になって見えにくいが、サンドバッグを叩いている人が四人。そのうちの一人は女性だった。
リングより入り口側の床の上では、鏡を見ながらシャドーボクシングをしている人が五人。その中の二人は女性。
美由紀は、大きく深呼吸をした。ボクシングなんて、美由紀にとっては未知の世界だ。少し緊張してきた。大きく息を吸い、吐く。
意を決して、ジムのドアを開けた。
ドアを明けた瞬間に、内側から、ムワッとした熱気が出てきた。湿気を含んだ熱気。
美由紀の着ている、ノースリーブにガウチョパンツ。ラフな格好の内側に、ジワリと汗が滲み出てきた。ブラやパンツが少し濡れて、気持ち悪い。
「すみませーん」
ジムの中に入って声を掛ける。ジム内の視線が美由紀に集まる。
リングの近くにいた中高年の男が、美由紀に近付いてきた。身長は170くらいだろうか。坊主頭で、顔が恐い。やはり、この人が会長らしい。
「見学かい?」
見た目に似合わず、会長と思われる男は穏やかな口調で聞いてきた。
美由紀は、昨日電話を架けたときに、見学に行く時間とともに自分の年齢も伝えていた。だが、小柄で童顔の美由紀が年相応に見られることは、ほとんどない。
おそらく、三十二歳の見学者という情報と美由紀の外見が、会長の中で一致しないのだろう。
手っ取り早く話を進めるために、美由紀は、軽く頭を下げたのちに簡単な自己紹介をした。
「昨日見学予約をした、笹島です。会長さんですか?」
「え? あ、ああ。昨日の。ごめんね、あんまり、その……若々しいから、分からなかった」
幼いから、と言いそうになったな。会長の言葉の行間を、美由紀は当たり前のように想像した。149センチの身長に、下手をすれば高校生に間違われる童顔。その童顔を際立たせるような眼鏡。彼の気持ちが分からないことはない。
美由紀は、自分が年相応に見られないことに、すっかり慣れている。
場の空気を緩めるため、美由紀は照れたような笑みを浮かべた。高校時代は演劇部に所属していた。ちょっとした小芝居は得意だ。
「ありがとうございます」
「いやいや、お世辞じゃないから。えっと……今日から動いてくかい?」
会長の視線は、美由紀のドラムバッグを見ていた。
「はい。トレーニングウェアと靴は持ってきました。ただ、ボクシングでよく見る、手に巻く包帯みたいなのは……」
「ああ、バンテージね。貸し出してるから問題ないよ。ジムで売ってるから、買ってもいいし」
「じゃあ、今日はとりあえずお借りします」
「ああ」
会長に促されて美由紀は外靴を脱ぎ、出入り口付近の靴箱に入れた。女子更衣室に案内される。更衣室内には、シャワー室が二つあった。
「じゃあ、着替えたら早速動くかい? それとも、ほら。作家さんなんだよね?」
「はい」
「動く前に、選手に色々聞いてみるかい? 今ちょうど、試合前の選手が練習してるし」
「いいんですか?」
「まあ、あいつのスパーリングが終わったら、ね」
「ぜひ」
「わかった。伝えておくよ」
会長と取材の話をしてから、美由紀は更衣室に入った。ドアを閉めて、着替える。
会長が言っていた「試合前の選手」とは、たぶん彼のことだろう。ジムに入る前に見えた、リング上でシャドーボクシングをしていた彼。リングにいた他の二人よりも、明かに動きが鋭かった。
ブラを外して、スポーツブラを着ける。やや長めのショートパンツを履き、Tシャツを着た。ランニングシューズを履いて、紐を結んだ。メモ帳とボールペンを手にする。
更衣室から出ると、会長に声を掛けた。
「着替えてきました」
「ああ、じゃあ──」
会長はリング上に視線を向けた。
「市川! ちょっといいか?」
「はい?」
リング上で鋭い動きをしていた彼は、会長に呼ばれて、リングサイドに駆け寄ってきた。
「何ですか、会長」
「こちら、笹島さん。作家さんで、ボクシングの取材に来たんだ。あと、トレーニングもする。とりあえずスパー終わったら、色々話してくれ」
「俺がですか?」
「お前が丁度いいだろ。選手だし、試合前だし」
会長は美由紀の方を向き、ニカッと笑った。もともと強面な顔立ちは、笑うとさらに迫力があった。
「いい選手だよ、こいつ。全国も何回か経験してるし、今度の国体予選も優勝候補だ。ぜひ、話、聞いてやってよ」
「はい」
美由紀は市川に向き直り、頭を下げた。
「笹島美由紀と申します。試合前で大変なときにお手数なんですけど、お願いします」
「いや、俺でよければ。あ──市川明人といいます。よろしくお願いします」
国体予選の優勝候補ということは、国体選手候補ということだ。だが、市川は、とてもそんなふうには見えなかった。可愛いとも表現できる優しげな顔立ち。素朴な口調。腰の低い対応。けれど彼の動きは、素人の美由紀の目から見ても、明かに鋭かった。
「市川。もう、スパーいけるか?」
「大丈夫ですよ。体も温まってますし。準備します」
市川はリングから降りて、スパー──スパーリングの準備を始めた。
素人とはいえ、美由紀もある程度はボクシングについて勉強した。
スパーリング──実際に殴り合う、実戦練習だ。
美由紀は、生まれてこの方、人と人が殴り合う姿など見たことがない。初めての経験を前に、少なくない好奇心が沸き立っていた。