エピローグ~私にはお似合い~
自宅に着いて、美由紀はドアの鍵を開けた。
流れた涙を拭き取って、玄関に入った。
「ただいま」
帰宅の言葉を口にした直後に、リビングの方から、ドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。玄関とリビングの合間のドアが開いた。祐二が、玄関に駆け出てきた。
祐二は、今にも泣きそうな表情を見せていた。顔をクシャクシャに歪ませて、目を細めている。その目からは、今にも涙がこぼれそうだった。
少なからず、美由紀は驚いた。帰宅した途端にこんな顔を見せられたら、驚くなという方が無理だ。
「どうしたの? 祐二さん」
どうして、こんな顔をしているのか。夫の気持ちが分からずに聞くと、彼は、堪え切れなくなったように涙を流した。
「美由紀。美由紀ぃ」
涙声で美由紀の名を繰り返しながら、祐二は抱き付いてきた。美由紀の首筋に、彼の涙が落ちてきた。生温かく濡れる感触が、ちょっと気持ち悪い。
「どうしたの? 何があったの? 祐二さん」
再び美由紀が聞くと、祐二は、しゃくり上げながら口を開いた。美由紀を、痛いくらいに強く抱き締めて。
「お願いだから捨てないでくれ、美由紀。お願いだから。もう、浮気しないから。だから、俺を捨てないで」
意味が分からなかった。なぜ、祐二は、こんなことを言い出したのか。
ひとつ理解できたのは、祐二がまた不倫をしていたということ。それが、美由紀にバレていると思っていること。
祐二がまた浮気をしていたなんて、美由紀は知りもしなかったのに。
「どうして捨てられるなんて思ったの? 私、そんなこと、全然思ってないよ」
もちろん嘘である。明人の決意によっては、美由紀は、祐二と離婚するつもりだった。彼の、二年前の不倫の証拠を使って。
「どうして捨てられるなんて思ったの?」
もう一度聞くと、祐二は、相変わらずしゃくり上げながら続けた。
「書いてる途中の小説、読んだ。『初恋』っていう。好きな奴、いるんだろ? そいつと一緒になろうとか、考えてるんだろ?」
ああ。声に出さず、美由紀は納得した。『小説家になるよ』で執筆している小説を、祐二は読んだのだ。明人との恋に焦がれて書いた小説。物語なんて呼べない、ただ恋と情欲に満ちた小説。
美由紀が望んでいた、明人との恋。
もう失ってしまった、初恋。
「お願いだから考え直して。捨てないで。もう、浮気しないから。美由紀以外の女と寝ないから。だから」
祐二が泣いている。でも、この涙は、罪悪感や後悔から流れる涙じゃない。
まるで目が覚めたかのように、急激に、美由紀の脳内で文章が浮かび上がった。小説の登場人物の、心理描写。浮気の結果捨てられそうになっている、男の心。
《彼は、罪悪感で泣いているのではない。後悔から泣いているのではない。自分の独占欲が満たされなくて、悲しいだけ。好きな女に捨てられそうな自分が可哀想で、泣いているだけ》
嘘みたいだった。明人との恋に焦がれていたときは、文章が綴れなくなっていたのに。自分と彼の気持ちだけしか、考えられなかったのに。
それが、こんなにも自然に、当たり前のように、思い浮かぶ。
私は、恋愛ができない。恋愛感情がない。だからこそ、小説を書ける。
それが、私の全て。
美由紀は、これまでの自分を振り返った。小説を書くことに全てを捧げてきた自分。小説を書き続けるために、この男と付き合い始めた。小説を書き続けるために、この男とセックスをした。小説を書き続けるために、この男と結婚した。
そうして、全てを小説に捧げて生きてきた。自分が誰かを好きになるなんて、思いもせず。自分が恋をするなんて、考えもせず。
美由紀は、抱き付いている祐二の頭を撫でた。自分は平気で裏切るくせに、裏切られると大泣きする夫。いいようにコントロールして、小説を書くのに最適な環境を提供させている男。
「私があなたを捨てるわけないじゃない。だって、大好きなんだから」
あなたが提供してくれる、小説を書くのに最適な環境。それが、大好き。
「勘違いさせちゃって、ごめんね。でも、そんなに勘違いをさせちゃうくらいだから、私の小説って、凄くリアリティがあるんだね」
優しく、優しく祐二の頭を撫でる。慰めるように。彼の美由紀への気持ちが、冷めないように。この気持ちがある限り、彼は、美由紀が望むものを与えてくれるから。
文章が頭に浮ぶ。祐二の頭を撫でながら、美由紀は、自分の脳内で物語を紡いでいた。恋を捨てて、誰も好きになれない自分を受け入れることで、取り戻した感覚。
他の全てを犠牲にしても、小説を書き続けよう。それが、自分の選んだ道で、望んだことなのだから。
「ごめんね、不安にさせて。私ね、祐二さんのこと、大好きだよ」
気持ちの入っていない言葉を、得意の演技で口にした。恋を捨てて、嘘を拾った。夫が大好きだという嘘。もし、小説が売れなくなっても、小説を書きながら生きていけるように。
私は、恋ができない。恋ができないのに、好きだと伝えている。そんな私には、案外、この人はお似合いなのかも知れない。好きだと言いながら、好きな人を欲情に任せて裏切ることができる、この人が。
「大好きだよ、祐二さん」
安心させるように、美由紀は祐二に伝えた。物語の登場人物になったかのように、上手に。感情を込めて。
演劇部時代の経験は、自分の初恋も隠し通した。