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第十三話


 地下鉄に乗って、美由紀は市街地に出た。


 十二月二十四日。クリスマス・イヴ。


 街は、大勢の人々が行き交っていた。楽しそうに歩くカップル。指輪をしている、夫婦とおぼしき男女。笑顔の親子連れ。色んな人達が、クリスマスのネオンに彩られた街を満喫している。


 美由紀は、指輪を外してこなかった。左手の薬指に光る、結婚の証。祐二の妻である証。


 明人の恋人ではない、証。


 時刻は、午後五時十五分。

 明人との待ち合わせは、五時半だった。


 空はもう暗くなっていて、少し曇っている。雪が降りそうな寒さと空模様。空の暗さとネオンの明るさのコントラストが、綺麗だった。


 待ち合わせ場所は、九月に明人と来た店。初めて二人だけで行った、居酒屋の前。ショッピングモールの中にある店。でも、クリスマスを一緒に過ごすのは、そこではないだろう。


 五時二十分に待ち合わせ場所に着くと、明人はすでに来ていた。


 歩み寄る美由紀を見つけて、彼は、その表情を明るくした。


 美由紀は、明人に駆け寄った。初めて一緒に呑んだときとは、まったく逆になっていた。あの日は美由紀が先に来ていて、明人が駆け寄ってきた。


 今にして思えば。


 あの時点で、美由紀は、すでに明人のことが好きだったのかも知れない。だから、心が浮き足立って、待ち合わせの時間よりもはるかに早く来てしまった。


「ごめんね、待った?」


 明人の側に行って聞くと、彼は首を横に振った。


「全然です。でも──」


 明人は嬉しそうなのに、どこか切なそうだった。


「──全然待ってないけど、待ち遠しかったです」


 小説にも使えそうなほどの、意味深な言葉。遠回しに自分の気持ちを口にした明人は、頬を少し赤くしていた。それは決して、寒さのせいなどではなく。


「じゃあ、行きましょうか」

「うん」


 二人で並んで、歩く。腕を絡めることも、手を繋ぐこともない。


 美由紀が縮めてしまいたい、明人との距離。

 明人が縮めたいであろう、美由紀との距離。

 縮めるためには、大切なものを捨てなければならない。


 明人の横を歩きながら、美由紀は、つい、意地悪な質問をしてしまった。


「詩織さんは大丈夫なの? 今日、クリスマスなのに」


 少しだけ、明人の表情が動いた。一瞬だけ、キュッと結ばれた唇。すぐに彼は、美由紀を見て微笑んだ。


「大丈夫です」


 その「大丈夫」は、何を意味しているのか。明人は、詩織との関係を、どうするつもりなのか。明人は、美由紀と、どうなるつもりなのか。


 その真意によっては、美由紀も──


 明人の真意が語られる前に、彼が予約した店に着いた。小洒落たイタリアンの店だった。店の前に、メニューが書かれた看板があった。値段は、決して高くない。肩の力を抜いてクリスマスを楽しめる、敷居の高くない店。


 店の中に入った。

 店内は、大勢の客で賑わっていた。学生らしきカップル。楽しげに会話を交わす夫婦。親子連れの客もいた。店内の入り口近くにはクリスマスツリーが飾られていて、装飾の電球がピカピカと光っていた。


 予約した席に案内された。四人掛けの、窓際の席。美由紀と明人は、向かい合うように座った。テーブルの上には、メニューと、店員を呼び出すベル。外では、雪が降り始めていた。白い雪が、窓から見える景色の中でチラチラと舞い落ちている。


 ネオンが光る街中で、舞い落ちる雪。

 この雪が止む頃に。

 イヴの夜が明ける頃には。

 自分達の関係は、どうなっているのだろう。

 

 木製の額に入れられたメニューを手にした。どのメニューも、値段は決して高くなかった。でも、今まで二人で出掛けた店に比べたら、はるかに雰囲気があった。恋人同士が似合う雰囲気。クリスマスが似合う雰囲気。


 明人はきっと、色んな店の情報を見て、色んなことを考えて、この店に決めたのだろう。自分の財布の事情や、クリスマスというイベント。好きな人と過ごすのに適した場所。悩んで、美由紀と二人だけで過ごすことを想像して、頑張って店を探したのだろう。


 美由紀は、メニューと明人を交互に見つめた。可愛い、と心から思った。素直に、好きだと思えた。テーブルを乗り越えて、今すぐ抱き締めてしまいたい。今までの自分からは考えられないほど、美由紀の感情は豊かになっていた。自分の気持ちが心に溢れかえって、他のことなど考えられなかった。


 物語の人物の心情など、まったく浮ばない。


 思い描く感情は、自分の、明人に対する気持ち。明人の、自分に対する気持ち。物語として成立などしない、二人の感情しかない世界。


 思っていた通りだった。誰かを好きになったら、自分は小説を書けなくなる。自分と、自分の好きな人の気持ち以外は考えられなくなる。


 明人と結ばれたら、小説家としての自分は死ぬ。


 それでも、彼を求めてしまう。彼の心を求めてしまう。


 だから、決意していた。明人が、全て捨ててくれるなら。


 ボクシングを諦めてでも彼が手にしようとしていた、詩織との安定した生活。明人が、それすら捨ててくれるなら。それなら自分も、大切なものを捨てよう。


 全て、捨ててしまおう。


 ベルを鳴らして、店員を呼んだ。お互いに、今夜の食事を伝えた。待っている間は、会話が途切れなかった。明人が笑顔になって。その顔を見て、美由紀も笑顔になった。無表情だと思っていた自分が、こんなにも笑える。明人と一緒にいるだけで、こんなにも胸が温かくなって。こんなにも楽しくて。こんなにも幸せだ。


 夕食が運ばれてきて、ワインで乾杯して。明人は相変わらずお酒に弱くて、ワイン一杯で顔を真っ赤にしていた。


 ワイングラスから離した明人の唇を見て、美由紀の体は火照ってきた。この火照りは、もちろん、ワインのせいなんかじゃない。美由紀は、そんなにお酒に弱くない。


 美由紀は、赤い顔で食事をする明人を見つめた。もう、分かっている。確信している。明人も、美由紀のことが好きなんだ。だから、クリスマス・イヴに、詩織ではなく美由紀と過ごしている。


 美由紀のことが好きだからこそ、明人の心の中には大きな葛藤があるはずだ。詩織と、美由紀。明人の心にある天秤には、二人が乗っている。


 どうするの?


 明人と会話を交わしながら、心の中で、美由紀は問いかけた。この店を出たら、どうするの?


 美由紀の心の中にも、天秤はある。明人と、小説。全てを捧げてきたと言っても過言ではない、小説。甘美で溶けてしまいそうなほど幸せな、明人との恋。その、どちらに傾くのか。どちらに傾かせるのか。


 その答えは、もう出ている。


 楽しい会話。幸せな時間。食事を終えて、店を出た。雪が降る、大勢の人々が行き交う街中。


 時刻は、午後八時になっていた。


 明人と一緒にいると、時間が過ぎるのが驚くほど早い。もし、このまま彼と一緒に居続けたなら、美由紀の人生など一瞬で終わってしまいそうだ。


「明人君」


 店の前で、美由紀は、明人と見つめ合った。


「これから、どうしようか?」


 明人は、男性としてはそれほど背が高くない。それでも、美由紀より二十センチほども背が高い。


 見つめ合っている二人の距離は、恋人同士と呼ぶには、まだ離れすぎていた。美由紀と明人の唇の距離は、たぶん五十センチ以上も離れている。


 美由紀に聞かれた明人は、少し躊躇いながらも、声を絞り出した。


「ひとつ、お願いしていいですか?」

「何?」


 明人が、じっと見つめてくる。その瞳は潤んでいて、切なそうでいながら、強い熱を放っていた。


「……結婚指輪、外して下さい」


 それは、告白と言える言葉。明人が、美由紀を求めている。美由紀に、要求している。夫じゃなく、自分のものになって、と。


 美由紀に告げた言葉は、明人の心が傾いている証拠だった。彼の心の天秤が、詩織より、美由紀の方に傾いている証拠。


 ──でも、ね。


 美由紀は胸中で呟いて、明人に一歩近付いた。二人の距離は、恋人同士と言える距離になった。


 唇と唇の距離は、三十センチくらい。明人が少し背を丸めて、美由紀が背伸びをすれば、触れ合える距離。


 ──でも、まだ駄目。


 そう思いながらも、美由紀は望んでしまう。明人の気持ちに飲み込まれてしまいたい、と。


 明人の気持ちが伝わってくる。彼の視線から、強い熱を感じる。それは、若者故の、遠い未来を考えない熱。それこそ、ボクシングに捧げる熱のように。その一戦に勝つことだけを考え、先の未来を見ない。そんな熱。


 ──でも、それじゃ駄目なの。


 自分は、明人より十歳も年上だ。どんなに若く幼く見えても、実年齢という現実は変わらない。そんな自分が明人の熱に飲み込まれるためには、どうしても、(あかし)が欲しかった。


 明人は美由紀から離れない、という証。


 人通りの多い街中で、明人は、少し体を丸めた。視線を絡めながら、美由紀に顔を近付けてくる。


 二人の唇の距離が、近付いてくる。


 このまま目を閉じてしまえば、どれだけ幸せになれるのだろう。このまま明人と触れ合ってしまえば、どれほどの甘さに満たされるのだろう。


 でも、確証もなく全てを捨ててしまえるほど、美由紀は若くなかった。たとえこれが、年齢に似合わない初恋であっても。


 近付いてくる明人の唇を、美由紀は、自分の人差し指で止めた。自然に出たのは、左手だった。左手の人差し指で、明人の唇に触れた。


「待って、明人君」

「……どうして?」


 明人は、物欲しそうな顔をしていた。おあずけをされた子犬のように、悲しそうだった。


 もしあなたが全てを捨てるなら、私も、全てを捨てるから。そんな気持ちを伝えるように、美由紀は告げた。


「夫がいるから駄目、なんて言わないよ。ただ、ね。ただ、もし──」


 言葉を選ぶ。明人の決意を試すように。


「もし、今からしようとすることを、すぐに詩織さんに報告できないなら」


 この場で、詩織を捨てられないなら。美由紀と一緒にいるために、詩織を捨てられないなら。


「それなら、ここでやめておいて。今すぐに詩織さんに別れを告げて、彼女を裏切って、傷付けることができないなら──」


 裏切る。傷付ける。美由紀は意図的に、意地悪な言葉を選んだ。意地悪な言葉とは裏腹に、微笑んで見せた。


 私は、あなたが欲しいよ。あなたが全てを捨てるなら、私も全てを捨てるよ。そんな覚悟を見せつけるような、微笑み。


 明人は少しだけ、身を引いた。二人の唇と唇の距離が、遠くなった。


 美由紀から遠ざかった唇を、明人はきつく結んだ。悲しそうな目をしていた。


 想像してしまったのだろう。自分に捨てられた詩織が、どれだけ悲しむか。どれだけ苦しむか。どれだけ美由紀に惹かれていても、明人は、詩織を傷付けたくないのだ。彼女を、大切にしたいんだ。


 美由紀のことが好きでも、詩織を愛しているんだ。


 手放せないんだ。


 ──それなら……。


 美由紀は明人から目を逸らして、顔を伏せた。


 明人は、自分のことを好きでいてくれる。でも、自分のために、全てを捨てることはできない。そう、理解した。分かってしまった。


 美由紀は、伏せた顔を上げた。明人に、笑顔を見せた。元演劇部。お芝居は得意だ。


「ありがとう、明人君」


 言いながら、一歩、下がった。


 遠ざかった、二人の唇の距離。


 美由紀の唇と明人の唇が触れ合うことは、もうない。


「じゃあ、ね。楽しかった。本当に、楽しかった」


 明人は、泣きそうな顔になっていた。美由紀に手を伸ばしたい。引き止めたい。抱き締めて、キスをしたい。そのまま結ばれてしまいたい。そんな願望を物語る目。そんな願望が叶わないと知って、涙がこぼれそうな目。美由紀を手に入れたいけれど、詩織を捨てることなんてできない。


 そんな明人の顔を、見つめながら。最後まで、視界の端まで見つめながら。彼に背を向けて、美由紀は歩き出した。


 そのまま振り向かずに、帰路についた。


 明人は、追ってこなかった。初めて二人で呑んだ日とは違った。あの時みたいに、後ろから手を掴んでくれなかった。


 美由紀はそのまま、地下鉄駅まで歩いて。自宅近隣の駅まで乗って。下車して、家までの道を歩いた。


 もしも、と思っていた。


 もしも明人が、詩織を裏切っても傷付けてもいいと言うのなら。それくらい、美由紀が欲しいと言うなら。それなら、自分も、自分が生きてきた目的を捨てよう、と。


 明人が詩織を捨てるように、自分も小説を捨てよう、と。


 けれど、そうはならなかった。


 明人を振ったのは自分。でも、振られたのも自分。


 自宅のマンションまで歩きながら、美由紀は、明人の唇に触れた人差し指を見た。


 左手の、人差し指。


 明人の唇に、自分の唇で触れたかった。そのまま、全てを流れに任せてしまいたかった。でも、躊躇いなくそんな選択をするには、この初恋は遅すぎて。

 

 明人の唇に触れた指先で、美由紀は、自分の唇に触れた。ひとりになったら、演技なんてできなかった。

 

 涙がひと筋、頬を伝った。



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