第十二話
もしも、と思った。
もしも──
そんなことを考えながら、美由紀はジムに行った。
十二月二十日。火曜日。
午後六時。
冬なので、この時間でも外はすっかり暗い。
美由紀にとって、今やすっかり習慣となったジム通い。当たり前のように駐車場に車を停め、ジムに入った。
熱気が籠もるジム内。サンドバッグの叩く音が響いている。軽快な音楽が流れている。選手がパンチを打つときの「シュッ」という呼気の音。ステップを踏む足音。
リングの上では、明人が、選手のミットを受けていた。
明人の就職まで、あと四ヶ月。卒業と同時に詩織と結婚するそうだから、入籍まではあと三ヶ月といったところか。
だから。
それまでは、ジムにはもう来ないでおこう。
そう決意して、美由紀はジムに来た。
来てすぐに、会長にその旨を伝えた。そろそろ執筆に集中するから、三、四ヶ月ほどジムを休会すると。
「そうかぁ。まあ、作家さんだもんな。頑張って。終わったら、また来てよ」
強面の会長は残念そうに言いながら、微笑んでいた。ジムに通った五ヶ月で、すっかりこの強面にも慣れてしまった。今では、愛嬌があるとすら思えてしまう。
「はい」
得意の演技で、美由紀は微笑んだ。
本当は辛いし、恐い。明人と離れるのが辛い。初恋を失ってしまうのが恐い。
だけど、この恋は、本来なら絶対に成就するはずのないものだから。
だから、これでいい。
これで、もし。
もしも、明人が──
心の思惑を表に出さず、美由紀は更衣室で着替えて、準備運動を始めた。
準備運動を終えて、シャドーボクシングを始める。パンチは、最初の頃よりも遙かにスムーズに出るようになっていた。
九月になってから、明人にずっとミットを持ってもらっている。明人から、彼自身が得意な左のパンチをずいぶん教えてもらった。
美由紀の利き手は右なのに、左のパンチの方が得意になっていた。
真っ直ぐ左を伸ばす。ジャブ。打ち出した左拳を引くと同時に、今度は横凪の左を振る。大振りではなく、肩と腰の回転を効かせて、コンパクトに。明人の得意な左フック。小さな弧を描いた左フックを振り切ると、今度はすかさず踏み込み、鋭いジャブを放つ。
対戦相手の反撃をイメージするように、一歩バックステップ。相手のパンチが空振りした瞬間を狙うように、再び左フック。
自分は、明人に大きな影響を受けている。それは、彼に教わったボクシングだけじゃない。二人きりで初めて出掛けた居酒屋も、一緒に歌ったカラオケボックスも。試合の直後に流していた彼の涙も。彼の唇についたクリームの甘さも。
何もかもが、美由紀の心を溶かした。
明人の全てが、美由紀の心を締め付けた。
自分にとって何より大事だった小説すら、霞ませてしまった。
ジワリと汗ばむくらいに動いてから、美由紀は、明人にミットをお願いした。
九月から続けている、明人とのミット。
でも、きっと、今日が最後。
三分三ラウンドのミット打ち。丁寧で優しい教え方は、明人の性格を物語っていて。それが嬉しくて、楽しくて。
だから、悲しかった。
この人には、婚約者がいる。私には、夫がいる。この初恋は、きっと成就することはない。成就してはいけない。
だけど──
三ラウンドが終了した。
息を切らしながら、美由紀は、明人に告げた。
「ありがとう、明人君。それで、ね──」
少しだけ、間が開く。それは、ある意味で、決別の言葉。
「──私、そろそろ執筆に集中するから、三、四ヶ月は来れなくなるの」
明人の卒業まで、あとわずか。彼自身も、結婚し就職したら、頻繁にはジムに来られなくなるだろう。美由紀と時間を合わせるなんてことは、難しくなる。
美由紀の言葉を聞いて、明人は目を見開いた。
人は、本当に驚いたりショックを受けたりすると、言葉もなく呆然としてしまう。今の明人が、まさにそれだった。明人は、大きく開けた目で、それこそ穴でも開きそうなくらいに美由紀を見つめていた。
美由紀は、努めて事務的に頭を下げた。口からは、これも事務的な、お礼と激励の言葉。
「少し早いけど、結婚、おめでとう。詩織さんと仲良くね。あと、四月から、お仕事頑張ってね」
詩織さんと仲良くね。その言葉とともに、得意の演技で笑みを浮かべた。得意の演技で、祝福の言葉を述べた。
本当は、自分の胸にナイフを突き立てるような言葉だった。自分で言って、自分で傷付いた。
明人は目を細めた。あの最後の試合の日みたいに。悲しそうで、苦しそうな目。辛そうな目。
美由紀はリングから降りて、サンドバッグ打ちを始めた。明人とのミットでやった動きを、復習するように。それは、九月からずっと続けていたこと。そして恐らく、今日が最後になること。
サンドバッグ打ちを三ラウンド行って、クールダウンのようにシャドーボクシングをして、美由紀はトレーニングを終えた。
更衣室でシャワーを浴びる。体の汗を洗い流す。小さな、少女のような胸。詩織とは比べるべくもない──明人の婚約者よりも、はるかに小さい胸。
この体に触れられることを、期待していた。肌と肌で触れ合うことを期待していた。
でもそれは、きっと、叶わない。叶ってもいけない。
ジムから離れて、明人からも離れて。いつしか、この初恋が思い出になって。
自分は、また、恋愛感情のない小説家に戻る。恋愛感情がないからこそ──他者への情が薄いからこそ、人の感情を繊細に描ける小説家に。
シャワーを浴び終えて髪の毛を乾かし、着替えた。更衣室から出ると、美由紀は、会長に挨拶をした。
最後に、リング上の明人に挨拶をする。
「これまでありがとう、明人君」
明人は、美由紀の側まで駆け寄ってきた。リングの、ロープ際。ロープとロープの間から顔を出して、美由紀に耳打ちしてきた。
「トークでメッセージ送ったんで、後で返事下さい」
小声の、やや早口の言葉。
美由紀の耳元から離れて、明人は、普段通りの声で続けた。
「じゃあ、お願いします」
普段通りの声。でも、その声は、どこか不自然で。
やっぱり、演技が下手だね。
美由紀は、そんなことを思ってしまった。あの、明人が泣いていた試合の日のように。
ジムから出て駐車場の車に乗ると、美由紀は早速、スマートフォンの画面を開いた。
チャットアプリに、メッセージのバッジが標示されていた。アプリを開く。明人とのトークルームに「1」という数字が表示されていた。トークルームを開いた。
『二十四日に、一緒に出掛けてくれませんか? 店は予約しておきます。クリスマスらしく、居酒屋とかカラオケじゃないところにします。その日は空けておいて下さい。お願いします』
──ジムに来る前に、美由紀は決めていた。答えを出していた。
この初恋は成就しない。成就してもいけない。だから、諦めよう。
それでも、もし。
もし、立ち去る美由紀に、明人が手を伸ばすなら。踏み込んできてくれるなら。そのまま、捨て身になってくれるなら。
もしそうなったら、自分も、捨て身になろう。
そして明人は、美由紀に向かって一歩踏み込んでくれた。
それなら、自分も、一歩踏み込もう。
このどうしようもないほどの喜びと、愛しさと、心が溶けてしまうほどの心地よさに包まれながら。
この、大切なものを捨ててしまうかも知れない、狂いそうなほどの恐怖を抱えながら。
明人に向かって、一歩踏み込もう。
美由紀は、明人にメッセージを返した。
『はい。空けておきます。時間とか、待ち合わせ場所とかが決まったら、教えてください』
アプリを閉じた。心臓が、高鳴っていた。
きっと、十代の若い子が好きな人とクリスマスを過ごすときは、こんな気持ちになるんだろうな。
もう三十二の美由紀は、そんなことを思っていた。
◇
十二月二十四日。
クリスマス・イヴ。
土曜日。
午後四時半になって、美由紀は、身支度を終えて家を出ようとした。
祐二は、土曜なので仕事が休みだった。
彼には「今日はジムメイトとの飲み会」と伝えている。
「じゃあ、行ってきます、祐二さん。そんなに遅くはならないつもりだけど、遅くなったらごめんなさい。あと、クリスマスなのに、ごめんなさい」
演技の苦笑を祐二に向ける。別に好きでもない、とはいえ嫌いでもない、自分の夫に。
本当は、美由紀の心は浮き足立っていた。期待していた。けれど、恐くもあった。自分が、今日、明人と過ごした結果、どうなるのか。どうなってしまうのか。
期待と不安が、胸中で渦巻いている。
「気を付けてな」
玄関先で美由紀を見送る祐二は、どこか暗い顔をしていた。疲れているのだろうか。それとも、眠いのだろうか。
正直なところ、今の美由紀は、夫に対して何の興味も持てなかった。どうでもよかった。
心にあるのは、明人のことだけだった。彼に対する、様々な気持ち。溢れるような感情。
想いが複雑に絡み合う胸の中で、決意していた。
もし、明人が。
もしそうなら、自分も──
目の前にいる夫など、瞳には映らない。