第十一話
九月に、初めて明人と二人きりで呑んだ日。
あれから美由紀は、何度も、彼と二人きりで出掛けた。映画、ショッピング、カラオケ、居酒屋。
それはまるで、普通の恋人同士のようで。
けれど、まだ、深い関係にはなっていない。触れ合ったのは、手と手だけ。唇も、まだ触れ合っていない。
冬になった。
十二月。
ジムに通い始めて明人に出会ったのは、夏だった。国体予選間近の七月。
明人の最後の試合となった、八月の国体予選。そのときの触れ合いを経て、彼との距離は急速に縮まった。恋人同士のように二人で出掛けるようになった。
恋人同士だからこそする行動は、まだしていない。ただ、二人きりで遊びに出掛けているだけ。ただの友達と言っても、納得できる関係。
それでも、美由紀はもう自覚していた。
明人のことが好きだ。
明人には、詩織という婚約者がいる。
美由紀には、祐二という夫がいる。
それでも好きなのだ。十歳も年下の、愛すべき婚約者がいる、彼のことが。
今まで、自分は恋愛感情を持たない人間だと思っていた。Aセクシュアル。あるべき感情が欠けた人間。
あるべき感情が欠けているからこそ、人の感情を的確に観察し、表現できる小説家。
しかし、初恋を経験したことで、小説家としての美由紀が崩れ始めていた。書くべき物語が、書けない。どうしても自分の主観で人物の感情を描いてしまう。初めて恋を知ったことで、スランプになった。
新しい作品の締め切りは、とうに過ぎていた。担当には、病気療養でしばらく書けないと伝えた。嘘だと気付かれているかも知れないが、本当のことなど言えない。
恋を知って、人の感情が書けなくなってしまったなんて。
美由紀にとって、小説執筆は何よりも大切なことだった。そのためなら、好きでもない男と付き合えたし、キスもできた。好きでもない男とセックスをし、結婚までした。
それほど大切だった執筆が疎かになるほど、美由紀にとって、初恋の味は甘美だった。甘くて、心地よく体に溶けてゆく。全身に染み渡って、どうしようもなく気持ちいい。抜け出せない中毒性。
この初恋が実ることなんて、ないのに。
──今日の昼間も、明人と二人きりで出かけた。
二人でカラオケボックスに行って。歌いながら、二人でパフェを食べた。
明人の口に、パフェのクリームが付いた。
美由紀は、彼の口元から、人差し指でクリームをすくい取って。
悪戯っぽい気持ちになりながら、指についたクリームを舐めた。
男性経験がひとりだけとはいえ、美由紀は、もう、キスもセックスも経験している。年齢だって、もう三十二歳だ。
初心、なんて言葉からはほど遠い。
それなのに、自分の行動から「間接キス」という言葉を連想して、心が浮き足立った。
けれど、同時に、恐かった。
自分の心から、小説に対する執着が少しずつ薄れている。あれほど大切だったのに。小説を書くことに、全てを捧げてきたのに。
十年以上も苦心しながら、それでも楽しんできたこと。絶対に失いたくないもの。
それが、知ってからたった三ヶ月程度の初恋に、侵食されている。小説という存在が、初恋に食われそうになっている。心の陣地が、初恋に乗っ取られてゆく。ジワジワ、ジワジワと。
甘美な初恋に、身を任せてしまいたい。全てを捨てて、全てを捧げてしまいたい。でも、今まで大切だったものを失いたくもない。
美由紀の心の中で、二つの気持ちがせめぎ合っていた。
明人を見つめていると、心の侵食がさらに広がっていった。初恋が、心に染み込んでゆく。
二人きりで行った、カラオケボックス。気が付くと、明人との距離が必要以上に近付いていた。明人の瞳に、美由紀が映ってる。それが、はっきりと分かる距離。
美由紀は、明人が好きだ。そう自覚している。
同時に、分かっていた。
明人も、自分のことが好きなのだ。それが分からないほど、美由紀は馬鹿ではない。
とはいえ、明人の心に住んでいるのは、美由紀だけではない。彼は、詩織のことも愛している。大切にしている。彼の口から、詩織に対する不平不満を聞いたことがない。
間近に迫って明人の目を見ると、よく分かる。彼は、美由紀が好きだ。詩織のことも、愛している。美由紀に近付けば近付くほど、詩織への罪悪感が強くなっている。だから彼は、これ以上、美由紀に踏み込めない。
愛しげに、反面悲しげに、明人は美由紀を見つめていた。潤んだ瞳の中に、美由紀を映していた。
互いに決定的な行動を起こせないまま、カラオケボックスの使用時間が過ぎて。
そのまま明人と別れて、美由紀は帰宅した。
帰宅した時間は、午後五時。
祐二は、今日は残業だと言っていた。彼が働くコールセンターで、SVとのミーティングがあるらしい。
美由紀は家に帰ると、部屋着にしているパジャマに着替えた。リビングにある机に向かい、パソコンを開いた。投稿していたWEB小説サイト『小説家になるよ』にアクセスする。マイページに遷移し『執筆中作品』をクリック。出てきた作品名は、ひとつだけ。
「初恋」
その文字をクリック。
それは、物語などと呼べるものではない。
初めて恋を知った主婦。彼女が十歳も年下の青年と恋をして、焦がれて、恋人となり、恋に溺れてゆくだけの話。ただひたすらに、互いを求め合うだけの話。
美由紀が、明人とまだしていないこと。まだ、できていないこと。それを、ひたすらするだけの話。
「初恋」の中で、主人公と彼は、何度も体を重ねていた。
美由紀は、この話を、明人と二人だけで会うたびに執筆していた。執筆する度に、二人は求め合い、何度もセックスをしている。
それは、今日も変わらなかった。今日も、「初恋」の中で、二人は互いを求め合った。
執筆を終えて、決して投稿されることのない物語を保存して。美由紀は、パソコンの電源を落とした。
いつもならここで満足して、当たり前の主婦のように家事を始める。
だが、今日は違っていた。
カラオケボックスで、明人の唇についたパフェのクリーム。彼の唇からクリームをすくい取った、美由紀の人差し指。彼の唇についたクリームを、舐めた舌。
甘いその味を思い出すと、体が熱くなった。腹の内側から、うずくように。
パジャマの中に、手を入れた。自分の手で、自分の体に触れた。腹や腰回りを撫でる。目を閉じた。自分の体に触れているのは、自分の手ではない──それを、想像するように。
自分の体を撫でる手。少し冷たい。優しく、優しく撫でる。優しい明人なら、乱暴にはしないだろう。少しずつ触れる範囲を広げていって、腰周りを撫でていた手が、胸の方に伸びていって。
明人の婚約者の詩織は、胸が大きかった。どれくらいだろう? Eカップくらいだろうか。
彼女に比べたら、はるかに小さい美由紀の胸。
「ごめんね、胸、小さくて」
目を閉じて暗くなっている、美由紀の視界で。
想像の中の明人は、優しく微笑んだ。
手が、胸に届いた。
小さい美由紀の胸に、優しく触れて。少しだけ刺激して。
もう一方の手は、下腹部の方に近付いていって。
水音がしそうなほどの感触が、指先に伝わってきた。
濡れた指を、奥深くに進ませようとする。明人にそうされることを、想像しながら。明人にそうされることを、望みながら。
しかし、明人の──美由紀の指は、奥に入る前に止まった。
ガチャリと、玄関から鍵の開く音がした。
ビクリと体を震わせて、美由紀は我に返った。
時計を見る。
もう、午後十時半になっていた。
執筆と妄想に夢中になっていて、完全に家事をするのを忘れていた。
帰ってきた夫──祐二が、リビングに入ってきた。
「ごめんなさい、祐二さん。夕食──」
夕食、まだ作ってないの。そう言おうとした美由紀に、彼は早足で近付いてきて。
唐突に、唇を重ねてきた。ねじ込むように、舌を入れてきた。乱暴で、強引で、雑なキス。
唇が離れると、美由紀は祐二を見つめた。
祐二の目は、どこか切なそうで。苦しそうで。悲しそうで。涙が出そうなほど、潤んでいた。
「美由紀」
寝室に行くことすらなく、美由紀は、祐二に押し倒された。またも強引なキスをされ、パジャマをはぎ取られた。
「何? どうしたの、祐二さん」
美由紀の問いに、返答はなかった。
祐二は、ただひたすら、何度も繰り返した。
「好きだ、美由紀。好きなんだ」
必死さを物語る声だった。祐二はセックスの度に「好き」と口にするが、今日のその言葉は、いつもとどこか違っていた。
まるで、泣きながら縋っているような声。必死に、繋ぎ止めようとするような声。
祐二が、美由紀の中に入ってきた。
美由紀は、目を閉じた。
自分で自分の体に触れていたときのように、明人の姿を思い浮かべてみた。
明人が自分に「好き」と言っているところ。明人と、直に肌が触れ合うところ。明人が、自分の中に入ってくるところ。
だが、乱暴とさえ言える祐二のセックスから、明人をイメージすることはできなかった。明人はきっと、こんなふうにはしない。明人とは違う。その気持ちが、美由紀の熱を冷ました。
頭の中が、冷めてしまった。
熱を失った思考は、客観的な視点で自分を見つめさせた。
今の私は。
これから、どうしたいのだろう。
これから、どうしたらいいのだろう。
これから、どうすべきなんだろう。
自分の目的のために、自分の上で腰を振っている男と結婚した。自分の目的のために、この男を、不倫相手から取り戻した。自分の目的のために、こうして、黙ってセックスをさせている。
甘美な初恋。
それは、確かに幸せなもので。
でも、美由紀には、大切なものがあって。
どちらも得る、なんてことができないなら。
それなら──
祐二とのセックスで、冷静になった頭の中で。
美由紀は答えを出した。