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第九話


 明人と二人で呑みに出掛けてから、一週間が経った。


 金曜日の昼間。

 窓から、晴天の日の光が差し込んでいる。


 机に向かい、美由紀は、パソコンのキーボードを叩いて小説のプロットを作成していた。


 ストーリーの流れは、もうできていた。それは、一人のボクサーが、様々なものを犠牲にしながらボクシングを続ける話。


 主人公であるボクサーは、練習中に、頸椎を損傷した。試合前の、練習の追い込みの時期。その怪我の影響で、左腕に、常に痺れと痛みが走った。


 検査のために病院に行った。ドクターストップが掛かった。その試合だけのストップではない。ボクシングそのもののストップ。引退勧告。


 けれど、主人公にとって、ボクシングは自分の全てで。だから、恋人にも怪我の詳細は話さずに、リングに向かう。


 ストーリーに合せて、美由紀は、主人公の人物像を組み立てていった。


 怪我の影響を受けているのが左腕なら、得意なのは左のパンチがいいだろう。その方が、悲壮感と主人公の決意が表現できる。痺れや痛みに耐え、得意なパンチを繰り出す。


 そうだ。得意なのは、左フックのカウンターにしよう。打つたびに左腕に痺れと痛みが走り、それでも、目先の勝利のために繰り出し続ける。過去も未来も見ていない。ただこの瞬間の勝利が全て。


 カウンターが得意なら、相手のパンチを見切れる防御技術も必要だろう。ディフェンス技術に優れたボクサーだ。


 ディフェンス技術に優れている上に打たれ強かったら、読者に危機感を与えられない。それなら、主人公は打たれ脆くすべきだ。それこそ、クリーンヒットを貰ったら簡単に倒れてしまうくらいに。


 主人公の人物像が完成した。


 ボクシングに対して、悲壮感すら漂わせるほど必死。

 打たれ脆い。

 ディフェンス技術に優れている。

 左フックのカウンターが得意。


「あ」


 つい、声が漏れた。


 ここまで書いて、美由紀は気付いた。これじゃあ、まるで明人だ。明人そのものだ。


 キーボードを叩く美由紀の手が止まった。


 今週の火曜日に、美由紀はジムに行った。その日、明人はいなかった。かなり長くジムに居座ったが、彼が来ることはなかった。


 素直に、寂しいと感じた。明人に会って話したかった。ミットを持ってもらいたかった。直接顔を見て、次はいつ呑みに行こうか、なんて言い合いたかった。


 明人にそっくりな主人公。その人物像が、まるで、自分の心情を表しているようだった。


 そんなはずはないと、強く否定した。


 自分には、恋愛感情がない。少なくとも今まで、誰かを好きになったことはない。夫の祐二に対しても、愛しているという感情はない。だから、彼が不倫をしても、不倫そのものに対しては何とも思わなかった。


 心配したのは、離婚されたときの生活のことだけだった。生活のためだけに、彼の心を取り戻した。生活のためだけに、いい妻を演じている。生活のためだけに、夫を愛する妻を演じている。生活のためだけに、夫とキスをしている。夫とセックスをしている。


 そんな自分が、執筆する小説に影響を与えるほど誰かを好きになるはずがない。


 今の自分は、どこかおかしい。こんな気持ちで、ちゃんとした作品が書けるはずがない。


 美由紀は、書いた内容を保存もせず、立ち上げたWordファイルを閉じた。


 ディスクトップに戻った、パソコンの画面。


 インターネットを開いて、もう何年も投稿を続けているWEB小説サイトを開いた。『小説家になるよ』というサイト。


 デビューしてから『小説家になるよ』に投稿する作品数は、激減した。商品化が決まっている作品は投稿しないように編集担当に言われたから、当然と言えた。


『小説家になるよ』に、自分のアカウントでログインした。最後に物語を投稿したのは、半年も前だった。


 美由紀は、マイページ内の『新規作品作成』をクリックした。新たな作品を執筆するページが開かれた。


 プロットも作成せずに、新しい物語を書き始めた。


「初恋」というタイトルで。


 主人公は、ただの専業主婦。運動不足を感じて、最近、ボクシングジムに通い始めた。


 そこで、一人のボクサーと出会った。主人公より十歳も年下の大学生。童顔で、ひたむきで、真面目な。


 二人は、恋に落ちた。


 主人公は、自分が誰かの妻だということを忘れた。


 ボクサーの彼は、主人公が誰かの妻だということから目を逸らした。


 会う度に、二人の気持ちは強くなる。二人の距離が近くなる。


 二人だけで呑みに行った。そこで初めて、手と手が触れた。ただの戯れのように繋いだ二人の手。その手は、いつの間にか、絡み合うように繋がれていた。

 

 二人は現実から目を逸らし、お互いの気持ちだけを見つめた。


 お互いの気持ちだけを見ていると、二人の距離は、加速がついたように接近した。


 手と手の触れ合いからキスに移行するまで、それほど時間は掛からなかった。


 触れ合うだけのキスから舌と舌が絡むまでは、ほんの数秒だった。

 

 触れ合うのが手や唇だけでは、物足りない。自分の舌が相手の口の中に入り、舌と舌を絡めても、まだ距離を遠く感じた。


 だから主人公は、彼を、自分の体の中に迎え入れた。


 彼は、主人公の体の中に入ってきた。


 体の一部でひとつになって、そのまま、溶け合うように求め合った。

 

 主人公は、彼の全てを受け入れた。他の全てを捨てても、彼と一緒にいたいと思った。それくらい、彼が好きだった。


 そこでもし、新しい命を宿したとしても。それでもし、新しい命の存在が、今の生活を崩壊させるのだとしても。それでも、構わない。


 今、主人公の手の中にある大切なもの。それが全てなくなってしまっても、彼と──


 ──そこまで執筆して、美由紀は我に返った。


 無我夢中で執筆していた。打ち込んだ文字数は、いつの間にか、六万文字にまで達していた。


 もしかしたらそれは、執筆などではないのかも知れない。何も考えず、ただただキーボードを叩いていた。現実にあった出来事を、日記として綴るように。


 けれどこれは、現実なんかじゃない。現実になってはいけない。


 美由紀の手の中にあるのは、ずっと追い求め、十年以上もかかって手に入れた「本を出せる小説家」という立場。


 小説を書くことが全ての美由紀にとって、それは、何よりも大切なもの。


 それを捨てることなど、絶対にできない。


 恋愛感情がないからこそ、自分が書く物語の人物に思いを託すことができる。自分の生み出した人物達が動き、様々な感情を抱く。恋をして、焦がれて、胸を痛める。ときに成就し、ときに恋に破れる。


 恋愛感情がないからこそ──他者への情がないからこそ、的確に感情を表現できる。


 もし、自分に恋ができたら。その恋が、成就したら。きっと、生み出す人物達に託せなくなる。俯瞰(ふかん)して感情を表現できなくなる。


 小説が書けなくなる。


 書けたとしても、それは実体験でしかなくなる。すぐに枯渇してしまう、実体験。


 そんなふうにはなりたくない。なってもいけない。小説を書くことは、自分の全てだ。


 小説を書き続けるために、まともな就職活動もせず、執筆時間を得ることを優先した。


 小説を書くのに最適な環境を得るために、好きでもない男と──祐二と結婚した。


 小説を書くのに最適な環境を失わないために、夫の気持ちを不倫相手から取り戻した。


 自分は、恋などできない。そんな感情など、持ってはいけない。そう分かっているのに、今の自分は、どこかおかしい。


 心の中に、確かな喜びがある。

 明人を想う喜び。

 喜びが、寂しさや不安を生み出している。


 寂しさや不安が解消されることを、期待して。


 翌日の土曜日に、美由紀はジムに行った。

 

 火曜日には来なかった明人が、ジムにいた。


 ただ、それだけで。彼を見て、彼と話すだけで。


 美由紀は、人生で初めて、満面の笑みを浮かべてしまった。

 

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