三年生1
何百年も昔。
モリエヌスにハーメスという賢人がいた。
ハーメスはこの世の真理を理解し、あらゆる元素を自在に操る術を持っていたという。
錬金術の基礎を一人で築き上げたハーメスは学び舎を開き、五人の優秀な弟子を育てた。
この五人の弟子たちが、のちの鉱物科、植物科、薬学科、数学科、占星科の祖である。
錬金術師の祖、ハーメス。
かの偉人が作った学び舎こそが、大陸唯一の錬金術専門学校「ハーメス錬金術学院」である。
何度も繰り返し読んだ学院の紹介文が、勝手に脳内で再生される。
私は乗り合いの鉄馬車から降りて、ついにその建物の前に立った。
機械じかけの鉄の馬が、いななきを模した声をあげて、次の停留所へ向かって走り出す。その姿を少しだけ見送って、私は正面へと顔を戻した。
右手にはトランク。
左手には学院への入学許可証。
制服の上に羽織ったボルドー色のローブは、私が三年生であることを証明している。
「ついに来ちゃった……」
目の前にそびえるレンガ造りの古風な建物こそが、ハーメス錬金術学院である。
真上を見上げてもてっぺんが見えないほどに巨大で、凄まじい威厳に満ちている。
今日からここで生徒として、少なくとも三年間を過ごすのだ。
全然想像できない。
モリエヌスに来てからの二か月。
私はリュイ先生の実家に居候させてもらって、缶詰で勉強した。
私は一年生に混じって入学でもついていけるか不安だったのに、リュイ先生がいける!できる!と見た目からは想像もつかない熱血ぶりを発揮し、私もそれにつられて猛勉強した結果、なんと三年次編入試験に合格したのだ!
これはさすがに自画自賛してもいいのではないだろうか!
マグヌス先生に勉強を教えてもらっていたおかげで下地はあったものの、初めて触れる錬金術の基礎や動植物の知識を詰め込むのは本当に、本当に、本当に!大変だった!
諦めたくなるたびに父と兄とオデットの顔を思い浮かべ、今に見てろよと執念を燃やしていなければ試験に落ちていたかもしれない。
絶対に感謝とかはしませんけどね!
リュイ先生は学院での授業があったので、先生のご両親が私に勉強を教えてくれた。
二人とも学院の卒業生で、国から認められた錬金術師だ。
先生のご両親ということもあって、二人とも穏やかで優しい人たちだった。急に大きな娘ができたようだと、本当に親切にしてくれた。
リュイ先生も週末に帰ってきて試験対策をしてくれて、どんなに感謝してもしきれない。
一人前の錬金術師になれたら、リュイ一家に必ず恩返しするのが私の新しい夢である。
夢実現への第一歩。
試験の結果と入学許可証が届いた時、一番喜んでくれたのはリュイ先生だった。
「やっぱり僕の目に狂いはなかった!あの酒場で出会った時から、君には才能があると感じていたんだ。よく頑張ったね、アニエス」
ぎゅうっと私を抱きしめ、先生は我がことのように喜ぶ。
誰かに抱きしめられたのは、今世で覚えている限り初めて経験なので、私はすっかり固まってしまった。
棒みたいになった私をさらに先生のご両親が抱きしめる。
再び先生の番が回ってきて抱きしめられたとき、ようやく私の中にも喜びが溢れてくる。
「先生、ありがとうございます」
「うん。本当によく頑張ったね、アニエス」
じんわりと目の前に涙の膜がはる。
誰かに自分の頑張りを認めてもらって、一緒に喜んでもらうのが、こんなに嬉しくて幸福なことだなんて随分と長い間忘れていた。
まだ学院に通ってすらいないのに、ここに来てよかったと心底思った。
そしてついに初登校の日である。
ブレザーに似た制服は、真新しい服独特の匂いがする。
ボルドーのフード付きのローブはどこかの魔法学校みたいだ。
寮も併設されているらしく、リュイ先生のご両親はここから通えばいいと言ってくれたが、さすがに悪いので寮に入ることにした。
国立なので学費、寮費は全て無料。
ただし卒業後は国のために少なくとも五年は働くこと。
リュイ先生の弟子としての入学なので、補助金ももらえた。
フレイム王国にいた時に貯めたお金は旅の間にほとんど使ってしまったので、補助金までもらえると聞いたとき嬉しさのあまり失神するかと思った。
そう考えると、お金の心配だけはしなくてよかったという点だけにおいて、実家での暮らしは良かったのかもしれない。
深呼吸を一つ。
よし!と気合を入れなおして、私は巨大な鉄の扉を潜った。
玄関ホールは三階くらいまでの吹き抜けになっていて、正面にこれまた巨大な柱時計がたっていた。
信じられないほどたくさんの大小様々な歯車がかみ合い、正確な時を刻み続けている。
針は時間を示す長針と短針だけでなく、星の位置を示すもの、元素の巡りを表すもの、あとあれはなんだろう……。とにかくたくさんある。
ポカンと口を開けて見入っていると、ふと隣に誰かが立っていることに気が付いた。
私よりも少し背の高い少年だ。
毛先が不ぞろいな黒髪に縁どられた横顔は、はっとするほどに整っている。
透き通るような赤い瞳は、まっすぐに文字盤へと注がれていた。
これまでアレクシス王子が断トツで美形だと思っていたけれど、この少年は王子に勝るとも劣らない。
しかし王子が血の通った健康的な美なら、彼の美しさは冷たく作り物めいたところがあった。
「あの……」
恐る恐る声をかけると、赤い瞳がきょろっとこちらを見る。
人形みたいに無表情で、少し怖い。
「アニエス」
彼の声は、クリスタルを打ち鳴らしたかのように、ホールと私と鼓膜を揺らす。
「え?」
急に名前を呼ばれたので戸惑っていると、確認するようにもう一度名前を呼ばれた。
「あ、はい!アニエスです!」
「リュイ先生に案内を頼まれた。ついてきて」
そう一方的に告げて彼はスタスタと歩き出してしまう。
慌てて追いかけて横に並んだ私は、よろしくおねがいしますと頭を下げた。
すると彼は少し驚いたように身を引いて、それから、うん、と頷いた。
なんだか不思議な雰囲気というか、ペースの子だなぁ。
彼は私を連れて、迷いなく建物の中を進んでいく。
「あなたもここの生徒なの?」
私と同じボルドーのローブの裾には、金の刺繍がしてある。
「君と同じ三年生だよ」
「そうなんだ。そのローブ、金の刺繍がしてあっておしゃれだね」
「おしゃれ?」
思いもよらないことを言われたとばかりに、彼は目を瞬かせる。
長い睫毛がぱさぱさと音を立てそうだ。
三年生ということは同い年なんだよね。
これはまた凄い綺麗な顔の子がいたものだと、場違いに感心する私に、彼はふっと笑った。
「銀の刺繍もあるよ」
「え!いいなぁ」
銀かぁ。
それはそれで渋くていいかもしれない。
「花柄とかはないの?」
「花柄は見たことないな」
「そうなんだ。可愛いと思うんだけどな」
ラインを刺繍するくらいなら、自由にアレンジしてもいいのかな。
彼はクスクスと目を細めて笑う。
少しだけ人形みが薄れて、私はなぜかほっとしてしまった。
棟を繋ぐ空中廊下の途中で、彼はゆっくりと脚を止めた。
赤い瞳が私へまっすぐに向けられ、唇は完璧な笑みの形をつくる。
いまにも雪が降りそうな曇り空を背後に、彼がわずかに開いた唇の隙間から息を吸う音が聞こえた。
「僕はロラン」
ガーネットかルビーか。
透き通った赤い瞳に、呆けた顔をした私が映っている。
なんとかよろしくと絞り出すころには、ロランはもう歩き出していた。
彼はついてこない私を不思議そうに振り返る。
「こないの?」
「え、あ、行きます!」
慌てて駆け出す。
湿った冷たい風がびゅうびゅうと私の背中を押していた。