13歳 春2
舞踏会から数日。
私はまたもや手紙を前に悩んでいた。
とうとうリリアンを介して、王子から正式にお茶会の招待が届いたのだ。
もちろんアイリス宛てである。
舞踏会では逃げてしまったが、これはもう覚悟を決めるべきなのではないだろうか。
王子からの手紙には、舞踏会のことは書かれていなかった。
文面からいつも感じていたが、気遣いのできる人なんだなぁと思う。
あの深いブルーの瞳を思い出して、急に落ち着かなくなってしまう。
確かにあれだけの美少年なら、みんな婚約者候補に名乗り出るというものだ。
王子様の婚約者かぁ。
興味はないと言い切った手前、考えないようにしていたけど……。
アレクシス王子となら、仲良くなれるかもしれない。
打算とか抜きにして、手紙を介して見える彼は、いつだって優しくて気遣いのできる人だから。
でも、もうそろそろリリアンの授業に行かなければならない。
何時か確認しようとした時、ちょうど扉がノックされる。
「アニエスお嬢様、馬車の準備ができました」
ひとまず手紙は詩集に挟んで引き出しに入れ、私は馬車へ向かった。
今日は古語と数学の授業だった。
リリアンは言語には強いが、数字は苦手らしく、最近は苦戦気味である。
しかし勉強する習慣がついているのと、もとの負けず嫌いな性格があってか、驚くほど真面目に数学に取り組んでいた。
それでも集中がきれると、お茶が飲みたいと駄々をこねるのは相変わらずだけど。
「アイリスはお茶会にどんなドレスを着ていくの?」
「お茶会?」
王子とのお茶会に私も参加すること前提でリリアンは話し始める。
唯一聞いていないマグヌス先生が、何かあるのと首を傾ける。
「今度、お兄様と私とアイリスでお茶会をするの」
「そうなの?」
「えっと……実はまだ迷っていて」
「どうして?」
信じられないと声をあげるリリアンにどう説明したものか、口ごもってしまう。
「それは……」
「きっとアイリスは他のご令嬢に悪いと思っているのね」
先生からの助け舟に、こくこくと頷く。
本当は違うけれど、そういうことにしておこう。
「どうして、悪いの?だってアイリスは私のお友達なのよ。他の子たちも悔しいなら、努力をすべきよ」
椅子に座って浮いた脚をぷらぷらさせ、リリアンは不服そうな顔をする。
「リリアン様、お行儀が悪いですよ」
「はーい、マグヌス先生」
紅茶で唇を濡らし、先生は私に顔を向けた。
「ですがリリアン様の言うことも間違ってはいませんよ、アイリス。あなたはリリアン様のお友達なのだから、なにも悪く思う必要はありません」
「先生……その、いいんでしょうか?私なんかがアレクシス様と会っても」
「あなたは私の生徒です。どこに出しても恥ずかしくありません」
だから会ってみなさい。
と先生は微笑む。
先生からお墨付きをもらえたことが純粋に嬉しくて、頬に血が集まるのがわかった。
「じゃあ決まりね!」
そうでしょうと見上げてくるリリアンに、私はあいまいに頷く。
それを了承と受け取り、彼女の顔はぱあっと輝いた。
「ねぇドレスの色を合わせましょう!私は赤を着るから、アイリスはピンクを着るの」
「え、ピンクですか?似合わないと思いますけど」
「そんなことはないわ。アイリスの髪は綺麗なローズ色だもの」
ローズ色だなんて、初めて言われた。
言われてみればそんな色かもしれない。
助けを求めてマグヌス先生を見ると、いいわねと微笑まれた。
「アイリス、人生は自分で変えられるのよ」
先生のその言葉が、私の背中を押した。
「帰ったら、返事を書こうと思います。ぜひ参加します、と」
そうなくっちゃとリリアンが手を叩く。
家を出るために始めたアルバイトだったけれど、思わぬ方向に人生が変わる気配がしていた。
そうと決まれば、善は急げ、だ。
帰宅した私はいそいそと自室に戻ろうとして、父が呼んでいると執事に引き留められた。
早く手紙の返事を書きたいのにと思いつつ、父の書斎へ向かうと兄とオデットもいる。
嫌だなぁ、怖いなぁと思いつつ、何か用ですかと尋ねた。
「マダム・マグヌスの授業は順調か?」
父が私のことについて質問をするなんて珍しいこともあるものだ。
戸惑いつつ頷くと、机の上に見覚えのある封筒があることに気が付いた。
それは引き出しにいれておいたはずの王子からの手紙だった。
さぁっと顔を青くした私に、父はこう続けた。
「マダム・マグヌスの家で授業を受けているはずのお前がどうしてアレクシス王子からの手紙を持っているのだ?」
「それは……」
どうして手紙がここに。
そんなの考えるまでもない。
オデットだ。
彼女は時々勝手に私の部屋に入っていた。
きっと引き出しに自分のアクセサリーを隠そうとでもしたのだろう。そして手紙が挟まった詩集を見つけたのだ。
「この署名はまぎれもなく王家のものだ。言い訳は通用せんぞ」
もう逃げ場がない。
渋々私はマグヌス先生の助手としてリリアン様の授業に行っていたことを白状した。ただ、それで給料をもらっていたことだけは伏せておいた。きっと彼らには私がお金をかせぐために助手になったなんて考えは浮かばないだろう。
「リリアン様のお友達として、アイリスの名前でアレクシス様とも文通をしていました」
身を硬くし次の言葉を待っていると、父は急に笑い始めた。
なんだ、気でも狂ったか。
怖い怖い!
「よくやった、アニエス。お前は素晴らしい娘だ」
「はい?」
「お茶会にはオデットを行かせる」
アイリスは私なんですが。
などと一瞬当たり前のことを言いかけて、すぐに父の考えを理解した。
王子は私の本当の名前も姿も知らない。
それを利用して、アイリスはオデットだったことにしようというのだ。
「そんな……!」
それは到底受け入れられるものではなかった。
だってリリアン様と仲良くなって、アレクシスと短くはない時間ずっと文通をしていたのは私なのだ。
あそこは私の唯一の居場所なのだ。
「拒否するならば、マダム・マグヌスを訴えることになる。娘に授業をつけず、自分の仕事に付き合わせた契約違反だと」
「違います!私がお願いしたんです!」
「そうか。ならばこれまでの手紙を全て渡せ」
さもなくば、と父は言葉を切った。
拳を握りしめて、悔しさをなんとか飲み込む。
マグヌス先生に迷惑をかけることだけはできない。
いくら評判がよい先生も訴えられれば、仕事に支障が出てしまう。
だから、私にできることは大人しく父の要求に従うことだけだった。
その晩、私は空になった箱を見つめてただただ悔しさに苛まれていた。
箱の中には王子やリリアンからの手紙をまとめて入れていたが、それらは全部オデットのものになってしまった。
「悔しいなぁ……」
自分で手に入れたものは、こんなにも簡単に奪われてしまうのか。
目頭が熱くなって、喉がひくついた。
駄目だ、泣いちゃう。
頑張って涙を引っ込めようとしたけど上手くいかず、ぽたぽたと空き箱の底に涙が当たって音を立てた。
止まらない涙をそのままに、私は箱にそっと蓋をする。
そしてクローゼットの天井裏に隠していた袋を取り出した。
中にはこの半年ちょっとで貯めたお金が入っている。
マグヌス先生からもらった給料だ。
正直少し心もとない金額ではあるが、もうこれ以上我慢できる気がしない。
私は簡素なワンピースに着替え、トランクに必要なものを詰め込んでいった。
服はどこかで買うとして、下着と大事な本、手帳、そして地図を詰める。
前世ではリュック一つで海外旅行できるほどに荷物が少ない人間だったので、荷づくりはあっという間に終わった。
舞踏会の時に父がくれたアクセサリーは癪にさわるけど、もっていくことにした。
布で包んで、緩めに巻いたコルセットとお腹の隙間に詰め込む。
売ればそれなりの額になるはずだ。
「よし」
目立つ髪は帽子の中にすっぽり隠し入れ、私はトランクを手に持った。
深夜の屋敷は静まり返っている。
扉に聞き耳を立てて誰もいないことを確認してから、こそこそと厨房を通って、裏口から屋敷を出た。
生まれ育った屋敷の背後に、大きな月が出ている。
たいして楽しい思い出も思い入れもないけれど、それでも生まれ育った家を離れるのは寂しいものがある。
この家を出ていくときは、もっと清々しい気持ちになるものだと思っていた。
けれど私の中にあるのは、悔しさと少しの寂しさだけだった。
マグヌス先生宛てに、感謝と謝罪の手紙は出しておいた。
同じ封筒の中に、リリアンに宛てた手紙も入っている。
きっとリリアンは怒るだろうな。
癇癪をおこして、周囲を困らせるかもしれない。
それでも私はもう一時もこの家の人間でいたくなかった。
私は私の人生が欲しい。
自由に、平和に、普通に埋もれるように、ただのアニエスとして暮らしていきたい。
「さよなら」
わずかな未練を断ち切り、私は屋敷に背を向ける。
私は暗い夜の中へと、臆することなく駆け出した。
そしていよいよ私の、悪役令嬢という運命からの逃亡生活が始まった。