ハーメスとロア1
誰かに呼ばれた気がして、私は目覚めた。
どれほどの間、眠っていたのだろう。
数日か。
数月か。
数年か。
大地の意思と人が交わり生まれた私には、老いという概念がない。
偉大なる大地とともに森の精霊として、この世にあり続けている。
ヤドリギの球から顔を出し、大きく息を吸い込んだ。
新芽の匂いがする。
春だ。
地上に降り立ち、ざわめきが聞こえる方へと歩みを進めた。
裸足で踏みしめる土はひんやりと冷たいが、凍ってはいない。
ハーメス。
大変だ、ハーメス。
早くなんとかしておくれ。
普通の人間には葉がこすれる音にしか聞こえないであろう森の囁きを頼りに進んでいくと、大樹の根元に何かが倒れているのが見えた。
人間の男が十人腕を広げても囲うことができないほどに太い幹は、白く干からびている。
あまりに巨大すぎるために、内側の芯を残して枯れているのだ。
しかしその根は森の果てまで張り巡らされている。
この大樹こそが、大地の意思の一部であり、私の「父」であった。
「父」はしきりに自身の根元に倒れたそれを何とかしろと訴えてくる。
「父」は森の生物を平等に愛しているが、外のもの、とりわけ人間に関連するものをひどく嫌った。私の「母」は人間であるはずだから、少なくとも私を作った時はそうではなかったのだろう。
しかし私の覚えている限りで、「父」が人間を良く言ったことはない。
そして私にも人間と深くかかわることを厳しく禁じた。
だから私は人間の部分を持ちながら、人間というものを良く知らない。
パキリと足の裏で小枝が折れた。
大樹のうねった根に背を預けるようにして倒れていた生き物は、その音に微かに目を開けた。
「やぁ」
最初、その音が何なのか私はわからなかった。
生き物は黒い毛皮に包まれていたが、顔のあたりはつるつると白い。
赤い瞳が黒い毛の隙間から、まっすぐに私を見つめていた。
「あなた、人間?」
思わず問いかけると、生き物は力なく笑う。
「そうとも、人間さ。そういうあんたは違うのか?」
よくよく見れば、ずいぶんと顔色が悪い。
血と鉄の臭いがしていた。
おそらく傷を負っているのだろう。
「あなた、死んでしまうの?」
「あんたが助けてくれなきゃ、死ぬだろうね」
まるで他人事のような調子だった。
ハーメス。
そいつを早くどこかへ捨ててきておくれ。
「父」の声が聞こえる。
人間は驚くほど美しい顔をしていたが、男のようだ。
私は彼のそばにひざまずき、血の臭いが特に濃いあたりへ手を伸ばす。
最初彼を動物だと勘違いさせた毛皮をまくると、腹部にひどい傷があった。鉄の武器で刺し貫かれたようだ。
食べるためでもないのに殺しあう。
だから人間は嫌いだ。
そう繰り返す「父」の言葉が脳裏によみがえったが、私の中には目の前の人間を憐れむ気持ちしか湧いてこない。
放っておけば、間違いなく死ぬだろう。
顔には出していないが、きっとすさまじい痛みと恐怖に襲われているのだろう。
だというのに、男は今にも眠ってしまいそうな、穏やかな声で尋ねた。
「あんた、名前は?」
「……ハーメス」
「ハーメス。俺が死んだら、馬の家紋を飾っている屋敷を訪ねて、懐の時計を売るといい。たんまり金をくれるだろうよ」
どうしてそんなことを言うのか理解できずに、私はきょとんと彼を見つめた。この時の私には、金をもらうことが良いことなのか悪いことなのかすらわからなかったのだ。
しかし彼は、私の戸惑いの理由を別のものと考えたらしい。
「看取ってもらう礼みたいなものだ」
「死にたいの?」
「……いいや」
短く否定して、いよいよ彼はぐったりと目をつむる。
私はどうしてかもっと彼の声が聞いていたくて、名前を教えてとせがんだ。
「ロアだ。ロア・ローゼンクロイツ」
青白い瞼が持ち上がって、太陽が沈みきってしまう寸前、一瞬だけ地平線に走る赤い色に似た瞳が現れる。
彼は命の終わりを悟りきったような、悲しい微笑みを浮かべていた。
瞬間、私の中で何かがはじけた。
この男を救ってやろう。
ただの気まぐれか。
運命だったのか。
「父」へのささいな反抗のつもりだったのか。
私はロアを助けてやることにした。
それが数百年続く過ちの始まりだとも知らずに。
ご無沙汰してました。またぼちぼち更新していきます。