四年生11
宵の口に見上げるハーメスの塔は、偉大な巨人のように私たちの上へと影を落としていた。
優秀賞をとった三組は校長に率いられ、塔の前へと粛々と進んでいった。
もちろんそのうちの一組である私たちも、滅多に人前に出てこない校長の後姿を興味深く観察しながら彼の後ろをついて歩いた。
校長先生は絵本から飛び出してきた魔法使いみたいなおじいちゃんで、白く豊かな髪の毛は作り物めいている。濃い紫のローブに施された金の刺繡は、モリエヌス皇帝の紋章であり、彼が皇帝専属の錬金術師であることを示している。
つまりすごく偉い人だ。
私たちのほかには、黒い地味なローブを頭まですっぽりかぶった男が二人、小柄な少女らしき人が一人。
はたからみると怪しい儀式でも始まりそうな光景だ。
固く閉ざされた鉄の門に、校長が手をかざす。
すると扉をびっしりと覆っていたアイアンの蔦が突然意思を持ったかのように、するすると周囲の壁の中へと消えていってしまった。
校長がゆっくりと扉を押し開くと、内側から光がぼうっとあふれてくる。
「この塔はハーメスを弔うために彼女の五人の弟子たちが作った。ゆえにこの塔へ入ることが許されるのは、優れた錬金術師のみなのじゃ。今日ここに足を踏み入れることができたことを、みな誇りに思いなさい」
塔の内部は吹き抜けになっており、訪問者を告げる澄んだ鐘の音が壁に反響してはるか頭上で鳴り響く。
床には魔方陣に似た精密な模様が、モザイク画であらわされていた。
「中央の円に集まりなさい」
指示されるまま、床に描かれた円の内側にみんなぎゅっと集まる。
何が起こるのだろう。
そわそわしつつ見守っていると、校長が円の中心にしゃがみこみカチャンと鍵を床の一部に差し込んだ。
その瞬間、足元で歯車がかみ合う音がした。
かすかな振動が足の裏から伝わって、ゆっくりと体が持ち上がっている気がする。
いや、気のせいではない。
私たちが集まった円形の床が、エレベーターのように上昇しているのだ。
すごい!
と感動したのは最初だけだった。
だってこれ床だけが上昇しているのであって、柵もなにもないのだ。
高度が上がるにつれ、床がどんどん遠くなっていく。
これ、落ちたら大怪我するよね……。
そう思うと胃のそこからゾワゾワとしたものが上がってきて、私はロランにぴったりと体をくっつけて硬直してしまった。
自分が高所恐怖症だと思ったことはなかったけれど、さすがにこれは生理的な恐怖を覚える。
私がくっついてきたことにすぐに気が付いたロランが、そっと腰に手を回して引き寄せてくれた。
横を見ると、ルネも不安そうにしている。
カルはどうだろう。
気になって少し振り返って見ると、彼は一心に上を見つめていた。
彼の視線の先には、天井にあいた穴があった。
ちょうど私たちが乗っている円形の床と同じくらいの大きさだ。きっとあそこが終点なのだろう。
他の生徒たちもみんな最初は興奮していたが、塔の真ん中あたりまでくると緊張のために黙りこむ者が多かった。
いよいよ天井にあいた穴を、頭が通過した。
塔の最上階だ。
最上階は不思議な明るさに満たされていた。
半球をかぶせたような天井には、まばゆく輝く白い球体が浮いている。
よくよく目を凝らすとそれは透き通った水の球のようだった。大きさはテニスボールほどなのに、その存在から目を離すことができない。
「あれが……」
隣でぽつりとルネがつぶやくのが聞こえた。
彼女の赤い瞳が、水球の揺らめく光を受けてきらきらと輝く。
ルネから水球の正体を聞いていた私も、感慨深いものを感じて彼女と同じようにそれを見上げた。
「この光る水球は、賢人ハーメスの魂の一部と言われておる。かの賢人が死んだとき、その魂は三つに分かれ、そのうちの一つがこうして輝く水球となった。光を失うことはなく、誰であろうと触れることも、損なうこともできん。だがハーメスの魂はこうやって今も我々を見守ってくれておる」
ほおっと見上げる生徒たちの口から、感激のため息がこぼれた。
すべての錬金術師にとって神に等しい存在。
その魂の一部を間近で見ることができたのだ。
そしてこれこそが、ルネが優秀賞をとりたかった理由。
あとは彼女が手を伸ばせば、自然と魂のほうから降りてきてルネと一体化するはずだ。
「ハーメスの魂は未来永劫、我々の学びの道を照らし……」
「ふさわしい器がやってくるのを待っている」
校長の言葉を、ひどく冷たい声が遮った。
人形めいた動きで校長の目が、声の主をじろりと見る。
「おぬしは……カル・ラヴォジエだったか」
「はい」
校長の鋭い視線を受けてもなお、カルは薄く微笑んでいた。
まるで知らない人のように見えて、私は何度も瞬きをしてしまう。
「どこで聞いたかはしらんが、それはくだらない噂じゃ。軽率な言葉は口に出すべきではない」
「くだらないかどうかは今にわかる」
「カル……?」
ルネが不安げに彼の名を呼び、肩に触れようとした。
その華奢な手は逆にカルに掴まれ、彼女は大きく体勢を崩す。
「きゃっ……!」
「ルネ!」
とっさに手を伸ばしたが、一手遅かった。
カルが懐から取り出した小瓶を握りつぶす。
薄いガラスでできていたのだろう。小瓶は手の中で砕け散って、彼の手のひらを破片が傷つける。
その傷口からあふれた血と、小瓶に入っていた水がまじりあい、赤く濁って、膨れ上がった。
「やれ」
カルの口から出たはずなのに、低く命じた声は明らかに女性のものだった。
命令を受けた赤く濁った水は一本の鞭のようになり、ビュンッとしなる。一瞬遅れて頬を打った風は、平手打ちをされたのかと錯覚するほどの威力を持っていた。
そして、ゴトンと何かが床に落ちる硬質な音。
校長の頭が、ボールのように床に転がっていた。
「きゃああああああ!」
たちまち悲鳴がほとばしる。
頭を失った校長の体が、糸が切れた人形みたいにその場に崩れた。
しかし首の切断面から血はあふれてこない。
「人形か」
カルが忌々しげに言い捨てた言葉で、私も校長の首の切断面から覗いているのが機械の部品であることに気が付いた。
人形めいているとは思っていたが、まさか本当に人形だったなんて。
カルは頭上で燦燦とかがやく水球へと視線を移した。
そして再び、女の声で低く叩き落せと命じた。
赤く濁った水は生き物のように細長い体でとぐろを巻きながら、体を持ち上げる。
もはやそれは水ではなかった。
巨大な蛇だ。
三つ目の蛇。
生物学の教科書で見たことがある。
でも本物ならば、美しい水色のうろこを持っているはずだ。
「降霊術による使役霊獣か。そんなことをしても意味はないぞ」
床に転がった校長の頭が声を発する。
正直すごく不気味だが、そんなことにかまっていられる状況ではない。
いま校長は降霊術だと言った。
ということはカルが降霊科の術を使ったということになる。
しかし私たちは彼が降霊科なのではと疑ったことは一度もなかったし、ずっと一緒にいたルネが気付かないわけがない。
加えて明らかにおかしい女性の声。
「カルの中にウィスプがいる!」
私が叫ぶのと、黒いローブの男たちが動くのはほぼ同時だった。
「ジル!ロラン!位置につけ!みんな、壁際に避難して!」
顔を隠していたフードがばさりと落ちる。
柔らかな茶色い髪に、線の細い整った顔。
リュイ先生だ。
「アニエス、僕の後ろに隠れて!」
ロランにほとんど無理やり押し込まれるようにして、私は彼の背中に隠れた。
リュイ先生とロラン、もう一人の黒ローブの三人で、カルを中心に正三角形を描く。
「審問官どもめ……!」
カルの腕の中でルネが必死にもがいている。
赤く濁った蛇が警戒音を発しながら、主人を取り囲む三人の男たちを見下ろす。
「精神迷宮を構築。その蛇ごとお前を封じる!」
正三角形を描く三人がそれぞれ床にナイフを突き立てた。
その刀身が淡く光ったかと思うと、光は金属が溶け出すように床に広がり、つながり、円を描いた。
「そんな急ごしらえの迷宮で私を封じることができるとでも……」
せせら笑い、カルは、いや彼の体を乗っ取ったウィスプは片手をあげる。
その動きに呼応して蛇が頭をもたげた。
しかしその余裕の表情は、最後の黒ローブがフードをおろしたことではかなくも崩れ去る。
彼女は乱れた重たい前髪の隙間から涙で濡れた瞳でもって懇願した。
「やめて、クリスティーナ!」
「……ニーカ」
本来の名を呼ばれたからか。
それとも思いがけない存在に驚いたのか。
ウィスプの心に隙が生まれた。
円を描いた淡い光が、一斉にウィスプの足元へ伸びる。
光はウィスプと蛇をからめとり、拘束するかのように一気にその首元まで這い上がった。
ウィスプを封じるためには、体に執着する気持ち、つまり心に隙を作らなければならない。
イザベラがウィスプに乗っ取られていたこと、ニーカへの態度が特別なように見えたこと、夏休みにクリスティーナが失踪していたこと。それらから推測して、隙を作るためにリュイ先生がニーカに協力を要請していたのだ。
「このぉおおおお!」
カルの口から、クリスティーナの咆哮がこだまする。
彼女の苦しみに呼応するように、蛇は太い胴体をむちゃくちゃに振り回した。
そしてそのしっぽの先端が、偶然にもハーメスの魂を叩き落してしまった。
「しまった……!」
リュイ先生の焦った声とともに、塔の壁にひびが走る。
ひびは瞬く間に壁を侵食し、足元がぐらぐらと大きく揺れた。
塔が崩壊する!
苦痛と足場の悪さで体勢を崩したクリスティーナの腕からルネが逃げだすのが見えた。
彼女を助けに行きたいのに、揺れのためにまともに立っていることもできない。
「アニエス!」
ぐいっと引っ張られ、ロランは私を庇うように抱きしめた。
塔が崩れる。
ガラガラと石が崩落する音。
生徒たちの悲鳴。
クリスティーナの断末魔。
絶望的な浮遊感が私たちを襲う。
「くそっ!」
悪態をついたロランが何かを握りつぶした。
薄いガラスが割れて、破片が彼の手のひらに突き刺さる。
さっき見たばかりのそれをロランが持っていることに、私は崩落の恐怖も忘れて彼の名を叫んだ。
「ロラン……!」
どうしてそんなものをロランが持っているの!?
赤く濁った水があふれて、私たちの頭上を覆う。
その瞬間、塔をかろうじて支えていた最後の柱に、決定的な崩壊が訪れた。
そしてなすすべもなく私たちは、塔とともに地上へと落下した。