アイリス? 夏の終わり
去年の夏の終わり。さながら青天の霹靂がごとく現れたアレクシス王子の婚約者は、いまやフレイム王国で最も幸福な少女と呼ばれていた。
歴史ある伯爵家の娘という身分。
王子を射止めたという輝く知性。
誰もが見とれる可憐な容姿。
実の姉は寝たきりで、義妹となるリリアンからは蛇蝎のごとく嫌われながらも、毎週必ずそれぞれと姉妹としての時間を作る献身的な姿。
そしてあの、燃えるようなバラ色の髪。
アレクシス王子が溺愛するのもあたり前だろう。
完璧な王子に選ばれ愛される幸福な少女。
それがアイリスという少女である。
アイリスはいつも穏やかに微笑み、余計なことは何も言わない。
頼まれごとを断ったことはなく、どんな嫌味を言われても嫌な顔一つしない。
しかしそんな彼女にも、唯一口をつぐむ話題がある。
それは彼女が王子から贈られた箱のことだ。
銀の金具で縁どられ、赤い宝石をはめ込まれた長方形の大きな箱だ。大きさだけで言えば、小ぶりな棺桶に近いらしい。
きっと中には、高価で心のこもった贈り物が大切に保管されているのだと、部屋付きの侍女たちが話す声はさざ波のように、しかし草原を吹き抜ける風のように素早く社交界へと広まった。
誰もがその中身に関心を示し、アイリスの幸福をたたえるついでに尋ねた。
けれどその問いに彼女が可憐な唇を開くことはない。
開いたとしても何も言えるわけがない、などとは誰も思いもしない。
今年も社交シーズンの終わりが近づいてきていた。
夏の夜は日が沈むのが遅い。
もう八時だというのに、まだ地平線がほんのりと赤い。
アイリスはアレクシス王子の一歩後ろに影のように付き従い、ニコニコと微笑みを絶やさない。
少しでも疲れた様子を見せてはいけない。
完璧な人形のようにたたずみ、笑みを浮かべていなければいけない。
彼のそばを離れることは許されない。
なぜなら、このアイリスは不完全なアイリスだから。
何も考えてはいけない。
何も拒んではいけない。
何も望んではいけない。
言われたとおりに、言われたままに、王子の望むアイリスを目指す以外に道はない。
そうしていれば、豪華な服と、きらびやかな装飾品で着飾って、夢のように美しくいられる。
おとぎ話の主人公のように、みんなの憧れの的として輝いていられる。
ずっとそれが夢だった。
そのはずだった。
「アイリス」
思考を見透かされたかのようなタイミングで王子に呼ばれ、びくっと肩が震える。
駄目だ。
こんなおびえた姿を見せては、もっとしかられてしまう。
また、あの暗闇の中に入れられてしまう。
喉がひきつりそうになるのを必死にこらえて、アイリスは小鳥のように完璧な角度で小首をかしげる。
少なくともその試みはうまくいったようで、王子の瞳に冷たい色は見えない。
「モリエヌスへの遊学に君も連れて行くと言ったら、公爵夫人にかわいそうだとしかられてしまったよ」
「だってそうでしょう?何もあんな一年中雪が降っているようなところに、アイリス様を連れて行かなくたって良いでしょう?」
同意を求めるように公爵夫人は彼女の背後にはべる貴族たちをみやった。
彼らのうちの誰かが声をあげる前に、アイリスはゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。殿下が自らの目と耳で学ばれるというならば私も学びたいと、私がわがままを言ったのです」
そんなわけがあるか。
この男と離れられるなら、泣いて喜ぶとも。
勝手に一人で行けばいい。
いい加減お前のほしいアイリスは手に入らないのだと諦めろ、この変態め。
噴き出しそうな不満を腹の奥底へと鎮める。
そんなことを思うことすら、とても恐ろしいことだと嫌でも理解していたからだ。
「まぁ。アイリス様は本当に勉強熱心でいらっしゃるのね……。私の娘よりも若いというのに、なんて立派なのかしら。きっとこれも愛のなせるわざね」
貴族たちは、心底愉快そうに笑う。
何も知らないのんきな笑い声が、頭の内側で反響して頭が割れそうだ。
ああ、どうしてこんなことに。
どうしてこんな思いをしなくちゃいけないの。
「ええ、アイリスは私にはもったいないくらいの婚約者です」
心にもないことを言って、アレクシスはアイリスをそっと引き寄せた。
彼はただ自分の思い通りにできる人形が欲しいだけ。
本当に欲しいものが手に入らなかった悲劇に酔いしれて、かわいそうな自分を慰めたいだけ。
そしていつまでも本物になれないアイリスを何よりも憎んでいるのだ。
頭がおかしい、としか言いようがない。
けれど不幸なことに、彼の異常さはうまく隠されていて、そして彼はこの国で最も権力のある人間の一人だった。
何もかもが嫌になる。
この男も。
周りの貴族も。
あんなに欲しかった美しい服も宝石も靴も、誰もが憧れる婚約者の座も。
アイリスとして輝くほどに、本当の自分が死んでいく。
みじめにしおれていく。
自分がぼやけて苦しみばかりが圧し掛かってくる。
なんだか、息をするのも嫌だ。
……それもこれもあいつのせいだ。
あいつが逃げたからいけないんだ。
そうじゃなかったら、少なくとも私がこんな苦しい目にあうことはなかった。
ああ、憎らしい。
うらやましい。
みんな。
みんな、死ねばいいのに。
「もっと嬉しそうにしなよ」
そっと耳元でささやかれ、意識が呪詛の海からよみがえった。
さぁっと血の気が引いていく。
お仕置きを受けるのではないか。
あの一筋の光もささない、空気もすくない、棺桶のような美しい箱に閉じ込められるのではないか。
嫌だ。
あそこは嫌だ。
あそこにいたら頭がおかしくなってしまう。
塗りつぶしたような暗闇と、息苦しさの恐怖を思い出し震えていると、意外なことに王子は至極機嫌よさそうに青い瞳を細めてこう言った。
「モリエヌスには、君の姉がいるそうだよ」
「あ……」
姉。
わたしの姉。
表向きは寝たきりで屋敷に引きこもっている姉。
お父様に頼んで探してもらっているのに、ずっと見つけることができなかった。
逃げたあいつのことだ。
あいつの名前。
覚えている。
「……アニエス」
「久しぶりに会いたいよね?ね、オデット」
もうずっと耳にしていなかった自身の本当の名前を呼ばれ、アイリスは……いや、私は、久しぶりに、心の底から笑った。
いつも読んでくださり、ありがとうございます!書き溜めてから投稿したいので、一週間ほど更新お休みします。お待ちいただければ幸いです。