30’.8歳 異臭の原因
(汚物表現が多くあります。苦手なかたはご注意ください)
「メアリー、本当に大丈夫?」
「倒れてしまうなんてよほどショックだったのね…」
「もうすっかり平気ですわ。心配をかけてごめんなさい」
悲痛な面持ちで私の顔を覗き込むお兄様とお母様を安心させるように元気さをアピールするがふたりには気丈に振る舞っているように見えたらしく何も言わずにただ眉をひそめるばかりだった。向かい側に座るお父様をチラリと伺えば、こちらも難しい顔をして腕を組んでいる。教会側との話し合いがうまくいかなかったのだろうか?
「きっと魔法を授かったばかりだから体がびっくりしたのかもしれません。休んだらすっかり良くなりましたわ」
「そう?少しでも調子が悪かったらすぐに言うのよ?」
「はい。あ、でも目が覚めたらメイドが1人もいないうえ知らない部屋だったことにはおどろきましたわ。先生が良い人で本当によかったです」
「え?誰もいなかったの?」
「誰のひとりも。先生に聞いたら連絡鏡を置いてさっさと戻ってしまったそうですわ」
お父様の話し合いの時は情報の漏洩を防ぐために一部の従者を除いてメイドたちは従者用の控室に待機することになっている。もちろん、主人からの呼び出しには即はせ参じなければならないが控室にいる時間は休憩時間とほぼかわらない。
お母様とお兄様についていたメイドたちは一緒に孤児院の方へ行ったようだけど私についていたメイドたちは控室でサボっていたようだ。
「…そう」
お母様の表情がスッと消えて、目が冷めきっている。メイドたちはどうせお母様にはずっと私に張り付いていたとでも報告していたのだろう。そんなウソすぐばれるのに…。
「あ、ところでお母様。せっかく魔法を授かったのですから私も街に行ってみたいです」
「街にか?」
ここで沈黙を貫いていたお父様が口を開いた。
「えぇ。明日は雨が降るようですので2日後に行きたいのですが…いけませんでしたか?」
お父様が反応すると思わなくて語尾が下がってしまう。顔をみるかぎり怒っているようではないがお父様がなぜ急に興味を示したのかわからなかった。
「かまわない。おまえも魔法を授かったのだ。自分たちの住む領地がどのような場所なのかその目で見てくると良い」
「私もアルバートも一緒に行けないけど大丈夫?」
お母様は仲の良いお友達とお茶会の予定があるし、お兄様はオーギュスト様に会いに行くそうだ。うらやましいが側近である以上これは仕方ないのだろう。
「はい。その代わりと言ってはなんですが今日私についていたメイドたちを貸してください」
「あなたを置いていったメイドを?それは構わないけど…いいの?」
「えぇ。私も貴族の一員となったのですから少しはメイドたちに慕われる主になりませんと。これはいつも仕えてくれる彼女らへの労いですわ」
「まぁ…メアリー。立派なことを言うようになって…」
本当の目的はドクター(仮)が言っていたことが気になったからだけど、ここで言う必要もないだろう。
いくら悪役令嬢とはいえ常に傍に仕えているメイドたち従者に嫌われてしまってはおちおち家でゆっくりすることもできない。前世の記憶があっても常に背後に気を付けなければならないような生活はしていないのだ。たとえ私に同行するためとはいえ街に行けるとなったらメイドたちも喜ぶだろう。ついでに街で流行っているお菓子でも買ってあげようかしら?
ふふん!私も少しは令嬢らしいんじゃないかしら!
ドクター(仮)の予言?通り、夜から振り始めた雨は翌日丸1日降り続け2日後の朝にはすっかり快晴になった。こちらの世界でも天気予報ってあるのかしら?
いつものレースとリボンがふんだんに使われた服ではなく装飾が少なめの服を着てお忍びお嬢様スタイルになった私は憂鬱顔のメイドたちに連れられて街に繰り出した。
「…お嬢様、本当に街へ行かれますの?」
「今日は中止にいたしませんか…?」
家を出てすぐ、メイドたちがいかにも嫌そうな顔をして訴える。ショートカットに一見大人しそうにみえるほうがエマで、髪をおさげに結ったほうがデイジー。さすがに名前くらいは憶えてきましたよ!
ふたりともまだ10代後半くらいでもしかしたら前世の私より年下かもしれない。
街では目立つので主についてくるのはこの二人だけどスティルアート家が抱えている護衛が密かに着いてくるそうだ。
「当たり前でしょう?せっかくお父様にも許可を頂けたのだから!」
意気揚々と門に向かう私をよそにふたりの足は重たそうだ。我がまま令嬢のお守りがそんなに嫌なのか?今日はなるべく我がままは言わないつもりだからそんなに落ち込まなくてもいいのに。
屋敷から街までは少し距離があるので街までは馬車を使う。魔車を使ってもいいのだけど街では我が家の魔車は目立つということでお忍び用の地味な馬車を使うそうだ。
お忍び用の馬車は魔車のように振動防止の魔法や空調の魔法が使われていないのでお尻は痛いし乗り心地はいまいちだがたまにはいいだろう。町娘ごっこと思えば少しは楽しめた。
でも街に近づいて、再びアレが私を苦しめることになった。
臭いだ。
空調の魔法がないということは外からの異臭がダイレクトに入ってくると言うことだったらしい。次第に増しいく教会で嗅いだような異様な臭いに私はハンカチで鼻を塞いだ。
エマとデイジーも同じようにハンカチで鼻を塞いでいる。
「この臭いは何なの?教会もこんな臭いがしたけど」
「何って街の臭いですよ。お屋敷内は全体に魔法が使われていますし街より風上にあるからこんな臭いはしません」
「お嬢様はいつもお出かけのときお屋敷の中で魔車に乗られますから…」
え?街全体がこんな臭いなの?
真相は街に降り立ってすぐにわかった。
さて、少し私の前世の世界の話をしよう。
おしゃれアイテムの定番、働く女性の相棒、ハイヒール。
これは元々路上に落ちていたゴミや糞便をよけるために開発されたという。
今では優雅なアイテムとなっているが日傘やつばの広い帽子も頭上から落ちてくる汚物を被らないために発明されたという話もある。
それくらいヨーロッパでは中世の頃、街はひどく汚かったらしい。
今のように下水がきちんと整備されていなかったうえゴミは窓から道に捨てていたことや、この時代に水洗トイレなんてないからおまるに用を足すのだけど、それもきちんと集めて処理せず窓から投げ捨てていたことが原因である。
水洗トイレが導入されたあとも浄化設備がなかったことから川に汚物が垂れ流しになった時期があった。あまりの悪臭に耐えかね川付近の会場で行われるはずだった会議が中止になったこともあるらしい。
現代日本で育った私には考えられないことだがそういう時代だったのだろう。
一方でハイヒールが汚物をよけるためという説には異を唱える学者もいる。
何故かと言うと実際の街の汚さはハイヒールごときで避けられるようなものではないから。
どちらの説でも構わないのだけどこうして同じようなことが起きた街をみていると、ハイヒールで避けることは困難であることから後者の説を推したくなる。
「だから嫌だったんですよ!雨上がりに街にくるのは!」
「帰りましょうよ~!」
渡し屋の背にしがみ付きながらエマとデイジーが涙交じりに叫んでいた。
排水がうまくいっていないのか、雨上がりの道は汚水であふれていた。茶色く濁り地面の色すらわからない道にはふわふわと魚の骨や何かの食べカス、冷蔵庫の底から発見される野菜カスみたいなゴミに汚物がふわふわと漂っている。ちなみに汚物というのはおおきいほうのアレ。
冠水した道を長い服で渡ることはできないし、貴族の令嬢が足を見せることはご法度なのでこういう渡し屋という仕事をしている人に背負ってもらって反対側に渡るのだ。
まだ着いてすぐだというのに嗅覚はすっかり馬鹿になったようで、臭いにおいしかわからない。ていうか臭いにおい以外しているのだろうか?
小学校のとき見学にいったゴミ処理施設や掃除がされていないトイレのような腐敗臭、理科の実験のときに嗅いだ硫黄臭、公園の端でみかけた猫のアレの臭い。この世界のあらゆる悪臭を集めて圧縮したような臭いがこの街には満ちていた。
教会の臭いより一層ひどい。
ドクター(仮)がまだマシなんていうわけだ…。
冠水した道を渡り水のひいた大通りでに出る。人通りが多い道だからと行って道が綺麗ということはなかった。
道には放送規制がかかりそうな汚物がまき散らされ食べカスに生活ごみ、果てには鳥の死骸まで転がっている。まだ鳥や何の動物か判断できるものはマシなほうで、ほとんど腐って変形をとどめていない死骸まである。サイズ的にネズミではないだろうか?
「想像以上ね」
「だから言ったじゃないですか!」
「もう帰りたい…」
エマとデイジーの嘆きを無視して歩ける道がないか見渡した。
なるべくゴミを避けながら歩こうとするがこれが難しい。そこらじゅうにゴミが散乱しているということもあるけれど、道が整備されていないようで穴があいていたりひび割れしていたりと歩きにくいことこの上なかった。
「お嬢様、足もとお気を付けください。そこに大きな虫が…」
エラの注意したほうを見ると、それほど大きくない食べもののゴミに黒い小さな虫が群がっている。気を抜いてゴミを踏んでいたらあの虫が足を伝って這いあがってくるかもしれない。そう思うと背筋がゾッとした。
昼間の大通りだというのに人はほとんどいない。
汚物と、ゴミと、死骸と、なにかわからないものにボロキレが被さったモノが放置されているだけだった。
「街はいつからこんな状態なの?」
「いつって…ここまでひどくなったのは1年くらいですかね…。でもその前からトイレやお風呂のお湯は捨てれず道に流していましたからこれに近い状態ではありましたよ」
「エマは街の出身なので詳しいのです」
デイジーが傘の大きい日傘をさした。これで2階から降ってくる汚物を被らないようにするようだ。私を真ん中に寄せて3人肩をくっつけながら慎重に道を進む。
「ウチのお風呂やトイレは魔法で排水されているじゃない。どうして街ではそうなっていないの?」
屋敷のトイレやお風呂は魔道具が使われているのでお湯を入れるも捨てるも日本にいた時とそれほど変わらない。アルテリシアは実際のヨーロッパと違って水資源の豊かな国なのでいくら中世ヨーロッパ的な世界観だとしてもこれほど街が汚くなるとは思えないのだ。
「貴族の家では従者たちが魔道具を使っていますけど庶民の家でそんなことをしていたらあっという間に魔力が尽きてしまいます」
「あぁ、なるほどね」
魔道具は一見便利なようだがそうでもない。常にだれかが操作して魔力を注がなければならない。そのため以前領地から王都まで魔車を走らせたときは昼夜関係なく走ったので運転手が普段の倍必要だったと聞いた。
私たちがお風呂やトイレを使っているときはたいていメイドが控えているから彼らが魔道具に魔力を注いているが、庶民の家ではそういうわけにいかないと言うことだ。
「だいぶ前に街の排水設備が壊れてしまって水を流せなくなってしまったのです。しばらくの間は家で汚物を溜めて農村に売ったりしていたのですが他領地からの移民が増えて浮浪者が街にあふれるようになってからは追い付かなくなってしまい道に流すようになりました…」
エマが悲しそうに告げた。その悲痛な面持ちからは不便な生活を強いられてきたことがありありと伝わってくる。
雨上がりは壊れた下水道から水があふれかえりゴミが散乱して道を歩ける状態でないことを街の住人たちはよく知っているのだ。客足のない街の店のほとんどは今日は休業であることを告げていた。
道の端や、細い裏通りにもごもごと動く大きな影がみえた。先ほどから目につくボロキレを被ったかたまりだ。汚れて穴のあいた布を被っているが生き物だろうか?
「デイジー、アレは何?」
ちょんと、指をさすとデイジーが慌てて私の手を抑えた。
「お嬢様!あまり見てはいけません!!」
小さく耳打ちするように、でも悲鳴のような声に驚いて手を引っ込める。
「し、失礼いたしました…。あれが浮浪者です。あまり見ていると刺激しますのでみられませんように」
「わかったわ…」
なにか二人に労いの品でも買ってあげようかと思ったがそれもかなわず、私たちは街を半周したあたりで屋敷に帰ることにした。
エマの誘導で目立たない場所まで移動して馬車を呼ぶ。馬車を待たせていた場所まで歩く気になれなかった。




