27’.8歳 出合いは突然に
(人が死ぬ描写があります。苦手な方はご注意ください)
くさい。
もうダメだ…何かいい香りがするものがほしい。爽やかで、花のような、清涼感のある香り。
ふんわりさわやかな香りに癒されたい。
晴れた日に吹く風のような爽やかさを持ちつつ高貴な存在感としつこすぎない甘さ、草原のような広大な自然の逞しさにちょっと魅惑的なスパイスを足したような…
そう、きっとオーギュスト様から醸し出されるような香りがほしい。
「ってそれはタダの変態…」
いつもと違う枕とシーツの感触に違和感を覚えて目を開けるとそこは見慣れない天井だった。普段使っているベッドより硬い寝具と周囲を取り囲む青白い仕切り。上から見える壁一面には天井までびっしりと本が詰まっていて、一瞬自分は図書室にいたのかと錯覚した。
「ここは…?」
たしか教会で魔法を授かってその後中庭で移民たちの現状を見せられた。そしてあまりの異臭に失神して今に至る、だったはず。
…にしても岡部真理も冷徹な人間だと思っていたがメアリーはそれ以上かもしれない。
あれだけ凄惨な現状をみても心ひとつ動かなかった。
よっぽど移民対策についてできる限りの知識を使って心を砕いていたアルバートのほうが子どもらしい。
前世の世界では同じように住むところを追われて難民となった人たちについて学校で習うしテレビでもたびたび知る機会はあった。
しかしそれは写真や映像越しの光景で現実味がないものだ。
だからなんとも思わないと思っていた。
が、違った。
肌で哀れむべき人たちに触れたところでメアリーも、岡部真理も、彼らのために何かしてあげようとさえ思わなかった。
「やっぱり私はオーギュスト様と結婚するべきじゃないなぁ…」
どうせ婚約破棄されるとはいえこんな人のために何かできないような人間が人の上に立つべきではないだろう。
そう、自嘲的に笑ったところで寝具を囲んでいた仕切りが誰かにずらされた。
「おや、目が覚めたようだね。お嬢様」
「誰?」
知らない人だ。
栗色の髪はぼさぼさで後ろに雑にひとまとめにされている。医者や研究者が着ている白衣は皴がより薄汚れていた。衣服は体に合っていないのか体型が全く分からない。首元を隠したタートルネックに腰に無理やりベルトを巻き付けたようなサイズの合っていないズボンをはいていた。この世界では女性は乗馬やスポーツをするとき以外ズボンは履かないがこの人は普段からズボンを着ているのだろうか。
肝心の顔はまるく分厚い瓶底眼鏡をかけていて表情を伺うことができない。声も中世的で女性か男性か判断ができなかった。
身長が高い女性にも見えるし、華奢な男性にも見える。
そんな、少々違和感のある人物だ。
「ボクのことは好きに呼んでくれてかまわないよ。みんなドクターとか変人なんて呼ぶけど」
「…」
こんなよれよれの白衣を着て衛生観念のかけらもなさそうな人をドクターとは呼びたくない。日本に比べたら衛生状態は少々劣るこちらの世界だけど、我が家の専属医はいつもきれいな白衣を着ているし身だしなみにも気を付けているので医者だから不衛生とか不養生ってわけではないだろう。
「中庭で倒れたんだってね。そりゃ箱入りお嬢様があんな汚物にまみれたところに初めて行ったら気も失うって」
「…汚物って随分な言い方ね」
人のことを言えたものではないかもしれないが、冷徹な人間である自分を否定したくてこの人の言葉を否定してしまう。
「あぁ、移民のことを言っているわけじゃないよ」
誤解があった、と一言添えてドクター(仮)は手のひらを天に向けた。やはり眼鏡で表情をみることはできず今どのような顔でドクター(仮)がこちらを見ているのかわからなかった。
「彼らはね、人質なんだ」
「人質?」
ドクター(仮)は内緒話でもするように私の寝具の隣に丸椅子を持ってきて腰かける。どう考えても怪しい人物に違いないのに私はついドクター(仮)の話に興味をもってしまう。
「そう。人質。誰だってあんなふうに住むところもなくて食べるものにも着るものにも困っている人たちをみたら可哀想って思うだろ?そうしたらどうすると思う?」
「寄付をする?」
「正解。かれらのために住むところを提供したり食べ物を分け与えたり着なくなった服を譲ることはできる。でもなるべく誰しもが喜ぶ形で、最も喜ばれる当たり障りのないものを提供する。それがお金だ」
「じゃあ主教たちは彼らを私たちに見せることで寄付金を増やしてもらおうって思ってるの?」
「さすがお嬢様。話が早い。ご名答だよ」
ドクターは嬉しそうに手をパチパチと叩いて見せた。唯一感情がわかる口元は笑っているように見えるが、声のトーンは喜んでいるというより何かをあざ笑っているよう馬鹿にしたかんじがする。
「そんな話を私にしてどうするの?あなたも教会の人でしょう?寄付金を減らされたら困るのではなくて?」
「それが目的だと言ったらお嬢様はどうする?」
「え?」
「この教会はね、はっきり言ってもうダメなんだ。腐っている」
「それは…」
それはわかる。
これほど移民たちが飢えに苦しんでいるというのに主教は贅沢な衣装を纏って教会事態にも魔道具がこれでもかというくらい使われていた。少しでも彼らを哀れに思うのならこれらを使って彼らを助ければいい。
でもそんなことしていないことは火をみるより明らかだ。
「おそらくだけど、主教たちの目的は君たちだよ」
「私たち?」
「そう、きみとお兄さん。お兄さんはこれまで孤児院には何度か出入りしていてね、来るたびに母君に支援を増やすよう頼んでいるらしい。随分と優しいお兄さんだね」
「えぇ。自慢のお兄様ですわ」
「でもね、悪い大人はそんなお兄さんの優しさを利用しようとしているんだ。恵まれない子供たちに手を差し伸べるお兄さんなら可哀想な移民たちをみたら必ず両親に支援を願い出るだろう。そしてそんな優しい兄をもつ妹なら同じように移民たちを哀れに思うに違いない、主教たちはそう考えたんだね」
「…」
およそ主教たちの思うツボだったというわけだ。
唯一の想定外は妹が全く移民たちを哀れに思わなかったというところだろうか。残念ながら私はお父様にもお母様にも移民たちの支援のするようお願いするつもりはない。
「でもお嬢様のその様子を見る限り噂は本当だったみたいだね」
「噂?」
「あぁ。巷で噂になっているよ。スティルアート家のお嬢様はお砂糖とクリームで出来たわがままお嬢様で気に入らないことがあると平気で他人の首を飛ばし幼い子どもを奴隷にしたっていう」
「ちょっと!!まだ首を刎ねたことはないわ!!」
奴隷にしたのは本当だけど処刑は初めから決まっていたことだから私は関係ない!
「あはは!奴隷にしたことは否定しないんだね。ほかにも馬がいう事を聞かないから殺したとか言われてたけどこれは本当?」
「…」
それは本当のことだけど肯定する気に慣れず閉口した。沈黙は肯定と捉えてほしい。
「ボクにはどうでもいい話だ」
そう言ってドクター(仮)はバッサリと切り捨てた。もしかしたらこのドクターも同種の人間なのかもしれない。
「さて、お嬢様。立てるかい?」
「えぇ。この部屋変な臭いしないし」
「あぁ、アレかい?ここはまだマシなほうなんだけどね」
「マシ?これで?」
「街はもっとひどいよ。魔法を開いたなら街に行ってみなよ。そっちは君たち領主がなんとかする分野だから」
このドクター(仮)はどうも物事をはっきり言わない性格なのかもしれない。さっきからにおわせるような発言ばかりだ。
「もう少しはっきり言ってもらえない?何が言いたいのかわからないのだけど」
「おや?お貴族様っていうのはこういう話し方をするって聞いていたんだけどなぁ」
ドクター(仮)はきょとんとすると頭をカリカリとかいた。とぼけているわけではないらしい。
「ふつうの貴族はそうかもしれないけど私はお砂糖とクリームで出来たわがままお嬢様なのよ。怒るとあなたの首も刎ねるわよ」
「そりゃ失礼。貴族のまどろっこしい話し方は疲れるからそっちの方が助かるよ」
そう言ってドクター(仮)は丸椅子から立ち上がると反対側の仕切りをずらした。そちら側には窓が付いていて、礼拝室のような魔道具ではなくふつうの透明なガラスだったが掃除をしていないのか雨の跡や砂ぼこりで汚れている。
この部屋は地上階ではないようで窓からは空と教会の建物が並行に並んでいた。
「下に中庭が見える。ほら、ちょうど死んだ移民が運ばれていくようだね」
「え?!」
サラリと口からでた死んだ移民という言葉に思わず声を上げた。飛び上がるように寝具から起き上がって靴を履き窓に張り付くように外をみた。
ドクター(仮)が指さしたほうをみると、やせ細った老婆が男たちに抱えられるようにして中庭から運び出されていくところだった。男たちにすっがりつくように若い男がおまえたちのせいだ、母を返せ、人でなし!と叫んでいた。
「あの人は何日か前から病気だったんだ。原因のわからない感染症が移民たちの間で流行っていてそれに罹ったらしい」
「治療はしなかったの?」
「治療する医師がいないよ。この教会の病院はもう容量オーバーだし原因不明の感染症を患った患者なんてだれも診たがらない。その前に元々いた医師も教会に嫌気がさしてさっさと逃げちゃったし」
「…そうね。みんな我が身がかわいいもの」
高潔な使命感を持って教会で働いていた医師ならこんな腐りきった教会に居たくはないだろう。
「へぇ、ボクを責めなのかい?」
「どうして?責める理由がないわ。あなたは自分の身を犠牲にしてまで救いたいと思わなかったのでしょう?」
「…」
おしゃべりだったドクター(仮)が黙ってしまったのでドクター(仮)の顔を見上げるとぽかんと口を丸く開けていた。眼鏡のせいでやっぱりどんな顔をしているのかわからないけれど驚いているのだろうということはわかる。
「ずいぶん身勝手なお嬢様だなぁ…」
「当たり前でしょう?私はお砂糖とクリームで出来たわがままお嬢様なのよ」
降参、というようにドクター(仮)は自嘲気味に乾いた笑いをこぼして手をひらひらと振ると窓に背を向けた。
つかみどころがない、名前も性別もわからないドクター(仮)にもなにか葛藤するものがあったのかもしれない。
それが何なのか、私にはわからないけれど何だってよかった。
この人の葛藤も苦渋もこの人だけのものだから。




