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ほんと、ラブコメってやつは・・・

 奈月にふられてから一週間が経過した。

 その間、ダレモテによるラブコメ現象は影をひそめている。

 静とは図書室で会うものの、萌えな雰囲気になりはしなかった。奈月とも学校にいれば会うこともあるが、明るく挨拶するだけであった。

 この一週間で一番の変化は凛だった。

 森一家と一緒に暮らすのが慣れたのか、共同生活を開始した当初は夕飯を食べたらすぐに自室に篭っていたのが、今ではもの珍しそうにリビングでテレビを見るようになっていた。

 いまだに『おはよう』と声をかけても返事はしてくれないのだが、母親の千歳には振り向いて会釈をするようになった。これだけでも、格段の進歩だと林太郎は思う。

 しかも、嬉しいことに凛は食器洗いを必ず手伝ってくれるようにもなった。ちょっとした新婚気分を毎日あじわうことができた。

 そんな贅沢者の林太郎にはある悩みがあった。

「うーん。ぼくは弁当を作るべきなんだろうか」

 弁当箱を二つ用意して、凛の弁当を作るべきか作らざるべきか悩んでいると、後ろに気配を感じた。

「…………」

 気づかぬうちに凛が後ろに立っていた。

「わッ! びっくりした」

「……わたしの?」

 こくりと林太郎はうなずく。凛はしばし考えた後、

「嫌いなものはない」

 と言葉を残して学校に行ってしまった。

「あれは、作ってもいいってことだよね」

 今日から凛の弁当係を拝命した林太郎だった。

 こんな毎日がずっと続けばいいと思ったが、穏やかだったラブコメ現象が大波となってすぐそこまで来ていた。

放課後、大波の化身が林太郎に立ちふさがった。

「おまえが森林太郎だな!」

 武張(ぶば)った声を張り上げたのは、小柄だががっちりした体格の持ち主だった。黒く日焼けした体は遊び人というよりも健全なスポーツマンだと主張していた。角ばった顔に太い眉毛。眉毛がまた平行四辺形で、軽く吹き出しそうになった。

 林太郎は図書室に行くとこだった。隣にはいつものごとく秋山がいる。そのまた隣には生徒会会議逃亡常習犯を捕縛しようとしていた菜名瀬もいた。

「だれ?」

「知らんのか、シンリン。うちの高校では有名人だぞ。鉄野二郎、ボクシング部のエースだ」

 菜名瀬もうなずく。

「全国大会にも出場しています」

明高(めいこう)龍二(りゅうじ)と言えばオレのことよ!」

 黒く日焼けした顔の眉毛を吊り上げる。綺麗にVの字になるのが滑稽だった。

「でもこいつの名前、二郎なんだよね。龍なんて一文字もないのに?」

「熱血スポコン系漫画に憧れてるんだ。まあ、こんなイタイやつがこの世にいるとは驚きだけどな」

「そういうなよ」

 彼は彼なりに頑張ってるに違いない、とはさすがに心の中だけにしといた。

 わなわなと二郎の黄金の右手が震えていた。

「オレの話を聞け!」

 二郎の出現が、過激なラブコメ現象のゴングだと気づいたのは次の一言だった。

「静から聞いたぞ!」

「静って……、並木さんのことか?」

「そうだ」

「まさか、──並木さんと幼馴染とか言わないだろうな」

「五分前に一目惚れした!」

 簡潔に答えるのが二郎の信条なのだろうが、ここまでキッパリ言われると返す言葉が見つからない。饒舌な秋山でさえも苦笑いを浮かべていた。

 続く二郎の言葉が衝撃となって林太郎の体を駆け巡った。

「告白したら、おまえのことが好きだと断られた!」

 明高の龍二こと、鉄野二郎は五分前に静に惚れて、三分前にふられていた。


 事の顛末はこうだ。二郎が廊下を歩いていると、目の前にたくさんのぶあつい本を抱えた女子がいた。

 ふらふらと足取りが危うい。

 前が見えてないのかと疑問に思い、自然と目で追っていると、その女子はあろうことか壁に激突してしまった。もちろん、持っていた本を落としてしまう。ついでにメガネも落としていた。

 二郎は女子の素顔を見た。美少女だった。

 一瞬で彼は恋に落ちた。

 三秒後に告白した。

「おまえが大好きだ。オレと付き合って欲しい!」

 恥ずかしい台詞を臆面もなく言った。

 ボクシングだけでなく、人生においても、彼はファイターだった。しかし、このときは完敗だった。

 静はごめんなさいと断るものの二郎はしつこかった。何を言っても引き下がらない二郎に、彼女は強烈な言葉の右ストレートを放った。

「あたし、好きな人がいますから!」

 崩れ落ちる二郎だったが、その好きな人とは誰なのかとまだ食い下がった。そして、小さな口から出たのが林太郎の名前だった。


「オレと勝負しろ!」

 なんだって、と林太郎は聞き返さずにはいられなかった。

「だから、勝負だ。話によると静とおまえは付き合ってないらしいな。だから、勝った方が、静をものにできる」

「なんて自分勝手なやつなんだ」

 と秋山。誰もこの美形には言われたくないだろうな、と林太郎は真剣に思った。が、その意見には同意できた。

「リクエストがないなら、ボクシングでどうだ!」

 ──なぜ、そうなる。

 どう見ても林太郎は文化系である。議論の余地もない。

 ただ二郎としては弱みにつけこんでのことではない。彼が思い描く、男同士の勝負とは格闘技なのだ。

「ボクシングなんて、できるわけ……」

 林太郎はもちろん断る気だったが、こんな美味しい話をあの美形が飛びつかないわけはなかった。

「よかろう! その勝負、この生徒会長たる秋山好道があずかった」

「ええええ~~?」

 と声を上げたのは無論、林太郎だった。

「場所は体育館、特設リングを用意する。首尾は我が生徒会が責任を持とう!」

「ええええ~~?」

 今度は菜名瀬の番だった。

「いつだ?」

「一週間後の放課後、五時」

「わかった。首を洗って待ってろ!」

 不適な笑みをしながら二郎は大股で部室棟に消えていった。

 残された三人の内、二人は顔を青くしていた。

「……勝手に決めるなよ」

「そうですよ、なに勝手に決めてるんですか」

 林太郎と菜名瀬の抗議にも血色の良い美形は平然と答える。

「いや~、ついノリで。それにしても──」

 秋山は林太郎の肩をがっちり掴み、視線をぶつける。秀麗な顔にある二つの太陽が爛々と輝きを増していた。

「これから忙しくなるぞ!」

「なにがだよ?」

「もちろん修行だよ、シンリン。一週間しかないからな、想像を絶する修行がお前を待ってるはずだ」

 ──ぼくに決定権はないのか~~~~。

 どうやら、林太郎の心の叫びを聞いてくれる神様はいなかった。

「アッキーも特設リングの方は頼んだぞ!」

「無茶苦茶よ、会長! そんな特設リングなんて。他の部活だって体育館を使用してるんですよ。私は知らないから、私は、絶対、絶対に手伝いませんから!」

 菜名瀬の叫びも、神様には聞こえないらしい。


 二郎の宣戦布告から一日が過ぎたが、林太郎にやる気の三文字は一ミクロンもなかった。教室の机と一体化したように動かない姿は雪だるまをほうふつとさせる。

「はやく修行しようぜ」

「だ、か、ら、修行なんてしないし、勝負もしない。ぼくはやるなんて一言もいってない」

 突然、教室に菜名瀬が急報を持って飛んできた。

「どうした、アッキー?」

「学校中が大変なことに。鉄野君が並木さんを賭けた試合だって公言したんです。もう、その噂で持ちきり」

 言葉もない林太郎に秋山は皮肉っぽく言う。

「外堀が埋められたな、シンリン」

「並木さんは、噂を知ってるのかい?」

 菜名瀬は神妙にうなずく。

「静、こうゆうの嫌いだから、こたえてる感じでした」

 ラブコメ現象が楽しみだという心も確かに存在していたのだから、自分が苦しむのはしょうがない、と腹をくくるようになっていた。だからこそ、自分以外の人間が傷つくのは許せない。

「並木さんは、どこに?」

 いつもの場所、と菜名瀬は教えてくれた。

「行くのか、シンリン。じゃあ、俺も……」

「ダメ!」

「ええ? そんな~」

「会長は、会議です。私も個人的にお説教をしたい気分なのであしからず」

「た、助けてくれ~~!」

 秋山の懇願を無視して、林太郎は図書室に走った。

 図書室の中には、メガネをかけた少女が暗い表情で、ジョヴァンニ・ボッカチオ作『デカメロン』を読んでいた。

「ここ、いいかな……」

 林太郎の声に静は敏感に反応した。小動物よりも体を小さくし、メガネの奥が潤んでいた。

「ごめんなさい、森君、あたしが鉄野君にあんな(・・・)|こと(・・)を言ったばかりに……」

「並木さんは悪くないよ。全部、あの鉄野が強引なだけなんだから」

 林太郎はあんなこと(・・・・・)には極力触れないようにしようとしたが、静は想いを抑えることができなかった。

「でも、あたしの言ったことは、ほんとうです」

 耳だけでなく頬や頭皮まで朱に染め、上目遣いはメガネの奥の潤んだ瞳をあらわにする。このときの静は激しく萌えを偶像化したものだった。林太郎以外の男でも胸が熱くなったにちがいない。

 ──これは告白と、とらえるべきなのか……。

 恥ずかしさに耐えかねたのか静は図書室を出て行ってしまった。林太郎の返事も聞かないまま。

 入れ替わりに秋山が図書室に入ってきた。すきを見て菜名瀬のお説教から逃げ出してきたのだ。

「最高の萌えだったな。あの恋に染まった瞳を見たか?」

「秋山……、生徒会はどうした?」

「無論、逃げてきた」

「後が怖いよ」

 友人の忠告を聞く耳など、この美形には備わっていないらしい。

「アッキーが怖くてラブコメジャンキーになれるかッ! 俺の本能がラブコメを求めるのだから致したかあるまい」

 秋山は息を一つ吐くと、真面目な表情に変わった。

「二郎のやつは許せないな、シンリン」

「ああ」

「勝負するんだな、シンリン」

「ああ、もちろ……、もち、もち、もち……」

 口がうまく回らない。

もちもち(・・・・)?」

 たぶん林太郎はもしもしと言いたかったに違いない。

「餅がどうかしたのか、こんなときまで食い物の話かよ。ほんと体格どおりの男だよな、シンリンは」

「ちがう!」

「じゃあ、やらないのか? やらないんなら、二郎は無理やりにでも静を自分の彼女にするだろうな」

 容易に想像できた。しかも、悪夢だ。

 勝負をするにしても、負けてしまえば結果は同じになってしまう。つまり、必ず勝たなければならない。相手は全国大会に出場するボクシング部のエース。格闘技経験など皆無の太った男が勝てるわけはない。

「道は一つしかないんじゃないのか、シンリン」

「とにかく、夕飯つくるわ……」

「ボクシングなんだから、カロリーは控えめにな」

「ほっとけ」

 帰る道すがら、林太郎は自分の置かれた立場を考えていた。

 ──並木さんがぼくのことを好きなのはダレモテのせいなんだよな。じゃあ、いっそ二郎に任せようか。あいつは本当に並木さんを好きなんだろうし……。いや、あいつもダレモテの効果を受けてるのかもしれない。

 自分の拳を見る。

 ──なにより二郎が並木さんとくっつくのは嫌だ。

 マンションに着いても考えはまとまらなかった。ドアの鍵をあけて、家に入ろうとドアノブをまわした。

「ただいま」

「おかえり~♪」

 無人のはずなのに、エプロンドレスを着た美女のお出迎えがあった。

「なにやってんですか、シアさん」

「可愛いでしょ、これ」

 林太郎に見せびらかせようと、エプロンドレスのひらひらを躍らせる。シアはチャイナドレスの上からエプロンドレスを着ていた。この組み合わせはセクシーとキュートの融合の極致であった。

 ただ、今の林太郎にシアとコントをする気力はなかった。

「テンション低いよー、せっかく人生で初めて告白してもらったのに」

「素直に喜べるわけないじゃないですか」

「林ちゃんはネガティブだな~」

 ネガティブにさせている張本人が言うのだからたまらない。

「並木さんには好きな人がいないんです」

「何言ってるの、林ちゃんのことが好きじゃない」

「ダレモテの効果を抜きにしてです」

 秋山からの丸秘情報だった。

「ああ、そういう意味。へええ~~。いまどき好きな人がいないなんて珍しい女子高生ね」

「ぼくは、どうすればいいんですか」

「本当に好きになってもらえばいいじゃない」

「簡単に言わないでくださいよ」

「じゃあ~~」

 シアは目を閉じて唇を魅惑的に尖らせた。

「この方法がてっとりばやいんじゃない」

「キスをすればダレモテの効力がなくなるんですね。そして、キスする相手はぼくに限らなくていい」

「そのとおりよ」

「でも、二郎が相手なのは嫌だ」

 林太郎の我儘以外のなにものでもない。

「でもでも、並木さんが現在好きな人もいない。でもでもでも、試合が六日後に迫ってる。あ~、どうすればいいんだ」

「まあ、林ちゃん自身がキスをするにせよ、しないにせよ。とりあえず、勝負に勝たなくちゃ、静ちゃんの唇は二郎に奪われちゃうわね」

 秋山と同じことを言われ、やはり闘うしかないことを悟った。無我の境地とは数万光年離れた悟りだった。

「流されてるな~。ぼくって……」

「それが、林ちゃんのいいところなんじゃない。──っと、そろそろ、あの子が帰ってくるわね」

 シアはエプロンドレスをお土産だと言い残して行ってしまった。

 エプロンドレスの絹触りがやけに気持ち良く、触っているうちにエプロンドレスを着た凛の姿が浮かんできた。

 頭の中では、凛は制服の上からエプロンドレスをひらひらさせ、台所で楽しそうに料理をしている。

 妄想の中をたゆったっていると、音もなく凛が帰ってきた。

「は、はい、これ」

 林太郎は乱打する心臓を落ち着かせ、シアのお土産を凛にあげた。エプロンドレスを渡された彼女は怪訝な顔する。

「……なに?」

「シアさんのお土産」

「……いたの」

「うん、冷やかしに来てた」

 視線を下に落とし、手の中のエプロンドレスが悲鳴をあげている。いつもの冷たい瞳ではなかった。

「今度は逃がさない」

 凛は意識して大きく息を吸って吐く。同じ動作を繰り返すうちに、凛の灼熱の瞳が冷めていった。最後に大きな深呼吸をすると、話題を目下最重要課題に転じる。

「闘うの?」

「やらないわけにはいかない状況だよね」

「中和剤はまだできない」

 林太郎の気のせいではないのだとしたら、凛は少しだけ辛そうな顔した。もしかしたら、無言でごめんと伝えていたのかもしれない。

「中和剤があっても鉄野二郎は止まらないよ。それに、並木さんに迷惑かけるわけにはいかないし。もう十二分にかけっちゃってるけどね」

 自虐的な笑みに、凛は言う。声は小さいが、はっきりと耳に届いた。

「──頑張ればいい……」

 彼女の瞳はまだ温もりを宿していた。


 秋山に勝負をする、と告げたときのはしゃぎようったらなかった。

 朝のホームルーム中に席を立ち上がり、林太郎に熱い抱擁を強要したほどだった。

「おいおい、秋山」

「こうしちゃいられない!」

 秋山は学校に居る暇はないと早退してしまった。無論、林太郎も一緒である。

 早退の理由は、『ラブコメ修行対策会議を行うため』であった。これを担任に納得させたのは秋山の異常な手腕と言わざるをえなかった。

「しかし、修行たってなにをどうすればいいんだ?」

「それを、これから考えるんだろ。まあ、こうゆうラブコメのときは、必ずうまくいくものさ」

 二人は林太郎のマンションに向かっていた。途中でコンビニに立ち寄ろうとしたとき、異物を見つけた。

「なんだ、あれ?」

「ああ、なんだろな?」

コンビニの駐車場に人垣ができていた。人垣の奥から、ドスの聞いた声が響く。

「このくされジジイ、いい加減にしろよ!」

 秋山と林太郎は人を掻き分けていった。見ると、その道の人ですよ、とご丁寧に主張する服装の人たちが小さな老人を取り囲んでいた。

 老人はペコちゃん人形ほどの大きさしかなく、漫画のキャラクターのように鼻が赤い。まるで、御伽話の住人に見えた。

「殺っちまうぞ。こら!」

「ほうほう、何をどうするのじゃ?」

 脅しにも平然と答える老人は不思議な動きをした。殴ると表現するにはあまりにも優しい動き。老人は強面の人たちを撫でた。

「もしかして、こんなことかいの」

 一瞬にして男たちが地面に倒れこんだ。

 ドラマの一場面に遭遇したのかと錯覚に陥るほど現実感がない。この数週間、ラブコメ現象に見舞われていたのにかかわらずである。

 老人は汚れてもいない足のほこりをはらい悠然と歩き出した。人垣は、モーゼが渡った紅海になっていた。

「どうやら、フラグがたったらしいな」

 にやりと秋山が笑い、林太郎は苦虫を噛み潰していた。

「……だな」

 二人は老人の後をつける。人気のない場所で声をかけようと思っていたのだが、くるりと老人は振り向いた。

「なんか用かの」

 ひょうひょうとした声に威圧感が幾ばくか含まれていた。

「すいません! どうか、ぼくに格闘技を教えてください」

「ぶしつけじゃな。わしは、弟子はとらない主義なんじゃ」

「そこをなんとか、師匠」

「お願いします。師匠!」

 と秋山も頭を下げた。

「わし、そんないいものじゃないよ」

「どうしても、強くならなきゃいけないんです。そうしないと、そうしないとぼくは、ぼくは、あの人(・・・)に顔向けできない」

 あの人とは静一人ではなかった。頑張ればいい、とぶっきらぼうに応援してくれた女の子も含まれていた。

「本気か?」

「はい」

「わしの修行は、ちと厳しいぞ」

「はい!」

 と返事をしたのは秋山だった。林太郎としては厳しい修行はやめてほしかった。

 ──できれば、ソフトな感じで……。


 老人は、ワンと名乗った。

「さっそく、はじめようかの~」

「はい!」

 林太郎の願いとは真逆の修行が開始された。

 鉄棒に足とからっぽの水がめを結び、手にはおちょこを持つ。下には水がなみなみ注がれた大きな水がめがあり、下から上におちょこで水を移す。腹筋だけを頼りにしてである。

「やるか! シンリン」

「いやいや、これって……」

 どこかで見たことがあるような修行だったが、まさか自分がやることになるとは夢にも思わなかった。

 公園の鉄棒を使用していたため三十分で警察がやってきた。

 修行は打ち切りになり、三人は必死で逃げ出した。これもまた厳しい修行の一つだ、と老人は息も切れ切れに言う。

 つっこむべきか否かを迷っているとワン師匠が口を開いた。

「しかし、おぬしは筋がいい。これは簡単に強くなれそうじゃな」

「本当ですか」

 誉められたのはもちろん林太郎ではなく秋山だった。

「ぼ、ぼくはどうですか?」

「全然だめじゃ、一回もできないんじゃ話にならん」

 たしかに醜態をさらしていた。一度も上の水がめに水を移すこともできずに、頭に血が集まっていた。警察がくるのがもう数分遅く、修行を足腰の鍛錬に変更してなければ命が危うかった。

「楽しそうに言わないでくださいよ。こっちは大真面目なんですよ」

「力が欲しいのか」

「そのために修行をしています」

「やめとけ、やめとけ」

「……どうしても必要なんです」

「ほれじゃあ、こいつを飲むか? 誰でも強くなった気がする薬、略して『ダレツヨ』じゃ。効能は文字通りじゃがの」

 ──ノリがシアさんと同じだ。

 うんざりする林太郎にワン師匠は核心をついた。

「おぬしの場合は肉体もさることながら、精神がいかん。そんなことでは強くなれるものも強くなれん。とりあえず、今日はここまでじゃ」

 気が付けば、夕暮れも足早に通り過ぎていた。

 まさか修行で野宿するはめになるとは思いもつかなかった。

 メールで五日間外泊することを母に伝えると、秋山がキャンプ道具を持ってきた。少し郊外にまで足を伸ばして、テントを張り、深夜を迎えていた。

「つ、疲れた~~」

「だらしがないぞ、シンリン」

「元気だね。おまえは」

「アッキーとの生徒会会議出席をめぐる攻防の末、俺には尋常ではない体力が備わったのだ」

「菜名瀬さんが不憫に思えてきた」

 体力バカはほっといて横になるが、テントの薄い布地は地面の硬さを和らげてはくれず、背中が痛い。なにより体中が筋肉痛に襲われていた。

「こんなとこで五日間も過ごすのか。ちゃんと眠れるのかな……」

 しかし、文系の林太郎は久しぶりの身体的疲労感に包まれ、目を瞑ると一瞬にして深い深い眠りに落ちた。


「今まで冷たくして、ごめんなさい」

 表情豊かに凛が謝る。その姿がとても新鮮で、心は否が応でも弾んでしまう。

「いや、全然、気にしてないよ」

「ほんとは、わたし……」

 凛がはにかむ。

「わたし、君のことが好きだから、つい冷たくしちゃうの」

 萌え~、という言葉が喉まで出かかった。

「こんな、こんな……、まるで夢みたいだ」

 と口にしたとたん現実世界に帰還した。

「……なんだ夢か……」

 ──ちょっと、待て! なんでぼくはあんな夢を見たんだ? まさか、まさか、ぼくは……。

 自分の気持ちを認めるには、もう少しだけ時間が必要だった。


 五日間はあっという間に過ぎた。

 学校では生徒会が主導で準備を着々と進めている。体育館に特設リングが設置され、たくさんのパイプ椅子が整然と並べられていた。

 総責任者は生徒会長なのだが、実行していたのはやはり優秀な生徒会副会長だった。

「なんで、私がこんなに苦労しなくちゃならないんだろう。こんなリング作っちゃって……。はあああぁぁー」

 菜名瀬から大きな溜め息が出た。

 放課後になると見物の生徒たちが体育館にやってきた。生徒会が予想していた人数をはるかに上回り、体育館が一杯になってしまった。

 異常に盛り上がる生徒たちとは対照的に菜名瀬の苛立ちは頂点に達していた。

「会長はまだ来てないの?」

「はい、まだっス」

 生徒会役員の言葉に思わず舌打ちが出そうになる。それもそのはず、生徒会長はもとより、このお祭り騒ぎの主役の一人が姿を見せていなかった。

「たのみますよ。会長……」

 時は刻々と進み、開始予定時刻の一〇分前に静も体育館に入ってきた。壇上には彼女専用の特別席が用意されていた。

 すでに派手な入場をすませた二郎がリングで仁王立ちしている。赤いトランクスに赤いグローブを着用し、軽くステップを踏んで体をほぐしていた。

 二郎がリングの上から菜名瀬に言う。

「副会長さんよ、もう三分前だぜ、森はまだ来てないのか?」

「来てません」

「逃げやがったな。これだから、スポーツをしてない野郎はダメなんだ。体を鍛えてこそ、心も鍛えられるんだ」

 一理あるような、ないようなことを言うと二郎は豪快な笑い声を上げる。

「待ってろよ、静! もうすぐ、決着がつくぜ」

「…………」

 返事をすることもなく、静は想い人の登場を祈っていた。

「会長と森君はまだこないの」

 と菜名瀬はつぶやいた。問いではなく苛立ちのあまり反射的に出た言葉だった。しかし、答えるものがいた。

「待たせたな、アッキーッ!」

「会長!」

 菜名瀬の待ち人がようやく現れた。

「準備ご苦労」

「遅いです、私がどれだけ……」

 菜名瀬はリングに上がる主役がいないことに気づいた。

「会長、森君はちゃんと来てるんですか。まさか、ほんとに逃げたんじゃ……」

「大丈夫だ。ちゃんと、きてる(・・・)!」

 秋山の言葉通りだった。

 体育館にフランツ・フォン・スッペ作曲『軽騎兵』が流れ出すと体育館の扉が開いた。扉の奥には太った男がいた。軽騎兵ではなく重騎兵がリング目がけて突進した。

 リングに駆け上がった男は調子のはずれた笑い声は吐き出した。

「あっはっはっははっはははは」

 ひとしきり笑い終わると、

「森、林太郎。ただいま見参!」

 と会場に向って言った。ご丁寧にポーズまで決めた太った男は紛れもなく林太郎だった。

「せ、性格変わってますよ」

「だから言ったろ。キテるって!」

 頭の方かと菜名瀬は落胆した。

「あれで、大丈夫なんですか?」

 菜名瀬の問いは秋山にこの五日間を想起させた。

「過酷な修行だった」

 遠い目をしながら修行内容を語り出した。


 逆立ちしながら腕立て伏せ、グレートデーンとの追いかけっこ、他にもたくさんの修行があった。

 秋山はともかく林太郎がまともにこなせた修行は一つしかなかった。それは夕飯を師匠と取り合うという修行。師匠でさえもかなわなかった。

 ためになるかわからない修行は五日間休むことなく続き、最後の日となる五日目の朝、師匠が言った。

「わしの修行はこれで終わりじゃ」

「ぼく、強くなったんでしょうか?」

 切なる質問に師匠はあっさり答えた。

「全然、強くなってないんじゃないのかの」

「そんな~」

「だからじゃな、これを飲むんじゃ!」

 目にもとまらぬ速さで『ダレツヨ』を林太郎の喉に流し込んだ。薬を飲んだ林太郎は気を失ってしまった。倒れこむ巨体を秋山が支える。

「ほいじゃあ、わしはこれで……」

 一陣の風が吹くと師匠の姿はなかった。

 また風が吹く。風が肌を通過すると、声だけが聞こえてきた。

「すぐ目覚めるから安心せえ。人格はだいぶ変わってるがの。効果は数時間程度じゃから気にしなくてもよい。せいぜい、頑張るのじゃぞ~」


「こうして、挌闘士(グラップラー)が誕生したんだ」

「修行の意味が全然ない!」

「まあ、細かいことは気にするな。少年漫画の法則で言えば、怒りのパワーに目覚めれば必ず勝つ!」

 菜名瀬はめまいがする気分であった。とにかくも彼女が推し進めてきた準備が徒労に終わることはなくなった。

 役者は揃ったのだ。

「実況は私、放送部部長の御手洗健(みたらいけん)。解説には生徒会会長の秋山好道さんにおこし頂きました。よろしくお願いします」

「よろしく」

「しかし、会長。ここに両者を紹介したいのですが、赤コーナーの鉄野二郎……」

リングの上から二郎が叫ぶ。

「──龍二だ!」

とんだ地獄耳である。

「えー、明高の龍二のことは皆が知っていると思うのですが、青コーナーの、えっと、シンリン、タロウと呼ぶのかな?」

「モリ、リンタロウ」

「失礼しました。ですが、この森、林太郎はまったく無名の選手ですよね。そもそも、ボクサーの体形ですらないんですが」

「まあ、見てるがいい。あっ、と驚かされること請け合いだ」

 リングの上では舌戦がすでに開始されていた。

「おせえぞ、森! 逃げたかと思ったぜ」

「ヒーローはいつでも、最後に登場するものなのだ」

 不適に笑う林太郎にはいつもの温和さがない。

「二郎こそ、逃げ出すならいまのうちだ」

「龍二だ! 調子になるなよ」

 四角い眉毛が歪む。

「オレに勝てると思ってんのか」

「彼女はぼくが守る!」

 林太郎の宣言に会場から歓声が巻き起こった。

「さ~、いま、闘いの火蓋が落とされようとしています。みな、固唾を飲んで二人を見守り、私も良い闘いを期待しております!」

 闘いのゴングが体育館に鳴り響いた。

 二郎が前に出る。先制攻撃をしかけるつもりだ。

「いくぜ!」

 全国を掴んだ黄金の右を振るう。

 唸りをあげる豪腕を林太郎は華麗に避け……、きれなかった。鈍い音が衝撃となり林太郎の意識を奪った。

 林太郎は二秒でリングに沈んでしまった。

「……ぐふぅ」

 会場中の人間の目が点になっていた。ついでに口も丸にした埴輪たちが大勢いた。

「はやッ!」

 つっこんだのは菜名瀬だった。

 秋山も当然の出来事を見たように呟く。

「人間、五日間で強くはならないということの見本だな」

 会場も金縛りがとかれ、ざわめきはじめた。会場中が先制攻撃で闘いは終了してしまうのかと思った瞬間、放送席から救世主が降臨する。

「どうやら、俺の出番だな」

 秋山がリングに華麗に舞い降りた。

 体育館に黄色い歓声がこだます。生徒会会長ファンクラブが横断幕まで持ち出して声援を送りだした。

「おおおっと、生徒会長の乱入だ!」

 勝負はもはやプロレスのノリだった。しかも、誰も文句を言わない。当事者の二郎でさえもファイティングポーズをとっていた。

 秋山が勝った場合、静はどうなるのだろうか。事態はもはや収拾がつかない状況になっていた。

 二人の闘いは先ほどとは違い、実力伯仲の様相を呈していた。

「やるな、生徒会長!」

「いやいや、それほどでもないだろ、二郎」

「龍二だ!」

 剣道部に所属しているとはいえ、畑違いのボクシングで全国レベルの二郎と互角に闘うことができる秋山はやはり天才と呼ぶに値した。

「ここで、解説は新たに生徒会副会長の菜名瀬晶子女史にお願いします」

「何で私が?」

 ぶつぶつ言いながらも菜名瀬は解説者席に座った。

「会長は剣道部所属ですからボクシングでの試合は不利のはずですよね。ここまで互角に闘えるのは何故でしょうか?」

「聞いたことがあります。会長の流派、関島漢(せきじまおとこ)一刀流(いっとうりゅう)は得物を問わずに闘えて、しかも無手でも遅れをとならないように訓練しているそうです。会長が本気になればどんな格闘技でも全国レベルの可能性は十二分にありますね」

「さすが、会長のことならなんでも知ってると言われる菜名瀬副会長ですね」

 菜名瀬は御手洗の指摘に顔を赤くして貝になってしまった。

 壮絶な殴り合いは続き、5ラウンドが経過していた。さすがにボロボロになった二人は、渾身の右ストレートを互いにぶつけあった。

 お互いの拳が顔面に炸裂。

 崩れ落ちる二人。

 ダブルノックダウン。

「これは先に立った方が勝ちだ~」

 秋山も二郎も立ち上がろうとするが、膝が笑って立てない。

「く、くそ~」

「足が~」

 二人がもがいているそのとき、リングの隅に追いやられていた巨体が再始動した。

「うおおおおおおッ!」

 咆哮が体育館に響く。ずっと気絶したままの林太郎が、両の拳を天高く突き上げて立ち上がったのだ。秋山がいきなり乱入にしてしまったため、リングから降ろされるタイミングを逸してしまっていた。

「勝ったああ!」

 体育館に居た全員が、お前じゃないだろと心の中でつっこんだ。

 右頬を大きく腫らしたまま放送席にある(・・)ジェスチャーをした。

「森選手がどうやらマイクを要求しています」

 生徒会役員からマイクを受け取ると林太郎は爆発した。まるで、鬱憤がたまりにたまった活火山のようだった。

「いい闘いだった……、ッなわけねえよ! ていうか、なんだよ、これ! 意味わかんねえよ。なんで秋山と二郎が闘ってんだよ。違うだろ、根本から間違ってる。大事なのは並木さんの気持ちだ。こんな勝負で決めることじゃない!」

 いまさらなことなのだが、たしかに一番重要なことだ。

「でも、並木さんもダメだ! もっと、自分を持てよ。嫌なことは嫌って言えよ。状況に流されるなよ! こんなの望んだことじゃないはずだ!」

 場が静粛に包まれる。誰も何も言わない。秋山や二郎でさえも。

「あ~、そうだよ。他人に偉そうなこと言えないよ。ぼくが一番流されてるさ。なんでぼくがボクシングなんてやってんだよ。おかしいよ、だれが考えたって。だから、ぼくはこんな自分を変えてやる! ぼくが好きなのは、本当に好きなのは、二年A組出席番号二十七番、星巳凛なんだ~~~!」

 噴火が終わると、活火山は急に死火山になった。つまり、『ダレツヨ』の効果が切れたのだ。

「──えっと、その、ぼくは……」

 ダレツヨの効果が消えても、記憶は消えなかった。自分が何をしたか、何を言ってしまったか克明に覚えている。

 会場中の目が静に向けられた。彼女は名前どおりに、静かに涙を流した。

「ふられちゃったのかな……、あたし」

 涙を散らせながら体育館を飛び出した。

「てめえ! なに泣かしてんだよ」

 と二郎が吠える。

「あいつを泣かすやつはオレが許さんぞ!」

「他にどうしろってんだよ!」

 林太郎の迫力にさすがの二郎も鼻白んだ。林太郎自身の気迫、ダレツヨの効果ではない。

「並木さんは、並木さんはな~~!」

「シンリン、とにかく追いかけろ」

「……でも」

「けじめを。ちゃんと、けじめをつけてこい」

「わかった」

 林太郎は走った。

 二郎も走り出した。両膝は笑いが止まらない状態だったのにもかかわらずである。これも、愛のなせる(わざ)かもしれない。

「なんでついてくるんだよ」

「てめえだけに任せられるかぁ!」

 二人は勢いよく体育館を飛び出していった。

「さてと、俺も覗きに行きますか」

 しかし秋山の膝は震えを止めようとしない。立つことができず半身だけを起こすと、視界の隅に凛の姿を見た。彼女は体育館の扉に隠れるように闘いを見ていたのだ。林太郎の告白も聞いていたに違いない。かすかに頬が赤い。

「心配なら、もっと近くで見ればいいのにな」

 自然と顔がほころんだ。笑いが顔に移動したのか、膝の震えは止まっていた。

 林太郎と二郎は体育館を出たものの、静を見失ってしまった。

「おい、どうするんだ」

「場所はわかってる」

 林太郎の予測どおり静は図書室にいた。彼女は、小さな猫のように背中を丸めて机に突っ伏していた。

「──な、並木さん……」

 林太郎の声に静は顔を上げ、立ち上がった。目がうっすら赤い。

 言葉をさらにつむごうとする林太郎を二郎が押しのけて、静に正対する。

「本音が聞きたい。だれが好きとかじゃない。オレは絶対に、オレのことを好きにさせる自信がある。──オレじゃダメか」

「……ごめんなさい、あなとは付き合えません。あたしは、あたしの心に素直になります。あたしは強引な人は苦手です」

 静は深々と頭を下げ、

「ごめんなさい」

 と繰り返した。

「納得した!」

 あきらめ方も男らしかった。自分勝手な男だが、男らしさやルックス等もろもろ総合すれば林太郎より数段上といえた。

「……二郎」

「龍二だ!」

「なんでそこまでこだわるかな」

「オレの美学だ!」

 林太郎は苦笑するしかなかった。

「後は、てめえに任せた」

 と二郎こと龍二は図書室を後にした。振り返るそぶりすら見せず、ただ背中で泣いていた。

 今度は、林太郎が男を見せる番である。

「さっきは、ごめん」

 黙ったまま静はかぶりを振る。

 なにか言わなければ、と思うのだが口は動かず思考は空転する。

 ──けじめって、どうすればいいんだ。

 考えあぐねる林太郎に静がまっすぐに言う。

「あたしは、森君が好きです」

 衝撃の一言。

 面と向って言われるとは思ってなかった。一生縁のないことだとも思っていた。告白の威力は二郎の右ストレートなど霞むほどであった。

「ぼ、ぼくは、そ、その……。あ、あのですね。並木さんとは付き合えません。ごめんなさい。ぼくは、ほ、ほほ星巳凛が好きなんです」

 静は林太郎の言葉を深い場所で受け止め、しばし沈黙の回廊を歩いていた。そして、彼女の薄い唇が動いた。

「最後にキスしてほしいな」

「ええ?」

 静らしからぬ願い。これもダレモテの効果のせいなのだろうか。しかし、彼女の願いを叶えればダレモテの呪縛から解き放つことができる。

 恐る恐る林太郎は静の唇に迫った。

──いけ!

 だが、凛の顔が思い浮かぶと、もう動けなかった。

 硬直している大仏を救ったのは静の唇だった。

 触れるか触れないかの軽いキス。

「な、並木さん?」

 林太郎は棒立ちのまま、情けない顔をしていた。それに対して静は笑顔だった。哀しい笑顔だった。

「あたし、頑張ります!」

 これが並木静のけじめ。

 決別のキス。

 決意の笑顔。

 たしかに並木静の心から、林太郎に対しての恋心は失われてしまった。だからといって林太郎と図書室で話し合った貴重な時間が失われたわけではない。友愛の心は一原子も失われていない。

 鈍感な大仏には彼女の真意がわからなかった。ただ、痛く切なかった。


 秋山は治療した方がいいと勧める菜名瀬を振り切り、林太郎を追った。

歩くたびにあちこちに痛みが走る。仕方なく体育館の壁に体を預けると、同じように壁に寄りかかる凛を見つけた。

「近くで応援すりゃいいのに」

 ふるふると首を横に振り、珍しく秋山と言葉を交わす。

「形はどうあれ、必死だった。あの子のために」

「もしかして、妬いてるのか?」

 秋山の一言に、凛の顔が見る見るうちに赤くなっていった。

「そ、そんなことない!」

 肩をいからせながら凛は行ってしまった。凛の真っ赤な顔が回復薬となったのか秋山の体は完全に復活していた。

「これだから、──ツンデレはたまらないんだよな」

 羽の生えた足で林太郎を探すが容易に見つからなかった。学校にはもういないと判断して校外に範囲を広げた。

 夕日に照らされた河川敷の土手に大仏が鎮座、いや林太郎が座っていた。土手で体育座りをし、あからさまに精気がない。

「ここにいたのか、シンリン!」

「うるさい……」

 秋山を見ようともしない。

「うわ~~~、今回はまたえらく落ちこんでんな~~」

「……うるさい」

 腐った魚の目で林太郎はらちもないことを言う。

「ぼくに、彼女を傷つける権利なんてないのに」

「あたりまえだ。そんなものがあってたまるか」

「恋愛ってこんなに辛いのか? 一般の人たちはこんな傷つけ合いをしてるのか、信じられない。オタクがいいよ。楽でいい。今回のことでほんとそう思う」

 ゴンと秋山の拳骨が林太郎の頭に落下した。

「いった! なにすんだよ」

「オタクの方々と一般の皆様、両方を馬鹿にしてる言い草だ」

 林太郎は貝のように押し黙ってしまった。

「並木は、お前を責めたのか?」

「いいや」

「じゃあ、どんな表情をしてた」

 秋山の言葉は静の顔を思い出させた。涙を両の眼に溜めたままの笑顔が、悲しくも、美しかった。涙の奥には強い決意も滲んでいた。

「落ち込んでる場合じゃないな」

 林太郎の気持ちなど関係ない。ただ並木静の背中を押した事実は消えない。


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