表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

僕のラブコメって辛い!

 歓迎会から、数日が経過した。

 ラブコメ現象は相変わらず起こっている。今日も林太郎と奈月と静の三人は一緒に昼休みを過ごした。三人での昼食はあれから恒例となっていた。

 この日の最後の授業は数学だった。

 林太郎は退屈そうに窓の外に視線を送った。二年生の教室は二階にあり、教室からはグラウンドが見える。グラウンドでは他のクラスの女子が体育の授業を受けていた。

 女子の一団に海野奈月の姿を確認できた。

 自然と瑞々しい彼女に視線は固定された。均整のとれたスタイル、かもしかのような軽やかさを感じさせる。林太郎は見ていてあきなかった。

「海野奈月に惚れたか」

 授業中にもかかわらずに秋山が声をかけてくる。

「け、け健康的な体だなー、と思ってただけだ」

「シンリンの体は不健康だけどな」

「ほっとけ」

 ちゃちゃを入れられ、嫌々ながらも視線を黒板に向けた。

 授業が終わると秋山はフェルマーの定理以上の難問を提起してきた。

「で、誰にするんだ?」

「に、人間の感情は単純にできてない。そんな簡単に決められるものじゃないよ」

「違うだろ、シンリンは欲深いだけ」

 心の奥底にある本音をつかれた。

「まあ、よく考えるんだな。薬の効果なんていつ切れるかわからないんだし」

 秋山の言葉にはたぶんに真理が含まれていた。

 ──そうだ。ダレモテはいつか切れるかもしれない。いや、必ず切れる。

 シアの口から告げられたわけではない。でも可能性は非常に大きい。林太郎には向き合わねばならぬ命題に思えた。

 ──どうして、こんな単純なことに気づかなかったのだろう。始まりがあれば、必ず終わりはやってくる。

 林太郎にはダレモテによる効果でしか、彼女達との接点を見出すことができなかった。その効果が切れたときを想像するだけで、心に暗黒のとばりがおりる。昨日までの無責任にラブコメを楽しんでいた日々に帰りたかった。

「永遠ならざるラブコメ……」

「その通りだ、シンリン。そして、お前がどうあがくのか楽しみでしょうがない」

 秋山の顔が悪魔に見えた。上等な悪魔ほど美しいのだから。

「おまえが友達なのかと疑いを抱いたぞ」

「心外だな。俺ほどシンリンのことを考えている人間もいないだろうに」

 沈む心に秋山は追いうちをかける。

「さあ、今日も図書室に行くんだろ。早く行こうぜ」

 この精神状態で会えと言うのか、林太郎は正直、気が重い。

「ほら、早く」

 林太郎と静が談笑するのを遠くから覗くことが、秋山の日課になっていた。しかし、大事な日課を阻むものが現れた。

「今日こそは逃がさないわ。会長!」

 秋山が振り返ると、髪をひっつめた女の子が膨れっ面で立っていた。

「げ? アッキー」

「アッキーじゃない。もう!」

 憤慨する女の子はくるりと林太郎に向き合うとにこやかに挨拶した。

「こんにちは森君」

「どうも、菜名瀬さん」

「なんか態度ちがわくない?」

「あたりまえ! 私がどれだけ苦労したと思ってるんですか」

 通称アッキーこと菜名瀬晶子は生徒会副会長である。ちなみにアッキーと呼ぶのは秋山だけであった。もちろん、名付け親も秋山である。現在生徒会執行部は彼女でもっていると言っても過言ではない。

「今日は首根っこをつかんででも連れてくので!」

「助けてくれ~~、シンリ~ン!」

「頑張れよー」

「この薄情者~!」

 秋山は本当に首根っこをつかまれ生徒会室に引きずられていった。

「それじゃあ、森君」

 怒られる秋山。怒る菜名瀬。二人とも、この馬鹿馬鹿しくさえあるやりとりを楽しんでいるように見えた。菜名瀬の気持ちはなんとなくわかっていた。だけど、秋山の気持ちがわからない。そもそも、恋愛感情ともいうものを持ち合わせているのかと疑問に思ってしまうのだから、わかるわけもなかった。

 静けさを取り戻した教室に一人残されると、秋山の言葉が頭の中によみがえった。

『薬の効果なんていつ切れるかわからない』

 ──ダレモテが切れるときか……。

 続けて凛の言葉も思い出す。

『成分を割り出して、中和剤を作る』

 論理的に考えると中和剤を作らない限り、このラブコメ現象は止まないということか。心の暗雲に一条の光明がさした気がした。でも、すぐに光明はついえる。

 ──でも、中和剤が作られたら結局のところ効果は切れるんだ……。

「ぼくはどうしたらいいんだ。いや、どうしたいんだ」

 考えはまとまらないのに、足は勝手に図書室に向かっていた。

 廊下を歩いていると、不意に自分の名前が聞こえたので足を止めた。そこは二年C組、海野奈月がいるクラスだった。

「ねえ、奈月、このごろA組の森と仲良いんだって?」

「うん。最近よく話すよ」

 どうやら奈月がクラスメートの女の子と話しているとわかった。

 ──ぼくの話をしているのか。

「千川君は知ってるの?」

 奈月の友達は心配そうに声をかける。

「うーんと、どうだろ」

「やばいんじゃない」

「どうして?」

「いや、なんていうかさー、誤解されたりするじゃない。それに、趣味悪いんじゃないの? あんな(・・・)のと……」

 林太郎の心は小ダメージを受けた。

「どういう意味?」

 奈月の声が硬い。

「だって、太ってるし」

 林太郎の心は中ダメージを受けた。

「それにオタクなんでしょ。ちょっと気持ち悪くない」

 林太郎の心は大ダメージを受けた。

 心は悲鳴を上げ瀕死の状態であった。

 ──そうだよな。ぼくなんて太ってるし、オタクだし、いいとこなんて皆無に近いもんな。こんなのが女の子と仲良くできるなんておこがましいよな。

 寂寥感が胸に充満していると、奈月の声が聞こえてきた。

「なに言ってるの?」

 声が怒っている。

「林太郎君は、林太郎君だもん。彼に失礼だよ!」

 今までにおった心のダメージを瞬時に癒してくれる魔法の言葉だった。

 ただ林太郎に一般の女の子は近寄らないだろう。天真爛漫な彼女だからできることなのか、ダレモテのせいなのかは判断できなかった。

 薬によるラブコメ。ならば、彼女たちの本音はどこにあるのか。ダレモテの効果がなければ、彼女の友達と同じ感覚を持って林太郎と接するのか。

 精神状態が完全に不安定となり、図書室には入らなかった。とても、静と会話を楽しむことができそうになかったからだ。

「ん? ……雨か」

 手に大粒の雨が当たった。

 さっきまでのぽかぽか陽気が一転、林太郎の気持ち同様に陰鬱な雨が降り出していた。

 何気なく雨を見た。

 じっと見ていた。

 体が濡れていく。時間が経過するにつれ、雨脚も強くなる。それでも、林太郎は地蔵のように動かない。

 丸い地蔵を動かしたのは、如来様に匹敵する優しい声だった。

「森君」

 声は女のものであったから、秋山でないことはすぐにわかった。

 振り向くと静が立っていた。

「図書室から、ここが見えるんだけど、森君がずっと立っているのが見えて……」

 静はおずおずと傘を取り出す。

「あ、あの、入りませんか?」

「あ、あ、あ、ありがろう」

 ありがとう(・・)をありがろう(・・)と発音してしまうぐらい心の嵐は猛威を振るっていた。

 ──これも、ダレモテのせいなんだよな。じゃなきゃ、ぼくなんかに……。

 二人は一緒の傘に入り歩き出した。

 静の足取りは軽く、林太郎は体重以上に重い。

 楽しいはずのラブコメ現象が苦痛だった。昨日までは身勝手に喜んでいたはずなのに。林太郎はそのことに気づいていない。もっと重要なことにも気づいてない。

 状況に耐えきれずに林太郎は真っ黒な暴言を吐いた。

「変だよ。ぼくに優しくしてくれるなんて……」

 言葉が止まらない。

「なにか魂胆があってのことじゃないの? ぼくみたいなやつに女の子が寄ってくるわけがない。普通じゃない。おかしいよ、絶対……」

 真っ当な理由だけに現実が悲しく思える。

 さっきまで頬を赤く染めていた静も今は青い。眼鏡の奥では光るものもあった。

「森君、そういう言い方は良くないことだと思います」

 小さくも意思の強い声だった。涙が、誰かのためにこぼれた。

「傘を……」

 静は林太郎に傘をゆだねて、駆けていってしまった。

 傘に落ちる雨の音がやけにうるさい。

「……ごめん」

 そう呟くのが精一杯だった。

 自己嫌悪が針となって心を刺す。

「なにやってんだ、ぼくは……」

 傷つく心を人は持っている。林太郎は人付き合いというものをあまり経験したことがない。だからこそ、視野も狭い。自分の気持ちよりも、彼女たちの気持ちをおもんぱかる必要があるのに。

 うなだれたまま重い足を踏み出した。自分の体重が倍加したのか、と疑いながら数歩も歩くと、傘のつばから人の足が見えた。

「あの変人は?」

 凛の声だった。

 視線を上げると、いつもの仏頂面がそこにあった。

「秋山のことかい」

 こくりと凛はうなずいた。

 秋山とまともに会ったのは一回しかないのにもう変人呼ばわりである。でも、あながち間違いではない。

「生徒会だけどなにか用があるの?」

「いや、あの変人がいると気が滅入る。歓迎会のときも、モエだのキタだの、よくわからない日本語を連発して嫌だ」

 正解、と答えて、凛の用件を聞いた。

「これを……」

 と凛は学校の指定鞄に手を入れる。

 ──もう、中和剤が完成したのか。

 しかし、凛が取り出したのは手提げ袋だった。

「これで買い物して、ビニール袋はダメ」

 渡された手提げ袋を見ると、それは毛糸製でおせじにもうまいとはいえない手作りであった。

「エコバックだね。あ、ありがとう……」

 返事をしながらも、波長の合う女の子に凛が含まれているのかと疑問に思った。疑問はそのまま問いに変化した。愚かな問いだとは気づかなかった。

「星巳さんも、ダレモテのせいでぼくに優しくしてくれるのかい?」

 端的な答えが返るよりも速く、ブリザードの瞳が吹き荒れる。

「違う」

「じゃあ、なんで」

「環境に良くないから。とにかく、この国は無駄が多い」

 便利さが追求された国の姿を指摘された。そんなことよりも、いまの林太郎にはラブコメ現象の方がはるかに重要だった。

「あの薬には効果時間が設定されているのかい?」

「わからない」

「じゃあ、中和剤はいつできるんだい?」

「わからない」

 凛の解答は林太郎を満足させるものではなかった。苛立ちを見てとったのか、彼女は逆に問いを投げつけた。

「君は、君だけが巻き込まれたと思ってるの?」

「え?」

「君だけが巻き込まれたと思ってるの?」

 同じ問いに、つたなく口を動かす。

「ぼ、ぼくが、こんな事態を望んだわけじゃない」

 凛の冷たい瞳に熱い炎が宿る。

「薬を飲んだせいで、君と波長の合う女の子の心がねじれている。本来の心じゃない、このことに気づいて傷つくのは君だけじゃない」

 もしも、奈月と静二人の内、いずれかが林太郎と付き合うことになり、そのときにダレモテの効果が切れれば、一番傷つくのは彼女たちなのだ。

 好きでもない人と付き合うなど苦痛以外の何ものでもない。好きな相手がいるのならなおさらだ。

 凛の言葉の風は林太郎の心の窓を開け、流れるべき方向性を与えてくれた。少なくともさっきより健全な 思考の軌跡を描くことができた。

「そんなこともわからないなら、勝手にすればいい」

 凛は去っていった。

 またも、一人残された林太郎だが、心は穏やかであった。

「並木さんに悪いことしたな」

 率直に反省することができた。

 ──凛の言うとおりだよな。なら、ぼくにできることは……。

 守りたい心は一つだけではなくなっていた。

 奈月と静の心も大事にしたいと思う。沈思の結果、はじきだされた答えは極力彼女たちとかかわりあいにならないということだった。秋山が聞いたらつまらないと非難してくるに違いない。

 秋山の非難が強かろうが、決心は固かった。

 その日は簡単な料理を作って、早々に眠り、鋭気を養った。ラブコメと闘うために。


 固い心を砕こうという悪戯悪魔のはからいなのか、次の日、さっそく奈月と会ってしまった。ダレモテの 効果はやはり恐るべきものがあった。

「おはよう、林太郎君」

 朝日の輝きに勝る笑顔が眩しい。

「そ、その、ぼ、ぼ、ぼくとあまり一緒にいないほうがいいよ」

 意を決し、林太郎は声を振り絞った。

 奈月は意味がわからず、きょとんとしている。

「だってさ、周りから変な眼で見られるし……。それに、ほら、千川君にも勘違いさせちゃうんじゃないのかな」

「だめだよ。林太郎君!」

「え?」

「そうやって卑屈になるのはよくない。ボクは林太郎君と仲良くなりたいよ」

 本来の奈月の言葉なのか、ダレモテの効果なのか、もはやどうでもよかった。単純に、ただ単純に嬉しかった。

 涙をこらえながら彼女の名前を呼んだ。

「海野さんは……」

「奈月でいいよ」

「えっと、その、いいんですか?」

 女の子を名前で呼んだ経験がない林太郎にはハードルが高い。

「うん!」

 まったく屈託がない。もてない男の葛藤など奈月には理解できないだろう。

「……な、な、奈月さん……」

「さん(・・)もいらないよ」

「いや、それはちょっと……」

「じゃあ、敬語はやめてほしいな」

「できるだけ」

「今日のおかずには自信があるんだ。昼休みに屋上でね」

 これだけのラブコメ現象に見舞われて、奈月に好意を抱かないわけがない。誰が責めることができよう。 固く決意した心も今や、やわやわであった。

 それもこれもすべては「ダレモテ」のせいであった。結局、林太郎はラブコメの奔放な流れに逆らうことなどできなかった。だが、変化の波は水面下で進んでいた。

 屋上で昼休みを過ごす林太郎と奈月の間にはじつに暖かな空気が流れた。春の陽気に負けないほど心地よかった。

 頭ではダレモテのせいだとは思いつつも、鼻の下は自然と伸びてしまう。あっという間に楽しい昼休みは過ぎていくのだが、なぜか静が屋上にこなかった。

 ──昨日のことを気に病んでいるのかな。

 林太郎は静を傷つけたことをちゃんと自覚していた。

 放課後、おせっかいにも秋山が静は風邪で休みだと教えてくれた。

「雨に濡れたのが原因かな、やっぱり……」

 走り去っていく静の姿がまぶたから離れない。

 唐突に秋山はある提案を切り出す。

「見舞いに行くか、シンリン!」

 ラブコメの定番だと秋山は言いたいに違いない。

「行かないよ。ぼくは、ラブコメ現象にならないように行動することに決めたんだ」

「嘘をいうな、シンリン」

「ほんとうだ」

「はっは~。そうか、これは前フリか。行かないと言っといて、行く! みたいな。にくいな~、シンリンはやることがえげつないもんな」

「違うから、そんな前フリとかじゃなくて、ほんとに行かないの。それに、風邪が悪化するかもしれないし……。今日、明日は迷惑がかかるだろう」

「よくわかった。今日、明日は行かないんだな」


 そして、二日後の日曜日。

 林太郎は静の見舞いのため彼女の家にきていた。

 見舞いに行くのは、林太郎一人ではない。静とクラスメートである菜名瀬に、ラブコメ傍観者である秋山までが随行員となっていた。

「ほんとにぼくらが行っていいもんなのかな……」

 問いというよりも独り言に近い。

 いまさらな言動に、明るい口調で答えてくれたのは菜名瀬だった。

「大丈夫、静に電話したら喜んでましたから」

「そうそう、お見舞いはラブコメの王道であり、常識だ。看病をしてあげることにより、親密度があがり、 いい雰囲気になったときに邪魔が入るんだ、これまた」

「でも、だいぶ元気になったみたい」

「ちっ、つまらんな~」

 不平を鳴らす秋山のみぞうちに菜名瀬の鋭い肘が入った。

「ぐふう」

 美形は蛙が潰れたような声はださないものと思っていたが、思い違いだと知った。

「なに言ってるんですか。人が元気になるのはいいことです」

「アッキー、多分お前が思ってる以上にダメージがでかい攻撃だぞ、これは……」

「いいから、行きますよ」

 菜名瀬はチャイムを鳴らすと、静本人の声がインターホンから聞こえてきた。

「鍵はあいてますから、どうぞ」

 家の中に入り、人生で初めて林太郎は女の子の部屋(パラダイス)に入った。少し、いやかなり感動していた。

 部屋は彼女の印象どおり、華やかではないが清潔感に溢れていた。大きな本棚には隙間がないほどの本が埋まっている。

 静はベッドに腰掛けた状態で皆を迎えた。パジャマ姿で肩にはカーディガンをはおり、足にはブランケットがかけられている。髪もいつもの三つ編みではなく、ただとかれているだけであった。

「もう起きていいの?」

 と菜名瀬が声をかけた。

「うん、もう、だいぶ良くなったから」

 静と菜名瀬との会話が弾み、時間は過ぎていった。林太郎と秋山はおざなり程度のお見舞いの言葉を発したあとは置物と化していた。

 今まで会話をリードしてきた菜名瀬が、お約束な提案をする。

「のどが渇いたなー。これは、飲み物を買ってこないと。しかたない、会長、買いにいきましょう」

 当然、この男がこの魅惑的な提案に乗らないわけはなかった。

「そいつはいい提案だッ!」

「ちょ、ちょっと、ぼくは……」

「森君は静を見ててあげてください」

 困惑する林太郎を残して、二人はさっさと買い物に行ってしまった。あまりに、べたべたな展開に苦笑してしまう。静もあっという間の出来事で、飲み物なら用意してあると告げる暇もなかった。

 体重よりも重たい時間が二人の間に流れる。重さに圧死されないために、声帯をふるわした。

「えっと、昨日は、ごめん。ひどいこと言っちゃって」

 深々と下げる頭の上に綺麗な声が落ちてくる。

「ううん、いいの。でも……」

 言葉に勇気を乗せて静は本音をさらけだす。

「この際だから、はっきりあたしも言うね。森君に言われたこと、実は当たっている部分があるの」

「ええ?」

「哲学のことで話せる相手が欲しかった。哲学なんて真面目に聞いてくれる人がいなかったから……、というより、話しかけることもできなかった。あのとき森君が話しかけてくれたのが嬉しかった。だから、嫌われたくなかった──」

 静の唇がかすかに震えている。

「──以上です」

 彼女は林太郎が怒る可能性も考えたに違いない。このまま、二人の関係が出会う以前に戻れば、また一人で図書室の番人を続けなければならない。今度は本当の孤独を味わうことを彼女は知っていた。

林太郎は自分が情けなかった。こんなことを言わせてしまう自分が呪わしかった。彼女の心情を思うと涙が出そうになる。

 もはや、ダレモテなど関係なかった。

「並木さんは、哲学者だとだれが一番好きなの?」

 予期していない質問ながらも静は反射的に答えた。

「ヘーゲル」

「ゲオルク・ウィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲルか……。たしか、対立する双方から一部を取って取捨し、より高い次元で統合するという弁証法を用いて『精神現象学』を著し、『論理学』においてはカントを超えているよ」

「う、うん」

「今のはほとんど暗記に近いけどね」

 鬼コーチ(秋山)のおかげである。

「ほんとは、それほど哲学のことを知ってたわけじゃない。気づいてたと思うけど、最初のときは適当に答えてたよ。でも、今は哲学に興味があるよ。これは、並木さんのおかげだと思う」

「ありがとう」

 メガネの奥から美しい宝石がこぼれ落ちた。

 静を涙の海から救うため、慌てて話題を転じる。

「ち、小さいころから、本を集めてたのかい」

「うん、本に囲まれていると安心するの。できることなら図書館の司書になりたい」

 笑顔をとりもどした静を見て、胸が熱くなるのを覚えた。まともに彼女の顔を直視できずにベッドのすぐ脇に置かれた本棚に視線を向けた。

「こ、これなんておもしろそうだな」

 林太郎は本に手を伸ばす。

「森君なら、こっちの方が……」

 と静も手を伸ばした。

 指と指が触れ合う。気がつけば、顔と顔が近い。つややかな静の髪の毛が頬に触れる。

「…………」

 沈黙の海に沈む二人だが、視線は交差したまま離れない。

 林太郎の心情としては、少女漫画のように大輪の花々が二人の背景に咲き乱れていた。

 ──これは、やばい。だれか、この状況をなんとかして。

 お約束な展開に、お決まりの事象、あとは、お定まりの落ちしかない。

「お待たせ~!」

 絶妙のタイミングで生徒会コンビが部屋のドアを勢いよくあけた。

 自分の体重も忘れるほどの速さで静から距離をとる。何事もなく済ませることが出来て安堵の吐息をついた。

 こうしたラブコメ現象をみれば、シアが調合したダレモテの効果は絶大と言わざるをえない。林太郎ほどラブコメに縁のない男ですら、この威力である。欲しがるオタクは数知れず。だが、薬である以上なんらかの副作用があって当然である。運命の月曜日が彼を待ち受けていた。


 海野奈月は出会ったときと比べ、千川慎之介のことを口にする回数は減っていた。現在では皆無と言ってもよいほどである。

 ──ラブコメ現象はいつまで続くのかな。

 終わったらもったいなく思うのを自覚していたが、彼女たちの心を傷つけたくない、とも本心から思った。

 もはや恒例となった屋上での昼休み。

 ただ、今日も静は学校に来ていない。見舞いに行ったときには元気そうだったのに。

「今日のおかずは……」

 いつもどおりの笑顔を奈月はくれる。彼女の笑顔を見たい、という男子は数え切れないはずだ。

なんと(・・・)コロッケだよ!」

二個の手作りコロッケが弁当箱の中で形のよさを競っていた。

 林太郎はふと不思議に思った。何故、彼女は『なんと』と強調したのか、べつにコロッケは大好物ではない。

「林太郎君はコロッケ好きだもんね」

「え?」

 そんなことを言った記憶はない。

「だって、ほら小学生のとき……」

 奈月の記憶は明らかに誰かと混同しているようであった。

「──奈月さん?」

「だって、ほら……」

 奈月から言葉が出てこない。代わりに涙があふれ出てきた。大事な記憶のために流す涙は美しかった。

「だ、大丈夫?」

 林太郎は狼狽した。

「だだだ、だれか呼んでこようか?」

 奈月は首を横に振るだけ。

 愚かにも林太郎は側にいることしかできなかった。

 副作用ともいうべき事態は何も林太郎にふりかかることではない。ダレモテは確実に海野奈月と並木静に効果を発揮しているのだから。

 教室に戻った林太郎は、ありがたみの欠けた大仏と化していた。

「やっかいな展開になりそうだな」

と秋山が、ありがたくない大仏に話しかける。

「また、見てたのか」

「あたりまえだ。それに、見てたのは俺だけじゃないしな」

 凛が音もなく隣に立っていた。

「海野奈月は君を無理やり好きになろうとしてる。本当に好きな人との記憶を一致させる。つまり、記憶が 混合されつつある。このままだと、本当に好きな人の存在が、彼女の頭の中から消える」

「説明なんてどうでもいいんだ」

 大仏の眼に光が戻る。

「奈月さんは泣いてたんだぞ!」

 怒号を放った林太郎の頭にぶあつい辞書が打ち付けられた。

「ここは、教室だぞ。落ち着け、シンリン」

 周りが林太郎を中心とした三人に視線を集中させていた。視線の集中など苦痛以外のなにものでもなかったが、今は奈月のことが心配で気にならなかった。

「シンリン、五限目さぼるぞ。君もこいリンリン(・・・・)

 秋山は凛のことをいきなり『リンリン』と呼んだ。相手の承諾を得ずにあだ名をつける倣岸さは、この緊迫した状況でも一分子も損なわれていなかった。

 リンリンと愛称をつけられた凛は複雑な表情をしていた。だが、プラスの感情はいっさい入ってないのは一目瞭然だ。

 三人は屋上に上がった。先日まで楽しく昼休みを過ごしていた場所とは林太郎には思えなかった。

「中和剤はまだ時間がかかる」

 開口一番、凛はそう告げた。

「そうだ、母さんにしたみたいに少しだけ記憶をいじればいいんじゃないのか」

「あの薬の影響が強い。簡単な幻術では無理」

「他になにかダレモテの効果を消したりする方法はないの?」

「方法はある」

 と制服のポケットから小さな瓶を取り出した。小瓶には青紫色をした得体の知れない液体が満ち満ちていた。

「この薬『フォーゲット』を飲めばいい。記憶が消える」

 凛の声がひどく冷たく聞こえる。ただ、ネーミングセンスは姉以下だった。

「ただ記憶は約一年分消える。個人差にもよるけど、最大で四年分消える人もいる」

「オリンピック周期分か……、長いな」

 と秋山が言った。

 当然、林太郎は反発する。

「そんな怪しい薬、飲ませられるわけない」

「これしか方法はない」

「だからって記憶を消すなんて……」

「よくあるはなし」

「よくあるわけない!」

 感情が火山噴火を起こした。溢れ出す火砕流を止めることができない。

「君は、なんでそうなんだ。なんで優しくないんだ! 他人のことも考えろよ!」

 おのれのことなど棚上げにした言動は心に響くものではなかった。林太郎は責任回避をしたいだけだったのかもしれない。

 言われた方も、石や木でできているわけではない。彼女も沸騰する感情を持ち合わせていた。しかし、心の中はどうあれ冷淡とした表情を崩しはしなかった。

「君が、大人しくしてればこんなことにはならなかった」

「してたよ」

「してない」

「ぼくにどうしろっていうんだ?」

「責任をとればいい」

「ぼくの責任じゃないだろ」

 口論を止めたのは秋山の一言だった。

「今は海野奈月のことが大事だろ。やめろ、シンリンもリンリンも」

 並べて声にするとまるでパンダの名前に聞こえてくる。

「リンリンって言うな」

 凛が抗議すると、秋山は悪魔よりも意地悪そうな笑顔を作った。

「なら、もっと楽しい呼び方するけど、いいのか?」

「…………」

 消極的肯定と秋山は見てとった。最善が不可能である以上、あえて最悪を選ぶ人はいない。

「もう、話すこともないね」

 話を切り上げようとしたのは林太郎だった。

 屋上を去ろうとする丸い背中に凛はつぶやく。

「少しだけ、待って……」

 しかし、激昂している林太郎には届かなかった。隣にいた意地悪な顔を崩さない美形には届いたが。


 家に帰った林太郎は夕飯の仕度もせずに、ベッドに寝転んでいた。

 ──どうしたらいいんだ。なにが、ぼくにできるんだ。

 体を反転させて仰向けになると、いるはずのないシアが覗き込んできた。

「な~にを悩んでいるのかな~♪」

 と謎の美女は軽い声を弾ませた。

「不法侵入はやめてくださいよ」

「神出鬼没は美女の特権よ」

「どうせ、ぼくがなんで悩んでいるかも知ってるんですね?」

「ええ、もちろん。それに凛と喧嘩したこともね。可愛そうに、あの子、とても傷ついていたわ」

 冗談のように言うものの、多分に真実が含まれていた。

「ま、まさか……」

「誰にでも心はあるもの、あの子は少し感情を出すのがヘタなのよ」

 重い気分がさらに重くなり、体重の重さもあいまって心のメルトダウンが起こっていた。

 シアが話の内容を変える。

「林ちゃんは、奈月ちゃんを助けたいのよね?」

 怪しげな蜘蛛の糸が林太郎の前に垂らされた。

「方法があるんですか?」

「もちろん、あるわ。なんと言っても、私が配合した薬ですもの」

「どうすればいいんですか」

「キスよ」

とシアは唇を突き出す。

「え、どうゆう……」

「だ・か・ら、キスをすればいいのよ」

「な、なんですと!」

 自分の体重も忘れて飛び上がった。

「嬉しいでしょ。もう一つダレモテには効果があってね。ダレモテの影響下にある人は、キスをした異性の虜になっちゃうの。だって、あれはほれ薬の一種なんですもの。キスさえすれば中和剤も効かなくなるし」

「ぼ、ぼくだってキスしたいですよ。お、女の子と付き合いたいですよ。好きだって言ってほしい。あのしなやかな体にも触れてみたい。でも、それじゃあ、それじゃあ意味がない!」

 ──奈月さんには、奈月さんには自分で選んだ大好きな人がいるんだ。

「そう? 少なくとも苦しみからは開放されるわよ、林ちゃんも奈月ちゃんも。キスしちゃえばいいじゃない」

 シアの提案は悪魔の誘惑だった。だからこそ、魅力的であった。

「最初から、こうなるように調合したんじゃないでしょうね」

「さあね♪」

 ことの真偽はともかく謝ってほしかった。自分にではなく彼女たちに。

「最後に質問が」

 シアは沈黙によって先を促す。

「キスはボク以外でも効果を発揮するんですか?」

「いい質問ね。ええ、男性なら誰でもいいと思うわ。でも、今の奈月ちゃんは林ちゃん以外の男性に唇は許せないでしょうね」

 悪魔の誘惑を残して、シアはまたも窓から姿を消した。

 残された林太郎は夕飯の献立にも頭を使わなければならなかった。


 苦難の火曜日が始まった。

 本音では学校を休みたかったが、理性がそれを許さなかった。凛の『責任を取ればいい』という言葉に押されたのかもしれない。

「な、なんでこんなことに……」

 林太郎は事態が好転することを期待していた。それは、ダレモテの効果が無くなり、奈月がダレモテから開放されることであって、長年胸を膨らませ夢見たことではない。

 つまり、ボクっ子美少女の唇が目の前にあった。

 ──どうするよ、ぼく?

 順を追って説明すると、林太郎は奈月のことが気になって、彼女の教室に様子をうかがいに行った。ところが、姿が見当たらない。勇気を出して奈月のクラスメートに聞いたところ、一人で屋上に向かったと言う。

 ──ま、まさか、ダレモテに気づいて、じ、じ……。

 思考を進ませることさえ否定して屋上に走った。

 屋上の重いドアを乱暴に開けると、いつもの笑顔がそこにはあった。予想は嬉しいことに外れた。

「ど、どうして、お、屋上に?」

 息切れしながら言う汗だくダルマに奈月は同じ質問を返す。

「林太郎君こそ、どうしたの?」

「奈月さんが、屋上にいるって聞いたんだ。それで、心配になって……」

「なんで心配なんかするかな。ボクはただ空が見たかったんだ。ときたま、無性に見たくなっちゃうんだ」

 自分の馬鹿さ加減にうなだれていると、奈月が側にきてくれた。

「あ~あ、こんなに汗かいちゃって」

 優しくハンカチでおでこを拭いてくれる。

 やばいと思いつつも、林太郎は顔を上げた。息が触れあう距離に奈月の顔があり、備え付けられた桜色の唇があった。

 ──どうするよ、ぼく?

 超弩級のラブコメ現象が起こり、ファーストキスのチャンスが訪れたのだ。林太郎の中ではシアとのことはノーカウントであった。

 甘く危険な誘惑が頭の中で駆け巡ぐる。

 奈月の眼が熱く燃えていた。彼女の形の良い唇が触れる相手を待っている。

──ええ~~~い、もうどうにでもなれ!

 しかし、唇と唇は触れずに止まった。すんでのところで浮かんだのは凛の仏頂面であった。

「あ、あれ? どうして、涙が……」

「な、奈月さん?」

 林太郎の視線は奈月の唇に注がれていたため、彼女の瞳から涙が流れているのにようやく気づいた。やはり、本能の部分が接吻に反抗していたのだ。

「ごめん、ほんとうにごめん!」

 屋上に奈月を残したまま、体形に似合わぬスピードで林太郎は逃げた。『脱兎(だっと)の如く(ごとく)』、林太郎の場合は『脱豚(だっとん)の如く(ごとく)』が似合いではある。

 中庭のベンチに腰を下ろし、ようやく一息ついた。授業は始まっていたが、そんなことはどうでも良かった。

 そこに、もう一人、授業放棄をした美形がやってきた。

「たそがれてるなー」

「秋山か……」

 茶化す準備万端な顔をしていた秋山だったが、林太郎の眼を見て顔を引き締める。

「マジみたいだな」

「奈月さんの気持ちはわかった。でも、千川はどうなんだ? あんな女の子に囲まれちゃって、いったいだれが本当に好きなのかわからないじゃないか」

「やつも海野一筋さ」

「ならなんで!」

「怖いらしい」

「怖い?」

 秋山は軽く笑った。

「ああ、慎之介は奈月に告白しようとした。でも、告白を決意した日になんと両親が結婚して義理の兄妹になってしまった。告白してふられてしまっては、家族関係に支障をきたすだろ」

「……また、生徒会情報ネットワークか?」

「確かな情報だぜ」

 軽い沈黙。

「……ったく、アニメかよ。いや、アニメよりもたちが悪いな」

 林太郎は固く拳を握る。決意を強固にするために、堅く、硬く。

「奈月さんは、あの子は、いい子なんだよ。本当にいい子なんだ」

「そうだな」

「ぼくは、──あんな子と仲良くなりたかったんだ」

 奈月の涙は心を奮い立たせた。奮起は即行動に移された。

 

「待ってたよ、千川」

「たしか、森──君」

 林太郎は校門で慎之介を待ち伏せした。意外な人物の待ち伏せに慎之介は困惑し、表情を曇らす。好きな人との付き合いが噂されている男ならなおさらだ。

「森でいい。ぼくも呼び捨てにするから」

 誰でもない自分に対して怒っていた。だが、ほんの少しだけ矛先は慎之介に向いていた。八つ当たりと呼ぶにはあまりにも純粋な想い。

 喧嘩腰の態度に、慎之介は眉をひそめる。

「で、なんかようがあるのか」

「奈月さんのことで話がある」

「俺はない」

 慎之介は林太郎の脇を抜けようと歩き出した。

「まてよ」

 言葉よりも先に手が慎之介の肩を掴む。

「ぼくは自慢じゃないが、生まれてこのかた、もてたことなんかない。でも、奈月さんは……、奈月さんは……」

「はあ? なにが言いたいんだよ」

「言いたいことがありすぎて一言じゃいえない! けどな、これだけは、はっきりしてる。あの人を、奈月さんを泣かすなよ!」

 自分の残像に向かって投げつける。正確にいえば、理想の残像に向かって。

「森になにがわかるんだよ」

「わかるわけないだろ。もてるやつのことなんか」

 林太郎の発言に慎之介の頭に血が昇る。

「家に帰ったら、お前の話ばかりなんだよ!」

 慎之介の顔がゆがむ。

「俺のほうが、絶対に、森なんかより……」

「それを奈月さんに、ぶつけろよ!」

 口論は熱を帯び、林太郎は慎之介の襟首を掴んでいた。

 今にも、殴り合いに発展しそうな一触即発の雰囲気を凍りつかせたのは、元気溌剌なボクっ子の登場であった。

「なに、やってるの?」

 奈月を連れてきてくれるように秋山に頼んでいたのだ。

「千川、おまえがいかないんならぼくが奈月さんをもらう。それでも、いいんだな」

「……いいわけないだろ!」

 慎之介は林太郎を押しのけて、奈月の前に立った。

「俺は、俺は、お前のことが……」

 しかし、奈月は慎之介が見えてないように、林太郎に顔を向ける。まるで、慎之介が透明人間と化したようだ。

 ──ここまで、ダレモテの副作用が進むなんて。はやく、はやくしないと!

 心配する林太郎をよそに、もっと深刻な事態に直面していた男がいた。愛する人に無視されることほど、悲しいことはない。

「ちゃんと、こっちを見ろよ」

「や、やめて!」

 嫌がる奈月に林太郎は声をかけた。それが最善だと信じて。

「奈月さん! 目の前の男をちゃんと見るんだ。君はそいつのことが、そいつのことが大好きなんだから!」

 林太郎の声に反応した奈月はまじまじと目の前の男を見た。そして、彼女は正しい答えを導き出すことができた。

「し、慎之介?」

 ほっと安堵の表情を見せたのもつかの間、慎之介は彼に似合わない速攻をしかけた。一気に奈月の唇を奪ったのだ。

 林太郎は驚きのあまり止まった。その場の空気も止まった。

「あれ? ボク……」

 唇が離れた奈月の顔を林太郎は見た。とても可愛かった。林太郎と会話しているときよりも数倍。

ダレモテの効果が切れたのだ。

「奈月、よく聞いてくれ。俺は、俺は、おまえが好きだ!」

「……ボクも大好きだよ」

 彼と彼女の想いは通じ合ったのだ。

 胸の奥からこみ上げてくるものがあった。涙をこらえることができそうもなく林太郎は立ち去ろうとした。

 だが、意外にも奈月に止められた。

「待って、林太郎君」

「……お、お、お疲れ様」

 なんと答えてよいかわからずに口を開くと、こんな言葉が出た。

 林太郎の言語回路がこの場にふさわしい言葉をはじき出すわけはなかった。自分の馬鹿さ加減にあきれて振り返ることもできずに走った。

 走り出した背中に、奈月の声が届く。

「明日の放課後、楡の下で待ってて」


 明風高校には生徒の成長を見守る大きな楡の木がある。その木の下で告白すると必ず両想いになれるという伝説があるかどうかは定かではない。

 林太郎は楡の木に寄りかかっていた。目の前には親友たる秋山がいる。

「しかし、海野も酷だよな~。完全にとどめを刺さなくてもいいのにな」

「……違うだろ。これが、彼女の優しさなんじゃないのか」

「今の台詞、シンリンにしちゃあ、上出来だ」

 ほんの数分前に、ここで奈月にふられた。

 林太郎は告白したわけではないが、彼女はけじめをつけたかったのだ。

「ごめん! ボク、慎之介と付き合うことになったんだ。だから、林太郎君とは……、だから……」

 はっきりと、しかし、哀惜の感情のこもった声。

「ほんとうに、ごめんなさい」

 無言のままでもいるわけにもいかず、無理やりに出した言葉は平凡であり、林太郎に似合いと言えなくもない。

「──お幸せに……」

 こうして、今に至る。

 奈月は教室に帰ったが、林太郎はそのまま楡の木から動けずにいた。いつのまにか秋山が姿を見せた。いつもどおり隠れて一部始終を見ていたのだろう。

「ほんとうは、期待してたんだ。心の隅っこで、逆転満塁ホームランを……」

 独白とも懺悔ともいえない愚痴が続く。

「最低だよな。ぼくって……」

「悪い、聞いてなかった」

 秋山なりの気遣いだった。親友の心遣いに感謝したが、この男なら本当に聞いてなかったかもしれないとも思ってしまった。

「さー、なんか食いに行くか! ど~せ、千歳さんは遅いんだろ」

「まあな……。でも、凛が……」

「大丈夫、大丈夫」

 と秋山が指をさす。指の方角を追っていくと、木陰に隠れている凛がいた。

「無論、秋山のおごりなんだろうね」

「しかたがねえな~。じゃあ、ラーメンだッ!」

「安いね」

「文句言うな」

 三人でさびれたラーメン屋に入り、全員みそラーメンを頼んだ。ただ、実物を見たとき凛は軽く驚いていた。

 湯気に半分隠れた顔で秋山がつぶやく。

「いつだって逆転満塁ホームランを打てるやつなんかいないさ」

 心優しい親友の声が脳裏にいつまでも残った。

 ラーメンを食い終わった林太郎は力なく二人に言った。

「ちょっと、一人にしてくれないか」

 秋山と凛は丸い背中を見送った。

「そんな落ち込むことないのにな」

 と秋山が凛に言った。答えない凛の手の中にオレンジ色の液体が入った小瓶が握られているのが見えた。

「もしかして、中和剤か?」

「海野奈月用の薬、一時的に効果を減じさせるのはできたけど……」

 記憶を消す薬ではなく、効果を緩和させる薬を凛は持っていた。彼女なりの努力の結晶だった。目の下にできたくま(・・)が証拠であった。

「ごくろうさん」


 シアと出会ったやわらぎ公園に林太郎はやってきた。

 一人ほうけてベンチに腰をおろしていると、艶やかな影が林太郎を包んだ。顔をあげると、やはりシアが立っていた。

「いいタイミングで現れますね」

 不敵な笑みを浮かべるシアは本当に綺麗だ。

「いつでも、林ちゃんを見守ってあげてるのよ♪」

「大変ですね」

 皮肉をぶつけてもシアは平然としている。

「それにしても、私の予想と違ったわ。絶対、キスすると思ったのに」

「意気地がないだけですよ」

「まったく同意見よ。もうちょっと根性のある子だと思ってたのにな~」

 さすがにカチンとくるものがあった。

「あのですねえ!」

「そういう子、私は好きよ」

 とシアはこともなげに言う。

 美しい旋律が林太郎の耳をくすぐった。好きと言われて腹の立つ男は少ない。さらに美女であるならなおさらだ。

「えっと、その……」

 返す言葉が見つからない林太郎に、シアは残酷なダレモテの効果を明るい調子で告げた。

「ちなみに、キスしたら虜になるなんて嘘だから」

「なんですと!」

「そんなに都合良く調合できるわけないじゃない。実は、キスしたらダレモテの効果はなくなるの」

「それじゃあ、それじゃあ……」

 ──しても、しないのも地獄じゃないですか……。

 との言葉が咽喉まで出かかった。

 もしも誘惑に負けて奈月にキスをしてしまったときのことを考えると、冷や汗が出てくる。瑞々しく活発な表情が曇り、凛並みの冷たい視線をぶつけられることなど耐えられそうもなかった。

「よかった。ほんと、よかった」

「私は修羅場が見たかったのにな~」

 クスクス笑いながらシアは一陣の風と共に去っていった。


 いつもと変わらぬ登校風景、いつも通りに太陽は東から顔を覗かせる。太陽は心に反して燦燦と輝いていた。気持ちの良い日差しも、林太郎の心を晴らすことはできない。

「まったく、ピエロだよ……」

「結果的に良かっただろ、本格的に惚れる前でよ」

 秋山はおおげさに林太郎の背中を叩いた。

「痛い、痛いって!」

「まー、人生、赤鬼より青鬼ってことだ」

 秋山なりの慰めかただが、わかりにくい。でも、言葉の意味はわからなくても言葉の意図はわかった。

「ありがとう」

 また林太郎は背中を叩かれた。今度は大きな音が周囲に響きわたるぐらい力いっぱい。

「だから、痛いって!」

 秋山をにらみつけるが、切れ長の瞳は林太郎を見ていない。秋山はある方向を示す。

「あっちだ」

「え?」

 指をたどって見ると、笑顔の似合う美少女が立っていた。

「おはよう、林太郎くん」

「お、お、おはよう、奈月さん」

「先いくね」

 極上の笑顔を残して奈月は走っていった。

「やっぱり、これでよかったんだな」

 林太郎はキューピッドの役割を果たした。この結果が林太郎を幸せにすることには繋がらない。むしろ、心の傷になるかもしれない。

 だが、林太郎の気持ちなど関係ない。ただ海野奈月の笑顔を守った事実は消えない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ