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ラブコメという名の嵐

けたたましい目覚まし時計の音で林太郎は眼を覚ました。

凛が起こしてくれるのではないかとかすかに期待しただけに、落ちた肩を引き上げるのが一苦労であった。

「いかんいかん、ぼくまで秋山化してしまっては」

 自分に言い聞かせながらリビングに入ると、朝ご飯のいい香りがする。

 ──珍しいな。母さんが作って行くなんて……。

 母がすでに会社に行くのは毎朝のことであったが、和室のふすまが開かれており、凛の姿もすでになかった。

「早いな」

 弁当を作ろうと台所に立つと、携帯電話がメールの着信を知らせた。確認すると秋山からであった。

『今日、先に行く』

 珍しいことが続くな、と思いながら弁当を作り、朝食をすませ、学校に向かった。ただ、味噌汁の味がいつもと違っていた。

太陽が燦々と輝き、まさに晴天といった朝。

寝不足には少々まぶしすぎる。

のそのそと歩く足が奈月とぶつかった十字路の手前で止まった。

 ──確かに右側の塀が死角になるな。でも、美少女とぶつかるなんてラブコメじゃないとありえないよな。いやいや、ときとして現実は小説よりも不思議なことが起きるもんだ。安易にラブコメという言葉で片付けてはいけないな。

 かぶりを振りながら歩き出すと、またも衝撃が林太郎を襲った。

 衝撃は、女の子であった。

「いたたた~」

女の子は尻餅をついた姿勢で声を上げる。ここまでくるとお約束、女の子は海野奈月であった。

林太郎の頭の中では、心臓が口から三回は飛び出した。

「う、海野さん?」

「え? ああ、えっと、林太郎君か。ごめんね、今日も急いでたから」

「いや、こっちも不注意だったし……」

「じゃあ、おあいこだね」

 と奈月は笑った。

その笑顔に体だけではなく心も震えた。

「……えっと、大丈夫? どこか怪我とかしてない?」

「だいじょうぶ。林太郎君こそ、だいじょうぶ?」

「ああ、平気」

「よかった」

 ほっと胸を撫で下ろすと奈月は、

「こうなったのも、慎之介のせいなんだ。慎之介がボクを置いて行くもんだから。も~、慎之介のやつめ~」

 文句を言う声はどこか明るい。

「……えっと」

 立ちつくす林太郎に、奈月は立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。

「昨日からほんと、ゴメン」

「べつに謝るほどのことじゃないよ」

「じゃあ、ボク先に行くね」

 爽やかな風とともに奈月は走っていった。

「最高の朝だなッ!」

 突然の声に振り返ると、秋山が腕を組んで仁王立ちしていた。

「なんで、おまえがここにいるんだよ? 先に行くってメールで……」

「あれはフェイクだ。敵を欺くなら、まず味方からって言うだろ」

「おまえが味方とは思えないね」

「細かいことは気にするな、シンリン。実は、今日一日シンリンのラブコメっぷりを離れて観察しようとつけていたんだ。だが、初っ端からこれだ! 我慢できずに登場したとこだ」

 林太郎は大きなため息をつかずに入られなかった。

「しかし二日連続とは恐れ入った!」

「あー、うるさい」

「やっぱり、ラブコメだな。悪くすると、この後の展開もぐだぐだになるし、読者も先を読む時代だから、これはもう一種の賭けだな」

「なにが賭けだよ」

 呆れて下を向くと、学生手帳が落ちていた。

 ──これって、まさか……。

 手にとってみると、やはり奈月の学生手帳だった。

 秋山が綺麗な顔と同じぐらい美しい人差し指を林太郎に向ける。

「やはり、シンリンがこの現象の中心だ」

「はいはい、わかった。わかったから、探偵みたいにつけまわすな」

林太郎は学生手帳をズボンのポケットに入れ秋山をにらみつけてやった。

「探偵さんは、俺一人じゃなさそうだけどな~」

 意味深な発言に眉をひそめた。

「どういう意味だ?」

 くいくいと秋山はあごで林太郎のうしろを示した。見ると電柱の影に、凛がへばりつくようにこちらを窺がっていた。

「あれで、隠れているつもりなのかな」

「らしいな」

思った以上のうっかりさんである。

「勘弁してよ」

 頭が痛くなってきた。

「星巳凛は、なんでシンリンを追いかけまわしてんだろうな」

 秋山が疑問を提起した。

「え?」

 現状でこの疑問の答えなどわかるわけはなかった。一連の出来事はそもそも説明のつかないことが多すぎる。

「謎の転校生の謎は深まるばかりだな」

 ようやく林太郎は学校に着いた。自分の席に座ると、またも大きなため息が自然と出てきた。

 ──ぼくは殺人事件の犯人か。それとも、ラブコメの主人公はいつもこんな気分を味わってるのか?

 意外というべきか、授業は何事もなく過ぎていった。凛の冷たい視線を除いては。絶対零度の攻撃を耐えぬいて、午前中の授業は終った。


楽しい昼休み。教室は活気付き、あちらこちらでグループを形成して生徒たちは昼食を食べ始めた。

林太郎も弁当を取り出すが、手もつけないまま、海野奈月のことを考えていた。

 ──結局、慎之介ってだれなんだ?

「シンリン、気になるか、慎之介の存在を!」

「おまえは人の心が読めるのか?」

「かもしれん」

「冗談に聞こえないとこがむかつく」

「よーし、その慎之介を観察しに行こう!」

「知ってるのか?」

「まあな。慎之介とは二年E組千川慎之介(せんかわしんのすけ)のことだ。敵を知り、己を知れば百戦危うからずって言うだろ。一見の価値ありだ」

 唐突な提案に乗り気になれないところを、無理やり腹肉を摑まれて教室から引っ張り出された。

「こっちだ」

「待てよ、秋山。はあ、しょうがないな」

秋山は林太郎を中庭に連れ出した。

木漏れ日が降り注ぐベンチには、数人の男女がお弁当タイムを楽しんでいた。男女といっても、男一人に女五人といった著しく男女比が偏った組み合わせであった。

二人は植木に体を隠して近づく。

「あいつが千川慎之介だ」

 絵に描いたような中肉中背。風貌はあまり冴えないが、どこか人を惹きつける魅力を放っている不思議な男だった。

「なんか、ハーレムみたいだな」

慎之介の周りには五人の美少女がいた。しかし、五人の美少女の中に海野奈月の姿はなかった。

美少女達ははちきれんばかりの笑顔を千川に向けていた。

「あいつは地でラブコメやってるのか?」

「その通り! やつは普通に生きていて、あの状況にいるスーパーなやつだ。──しかし、バラエティ豊富だな~」

 との秋山の声に林太郎は目を凝らした。たしかに五人の美少女は見た目だけでも特徴のある子ばかりだった。この中に奈月がいたら一層華やぐに違いなかった。

「なんて羨ましいんだ」

「何言ってんだよ。シンリンも同じラブコメな状況だろ。ただ、男っぷりは……」

 秋山は慎之介と林太郎を見比べる。

「完全に負けてるけどな」

「うるさい」

──それにしても、主人公目線以外で見たら、腹が立つな。ラブコメって……。

ここで素朴な疑問を思いついた。

「あのさあ、秋山。ぼくじゃなくて、あいつを観察すればいいだろ」

「やつはつまらん」

「なんでだよ?」

「やつは自分で答えを出す人間だからだ」

「じゃあ、ぼくは……」

「答えを出せない人間ッ!」

 びしっと秋山は林太郎を指差した。

「お前な~~」

「怒ることないだろ。最高の誉め言葉だぜ」

「はあ?」

「ラブコメ主人公たる条件だ。最後まで話を引っ張って、そのときの状況に流される。ラブコメ主人公にとっては最高の誉め言葉じゃないかな~~」

「やっぱりほめてないだろ」

「誉めてるって」

「ほめてない」

 両者一歩も譲らなかった。

 気づけば慎之介たちの姿が消えていた。

「結局、海野さんと千川との関係はわからずじまいじゃないか……」

「まだわからないのか、シンリン。これほど、ヒントを与えてやってるのに」

 ヒントなんてもらったか、と思ったが、千川の人となりを知り、色々な関係を想像することができた。

「想像できるに決まってるだろ」

「ほう、言ってみ」

 やけに挑戦的な態度にいささか頭にきた。

「えーと、定番なところで家が隣同士の幼馴染とか、最近できた彼氏。もしかしたら義理の兄、は苗字が違うか」

「その程度かッ!」

 秋山は勝ち誇る。

「シンリンもたいしたことないな~」

「あとは……、そうだな。幼馴染同士で、友達以上恋人未満だったが、親が再婚して新しくできた義理の兄。苗字が違うのは、学校の皆に知られると冷やかさせるから黙ってるとかかな……」

「バッカヤロウ~~!」

 猛スピードで秋山は太陽にダッシュしていった。

「せ、正解だったのか……」

 ──ということは、慎之介は学年が上なのか、でも海野さんは慎之介って呼び捨てにしてるな。

疑問に答えるために、あの男が音速の域を越えるスピードで帰ってきた。

「生徒会ネットワークの情報によると海野と慎之介は同い年だが、生まれたのは三ヶ月ほど慎之介が早く、お兄ちゃんなのだ」

「おまえはサトリかなにかだろ? 少なくとも人間じゃない」

「細かいことは気にするな。そんなことよりも、ここで重要なのは海野が、仮にもお兄ちゃんである千川を、慎之介と呼び捨てにしてるということだ」

「二人は幼馴染なんだろ。むしろ、当然なんじゃ──」

 秋山は怒り心頭といった面持ちで熱くなっていた。

「バカヤロウ! オタクならイマジネーションを大切にしろ! 大切なのはプロセスだろ!」

「どっちだよ」

「あの二人の間には、たぶんこんな会話が展開していたはずだ」

 以下のシュチュエーションは秋山の希望的推測であり、事実とは異なるかもしれないので御了承のほどお願いいたします。


新築の家に両家族が引っ越した初めての日。

ラブラブの両親は買い物に出かけ、昼下がりのリビングには奈月と慎之介の二人だけが残された。

『ねえ、お兄ちゃん』

 と奈月は幾分の照れをにじませて口にした。

 お兄ちゃん、と呼ばれた慎之介は思わず動揺してしまう。

『お、お、お兄ちゃん?』

『だって、そうでしょ』

『やめれ、恥ずかしい……』

『え~、それじゃあ、お兄様?』

『よけい悪いわ』

『文句が多いなー。じゃあ、今までどおりで慎之介』

『だから、その呼び方はやめろって言ってるだろ。おれたち、もう高校生だぞ。他のやつが聞いたら誤解するだろ。これからは千川君にしろ』

『ボクはいいけど、母さんとお義父さんが嫌がるんじゃない。一応、家族になったんだから、外ではともかく家の中で苗字を呼び合うなんて』

 不服そうにする慎之介にむかって奈月は意地悪そうに言う。

『やっぱり、お兄ちゃんにする?』

『ちっ、慎之介でいい』

 しぶしぶ了承する千川であった。


「という崇高な経緯があったに違いない」

 話を黙って聞いていた林太郎はわなわなと震えていた。

「ん? どうしたシンリン」

「……ボクっ子にお兄ちゃんと呼ばれる、ラブコメだなあ」

 二人の眼が輝いていた。

「うんうん。そうだな、激しく萌えー、だな」

 知らない人が二人を見れば、お互いの健闘を称えあうボクサーと勘違いしたかもしれない。

「ところで、海野さんがいないのはなんでだ?」

「情報によるとだな、海野は屋上で一人昼食を摂るのが習慣らしい」

 秋山は淡々と答え、さらに付け加える。

「まあ、惚れた男が鼻の下を伸ばす様は見たくないだろ」

 寂しく昼食を食べる奈月が不憫に思え、頭の温度が急上昇した。

「それをはやく言え!」

 林太郎の太い足が屋上に向かって駆け出していた。

 残された秋山は口がしばらく閉じなかった。

 中庭から屋上まで全力疾走のつもりなのだが、明らかに遅い。己の鈍足を呪っている場合ではないが、ふと何故自分が走るのかと疑問に思う。

──奈月さんに会いに行って、ぼくはどうするんだ? 

答えは出ずに汗が出る。一分も経たずに体中が汗で包まれた。肥りすぎの悲しい性といえよう。

「というか、ぼくはどうしたいんだ」

滝のような汗と、悲鳴を上げる呼吸器官を無視して、勢いよく屋上のドアを開けた。たくさんの生徒が集まっている屋上で、一発で奈月の姿を見つけることができた。これもダレモテの効果なのかもしれない。

迷うことなく林太郎は奈月の前に立った。

ドングリまなこを大きく見開いた奈月は不思議そうに汗を流す肉隗を見上げる。

「なに? 林太郎君」

「えおっと、その、あの……」

 救いはポケットにあった。

「ああ、そうだ。今朝、生徒手帳を落としたでしょ」

「もしかして見つけてくれたの!」

 奈月の眼が輝いた。

 これだよね、と生徒手帳を手渡す。

「探してたんだ」

生徒手帳を開いて中を確認した奈月は心底安堵の表情を見せる。

「──良かった」

 どうしても気になった林太郎はそっと中を覗いた。そこには千川の写真が入っていた。笑顔の千川が、今は憎らしい。

「ありがとう、林太郎君」

 満面の笑み。

 この笑顔を千川のために曇らせたくはない。

 なにかを言わなくてはいけない衝動に駆られた。答えがまとまらないまま、素直な言葉が出た。

「明日、昼、ぼくと、一緒に、食べよう」

 言い方は滑稽だったが、奈月は微笑んでくれた。

「うん、いいよ」

 タイミングよくチャイムが鳴り、二人の空気を打ち破った。

 奈月は小さな弁当を片付けると、魅力的な笑顔で林太郎に言う。

「明日、ここでね」

「は、はい」

 まさか答えがイエスだとは思わなかったので、しばし放心状態だったが、正気に戻してくれたのはやはりあの美形だった。

「な~に、呆けてるんだ」

「あ、秋山」

 自称最高の傍観者は林太郎の後を追って屋上に来ていたのだ。

「たっく、ほら教室に戻るぞ」

「そういえば、昼食べてない」

今日も空腹のまま午後の授業を過ごした。


 放課後、なにかとつきまとう秋山をまこうと、林太郎はあちこち逃げまわっていた。ようやく、逃げ切った、と一息つくと、図書室の目の前にいた。

「なんで、ぼくはこんなとこにいるんだ?」

 足が勝手に動いたとしか説明できなかった。

「やっぱりラブコメ的展開があるのかな」

 期待を抱きつつ図書室の戸を開けた。しかし、室内に人の気配は感じられない。

 ──だれもいないのか?

不審に思いながら中に入っていく。明風高校図書室は蔵書が多く、学校内の評判は良かった。だからこそ、平日の放課後に誰もいないのは不思議なことだった。

奥に進んでいくと、優しく夕日に照らされた机に、並木静がいた。机にはぶあつい本が何冊も重ねられ、数本の塔を形成していた。

 静は机に頬杖をしながら、可愛い寝息をたてていた。

「また、なんというか……」

眼鏡をかけたまま寝ている静だったが、眼鏡が鼻先にずれているため美しい素顔を覗かせていた。

十分以上、林太郎はどうしていいのかわからず全身を静止させていた。しかし、立ちっぱなしが辛くなり、起こさないようにパイプ椅子に座ったが、重い体重のせいで辺りに鈍い金属音が響いた。

 このときほど自分の体重を呪ったことはなかった。

「……ん、…うん」

 静が目を覚ます。

 やましいことは何一つしていないのに、何故か気分は痴漢をした中年気弱サラリーマンであった。

「えっと、その、その……」

「あっ、か、貸し出しですか?」

 照れた風に静は眼鏡を中指で直した。

「いや、えっと、ほ、本の匂いが好きなんだ」

 追い詰められて出た言葉は答えになっていなかった。しかし、静はジョークだと思ったのかクスクスと笑う。

「昨日、助けてもらいましたよね。えっと……」

「森林太郎です」

「並木静です」

 とお互いに自己紹介をすませると黙ってしまう。

──なにか、しゃべらないと……。

「へ、変な、名前でしょう、森林太郎なんて、字面だけ見たらシンリンタロウだよ。しかも、結構間違われるんだ」

「わたしも、静をしずかと間違われます。小学校のときのあだ名は、しずかちゃんでした」

四方山話もすぐに尽きてしまい、また黙ってしまった。

会話になる話題が見つからないのだ。林太郎は助けを求めるように周囲に目を馳せた。目が止まったのは机にあるぶあつい本たちだった。

 机の上にたくさんある本に手を伸ばす。

「ハイデガー、フッサール、サルトル……、哲学好きなのかい?」

「は、はい」

「このラインナップだと、……実存哲学かな」

「わかるの?」

 静の眼が輝いた。

「──う、うん。少しだけ……」

 林太郎が詳しいわけはなかった。その昔、秋山が小難しい哲学書を読んでいたときに、くどくど説明してくれたのをうろ覚えしていただけである。秋山は言わずと知れたオタクであったが、古代哲学から現代哲学まで網羅している完璧な美形なのだ。

哲学書を読む秋山に、どうしてラブコメが好きなのかと聞いたことがあった。

この質問に対して秋山は、

「哲学は死に、ラブコメが生まれた」

と大真面目に言いきった。

呆れるよりも妙に納得してしまった。雰囲気に誤魔化されただけなのかもしれないが。

「──でね。あたしはそう思うわけ」

 秋山との会話を思い出していた林太郎は静の話が聞こえていなかった。

「えっと、うん、そうだね」

 適当な相槌を打つ。が、これが、静の瞳に火をつけた。

「そう思うよね! だからさ、ヘーゲルの言うところの──」

静は水を得た魚のように哲学について語りだした。

ここであることに気づいた。彼女がこの分野での話し相手が欲しかったことに。

林太郎が偉そうに言えることではないが静は流行に疎そうである。興味があるのが哲学であれば周りに合うわけはなかった。彼女は同じ興味のある友達を見つけられなかったに違いない。

 ──ぼくと似てるかも……。

もてる知識を総動員して静の話しを理解しようと努力した。相槌だけではなく、にわか知識を活用して的外れながらも意見を言うこともできた。このときばかりは秋山に感謝をする林太郎だった。

二人の会話は盛り上がり、すっかり日も暮れる。

「あ、もうこんな時間か……」

 図書館の時計は六時半近くを指していた。速く帰らないと夕飯を作るのが遅れてしまいそうだった。

「じゃあ、ぼくはこれで」

 急いで図書室を出ようとする背中に静が声をかける。

「あ、あの! あたし、この時間帯ならほとんど図書室にいるから」

 静はたどたどしく言葉を紡ぐ。

「だ、だから、その、その、また来てくれる?」

女の子から誘われたことなどまったくないだけに、天にも昇る気持ちになっていた。

重い体に似つかわしくない軽い足取りで家に帰り、夢心地のまま夕飯を作った。案の定、味は最悪で酷評された。

母の抗議も耳には入らない。逆に凛は文句の一つも言わずに黙々と夕飯を済ませ、自室に引っ込んでしまった。

家事をすませた林太郎も自分の部屋に入る。

「はあ~、今日も変な日だったな」

 自然に顔が緩む。

 ──明日も、こんな状況(ラブコメ)が続くのかな?

 にやけ顔でベッドに潜りこみ、眼を閉じた。


ラブコメ現象が起こってから、早くも一週間が過ぎようとしていた。

林太郎はこの一週間、奈月と静に頻繁に会っている。それが決まり事のようでもあった。二人と会うたびに新密度が上がるのが、また嬉しかった。

 今日も昼休みに奈月と会い、楽しく昼食を摂り、放課後は静と雑談を交わした。静と別れた林太郎は背後から近づく美形の影に気づいた。

「いや~、シンリン。これからの展開が楽しみだな」

「うるさいな、おまえは」

 ふと林太郎が立ち止まった。

「あ、忘れてた」

「何をだ?」

「今日、凛の歓迎会があるけどくるか?」

「忘れんなッ! 俺が待ち伏せしてなかったらどうする気だったんだ」

 どうする気って言われてもな、と心の中で苦笑した。

「それにしても、遅くないか、転校してきてから一週間も経つじゃないか」

「母さんの仕事の都合が合わなくてさ」

「さすが大手キャリアウーマン」

「ほんと忙しそうだよ」

「まあ、こいつはラッキーだな。じかに、あれほどのツンデレのプライベートを眺める機会もないだろうしな」

 秋山はかけねなしに嬉しそうだった。

 いかんなく料理の腕をふるうのは、もちろん林太郎である。テーブルには豪華な料理が並び、席には凛と秋山が座っていた。

「星巳は──」

秋山が凛に話しかける。林太郎は料理をしながら、会話の内容が気になったが、ちょうどから揚げを揚げていたので聞こえなった。

料理がすべて完成したのと同時に母が帰ってきた。手には大きなケーキをたずさえていた。

「中村さんが作ってくれたケーキよ」

自分で作ったわけでもないのにどこか誇らしげだ。中村さんのケーキはデコレーションから凝っていて、味も申し分なかった。

凛は林太郎の料理が気にいったのか黙々と料理を平らげていた。

ラブコメ的展開は一切なく歓迎会は終わった。

「いや~、食った食った。じゃあ、俺はシンリンの部屋で準備があるから」

「なんのだよ?」

「今週のラブコメ会議の総括」

と言い残して秋山はリビングを出た。

母は大量の仕事があるらしくそうそうに自室に篭っている。リビングには林太郎と凛と大量の洗い物が残されていた。

「さて、洗い物でも片付けようかな」

「……手伝う」

「ええ?」

 思わぬ申し出に林太郎の柔らかい脂肪もこわばった。

 ──もしかして、これもラブコメ? しかも、昔やっていた某コマーシャルみたいに新婚夫婦が一緒に洗い物、みたいな。

 緊張のあまり口が開かない。凛も押し黙ったままである。結果、お通夜のような食器洗いが始まった。

 台所に食器が重なり合う音だけが響く。

 ──あ~、なんかしゃべったほうがいいよな。でも、共通の話題なんて思いつかない。

 思案していると、凛の口が動いた。

「この洗剤……」

 穴があくように凛は食器洗い洗剤をにらむ。

「……環境に良くない」

「そ、そうなんだ。へ~」

 心臓の鼓動を落ち着かせようとしていた林太郎の口から思わず本音がぽろりと出る。

「意外に口うるさいとこがあるんだ」

 じろりと凛の冷たい視線が刺さる。

「──そっか、環境によくないのか。それはよくないね。今度、新しいのを買ってこないと……」

「洗い物なんて、水で十分」

「それはちょっと……」

 反論しようとすると、得意の冷たい眼をぶつけてくる。

「じゃあ、これを使い切ったら、ちゃんと環境にいいのを買ってくるよ」

凛はしぶしぶ納得したのか視線を食器に向けて手を再始動させる。

これが、初めての会話らしい会話だった。

一つ屋根の下に住みだしてから一週間が過ぎようとしていただけに、凛の新たな一面を知ることができて心は満足していた。

 いつもより多い洗い物も、あっという間に片付き、凛の形の良い唇が再び動くことはなかった。

 片付けが終わり、林太郎は自分の部屋に戻った。中では仁王立ちをしたハンサムが待ち構えていた。

「待っていたぞッ! シンリン」

「うるさいなー。で、なにを会議するんだよ?」

「とりあえず、ダイジェストでこの一週間を振り返ろう」

 秋山はラブコメ的展開の始まりを振り返る。奈月や静、凛との出会いを簡潔な箇条書きにして、プリントアウトまでしていた。

「ほんと、ありえないよな」

「だがなシンリン、ありえない出来事だが、事実だ! このありえない出来事を、人はラブコメと呼ぶだろう」

 秋山は、とくとくとラブコメについて語りだした。ラブコメと萌えの関係性から、いまやラブコメ界を支えるツンデレの起源におよんだ。

 ふう、と林太郎は息をつく。時計は十時近い。

「ラブコメ会議はここらで終了にするか」

 秋山は真っ向否定した。

「いや、これからが会議の本番だ!」

「もう十分だろ」

 林太郎を無視して、司会者風な口調で続ける。

「さ~て、ここからが、この会議の目玉。今週のモエモエランキングの発表です。このモエモエランキングとは森林太郎の中心に巻き起こるラブコメ現象を萌えレベルが高い順に並べたランキングです。このわたくし、秋山好道が熱心な取材(つき)活動(まとい)によって公平な審査のもと厳選に厳選を重ねました」

「おまえ、マジでストーカー」

「そんな誉めるな。照れるだろ」

「……つっこまないからね」

 林太郎はそっぽを向く。その顔はまるで、ブドウは酸っぱいから食べないと主張する狐のようであった。

「人のボケを無駄にするとは……。まあ、いい、今週の第百三十六位は!」

「長いよ!」

と間髪いれずにつっこんでしまった。後には後悔と、してやったと言わんばかりの秋山の顔があった。

「ジョーク、ジョークだ。シンリン」

「時間も遅いんだから、ベスト3にしぼってくれよ」

「しょうがないな~、じゃあ、今週の第三位は!」

 自分で効果音を言いながら秋山は軽やかに踊る。

「デレデレデレデレ、デン! 図書室に咲いた優しい睡蓮!」

「はあ?」

「これはシンリンが、俺にある(・・)講義を受けた日の出来事だ」

図書室で静と哲学について話した次の日、林太郎は秋山に哲学の知識を得るため、わかりやすい講義を受けていた。

「俺の視点でこの事象を見てみよう。まず、俺はシンリンが静と図書室で哲学について話しているのをこっそり聞いていた」

「ぼく以外なら訴えられるぞ」

「トンチンカンな発言をするシンリンを、俺はハラハラしながら聞いていた」

林太郎は元々うまくない顔で、まずい顔をする。

「そんなにトンチンカンだったか」

「あたりまえだ。ちゃんと受け答えできていると思ってたのか。身の程を知る必要があるんじゃないのか。まあ、だからこそ、次の日に講義を求めてきたんだよな」

「…………」

 沈黙は消極的肯定であった。

「講義を受けてから、シンリンは図書室に行ったな。そして、また静と哲学について話した」

「ああ、そうだよ」

「その時の、静の表情をちゃんと見たか?」

「え、いや、そんなじっくりなんて見てないよ」

 女の子と話す免疫などない林太郎はいまだに奈月や静の顔を直視できずにいた。

「彼女の表情といったらなかったな」

秋山は静の表情を思い出す。

林太郎の言葉一つ一つに咲く嬉しそうな表情。静は分かっていたのだ。林太郎があまり哲学について造詣が深くないことに。

「で、どんな表情だったんだ?」

言葉にはできないこともある、と意地悪そうに秋山は笑った。

「さ~て、第二位は、急遽ランクインされました。台所、初めての共同作業!」

「……見てたのか」

 秋山はビッシっと親指を立てて、

「もちろんッ!」

 と有名声優も舌を巻くほどの良い声で答えた。

「でも、ぼく自身はそんなに萌えなかったぞ」

「馬鹿だな~。ここが重要な伏線になるんだ」

林太郎は口をへの字にしながら説明を求めた。

「いいか、今回の食器洗いが重要なのだ。お前は後にこう記憶するはずだ。ああ、彼女との思い出の場所は台所だってな。そして、あそこからツンデレな彼女は徐々に心開きだした……と」

 秋山はぎゅっと拳を握って叫ぶ。

「キターーッ!」

 近所迷惑以外のなにものでもなかった。

「うるさいぞ、秋山。それに、そんなことになりそうもないぞ。だって……」

「あんだ?」

「星巳さんは、本当にツンデレなのか?」

「いや、あれは『うっかりツンデレ』だ!」

「怪しい造語を作るな」

「お前も見たろ、あのうっかりさんっぷりを」

「まあ、たしかにね」

 冷静なわりにどこか抜けている面が凛にはあった。

「なんにしても、シンリンさんよ~。嬉しかったんじゃないの、心の中じゃあ天国にいる気分じゃなかったか~?」

 否定できなかった。林太郎には美少女と洗い物を一緒にやる、という大きな夢があったのだ。

「さ~~て、いよいよ第一位の発表です!」

 発表をじらそうと秋山は溜めに溜めて言う。

「堂々一位は、お弁当、初めてづくしで修羅場もありかも! がランキング一位になりました」

 林太郎はやっぱりかと内心思った。今週起こったラブコメ現象の中でも、群を抜いて幸せと、冷や汗を感じた出来事だったからだ。

「シンリンには説明する必要もないだろうが、あえて説明しよう! 約三十四時間前の学校からラブコメ現象はスタートし、終わったのは約十時間前。登場人物は海野奈月と並木静の二大スター夢の競演」

「もう、わかったからやめろよ」

「いいや、やめん」

秋山の口が止まらない。

「シンリンは約三十六時間前に学校の廊下で静と出会う。会話の流れで、シンリンが自分で弁当を作ってるという話になった。静は勇気を出して、シンリンの弁当を作ってこようかと提案し、シンリンは快諾した。間違いないな」

「……はい」

 林太郎は力なく答える。

「次に、約三十五時間前に学校の屋上で奈月と昼飯を摂る。そのときもシンリンが自分で弁当を作ってるという話題になった。奈月も自分で弁当を作るのが趣味だった。そこで、奈月も林太郎の弁当を作ってあげる、と言った。間違いないな!」

「……はい。でも、並木さんが弁当を作ってくれる約束をしてましたから断ろうと思ったんです。けど、海野さんは返事をする前に行っちゃって……」

 いつのまにか警察コントの様相をていしていた。

「言い訳を聞いてるわけじゃないんだ。結局その後どうなったかだ」

「そ、それは……」

 ごそごそと秋山は自分のかばんからあるものを取り出した。

「ここで、一部始終を録画したDVDを入手しました!」

「いつのまに……」

「大丈夫だ、シンリン。ちゃんと編集してあるから」

 何が大丈夫なのか林太郎には理解できない。

 秋山がDVDをデッキに入れ、モエモエランキング一位が再生された。


テレビに映ったのは学校の屋上。

晴れやかな空。

穏やかな風。

屋上での昼ご飯は絶好のロケーションといえた。

アングルが変更され、カメラは運動もしてないのに尋常ではない汗を流している大仏、いや林太郎を捉えた。両隣には美しい華が二輪。

「えっと……」

 二の句がつげない林太郎を尻目に、美少女たちはおたがいの自己紹介をすませていた。

「それじゃあ、ボクのことは奈月でいいよ。ボクも静って呼ぶから」

「はい」

 静は快く返事をした。

 冷や汗の量と比例して、美少女たちの会話は盛り上がる。一秒ごとに仲良くなっている感じだ。しかし、林太郎は彼女たちの笑顔が、いつ崩壊するか気が気ではなかった。

「はい、林太郎君、約束のお弁当だよ」

 と極上の笑みで奈月が弁当箱を差し出した。中身は洋風なおかずで、カラフルな色彩が食欲をそそっていた。

 林太郎よりも速く反応したのは静だった。

「──えっと、あたしも……」

恐る恐る自分の作ってきたお弁当を林太郎に差し出す。こちらは和風がメインであり、よく煮込んだ肉じゃがが、静の真心を伝えていた。

 臨界点突破! と林太郎の背筋が凍った。

 美少女たちの笑顔もなくなる。二人も困惑した表情を浮かべていた。

 頭が真っ白のまま林太郎は整理もされてない言葉を発した。

「そのですね……。ほら、ぼくは大食漢ですから、たくさん食べたいので、その、二人に……、お願いしたわけで」

 苦しい苦しすぎる言い訳であった。

「そうなんだ」

 簡単に奈月は納得した。何故か、静も納得した風である。

「仕方がないよね」

 林太郎は心の底から安堵のため息をついたが、

「じゃあ、はい」

と二人は同時にお弁当を差し出してきた。

 ──ど、どうすればいいんだ?

 美味しそうなお弁当二つを前に、汗の量は増すばかりであった。

 ──こ、これしかない!

弁当を両方とも受け取り、両方の弁当を同時に食べ始めた。

「美味しい?」

 と二人が同時に言う。

「う、うん、すっごく美味しいよ」

「どっちが、美味しい?」

 矢継ぎ早の質問にのどを詰まらせる。

 ──だれか、だれか助けてくれ……。精神的にも肉体的にも……。

 苦しむ林太郎に救いのヒーローが現れた。

「あいや、あいや、しばらく!」

 絶妙のタイミングで現れたのはやはり秋山であった。このときばかりは秋山が天使に見えた。

「俺に任せられいッ!」

 秋山はおもむろに二つの弁当のおかずを食べ比べる。

 白皙の彫像のような顔をしてしばらく沈黙すると、突然、目を見開いた。

「この勝負、引き分け!」

 一同はあっけにとられ答えようもなかった。

「達者で暮らせよ」

 颯爽と言い残して行ってしまった。まったく、なにをしに来たのだか理解もできなかった。だが、珍妙な来訪者のおかげで弁当論争はうやむやになった。とりあえず、林太郎には一杯の水が必要だった。


 こうして、DVDは尻切れトンボのごとく切れた。

「まさに男の、いやオタクの夢ここに極めれり! と言ったところだな」

 腕組みをして何度も秋山はうなずいた。満足な表情が癇に障った。

「いいか、秋山君」

わざわざ、君をつけるあたりに林太郎の嫌味の度合いがうかがえる。

「これは萌えではないんじゃないのか? ぼくは萌えれないぞ」

「萌えは人によって異なるものだよ、シンリン君。やはり、手作り弁当を夢見るものだよ、人類は……。しかも、ブッキングするあたりが永遠に普遍なのだ。それに俺の登場がかっこいい。大変だったんだぞ、途中からカメラを固定したりするの」

「結局、そこか……」

「否定はできないだろ」

 秋山が馬鹿なことばかりをはやし立てるので、思考はかえって沈着になっていた。

「こうしてモエモエランキングを冷静に分析すると……。もしかして、ぼくってどっちつかずじゃないか。だれか一人に絞れずにうろうろしてる」

親友は笑顔できっぱりと肯定する。

「うん。かなり優柔不断な主人公っぽいぞ」

「このままだと、ゲームだったらヒロインとのエンドにいけなくてバッドエンドになるんじゃ……。通称、親友エンド……、この場合は秋山になるのかな……」

 想像するに恐ろしかった。

「誰か一人に絞ったほうがいい時機になってるのかもな」

「そうか……」

「これにて、ラブコメ会議は終了だ!」

 秋山の高らかな閉会宣言で会議は幕を閉じた。

 台風よりも大きなエネルギーを撒き散らして、秋山は去っていた。

 一息ついてベッドに腰掛けていると、ドアがノックされた。

「母さんかい?」

 ドアを開けたのは、予想外なことに凛だった。

「話し、ある……」

 と凛が林太郎の部屋に入る。

 モエモエランキングの一位が塗り変わるかもしれない、とかすかによぎった。だが、凛の硬い声には一片の甘さもない。

「君は知らないかもしれないけど、この一週間、君を監視してきた」

 ──バレバレだよ……。

 心の中でつっこみながらも表情には出さなかった。

「やっぱり、君が被験者だと確信した」

「ひ、ひけんしゃ?」

「とりあえず君の血をもらう」

「え、もしかして……、き、吸血鬼なのか?」

 林太郎にはこの考えが払拭できずにいた。

「そんなわけない」

 と一蹴され、しかも絶対零度の瞳で睨まれる。

「君の血から薬の成分を割り出す」

「く、くすり?」

「派手な女に薬を飲まされてるはず」

「……うん、まあ」

「わたしはあの女の痕跡を消すためにここにきた」

「ちょ、ちょっと待った。やっぱり、ぼくの親戚だって言うのは嘘なんだね」

 凛はこくりとうなずく。

「君の母は人がいい。簡単に幻術にかかってくれた」

 ──ほれ薬の次は、幻術かよ。星巳さんといい、あの女といい何者なんだ?

「そ、そんなことして大丈夫なのか」

「無害」

 断言する凛に次の疑問をぶつける。

「あの人と知り合いなのかい?」

「君には関係ない」

 完全に関係者になっていると思うが、反論する勇気はなかった。

「とにかく、君が飲んだ薬のせいで、変な現象が起きている」

「たしかに」

「わたしはそれを止める」

 決意の炎が凛の瞳に宿っている。

「腕を出して」

「ほ、ほんとに血がいるの?」

「そう、いる」

 凛は無理やり林太郎の右手を掴み、注射器をどこからともなく取り出した。

「ちょっ、ちょっ、ちょっと、まった!」

 反射的に仰け反りバランスを崩した。普通の人ならこの程度でこけたりはしない。が、林太郎はこけた。ついで腕を掴んでいる凛もこける。秋山がいたら、こう言ったに違いない。地球も丸ければ、林太郎も丸いと。

凛は倒れても林太郎の右手を放さずに、注射器の針を刺した。すぐに、赤い液体が注射器を満たす。

一方の林太郎はそれどころではなかった。血を抜かれているときの痛みなどは完全に遮断されていた。なぜなら、神経の全てが左手に集中していたからだ。

──こ、ここ、これって!

林太郎の左手が凛の胸を触っていた。平らに近い胸ではあったが、小高い山が毅然とそこにはあった。

──モエモエランキング一位確定!

「これで、よし」

 注射器いっぱいに血を採った凛はようやく体を起こす。目的を果たすことができた彼女は満足げにほころんでいた。

「成分を割り出して中和剤を作るのに時間がかかる。それまで、君はおとなしくしていて」

「ひゃ、ひゃい」

 林太郎の返事になってない返事を聞いた凛は部屋を出る。その瞬間に美少女はドアの隙間から冷たい一瞥をくれた。

「胸、触った」

 痛恨の一撃を残して行ってしまった。

 ドアの前で林太郎は罪悪感と幸福感の波間にしばらく揺れていた。

 波間から正気の岸にあがると、体が疲れていることを主張する。

 ──密度ある一日だったなー。

 時刻はいつのまにか深夜一時を過ぎていた。

「勘弁してよ」

 林太郎は独り言を呟いたつもりが、

「ほんと、勘弁してほしいわよね~」

と聞きなれない声の返事があった。

慌てて振り向くと、音もなく女は立っていた。チャイナドレスを艶やかに着こなす様は女優さながらである。

「びっくりした?」

「あ、あたりまえです。心臓が飛び出るかと思いましたよ」

「そういえば自己紹介もまだだったよね。わたしの名前はシア」

「シア、さんですか」

「そうよ、シンリン」

 と美女は林太郎をあだ名で呼んだ。すると、シアは我慢できませんと言わんばかりに笑いだした。わけがわからない。

「なんですか、いったい?」

「──ちょっと、おもしろくてね。ごめんね、森林太郎君。そうね、わたしは林ちゃんて呼ぶわ」

「勝手にしてください」

「あれからずっと観察してたわけなんだけど」

 これで三人目だ、林太郎は頭が痛かった。

「調子はいいみたいね」

 妖艶な瞳に、何か企みがはらんでいるのを本能で察知した。

「そんなことより、あの薬はそもそもなんですか?」

「ダレモテは一種のほれ薬なの。ま~、一筋縄なほれ薬じゃないけどね。実際、効果は出てるでしょ。ちなみに、この国のラブコメというものを参考にさせてもらったわ」

「やっぱりですか」

「飲んだ人の波長に合う女の子が、夢中になるようにしたわ。都合良くことが運ぶのも、天運を味方につけるように配合したのよ。もう、実感してるでしょ」

「はい、まあ……」

「返事が暗いぞ、林ちゃん。こんなラッキーな出来事は人生で一度か、二度しかないわよ。プラス思考、プラス思考」

 無理やりにも話を明るい方向に持っていこうとしているのが見え見えだった。

「そうだ、体で変なとこある?」

「体ですか」

 林太郎は嫌な予感がした。

「そう、体に痛いところとか、だるいところ、動かなくなったとかない。ぶっちゃけ、副作用があるかもわからないんだよね」

「ちょっと、待ってください。あの薬って、人体に悪影響とかあるんですか?」

「わかんない♪」

「──し、信じられない。副作用もはっきりしてない薬を……」

「いいじゃないのよ。こうして元気なんだから。人生、苦もあれば楽もあるって言うじゃない。日本で有名なことわざなんでしょ。楽という漢字に草冠をつければ薬になるのよ。そういうものなのよ、人生とは」

 シアの言いたいことの半分も理解できない。ただ、この人が自分のよく知る美形と同じ種類の人間であることはわかった。

 大きなため息をついて林太郎は話題を変えた。いくら副作用について追求しても明確な回答が得られないと悟ったからだ。

「ところで、星巳さんとはどんな関係なんですか? あなたを追いかけてるようでしたけど」

 シアは半瞬だけ、星巳凛とはだれぞやという顔をした。半瞬後には何事もなかったかのように答えた。

「ほんと、しつこいのよね。どこに行ってもついて来るんだから、困っちゃうのよ。ストーカーなの」

人の振り見て我が振り直せ、と言いたかった。

「で、どんな関係なんですか?」

「あの子とは姉妹よ。私は、あの子の姉なの」

「そうなんですか」

「ずいぶん、リアクションが薄いわね」

「そんなことないですよ」

 とは言うものの林太郎の予測の範囲内であった。親の敵討ち、ご主人様を捜すメイド、魔術師と使い魔等々、予想していた中で一番無難な設定だと思った。

「姉妹なんだ」

「あの子、洗剤とかゴミの分別とかにうるさいでしょ」

「はい、気にしてる感じですよね」

「私達の故郷がいま環境破壊でひどいことになっていてね。ちょっと敏感になってるの。まあ、少しだけ付き合ってあげてよ」

「でも洗剤なんてほんとは無くていいなんて言うんですよ」

「そりゃ洗剤なんてない時代(・・)に育ったからね」

 ぽろりと出た言葉が耳に残る。

「時代って、どういう意味ですか?」

「え? ああ、いや……、えっと…」

シアはしばし考えこんだ後、ポンと手を叩いた。

「……そうそう環境、環境よ。洗剤なんてない環境に育ったからって言いたかったの。日本語はむずかしいわね。ほんと」

 この話題をはぐらかしたいことだけは伝わった。

「遅いですけど呼んできましょうか?」

「いいの、いいの。そんな気を使わないで。会おうと思えばいつでも会えるんだから」

 暗に会いたくないと林太郎には聞こえた。

「仲が悪いんですか?」

「そんなことないわ。でも、あの子うるさいんだもの」

 この話は続けたくないらしく、シアは目下最重要案件に触れる。

「で、林ちゃんは誰が一番好みなの?」

「──なっ?」

即答できない質問だった。

絶句する林太郎を尻目にシアは部屋の窓に足をかける。チャイナドレスのスリットからは美しい太ももを覗かせていた。あまりの脚線美に正常な男の子であれば反応せざるをえなかった。

「じゃあ、それは宿題ね」

腿が跳ねた。ここはマンションの五階、飛び降りて無事に済むわけはない。林太郎は身を乗り出して下を見たが、どこにも凄惨な現場は見当たらなかった。

「仙人か、あの人は……」

 長い一日がようやく終わった。


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