間違ってない
「あのう、大丈夫ですか? 」
女性が話しかけてきた。顔は見えないし、見たくもない。
「…」
「お顔が優れていないようですが? 」
服はメイド服だった。
白と黒のベーシックなスカートだけが見えた。
「う…せ…」
「? 」
「うるせえなっ! 頼むから俺に構わないでくれっ!! 」
俺はそのまま歩いていく。
あの後も俺はあいも変わらず煉瓦造りの道を見ながら歩いていた。もう抜け殻だった。まるでゲームで現れるゾンビ、亡者の群れの一人のような頼りない足取り。
自分は正しいのか? そもそも正しいとは何のか? 正義とは? 悪とは? 仁徳とは? 凶行とは? 幸運とは? 不幸とは?ーーー。
何がなんだかわからなくなっていた。自分の進むこの道は正しいのか? どこへ続いているのか? 果たしてこの屑野郎が生きてもいいのか? 自己嫌悪がもう、渦潮となって心の中をかき乱す。もう嫌になった。馬鹿馬鹿しいと阿呆らしいと。
自分がまた嫌いになった。
その時、不気味な音が聞こえてきた。
ダシュ、ダシュ、ダシュ ーー
何かの音が響く。
ダシュ、ダシュ、ダシュ ーー
それは左側の路地裏から聞こえてくる。
何の音だろうか?
重く、響く音。 それが数回にもわたって一定のリズムで繰り返される。
気になって路地裏を見た、見てしまった。青年はそれを見て自然と口角が上がり、笑みをこぼした。
なんだ、よかった。やっぱり、俺ーー
間違ってなどいなかった。おかしいのは俺じゃなくこの街、この世界だ。
その光景はもう常軌を逸していた。
「ねえ、もうやめてよ〜」
シルクでできた青色のワンピースを着た女の子が言い、
「いいじゃんか〜、ちょっとぐらい」
俺と同じ服を着た青年が言った。
背は両方とも同じぐらい(なお、この背の高さは厳密に定めないものとする)。この様子を聞けば、誰だってカップルがじゃれ合い、いちゃいちゃしている憎たらしい絵図を思い浮かべるだろう。
それではこの情景をそのまま言ってみようか?
青年が女の子を殴っていた。 何度も何度も。
女の子の顔は青アザだらけ。ワンピースは泥と彼女の血で汚れ、ボロボロになっていた。
青年は女性の襟元を掴みながら、血だらけの右手で殴っていた。これでもかというぐらいに。本来なら女性側は助けを請い、悲鳴を上げ、泣け叫び、この世の理不尽を恨みながら絶望するはずなのに、なのに…
「もう、やめなよ〜。暴力は良くないよ〜」
笑顔だった。
青アザだらけの顔を涙で濡らすこともなく、満遍の笑みでそれも幸福の一つのようにただ殴られるだけ。注意を促しているようだが、全く説得力がない。
俺は喉奥から何か登ってくるのを感じ、それを食い止めようと口を押さえる。
青アザだらけの顔に対する嫌悪感、女の子に対する嫌悪感、青年に対する嫌悪感、狂気に対する嫌悪感。そして、この光景を見て笑みを浮かべた自分に対する嫌悪感。それらが身体中を引っ掻き回ながら、胃から食道へ、食道から喉へ、胃酸を押し上げる。
必死に押さえているとその青年を見た。そして、目が合った。
「ああ、見られちゃった〜どうしよう」
青年は「暴力はダメだよ〜」と言っている女の子の襟元から手を離しながら、
「別に見られても良いんだけどさ〜、これもう飽きちゃったし」
と青年は言い、
「ねえ? 遊び相手になってよ? 」
青年は笑みをこぼしつつ言った。
標的が変わった瞬間だった。
俺は必死に走っていた。
「おーい、ちょっと待ってよう、ちょっとだけだからさ〜」
後ろから、血で手を濡らしている青年が来ていることなど見なくてもわかる。
ここはさっき自分が歩いていた大通りだ。
人の流れが多く、人々の隙間を掻い潜って走っている。
「まあ、楽しそうね」
笑顔でそんなことを呟いたお姉さんがいた。
他の人も同じように、ただ見ているだけで助けようともしてくれない。こっちは必死だっていうのにそれを嘲笑っていたーーーいや、違った。 嘲笑ってなどいない。周りの人間はこの状況を危機的なものと判断していないのだ。
これはただの日常の一端なのだ。
まるで二人の小さな子供が仲良く鬼ごっこしているような。
くそ、なんで俺がこんな目にっ!!
ただ自分は幸せになりたいだけなのに、なぜこんな仕打ちを受けなきゃいけないんだと。
俺にこんなことをさせた世界が腹立たしくなり、嘆き、恨んだ。
そして、自分が嫌になった。
自分で望んだことなのに、それを自分で否定している自分が馬鹿馬鹿しく思える。バカじゃねえのと。どうしようもなくてそれでも助けを求めてしまった自分が憎くなった。
わかっている。
この街に、この場所に助けなど求めても誰も聞いてくれる人なんて居ないなどこの状況を見れば。
わかっている。
こんな生きていても仕方がないゴキブリ並みの屑がこの世にいてはいけないなんてことなど。
死ねよ 、死ねば楽だぞ? 死んじゃえ! 死んじゃえ!
そうだ、死ねばいい。
死ぬのはいつだって簡単だ。
首吊りしたけりゃ首に縄をかければいい。転落死したけりゃビルの屋上から足を踏み外せばいい。窒息死したけりゃ車の中に七輪を焼いてそのまま熟睡すれば良い。撲殺されたきゃ今この足を止めて後ろの奴を待てばいい。
そうさ、死ねばいい。死ぬのはいつだって簡単だ。でもーーやっぱり足は止まろうとはしてくれなかった。
やっぱり俺、生きたいんだ。
俺は思って自分に鼻で笑った。
何を考えてたんだろ、俺、最初から最後まで死にたいなんて思ってねえくせに。
無様でも滑稽でもゴキブリ並みでも構わない。
だから…
逃げてやるぜ!こんなやつ!
俺は後ろにいる狂気の男を見た。彼も俺と同じく、雑踏の隙間をなんとか抜けながら追いかけてきている。
このまま雑踏の中に紛れていれば追いつかれることはないと思い、足を止めずに走っていると、
「こっちに来てください」
不意に手首を掴まれ、声が聞こえた。
黒いローブを着ていてフードを被っていたため見た目はわからない。声の高さから言って女の子だろう。可憐にでありながらとても落ち着いてた。
その黒いローブは俺を路地裏に連れて行くと路地裏の入り口にまた黒いローブを被った二人が壁に身を預けて待っていた。左側に俺より一回り大きい背の人と右側に大きい背の人より一回り小さい子だった。
「ご苦労様」
女の子が通り抜けるときに右側の子は偉そうに言った。
「アルタ、あとは任せなさい」
そのときに左側の人も言った。
顔が見えたため女性だということがわかった。背の高さからどう見ても年上で、フードから大人の魅力が醸し出されていた。
「お願いします! 」
アルタは二人を通り過ぎたあとに狂気の男が追いかけてきた。
「お〜い、ちょっと待ってくーーゲホバっ!」
狂気の男は二人に足をかけられ、無様に転んだ。
「ちょっと何するんだーー」
「はいかくほー」
フードを被った男の子は転んだ男の上にのしかかる。
「ローマ、僕が抑えてるから、こいつ縛ってくれるかい? 」
「はいはい」
ローマは男を海老反りに縛りつつ、目隠しと声を出せないように目と口を黒い布で覆い隠す。
「こっちです」
フードが取られ、繊細な純白の髪が露わになり、眼帯の代わりなのか、黒布で右眼を隠すように頭を縛っていた。
俺はその純白の髪に少し間見とれていた。
これが俺と白仮面の一味との最初の出会いだった。