彼と天使の物語
ありふれた屋上にて、ありふれていない天使と。
ありふれたことなんでしょうけど、彼は、飛び降りるために、この屋上にやってきました。ありふれたことに適当な高さのマンションの屋上で、ありふれたことに他の人が聞いたらたいした理由でもなくて。そういうありふれたひとりとして、彼はここに立ったのです。
それはよく晴れた、飛び降りるにはあまり似つかわしくない青空の午後で、風は心地よくそよいでいました。
「ねえ、あの、飛び降りるの、やめてもらえませんか?」
ありふれた感じではない、消え入りそうに気弱そうな説得の台詞が聞こえたから、彼は振り返りました。
その、澄んでいるけれどふるふるとした声の主は、まあ簡単に言うと、天使でした。
彼女は、天使にしてはめずらしいことに、もちろん彼は他の天使に会ったことはありませんけど、無造作な感じのショートカットは黒髪で、その上には虹色のわっかがゆらゆら浮いていました。そして背中には、物理的には飛べるとは思えない小さな翼が、ぱたぱたと見え隠れしています。
だけど天使にしては何となく華やかさに欠けるような、さわさわとした佇まいで、彼女はそこに立っていました。
彼はもう、天使が本当にいるとかいないとかどうでもよかったので、あんがいふつうに、天使に話しかけました。
「天使ってあんがいひまなのかい? こんなありふれたひとりが飛び降りるのを、わざわざ止めに来るなんて」
すると天使は、なぜか少しだけ、だけどあからさまにうれしそうな顔と声になって、こう答えたのです。
「ええ、あんがいひまなんです」
「天使って、あんがいたくさんいるんです。はっきり言って、人間七人に対して天使一人くらいの割合でいるんです。で、わたしあなた担当の天使なんです。だから、あなたが飛び降りようとしているの、すぐに気づきました」
天使はそう言うと、またあからさまに「えっへん」という顔を彼に向けました。どうやら、すぐに気づいたというところが彼女にしては「えっへん」なようです。
しかし彼は、するりと視線をそらしてさらりと言い返しました。
「すぐにって、おれ、もう半日くらいここに立ってるけど?」
すると天使は、えっへん顔はどこへやら、おぼれたみたいにあたふたしながら、
「そ、それはほら、えっと、あの、こちらにもいろいろと、あれですよ、あなたの他にあたしが担当してる人のところでも厄介な問題が、だから、その……」
と、明らかな動揺を見せるのでした。
「なあ、嘘、ついてるだろ」
彼が今度はわざと視線をぶつけて言うと、天使の瞳はあり得ないわというような驚きでいっぱいになりました。
「ええ! どうしてわかるんですか!? 人間なのに天使の心を読むなんて!」
彼は、あきれた視線で、もちろんそれもわざとです、とどめに取りかかりました。
「地に足が着いてないんだよ、おまえ」
そう言って、視線を天使の足下に移します。
それに釣られてうつむいて自分の足下を確認すると、天使は、あたふたぱたぱたしていた小さな翼をすうっと休ませて、うつむいたまますとんと着地しました。
しばらくの沈黙のあと、うつむいたまま上目づかいで、天使はこう言いました。
「ええと、あの、今日はとてもいいお天気でしょう?」
失敗をごまかすのに天気の話とはなんてありふれた天使なのだろうと思いつつ、
「ん? ああ、そうだな。それで?」
彼は、相づちを打ちながらも追求の手はゆるめません。
「それで、雲の上はここよりもっといい気持ちなんです」
「ああ、そうだろうな。それで?」
「だから、つい、うとうと……」
あっさり白状しやがった。
彼は、今度はわざとではなくあきれて、ぽつりと言いました。
「ほんと、天使ってあんがいひまなのな」
すると天使は、顔を上げてちょっと明るい調子で、
「そうなんです。あんがいひまなんです」
と言ったかと思うと、ひと呼吸しか入れずにこう続けました。
「というわけで、飛び降りるのやめてくれませんか?」
じっと見つめる天使に、彼は言い返しました。
「おまえさ、『というわけで』って言葉の使い方、おかしいだろ」
天使はこまり顔で、でもさらりと答えます。
「そうなんですか。ごめんなさい。
でも聞いてください。天使だって大変なんです。空は自然に飛べますけど、どんな言葉もはじめからペラペラとか、テレパシイで誰とでもしゃべれるとか、そういうのはないんです。
だから、いろんな国の人と話すにはいろんな国の言葉を勉強しなきゃならなくて、あたし、あなたの担当になってからこの国の言葉を勉強し始めたから、まだあんまりうまくしゃべれないんです。
でもカタルニア語だったら得意なんですよ。あっちの人に、まるでカタルニアで生まれ育った天使みたいだねってほめられたんですから。わたし、時間さえかければちゃんとできる天使だと思うんです、自分で言うのもなんですけど。だから、」
えっへんモードな天使のおしゃべりはまだまだ続きそうでしたけど、ここで彼が割り込みました。
「おれ、カタルニア語ならしゃべれるけど? あっちに留学してたから」
「な!? どうして早く言ってくれないんですか! そしたら余計な勉強しないですんだのに!」
ため息をついて「ほとほとあきれはてた」の顔で、彼は諭すように言いました。
「あのなあ、そんなの、天使でも神様でもなくても、俺の履歴書とかちゃんとチェックすればわかることだろう?
っておまえさっきから、天使のくせに間抜けすぎないか?」
天使は、うつむいたまま何も答えませんでした。
数秒、それとも数十秒たっても、何も言い返してきません。
ふと見ると、うつむいた頭の上のわっかの虹色が、気のせいか少し沈んでいるような気もします。
どうやらちょっとからかいすぎたかなと、彼が声をかけようとしたときです。
「さっきから、天使をいじめてたのしいですか?」
「え?」
それはいままででいちばん強い声でした。うつむいたままだけれど、大きな声ではないけれど、寸前で閉じ込めようとしているような、今にもあふれそうな、強い声でした。
「それは、あたしは落ちこぼれです。天使学校の授業中だってお天気の午後はやっぱりうとうとしてたし、語学系はぜんぜんだめだったし、数学なんて毎回赤点で再試だったし、天使のお仕事に就いてからもこの調子だし」
うつむいたままの天使の瞳から、音もなくきらきらと、涙の気配が落ちました。
天使を、というよりこの女の子を泣かしてしまったことに、彼はもうおおあわてです。そして、
「ちょ、おい泣くなよ。おまえ、いちおう天使なんだからさ」
とりあえず口から出たその台詞が、寸前で閉じ込めていたものをあふれさせてしまいました。
「あたしだって……」
きっと顔を上げて涙も心もさらけ出して天使は、
「あたしだって好きで天使に生まれたわけじゃない! でも、天使に生まれちゃったから。だから、これでもせいいっぱい天使やってるの。
飛び降りる?
なにぜいたく言ってるのよ。天使は、わたしは飛び降りることもできないの。この小さな翼が許してくれないの。手首を切ろうが首を吊ろうが、天使はほとんど不死身だからやっぱりだめなの。
つかれたら飛び降りればいいなんて、そう思えるだけでもあなたは気楽でしょうね。
もういい。飛び降りなよ。そしたらあなたはそれで終わりなんでしょう? それで救われるんでしょう?
もう、いい……」
涙を振りこぼしながらにらみつけて、ぜんぶをぶつけて、もう何も言わず、ただ音もなくきらきらと、天使は涙をあふれさせ続けました。
天使を、この子を泣かせてしまった彼は、もうおぼれたみたいにあたふたするしかありませんでした。
そして、なんだかわからないけれど、とにかく今は、この子を泣き止ませることがいちばんです。
「わかった。わかったから。うんそうだ、この天気じゃ眠たくなってもしかたないし、言葉が難しいならカタルニア語で話したっていいし。
……だから、泣かないでくれよ」
わっかごと髪をなでたり、ほっぺたをぷにぷにつまんでみたり、愛しくて大切な人にそうするようにしながら、彼は懸命に天使をなだめました。
それでも天使は泣き続けていましたけど、なでられすぎて髪がくしゃくしゃになったころにようやく泣き止むと、左手で涙をぬぐって、まだちょっと涙声で、こう言いました。
「というわけで、飛び降りるのやめてくれますよね?」
「いやだから何が『というわけで』なんだよ?」
彼は反射的にすぐさま言い返してしまいましたけれど、しかし天使もすぐさまこう言い返しました。
「泣きますよ?」
涙の残る瞳でじっと見つめられて、彼は言い返すどころか息もできません。
いまや立場は逆転したのです。彼はもう、この天使にはまったく逆らえません。
彼は、ため息のような声で言いました。
「おまえ、あんがいしたたかなのな」
すると天使は瞳の力をすっと抜いて、いたずらっ子の顔で答えました。
「ええ、仕事ですから」
完全に、彼の負けでした。
「わかった、わかったよ。飛び降りなけりゃいいんだろ。
……やめる。飛び降りるの、やめるよ」
その台詞を最後まで聞くや否やもうとてもうれしそうな声で、
「わあ! ありがとうございます! これで天使長様に怒られないですみます!」
天使は、天使のような笑顔を見せたのでした。
心を奪われるというのは、こういうことを言うのでしょう。それは本当に一瞬でたしかに、彼がいままでに見たどんな笑顔よりも大切な笑顔になってしまったのです。
彼の様子に気づいて、天使は不思議顔で言いました。
「どうしたんですか、ぼうっとして?」
その声で彼はやっと半分ほど我に返って、それから少しのあいだでものすごい勢いで頭の中を見回して整理して、最後にもう一度頭の中を見回してうなずいて、天使の瞳を見つめてゆっくりと話しかけました。
「なあ、これからもたまに、会いにきてくれないかな。もちろん、おれはもう飛び降りないから、ひとりでも生きていけるよ。だけどもしも君みたいな天使にたまにでも会えるなら、もっとずっとおもしろく生きていける気がするんだ。
だから」
それは、とても控えめでとても大切な告白でした。
だけれど天使は、その言葉が進むにつれてうつむいていって、虹色のわっかを悲しそうに揺らめかせ始めました。
言い終えた彼もだからもう何も言えず、天使のわっかと天使のつむじを見つめ続けました。
それからどれほど、その沈黙と悲しげな揺らめきが続いたでしょうか。うつむいたまま、天使はゆっくりとしゃべり始めました。
「ごめんなさい。あたし、あなたの担当、今日までなんです。こういう地上勤務は今日までで、明日からは部署を移るんです。まだどうなるかわからないけれど、天国勤務になったらもう、地上には来れません。
だから、もう会えないかもしれない。
ごめんなさい。こんな優しくしてもらったのに。天使なのに。
あたしやっぱり、だめな天使です……」
うつむいたまま、天使の声はどんどん涙に埋もれていきます。
だけれど彼は、今度はあたふたすることもなく、天使の言葉を最後までぜんぶしっかりと聞き取りました。そしてまた、今度はもっとたしかに愛おしく、天使の髪を優しくなでました。
「だいじょうぶだよ。おれはもう飛び降りないんだ。たとえ、君にもう会えなくても。
君に会えたから、おれはもう飛び降りない。君はちゃんと、天使の役割を果たしたんだ。
だからもう、泣かないでくれよ」
天使は、ふわっと顔を上げました。その瞳はさわさわとしていて「ほんとうに?」という顔をしていたので、彼はゆっくりとたしかにうなずきました。
それを見てやっと、天使は、
「……はい」
と、天使のように微笑みました。
彼のいままでのすべてとこれからのすべてをすくいあげてくれるであろう、天使のような微笑みでした。
時間が流れました。人間の時間で言うと、何十年でしょうか。彼は窓際のベッドで、瞳を閉じようとしていました。彼はあれからもう、十分に生きたのです。
もしも誰かが「あなたの人生は幸せでしたか?」と聞いたなら、彼は「さあ、わからないな」と答えたでしょう。そして、「でも本当に素晴らしい出来事や、いくつもの小さな喜びがあったよ。だからまあ、悪くはないんじゃないかな」と続けるのです。
そうして迎えたこの夜でした。
それはとても静かで、何かの始まりや終わりにはとても似つかわしい明るい夜で、風は心地よくそよいでいました。
「こんばんは」
心のどこかでいつも待っていた声だったので、彼は閉じかけていた瞳を開けて、ゆっくりと身体を起こしました。
でもとても落ち着いた声で、彼は答えました。
「ひさしぶりだね。
また会えるなんて、もうあきらめかけていたよ。
そうか。天使ってやっぱり年をとったりはしないんだな」
天使は、あの日と変わらない姿をしていました。だけれど少しだけ、でもたしかに、その輪郭は、あの日よりも強くなっているように、彼は感じました。
その声もやっぱり、あのときよりも少し、凛々しくなっている気がします。
「あたしあれからがんばりました。勉強して言葉もいくつも話せるようになったし、いろんな人に出会って、楽しいことも悲しいことも、いろいろ。
そうそう。ねえあたし、天使長になったんです。まだなったばかりなんですけど」
彼は声の調子を少し上げて言いました。
「君が天使長? 天使ってあんがい人材不足なんだね」
天使の声も少しゆるみます。
「そうなんです。あんがい人材不足なんです。
おかげでちょっとえらくなれたから、本当はあなたの担当じゃないんだけど、書類をいじって理由をこじつけて、あなたに会いに来れちゃいました」
「わざわざ、おれに会いに?」
「ええ、あなたに会いに」
天使がまじめ顔ですぐにそう答えると、ひと呼吸おいて、彼はあきれ顔を作って言いました。
「天使ってあんがいひまなんだな」
すると天使は、ええもちろんよという顔でこう答えました。
「そうなんです。あんがいひまなんです」
その会話の余韻を十分に楽しんでから、彼はさらりとこう言いました。
「でも、本当は仕事なんだろ?」
さらりと言い当てられた天使は、はっと彼を見つめると、あの日のようにうつむいてしまいました。
だけどうつむいたままでも、天使はちゃんと話しました。
「半分は、仕事です。
でもこの仕事だけは、あたしが自分でやりたかったんです。
あたしが、会いたかったんです。あなたに。
もう一度、あなたに」
天使は懸命に言葉を続けます。
「ごめんなさい。あのときは飛び降りないでって。なのに今日は、あなたを連れていかなきゃならないんです。天使長でも寿命は書き換えられないんです。ごめんなさい」
だけれど天使の言葉はどうしても、あの日のように涙に埋もれていってしまって、最後にはベッドの横にしゃがみこんでしまいました。
だから彼もあの日のように、いいえあのときよりもっと深く優しく、天使の髪をなでました。何も言わずに、だけれどぜんぶが伝わるように。
天使は音もなくきらきらと泣き続けて、彼の横に顔を埋めて、きらきらと泣き続けたのでした。
どれほどなでてもらってからでしょうか。天使はえいっとばかりに顔をあげてこう言いました。
「というわけで、そろそろ行きましょうか」
彼はやれやれといったように、だけど少しうれしそうに答えました。
「おまえ、あんがいすぱっとしてるのな」
天使はいたずらっ子の顔でこう答えます。
「ええ、仕事ですから」
彼はその答えも、その顔をすることもわかっていました。もしも誰かが「あなたの人生は幸せでしたか?」と聞いたなら、彼は「ああ、とても」と答えたでしょう。
「よし、行こうか」
「手をつないでください。それでいっしょに飛べますから」
天使は、小さな翼をぱたぱたと動かし始めながら言いました。
「ちょっと遠回りして、オーロラや街の光とかを見ていこうと思うんです。ぜんぶは無理だけど、少しでもたくさん話したいし。
だから実は、天国到着の予定時間よりもずいぶん早めに来ちゃいました」
彼がへえっと感心した感じで、
「おまえ、あんがい気がきくのな」
と言うと、天使はえっへん顔で得意そうに、こう言いました。
「ええ。だってあたし……」
だってあたし、天使ですから。
そう言うと天使は、涙の跡を残したまま微笑んで、彼の手を取りました。
その夜、オーロラの下や街の光の中にいた人たちは、その空に、きらきらと寄り添うふたつの小さな光を見たかもしれません。