一 始まりの世界
わたしは、見知らぬ土地を列車に揺られている。
海岸線に沿って敷かれた曲がりくねった線路を、ゴトゴトゴトゴト、ゆったりと走る。
わたしの真向かいには男が座っている。わたしを眺め微笑んでいる。
お目覚めですか? 男が言う。どうやらわたしは眠っていたらしい。
いつから眠っていたのだろうか。分からない。
そもそも、わたしはどうして列車に乗っているのだろう。分からない。
いつから列車に乗っているのだろう。分からない。
どこへ向かっているのだろう。分からない。
列車に乗る前の記憶が、何ひとつ存在しない。
不思議だ。
奇妙だ。
男を見る。男はにっこりと笑う。
そんなことどうでも良いじゃありませんか。わたしの疑問を見透かしたように男が言う。
どうでも良いことなんてあるか。一瞬、そう言おうとしたが、止めた。そんなことは、ひどくつまらないことのような気がした。
列車にはわたしたち以外誰も乗っていなかった。車窓から臨む景色の中にも、ひとの姿はなかった。
砂浜にも海の中にも誰もいない。夕日が水面に反射してきらきらと光っているだけだった。
車掌や運転手くらいは居るだろうか? まさか、無人でひとりでに動き出すこともないだろうけど……。
確認してみようか? しかしそれは躊躇われた。ここから勝手に離れてはいけないよな気がした。
男をまじまじと見る。失礼だとは思うが、少なくとも今現在わたしの記憶に存在する唯一の人間だ、仕方ない。
髪は長く腰の辺りまで伸びている。真っ白だ。夕焼けで橙に綺麗に染まっている。柔和な笑みだ。刺々しさがどこにもなく、それが却って胡散臭い。身体の線は細い。肩幅は大きい。背が高いのは座っていても分かる。まるで少女漫画に出てくる男キャラのようだ。顔に皺がない。首筋も同様。首筋はごまかせないと聞くし、案外若いのかもしれない。落ち着いた雰囲気なので大人に見えるだけで、実際は大学生くらいなのかもしれない。
年上? 年下? わたしはいくつだろう? セーラー服を着ていた。高校生か、中学生か……。どうやらわたしは(……そういった特殊な趣味でないのなら)割と若い女のようだ。
……その思考の、おかしさに気づく。列車に乗るまでの記憶が一切ないのに、若そうだから大学生だとか、セーラー服を着ているから中学生だとか、そういう知識だけはある。
学校はどういうところだとか、期末試験前には部活が休みになるだとか、暴風警報が午前十時までに解除されたら午後から授業だとか、お金を稼ぐために会社へ行くだとか、支点力点作用点とか、織田信長の三段撃ちは後の創作であるだとか、そういうことを、知っているのに関わらず、実体験としてわたしの中に存在していない。頭から体験だけがすっぽり抜け落ちているような……。
これは、やっぱりおかしすぎる。
もしかして、わたしは死んだのですか? 馬鹿にされる覚悟で聞いてみた。何となくそんな気がしたから。わたしの声は、久々に声を発したかのように、かすれていて、ちゃんと相手に通じたか心配だった。男は、目を丸くして、クスッとおかしそうに笑った。
そんなこと、どうでも良いじゃありませんか。と言った。
それもそうか、と、不思議と素直に思った。
このひとはいったい誰だろうか。何という名前だろうか。わたしのことを何か知っているのだろうか。
わたしは案内人でございます。あなたのことをずっとお待ち申しておりました。と、男は、わたしの頭の中の疑問に答えた。
しかしそれ以外は、名前さえも教えてもらえなかった。聞いても無駄な気がした。
仕方がないからわたしはこの男を「彼」と呼ぶことにした。直接呼ぶときは「貴方」で足りるだろう。わたしもわたしの名を知らないのだから公平だ。きっとたいしたことでもないのだろう。
わたしと彼は、海岸線を延々走り続けていた。