第23話 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「ひっ、ぐ……ううっ……」
必死に涙を堪らえようとするも、その悔しさは押し殺せなかった。
「……なんだ、ジンヤ。またいじめられたのかい?」
しゃがみこみ、幼いジンヤの目線になって問いかける彼の父親、ライキ。
ジンヤによく似た、けれど当然彼よりも大人びている顔つき。しかし、年齢に比べれば若々しく見える。常に優しげな笑みをたたえ、余裕を持っている。
ジンヤとは、大違いだ。
いつもいじめられて、泣き虫で、弱っちい、なにもない少年。偉大な父親とは、見た目を除けば似ても似つかない。
いじめられたことよりも、それが悔しかった。
「……父さん」
「なんだい?」
「剣、また、教えて」
「うん、構わないよ。それじゃあ前回の続きから……」
泣いていた理由には頑なに答えなかったジンヤ。それを追求せず、ジンヤの求めに応じるライキ。
ジンヤはライキと違って、ちっとも強くない。
強くなりたい。
そう思っていた。
だが、どこかで諦めていた。
そんなジンヤを変えたのは――。
◇
――知らない場所で目覚めた。
無機質な鉄格子の中。
記憶を手繰る――刹那、すぐに思い出す。忘れられる訳がない強烈で、残酷な記憶。
罪桐ユウの圧倒的な力、アンナの過去……そして、彼女と自分に纏わる、どこにも慈悲のない真実。
屍蝋アンナは。
守ると誓った少女は、父親を――ライキを殺した。
「……よりによって……」
夢を見ていた。
そうだ、ずっと……夢を見ていたのだ。
父親の夢を見た。
ずっとその背中を追っていた。
そんな夢から、もう覚めた。
龍上ミヅキに必ず勝つと誓い挑んで、無様に敗北した時の精神状態――今はあの時に近い。
しかし、もはや次元が違う。
問題の程度があまりにもかけ離れている。
今から思えば、よくもまあたかが学生同士の戦いで負けたくらいであそこまで落ち込んだものだと笑いすらこみ上げてきそうだ。
……負けたところで、死ぬわけでもないのに。
いつもの自分ならばありえない冷笑的な発想が、なんだか怖かった。
だが、もう関係ない。
ずっと張り詰めていた糸が切れたような感覚。
奇妙な解放感すらある。
ここへ来る前に告げられた事実。
最低でも、彩神剣祭の出場停止。
もう、全てが終わってしまった後なのだ。
何も残っていない。
いつから、あの夢を抱いていたのだろう。
それこそ、一番最初の記憶――確か、父におもちゃの剣でも手渡され、それを振り回していた頃から思っていた。
父のようになりたい。
強くなりたい。
誰よりも、強く。
漠然とした衝動。そこに形が与えられたのは、ライカと出会ってからだろう。
彼女に相応しい男に。
彼女という一振りを、最強と証明できる騎士に。
龍上ミヅキとの戦いを通して――その願いは、より研ぎ澄まされた。
彼に負けて、そこから這い上がって、願いはもっと強くなった。
風狩ハヤテとの戦いを通して――その願いは、より譲れなくなった。
約束した。最高の親友を倒した以上、必ず優勝すると。
全て。全てが。
これまでの戦い。これまでの人生。これまでの出会い。
全てが――――無駄になった。
父と母の想いが無駄になった。
雨谷ヤクモへの憧憬も、龍上キララから寄せられた期待も、無駄になった。
龍上ミヅキとの宿命も、無駄になった。
風狩ハヤテとの決戦も、無駄になった。
無駄だった。全て。
屍蝋アンナを、救えなかった。
叢雲オロチと研鑽を積んだ日々も、託された想いも、無駄になった。
そして何より。
刃堂ジンヤの、ハジマリ。
雷崎ライカとの出会いも、雷崎ライカとの約束も、雷崎ライカとの夢も、全てが、無駄になった。
なにもかもが、むだごと。
…………剣祭はなにも、今年だけではない。
来年も、再来年もチャンスはある。
だが――意味があるだろうか?
勝てるだろうか、ここで何も成せなかった無力な男が。
いや、どうしてそこまで前向きな発想ができるのだろう、と自分に驚き、軽蔑したくなる。
勝てるだろうか、だと?
まずそもそも、これから自分は戦えるのか?
――――この発想も、まだ楽観的すぎる。
そもそも、だ。
………………この先の人生に、生きる価値があるのか?
自分と関わった全ての人間の想いを無駄にした。
救いたいと願った少女を、救えなかった。
こんな惨めな敗残者、消えてしまったほうがいいのではないだろうか。
例えば。
例えば――もしもの話だ。
ここで刃堂ジンヤが死んだとしよう。そうすれば、さすがの罪桐ユウも少しは驚くのではないだろうか。
意識が混濁し、記憶が曖昧だが、彼は恐らくまだジンヤを苦しめる算段をしていた。
アンナを利用するのだろう。
だが、ここで自分が舞台から降りれば、それだけは崩せる。
ほんのささやかな抵抗ではあるが、彼に一泡吹かせられるなら悪くない。
それにこの惨めさの、無能さを少しは清算できる。
なによりどうせもう、意味がない。
…………それが最良な気がしてきた。
そっと首に、手をかけてみる。
――――制限機構、解除。
――――動作命令、設定。
電気信号干渉により、脳のリミッターを外し、さらに自動で自身の首を締めるように命令しておく。
自分の首を締めるなど、普通にやれば、本能的に手を離してしまうだろう。
だが、リミッターの外れた馬鹿馬鹿しいほどの膂力で、強制的に動作を行えば、一思いに死ねるはずだ。
気道の圧迫か……いや、頚椎がへし折れるか。いずれにせよ、確実に死ねる。
………………………………………………………………………………………………、
最後に浮かぶのは、救えなかった少女。
そして――――最愛の少女との……、
そこで、一瞬躊躇った。
刹那。
「なにやってんだ、この馬鹿弟子ィッッッッッッッッ!!!!!」
轟音。
鉄格子が破壊される。壁に叩きつけられる残骸。
ゆっくりと、破壊を行った人物へ視線を向ける。
そこにいたのは、萌黄色の一つにくくった凛々しい女性。
ジンヤの師匠――叢雲オロチだった。
◇
「……オマエ、今なにしようとした?」
殺気すら宿った鋭い視線でジンヤを刺し貫きつつ、オロチが冷たい声で問いかけた。
答えたくない。答えたら、死ぬほど怒られる。
たった今死のうとしていたのに、なぜかそんなことを考えていた。
それくらい、怖かった。
ただ、黙っていてもどうせ怒られるとわかっていた。
だから、正直に話した。
「阿呆かオマエはッ!」
ベシッ、と脳天にチョップが炸裂した。
「早まるにも程があんだろうが……。事情は聞いた。気持ちはわからんでもねえが……んなもんアタシはわかってやらねえ、許さねえ、ふざけんな。そんなことされたら、アタシは一生ライキさんにも美華さんにも顔向けできねえし…………なにより、二度と自分を許せなくなる」
……早くもジンヤは、自分がどれだけ愚かな真似をしようとしていたか痛感し始めていた。
確かに早まっていた。発作的に行おうとしたことだが、なまじ変に知恵が回って確実性があったのが恐ろしい。
「……あー、なんだ……いろいろあんだろうが、まずは謝らせろ」
謝る? 首を傾げる。謝ることがあるのはこちらだろう。彼女がなにを謝るというのだろうと考えていると、オロチはしゃがみこみ、頭を床に擦り付けた。
「すまなかったッ! オマエが今背負ってるその絶望、全部取り下げろッ! そいつは全部、アタシの責任だ! アタシが浅はかだった、アタシが……罪桐ユウを、見誤った! ヤツは、アタシが事前に得ていた情報、事前に想定していた脅威よりも、遥かに化物だった! ……全部、オマエに押し付けたアタシが悪いんだ……」
まくしたてられ、動揺する。
なんと言葉を紡げばと迷っている間に、オロチはさらに言葉を重ねる。
「…………なにより、アタシはあまりにも無知すぎた。こんなもん、突きつけられてどうにかならねえ方がおかしい。アタシだって、今すぐにどうにかなりそうなんだ……そんなものを真っ先にオマエに背負わせた……アタシは師匠失格だ。本当に……本当に、すまなかった……」
罪桐ユウという脅威。
彼が伏せていた真実。
それはオロチの想定すら遥かに上回るものだった。
当然だろう。事前に知っていれば、ジンヤに任せるなんてことはしなかったはずだ。
――いや、オロチが事前に得ていた情報だけ鑑みても、ジンヤに任せるなんてことはせずに、最初からオロチが罪桐ユウと対峙していればよかったのだ。
オロチは知っていた。罪桐ユウの断片を。
オロチは知っていた。《終末赫世騎士団》という、この世界の裏側を。
では、なぜそうしなかったのか。
「……いいや、謝るのは、僕の方ですよ……」
オロチが誰かに――それも自分に、頭を下げている。平時なら天地がひっくり返るよりも驚愕していただろうが、今はただただ悔しかった。
「僕が強ければ……。力も、心も……もっと強ければ。そうすれば、こんなことにはなってないはずですから。僕は、弱かった……それだけなんです……」
「……ッ! こんのッ、阿呆! 馬鹿がッ、大馬鹿がッ! これでどうにかならねえほうがおかしいって言ってんだろうが! んなもんは強さでもなんでもねえんだよ! ただイカれてるだけだ! そいつは罪桐ユウと何がちげえんだッ! ああんッ!?」
「……ぐっ、でも……!」
「でももへったくれもねえんだよ! 師匠に逆らうってのか!?」
「さっき師匠失格って言ってました!」
「くだらねえこと覚えてんじゃねえボケ!」
チョップされた。
理不尽であった。
「……よし、選手交代だ。ひとまず、アタシが言いたいことは言った。でもな、オマエに言いたいことがあんのはアタシだけじゃねえ」
「……え?」
そう言ってオロチは、腰に差していた刀を鞘ごと抜いて掲げた。
その刀がなんなのか、ジンヤは一瞬で理解した。
刀が光りに包まれ、消失。人の形を成していく。
眩い雷光のような黄金の長髪。
澄み渡る空のような青い瞳。
彼女のために、走り続けていた。
死を選ぼうとした間際――最後に浮かんだのは、彼女だった。
最愛の少女。
「……ライカ」
彼女の名を呼ぶ。
悲しそうな、今にも泣き出しそうな顔をしている、彼女の名を。
「……ねえ、ジンくん」
彼女が顔を上げて、こちらを見据える。
「こういう時、私達が交わす言葉は決まってるでしょ?」
「………………ああ、」
彼女が言わんとすることが理解できた。
「「……この世界に、本気で願って叶わないことなんてない」」
言葉が重なる。
でも、もうわかっていた。
この言葉は、決して万能の魔法の言葉ではない。
幼いライカは、魂装者となったことで騎士の道が断たれた時、この言葉の無力さを知った。
風狩ハヤテは、この言葉に対して「願えるわけがない」と吐き捨てた。
どうしようもなく叶えたい願いがあったとして、それが叶わないと痛いほどわかっている時など、いくらでもある。
それでも、と、強がりすら吐けない程の失意の底に沈むことなど、山のようにある。
焦点が、見えた。
この言葉が問うのは、「まだ願えるか?」という、意志の強さ。
ジンヤはこう答えるだろう。
絶対に無理だ――と。
「ねえ、ジンくん……まだ――、」
「無理に決まってるだろ……ッ!?」
言葉を遮り、叫ぶ。
言いたいことはわかっていた。
まだ、本気で願えるか?
龍上ミヅキとの戦いで敗北したあの時も、ライカは同じ問いをぶつけてきた。
あの時はまだ、簡単な話だった。
怯えていたのだ。
怖かったのだ。
雨谷ヤクモのために。母の想いのために。雷崎ライカのために。
なによりも、自分のために。
極めて個人的な理由での闘争。それに敗北しただけで、全てを失った気になっていた。
今はあの時よりもずっと、たくさんのモノを背負って。
たくさんのモノを、積み上げて。
それを、あの時より遥かに恐ろしい衝撃で、全てを崩され、粉々に破壊された。
それに今は、ただ怖いだけではない。
もっと大きな問題だ。
罪桐ユウには、勝てない。
屍蝋アンナは、救えない。
もう、ジンヤ個人の闘争とは言えない。
誰かを守るという、個人の闘争より遥かに大きなモノを背負った戦いに、完敗した。
「もう無理なんだよ! 無駄なんだよ! 無駄だったんだよ! 僕なんかが、できるわけなかったんだ! だって……、だって僕は、Gランクの! どこにでもいるような……いいや、どこにでもいる平均的な騎士以下の資質しか持たないクズなんだ! そんな僕が、あの罪桐ユウに! Aランクの騎士を何人相手にしようが物ともしない化物に、どう挑めばいいんだ!」
言葉が決壊していく。
ずっと押し込めていた卑屈な想いが溢れていく。
罪桐ユウは、刃堂ジンヤのことを有象無象と呼んだ。
あの言葉の意味はわからないが、それは的中してるとしか言いようがない。
刃堂ジンヤは、主役の器ではない。
それは真紅園ゼキや、蒼天院セイハや、黒宮トキヤや、夜天セイバや、風狩ハヤテや、輝竜ユウヒ――彼らのような、才能のある人間にしか許されない座だ。
刃堂ジンヤは、舞台の中央でスポットライトを浴びる資格がない。
罪桐ユウという、絶対の悪。そんなものと対峙できるのは、その対となる絶対の正義だろう。
それがジンヤであるはずがない。
それならば、輝竜ユウヒの方がずっとふさわしい。
ジンヤは、才能もなければ、正義のヒーローが背負っているような壮絶なドラマや運命も背負っていない。
偉大な父のもとに生まれながら、その父の才をなにも受け継げなかった凡人。
それが刃堂ジンヤだ。
「間違ってたんだよ! なにもかも……今までの全部……! ライカ……僕はキミに謝らなくちゃいけない! 僕じゃなかったんだ! 少なくとも、絶対に、僕ではなかった! もっと強い人に、もっと才能がある、主人公のような、選ばれた人間に出会うべきだったのに……僕と出会ってしまった! 僕のようなクズに、キミを縛りつけてしまった! キミの時間を、キミの人生を無駄にした! 僕はここで終わっていく、無価値なクズだ……! だから……、だから、もう……!」
支離滅裂だとはわかっている。
それでも言わずにはいられなかった。
全てが無駄だったのだ。
全てのハジマリ――――ライカとの出会いすらも。
自分というクズの始末をつけようと思った。
だから最愛の少女にも、もう自分のことは忘れて欲しくて。
自分のようなクズではない、もっとすごい誰かに、彼女のことを幸せにして欲しくて。
――――そう考えて、涙が溢れた。
いやだ。
そんなのは、いやだった。
雷崎ライカを、誰にも譲りたくないのに。
自分は、もうそんな力も権利もない。
蹲って、泣き叫びたかった。
刹那――――
「ふッざけるなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッッ!!!!!」
ジンヤは、ライカに思いっきり殴られた。
「ふざけるなッ! いい加減にしてよッ! 黙って聞いてれば……なにがクズだ! なにが無価値だ! なにが無駄だ! なにが……なにが出会わなければよかっただッ! ふざけるな!
それは……それだけは、絶対に許さないッ! 馬鹿にするなぁッ! 私が……私が一番大切なものを、馬鹿にするなッ! それを馬鹿にすることは、たとえジンヤだって絶対に許さないッッッッ!!!!」
何度も、泣き叫びながら、殴られた。
そこで気づいた。
まさか自分が、こんなこともわからなかったなんて。
――――ハヤテと殴り合った時だ。
『ああ、本当に情けないよ! あんな状態のキミと戦ったって、相手にならないんだよッ! 腑抜けたキミを倒しても意味がないッ! そんな戦いは、約束への冒涜だッ! たとえキミでも、僕らの約束をッ! 友情を汚すことは許さないッ!』
ハヤテが諦めてるのが許せなかった。
ハヤテが自身の可能性を認めないのが許せなかった。
ハヤテが自身を卑下するのが許せなかった。
そう。
同じだ。
たとえ大好きな人だとしても、その人が自身を侮辱することは、許せない。
大好きだからこそ。
誰であると、当人であろうと、許せないのだ。
自分がハヤテに言ったことだったのに、まさかこんな愚かな形で、また同じことをしてしまったのか。
『ハッ……テメェはオレにいつも一人でなんでも勝手に決めるなだの、悟ったように諦めるなだの言ってくれるが、オレから言わせりゃテメェの卑屈さもムカつくぜッ! なあ親友! 親友自身だろうが、オレの親友の価値を見くびることは許さねえぞッ!』
剣祭の一回戦。あの戦いの中でも、ハヤテに同じことを言われていたのに。
「許さない……、ゆるさないぃ……許さないんだからあ……うぅ、うああぁ……」
胸ぐらを掴んで、顔を胸元に擦りつけて泣き出してしまうライカ。
最低だ。
最愛の少女を、泣かせてしまった。
彼女は、ぐちゃぐちゃになった顔をこすりながら、ジンヤを睨みつけてくる。
…………可愛いな、なんて。
こんな時なのに、そんなことを思ってしまう。腫れぼったい瞳も、涙と鼻水でみっともなくなった顔も、真っ赤な頬も、なにもかもが愛おしい。
こんなにぐちゃぐちゃなのに、なぜだかそれが美しいとすら感じる。
次の瞬間。
ライカは刀を《仮想展開》させると、床に突き立てた。
「……なにを、」
「――――――殺してよ」
斬り捨てるように、そう言った。
「ジンくん、死にたいんでしょ? だったらまず、私を殺してよ。私、ジンくんがいないなら、もう生きてる意味ないから。ジンくんが諦めるなら、私全部諦めるから。ジンくんが死ねって言ったら、私は死ぬから。……ねえ、私達、同じ夢を見ていたんだよね? 同じところに向かって、一緒に歩いていこうとしていたんだよね? じゃあ、やめる時も同じだよ。……一心同体でしょ? 二人で一つでしょ? だからさ、全部諦めるなら、まず私を殺してからにしてよ」
泣き腫らした目で恨めしそうにこちらを睨めつけながら、冷たい刃のような声でこちらを突き刺してくる。
無理やりジンヤに刃を握らせ、その切っ先を自身に向けるライカ。
「ねえ、早く! やってみせてよ! ほらッ! いいよ、私。ジンくんになら! 私、どうせ終わるならそれがいい! だから、ねえッ、ほらッ!」
切っ先を掴んで、首元に寄せる。
彼女の手から、鮮血が滴っていく。
ジンヤはそれを見て――――
刀を手放し、ライカの手からも刃を手放させて、
それから優しく、彼女を抱きしめた。
「…………女の子が、こんなことしちゃダメだ……」
「だって……だってええ……!」
「だってもなにもないよ。……さすがに、殴りすぎだ……」
ひりひりと、頬が挑む。
……正直、途轍もなく痛かった。罪桐ユウなんて話にならない。龍上ミヅキや、真紅園ゼキや、赫世アグニよりも力が強いかと思った。顔面が砕け散るんじゃないと焦った。
小さい頃、ライカには絶対に喧嘩で勝てなかったことを思い出す。
「ジンくんが、死んじゃおうとするからあ……そんなの……そんなのぉ……いやだよぉ……いやに決まってるでしょぉ……うっ、ぐぅ、あああ……ああああ……」
また泣き出してしまった。
どっちだよ、と少し笑ってしまう。
殺せと言ったり、死ぬなと言ったり、本当に忙しい。
「――――なあ、ジンヤ」
黙って壁際に背を預けて、行く末を見守っていたオロチ。
「…………結局よ、聞きたいんだが……オマエは、アンナをどう思っている?」
「……それは……」
抱き寄せていたライカが離れていく。
そして、じっとこちらを見つめ、答えを待っていた。
屍蝋アンナを、どう思っているか。
――――最終的には、そこが焦点なのだ。
もう救えない。そう思っていた。
願えない。そんなことは。
本当に――――そうだろうか?
今一度、胸に問う。
彼女は、救われてはいけない存在か?
彼女は人を殺した。
大勢の人間を殺した。
そして、刃堂ライキを殺した。
それは、真実だろう。そして、やはり仕組まれたことなのだろう。
全ては罪桐ユウが仕組んだこと。
だが、仮にそうでも、自身の父を殺したという存在に一欠片の嫌悪もないかと言えば、それも否だ。
そこまでは割り切れない。全てを綺麗に切り分けて考えることはできない。
人間はそれ程器用ではない。
しかし、それも当たり前の話だ。
どんな人間にも、複雑な想いを抱くことはある。
どれだけ親しい友人だろうが、自分より優れた点があれば嫉妬してしまう。
風狩ハヤテへの想いがそうだった。
誰にでも、欠点はある。
…………自身の親が殺されたという点を、そんな風にまとめてしまうのは、狂っているのかもしれない。
それでも、この一連の考えもまた真実だろう。
だからこう問い直すべきなのだ。
自分の父親を殺した殺人者の少女を、救えるのか?
――――答えは、当然、肯定だ。
彼女は様々な側面を持つ。
殺人者であることは事実だ。
同時に、大切な少女でもある。
刃堂ジンヤは、早くに家族を失っている。
父を、母を失った。
だからジンヤは、大切な人間を失うということを、絶対に許容しない。
ここでも、風狩ハヤテの例を思い出せば理解できるはずだ。
ハヤテに残された命が少ないとわかってから、ジンヤは少しも迷わなかった。
ハヤテの願いなど、最初からまるで聞く気がなく、彼を殴り飛ばした。
死ぬことは許さない。
失うなど、許容しない。
最初から自分の答えを決めつけて、押し付けて、そうやってハヤテを救った。
もしかしたら、ジンヤはもう狂っているのかもしれない。
両親を失ったことにより、大切な人間を失えないという強迫観念に駆られているのかもしれない。
だが、それでなにか不都合があるだろうか。
大切な人間を失うことが嫌などというのは、誰しも同じだ。
だから――――刃堂ジンヤは、屍蝋アンナを見捨てることができない。
葛藤の原因は、真実の衝撃があまりに大きすぎたからだろう。
屍蝋アンナと、刃堂ライキ。
どちらもジンヤにとって大切な人間。
だからこそ、その二つを衝突させるという、罪桐ユウのやり方はどこまでも悪辣だった。
ああ、確かにこれは刃堂ジンヤを苦しめる一手としては凄まじい効果があるだろう。
――――だが、迷いは消えた。
考えてみれば、簡単だった。
なぜ、罪人が救われてはいけない?
この世界は聖人君子以外は絶対に救われてはいけないのなら、一体誰が救われるというのだろうか?
生まれてから一つも罪を犯してない人間など、いるのだろうか?
どんな人間でも、罪を背負っている。
それは罪桐ユウが考えるような、彼が相手を絶望に突き落とすための材料となる残酷な真実でなくともだ。
殺人のような、絶対的な罪でなくとも、自分を責めてしまうような、取り消したい過去は誰でもあるだろう。
――――そんなものは、関係ない。
そもそも、どうでもいい。
屍蝋アンナが、大切だ。
だから彼女を絶対に救う。
刃堂ジンヤの、答えは決まった。
◇
「……僕は、アンナちゃんを救いたい……いいや、救います」
「……そうか」
静かに頷くと、オロチは天を仰いだ。
「…………ありがとう、ジンヤ」
静かに、そう呟く。
「アンナは、アタシじゃ絶対に救えない。……わかってんだ、アンナのオマエへの想いは。そいつをどうにかできるのは、オマエだけだ。アタシがアンナをぶっ飛ばすのは簡単だ。……そんでどうなる? どうにもならねえ……。本当の意味で、アンナを救えるのは、きっとこの世界でオマエだけだ」
「……はい」
「だから……だからなあ…………、ジンヤ……」
オロチの瞳から、一筋の涙が流れていた。
「…………アタシの大切な娘を、助けてくれ…………っ!」
「任せてください。あの叢雲の屋敷で過ごした日々は、絶対に失わせませんから」
再び、師から想いを託された。今度はもう、絶対に手放さない。
◇
決意を新たにした時だった。
ライカの端末に、連絡が入った。
「……オロチさん、そろそろ限界らしいです」
「だろうな、随分と話しちまった。……よし、もう行け」
「どういうことです?」
状況についていけていないジンヤにオロチが言う。
「……忘れてるかもしれねーから言っとくが、ここ《ガーディアン》の施設だぞ。オマエがいたのは檻の中だ。で、アタシはそれをぶっ壊しながらここに来た。やべーだろ、普通に考えて」
「…………あ、」
……これは、オロチまで《ガーディアン》に追われてしまうのでは。
思った矢先、足音と声が聞こえてくる。
「まあアタシのことは気にすんな。オマエらの邪魔するヤツは、アタシが全員止める。後のことは気にすんな、なんとかなる。もう行け!」
「……はいッ!」
ライカの手を取り、ジンヤは駆け出す。
施設からの脱出は容易かった。ザル警備――いや、オロチが暴れて、そうなるように仕向けたのだろう。
「ジンくん、直接話したほうが早いと思うからそっちにも繋ぐね?」
言われて、端末を操作する。
『やっほ、頼れるガウェインちゃんだぜい。……刃堂、使い物になるっぽいね、おっけーおっけー。……じゃ、リベンジといこうず』
ライカへ連絡していたのは、ガウェインだった。
「……どういうこと?」
「あの後すぐに、ガウェインさん、輝竜くんはあの罪桐ユウを倒すための作戦を考え直してたの」
「……そんな」
あれだけの力の差を見せつけられて、すぐにまた立ち向かおうとしていたのか。
確かに、アンナがライキを殺害していたという事実は、彼らには関係がない――否。
ガウェインにはない。
だがユウヒにとって、それは絶対に許せないことだろう。
だからこそ、か。
ユウヒはこの戦い、もう絶対に退く訳にはいかないのだ。
「作戦の要は……アンナちゃん。だからね、罪桐ユウを倒せるかどうかは、ジンくんがアンナちゃんを救えるかどうかにかかってるの」
「でも、罪桐ユウには……」
先刻の敗北を思い出す。
……いや、そうか。そこで気づいた。
罪桐ユウは、確かにアンナの《武装解除》を警戒していた。
つまり、やはり勝ち筋が皆無というわけではないのだ。
鍵になるのは、アンナ――ということは、すなわちジンヤがアンナを救えるかどうか。
「……そういうことか」
「ガウェインさんと、輝竜くんは罪桐ユウを抑える。その間に、こっちでアンナちゃんを取り戻す」
「アンナちゃんの今の状態は?」
「わからない……でも間違いなく、罪桐ユウに何かを仕掛けられている。去り際に、そんなことを言っていたから……」
再び街を駆け抜ける。
あまりにも過酷なスケジュールだ。
祭りの夜、ユウの策略が発動し、アンナが《使徒》と《ガーディアン》に狙われた。
そこを切り抜け、一夜明けて。
ガウェインのもとで作戦を立て、臨んだユウとの決戦。
あまりにもあっさりと、こちらの作戦を凌駕するユウ。
これも彼の策略だろう、ジンヤは《ガーディアン》に捕らえられた。
鉄格子の中でさらに一夜。
だが、未だにあの祭りの夜が終わった気がしない。あの時からずっと、ユウが巡らせた悪辣な策略、その糸に絡め取られてもがき続けてる。
今から向かうのは、ガウェインが割り出していた残りのユウが潜んでいると思われる建物、その候補だ。
彼女にはなにからなにまで世話になりっぱなしだ。有能にも程がある。
神算鬼謀の罪桐ユウにも、読みきれないことがあったとするのなら、ガウェインとアンナの関係なのではないだろうか。
そこで、ジンヤは立ち止まった。
大きな噴水がある広場。
周囲には街灯、ベンチ、噴水から広がる水によって出来た遊び場。
景観のいい公園の一角。
ばしゃばしゃと水音を立てて、一人の少女がこちらへ歩み寄ってくる。
暗い、どこまでも暗い、宵闇のようなドレス。大量のフリル、華奢な腰を強調するコルセット。足元も黒いストッキングに包まれている。
全身漆黒のその少女が立っている場所だけ、まるで影絵のように切り取られている。そんな錯覚さえするほどの、黒。美しい、闇の色。
真っ白な肌が僅かに見える首元。
その細い首には、隷属を象徴するような黒い首輪が。
そして、長い黒髪、その頂点に映える真っ赤なリボン。
妖しくも、可愛らしい衣装に身を包むも、それに反した一点――巨大な大鎌。
「…………じんや、みぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃつけたあっ♡」
「アンナちゃん、助けに来たよ」
「助け? もう~、じんやのばーかぁ♡ 逆だよ、逆ぅ。アンナが、じんやを助けるの。さ、らいかさん出してよ、殺すから。今助けてあげるね」
「……冗談じゃない」
今日は物騒な言葉がよく出る日だ。
これもユウの洗脳だろうか。
「ギヒヒ……どうだい、じんどー!? アンナちゃん、可愛いだろう?」
ばしゃん――と、噴水を中心に広がる水場に、もう一人の役者が降り立った。
自らも場を掻き回す役者であり、絶望を啜り、悲劇を綴る最悪の脚本家、罪桐ユウ。
「キミを! キミのことだけを想う少女だ! 最高にそそるだろ!? だからさぁー、年増の用済みの昔の女を捨て去るところ、ぼくに見せてよ!」
「――――黙れ」
ユウの顔面へ、棒手裏剣を投擲する。
随分と久しぶりに使った。キララ戦では役に立った、ジンヤの数少ない遠距離攻撃ではあるが、威力の乏しいこれではダメージは期待できない。
構わない。ただの宣戦布告だ。
ユウはそれを噛んで受け止め、そのまま噛み砕いて吐き捨てた。
「んんー、なに、もう元気? 泣きわめいてた昨日の今日でそんなに格好つけても、ぜんぜん格好良くないけど?」
「お前の言葉は羽音だ、罪桐ユウ。律儀に耳を貸す気はないぞ」
「ふーん? ぶーん、ぶんぶんー」
両手を広げて、羽ばたく真似をしてみせる少年。
どこまでもふざけ続けるらしい。やはり取り合っても無駄だ。
「あのさー、アンナちゃんを助けるとかほざいてるけど、いいの? 人殺しを助ける? なにそれ? ありえないでしょ、キミの好みで決めた、身勝手な正義をふりかざすのはいいけど、それもう悪じゃない? それって世界を敵に回してない? ま、少なくとも《ガーディアン》には追われるよねー?」
こいつに取り合っても無駄だ。
だが、言っておかねばならないことがある。
「いいかよく聞け、クソ野郎ッ! 僕は、どんなことをしてもッ! なにがあってもッ! 必ずアンナちゃんを守るッ! 仮令、この世界の全てを敵に回してもだッ!」
「ギッヒャヒャヒャ、やってみろよ雑魚モブ! そうやって吠えた後のキミの絶望もまたおいしそうだ! さあ、アンナちゃん! さっさと邪魔な女殺して、じんどーを自分のモノにしちゃいなよ!」
アンナは既に、言われずともそのつもりだった。
大鎌を構える。
禍々しい魔力が宿っていく。
「…………ねえ、じんや。アンナの『ぶそうかいじょ』の技って、きっとこのためにあったんだね! 今、らいかさんを引きずり出して、首を斬り落としてあげるからねっ♡」
魂装者の殺害。
本来、戦いの最中には不可能なそれを可能にする、唯一の例外。
《慈悲無く魂引き裂く死神の狂刃》なら、それが可能だ。
足運びで、僅かに水面が揺れる。
噴水の水が、周囲に波紋を作っていく。
水音が響く。
向かい合った二人を、静寂が支配していく。
――――屍蝋アンナの人生は、きっと敵だらけだった。
世界中が敵に見えていただろう。
記憶がなくなる前も、その後も。
そうなるよう、罪桐ユウに仕組まれていた。
記憶がなくなる前、あの虐殺を強制された。
記憶が消えた後、新たな人生では、周囲から迫害され続けた。
どこまでも救われない。
今もまだ、彼女の立場は危ういまま。
それでも。
だとしても。
彼女が殺人者だとしても、
彼女が父親を殺した犯人だとしても、
彼女が最愛の少女を殺すと叫んだとしても、
もしもこの世界の全てがキミを傷つけるとしても――――
――――――――――――――刃堂ジンヤは、屍蝋アンナを必ず救う。
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第23話 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
第23話 もしもこの世界の全てがキミを傷つけるとしても




