第二章 この敗北が意味するのは
「げっ」
「あっ」
ライカと別れた後、帰宅した僕は日課をこなしている時だった。ランニングを終え、素振りをしている最中、ついさっき敵対して『また明日』と言った龍上さんと遭遇してしまった。
……考えてみれば当たり前だ、だって同じ寮の隣の部屋に住むことになったのだから。
「……」
「……」
気まずい。
どうしよう。
僕がトレーニングとは別の原因で汗をかいていると、龍上さんが吹き出した。
「あっははっ、しまんないねー、ウケる。……ジンジンなにやってんのー?」
「日課でね。一日に合計で四十キロ走って、一万回剣を素振りしないと収まりがつかないんだ」
「うっへえー……? すごいねえ」
龍上さんは目を丸くした後――、
「……それ、努力ってやつ?」
表情を一変させた。
恐ろしいほどに冷たい表情だった。
「人より劣ってることはわかってるからね」
「わかっっってないなぁ~~~~~~~~~~……………………」
苛立たしげに語尾を伸ばしてから、大きくため息をついた。
「アタシさ、努力ってしたことないし、する気もないんだよね」
その言葉を皮切りに、僕が何かを言うよりも早く、龍上さんは言葉を紡ぐ。
「アタシ、Bランクなんだよねー。まあうちのガッコにも何人もいないよね。天才なの、天才。だからさー、ムカついちゃうんだよね、才能ないヤツって。才能ないこと自覚して隅っこでモブに徹してればいいんだけどさぁ……努力とかしちゃってるヤツみると、マジで、ムカつく」
「どう思われようが構わないけど、キミに遠慮するつもりはないよ」
「はぁ~……? マジ? ありえなー……だってさぁ、アンタGランクでしょ? カスじゃん、まずうちのガッコいるのおかしくない? ヨソのガッコに知られたら笑われちゃいそーなんですけど、っつかまずアタシが笑うんだけど?」
「ねえ、龍上さん」
「なに?」
「いくらでも笑えばいい。でも御託の前に剣でケリをつけるのが騎士だろう?」
「あっはは……Gランク如きに騎士語られちゃったよ、ありえな、マジでありえないわ……いいよ、元々才能ないカスなんでボコしてやろーと思ってたけどさ、ますますやる気でた。あ、そぉーだ……もっと面白くしよっか? アンタさあ、明日負けたら、ガッコやめなよ」
「僕が勝ったら?」
問い返すと、龍上さんは表情を歪めて舌打ちした。
「好きにしたら? なんでも言うこと聞いちゃう、どんなエロいのでもオッケーね♡ ……だって、ぜってー負けないし」
「明日はいい戦いにしようね」
「なにイキがっちゃってんのかわっかんないけどさー、枕に顔うずめて足ばたばたする準備しといたほうがいいよーホント。じゃーね、Gくん」
そう吐き捨てて去っていく龍上さん。
呼び方がえらく棘のあるものになっていた。
まあいいさ……僕はいつだってこうだった。これが普通だ、馬鹿にされて、蔑まれて当たり前。これが僕のデフォルトだ。
…………とりあえず、明日は家を早く出ようと思った。
こうやって別れたのに、また戦う前に出会ってしまったら、気まずさはさっきの比じゃないだろうから……。
□ □ □
翌日の放課後。
僕と龍上さんは、学園内にいくつかある闘技場の一つで向かい合っていた。
縦十五メートル、横三十メートルのリング。ちょうどバスケットコートよりも少し広い程度だ。
ギャラリーは龍上さんの柄の悪い友人達のみ。
ライカは――まだ来ていない。
時間も場所も、端末で連絡してある。
「もうすぐ時間だね~……雷崎ちゃんはびびって逃げちゃったかな? だったら妥当なとこだけど、興醒めだなあ。ちゃぁ~~んと思い上がりをぶっ潰してあげたかったのにさ~」
「来るさ」
「はぁ?」
「ライカは来るよ。あの時だってそうだったんだ」
「……はぁぁぁぁ? イミフメー、いつだよそれ」
脳裏をよぎる光景。
それは僕とライカが出会った時の事だ。
□ □ □
夕暮れの公園。
ボロボロになった僕。
僕は数人の同級生に囲まれて、殴られて、蹴られて、でも何もやり返すことができなくて。
誰も助けてくれない。
弱くて、無価値な僕を助けてくれる人なんて、いるはずもない。
リーダー格の少年が、落ちていた木の棒を拾い上げた。
あれで叩かれたら痛いだろうなあ……と、他人事のように思った。
少年が棒を振り上げた――その時。
「――情けないな」
燃えるような夕日に照らされ輝く黄金の髪を、颯爽と靡かせて少女は現れた。
「なんだよ、お前」
「それはこっちのセリフだ、なんなんだお前は!」
開口一番、少女は叫んだ。
彼女も少年同様、木の棒を持っていた。
少女が構えると、まるで不格好な木の棒が研ぎ澄まされた名刀であるかのように、様になっている。
乱雑に振り下ろされた棒を受け流す。棒を突き出したまま、少年の体が流れた。そこへ情け容赦ない落雷のような振り下ろしが放たれる。
渇いた音が響いて、少年の棒がへし折れていた。
少女は棒を投げ捨てると、次の瞬間――信じられない行動に出た。
「まったく……本当に……お前も! お前も! お前も!」
叫びながら、少女は僕を囲んでいた同級生達を殴り飛ばしていったのだ。
「お前も! お前も! お前も! 大勢で一人を囲んで、本当に! 情けない! 恥ずかしくないのかッ!? それが男のやることか!?」
あっという間に、全員を叩きのめしてしまう少女。
そして。
「お前もだ! 男がただやられっぱなしで悔しくないのか!?」
少女の矛先は、最後に残った僕に向けられる。
「で、でも……僕は、弱くて……」
「なら強くなれ! 一生そうやって這いつくばっているつもりか!?」
「む、無理だよ……無理だったから、今もこうやって……」
弱音を吐き続ける僕。
実際、この時は本気でこう思っていたんだ。
僕は気弱で、内気で、自分がなくて、喧嘩なんて勝ったことは一度もないどころか、一発やり返したことだってない。
誰だって僕みたいなのを見ていればイライラする。
僕は一生這いつくばって生きていくのだと、本気で思っていたんだ。
でも。
彼女はそんなことお構いなしに言ってくる。
ざっ、と足を開く。
砂埃が舞う。
息を大きく吸い込む。
夕日に照らされた金色の髪がきらきらと輝いていた。
そんな場合じゃないとわかっていたのに、少女の姿を本当に美しいと感じてしまった。
少女は言う。
「この世界に、本気で願って叶わないことなんてない!」
黄金の雷に打たれたような、鮮烈な衝撃が駆け抜けた。
そんな綺麗事をこれまで信じることができなかったから、僕はずっとダメな自分をダメなままでいいと諦めていたはずなのに。
これまでの人生で、耳触りのいい言葉はいくらでも聞いてきたはずだ。
なのにどうして、彼女のことばだけがこんなにも響くのか。
それはきっと、彼女が本気でそう思っているからだろう。
彼女が本気なのだと、確信できた。
彼女の姿に――憧れた。
人形のように整った可憐な容貌からは想像もつかない気丈さ。
容貌から想像がつかないのは、彼女の気性や言動だけではない。
同年代の男の子をものともしない
あの強さ。
そしてなにより、あの華麗な剣捌き。
使っていたものこそ、ただの棒だった。傍から見れば、子供がチャンバラに興じていたようにしか見えないだろう。
それでも、僕にとっては、この世界のどんなことよりもすごいと思えたのだ。
こんなふうになってみたいと思った。
こんな自分のままでは嫌だと思った。
こんな僕だって変わりたいと思った。
初めて本気で、何かを願った。
――僕は、夢を見ることが嫌いだった。
僕には、夢がなかった。
僕には、何もなかった。
夢も、才能も、友達も、好きなことも、なにも。
夢がないから努力することもない。
才能がないから努力せずできることもない。
好きなことがないから、努力したこともない。
僕は、夢という言葉が嫌いだった。
何かを目指せる人が、嫌いだった。
羨ましかったのだ、妬んでいたのだ。
何かを目指せる人は、何かを持っている人だ。
それは、夢だったり。
才能だったり。
友達であったり。
そのことを好きであることだったり。
何もない僕に、夢などあるはずがない。
学校の授業で、『将来の夢』をテーマにした作文を書きましょう、なんて言われた日には最悪だ――白紙が僕に突きつける、自分がどれだけ空っぽな人間かということを。
だから僕は一人で、何も願わず、何も成せず、一生這いつくばって生きていくと思っていた。
何もなかった僕が。
初めて何かを願えると思った。
初めて何かになれると思った。
きっとこの瞬間は、出会いは、一生忘れられなくて、僕の一生を変革させるものなのだと、自然に感じ取れた。
これが僕と、彼女の――刃堂迅也と、雷崎雷華の出会いだった。
□ □ □
過去に馳せていた意識を引き戻す。
目の前の龍上さんが、苛立たしげな視線を向けつつ、口を開く。
「そろそろ時間だけど、このまま雷崎ちゃんが尻尾巻いて逃げちゃったらどうす――」
言葉の途中。
僕の背後で、扉が開く音がした。
「ごめん、ジンくん。遅くなった!」
その声音で、その息遣いで、走ってここまで来たのがわかる。
あの時と同じだ。
彼女はいつだって、僕を救ってくれる。
あの時とは違うのは、僕だって強くなったということ。
今度は、僕が彼女を救わなければいけないということ。
僕は振り返らずに言う。
「――ほら、来た」
「……ま、こっちのほーが面白いからいいけどさ」
僕と龍上さんが、同時に獰猛な笑みを浮かべる。
□ □ □
時間は僅かに遡って、ライカがジンヤのもとへ向かう直前。
彼女は迷っていた。
誰もいない教室で、一人夕日に染まる景色を見つめる。
夕日を見ると、いつも浮かんでくるのは、まだ泣き虫だった頃の少年の顔だ。
あの頃の少年――ジンヤは、本当に情けなかった。
出会ったばかりの頃は、腹が立ってしょうがなかった。
幼い頃から男の子に混じって道場に通っていたからだろう。
彼女は人一倍負けん気が強くて、中でも自分のことを女だからと見下してくる男が許せなかった。
だからこそ、男よりも強くあろうと努力したし、強くない男は嫌いだった。
ジンヤは、自分が思い浮かべる情けない男の代表だ。
うじうじと後ろ向きで、すぐに泣く……だが、どういうわけか、彼もまたライカと同じように異様なまでに負けん気が強かった。
彼はライカと同じ道場に通い始めた。
そこで彼は、ライカに何度負かされようと、膝をついて木刀を手放すことはしなかった。
彼は確かに弱かったが――このまま永遠にそうであるとは、思えなかった。
幼いライカが感じた予感通り、ジンヤは強くなっていった。
だが――三年前のことだ。
彼は、とある決定的な敗北をすることになる。その敗北を機に、ジンヤとライカは離れ離れになった。
ライカは、そこで彼が折れると思っていた。
戦いの道から離れて暮らすのだろうと思ったし、それでもいいとも。
例え彼がどういう道を歩もうと、もうあの日の自分が嫌いだった少年はいない。
仮に道が分かたれても、きっと自分は少年とこれまでのように笑い合えると思っていた。
そして――彼は帰ってきた、前よりもずっと強くなって。
変わってしまったのは、自分ほうだ。
ライカもまた、決定的な敗北をした。
ジンヤと離れている間に経験した、ある敗北をきっかけに、全てを失った。
自分が成すはずだと願っていたことも、少年との約束も。
……そして、これは彼に隠していることだが、ジンヤがいない間、自分を助けてくれた憧憬の相手も、全て……全て、失ったのだ。
しかし。
再び少年と出会った時、ライカの中にある思いが芽生えた。
再会だけで、全てが変わったわけではなかった。
芽生えたのは、予感だ。
彼ならば。
ジンヤならば、何かをしてくれるのではないかという、そんな仄かな予感。
それを縁に、彼女はここまで来た。
ジンヤが待つ、この場所まで。
□ □ □
「《魂装解放》――《迅雷》」
「《魂装解放》――《氷狼双牙》」
魂装者を武装化させる起句を唱える。
ライカの武装名には、少々気恥ずかしいものがある。
龍上さんの横にいた青髪の少女――彼女が龍上さんのパートナーだろう――と、僕の横にいるライカが同時に、その姿を変じさせる。
龍上さんは、二刀の刀を。
僕は鞘に収められた刀を。
両者が武器を手にして構える。
彼女までの距離は十メートル程。これは公式戦でも適用されるルールに則っている。
この闘技場には、仮想戦闘術式が張られていて、お互いの攻撃で肉体が傷つけられることはない。
ただし痛みはあるし、精神と体力が削られるので、実際の戦闘同様に何度か切られれば戦えなくなるし、急所への攻撃を食らえば、実際と同様にそれだけでお終いだ。
「レフェリーは先生がやっちゃうよ~! 恋のレフェリーまつりちゃんをよろしくね! 正々堂々戦って、青春しちゃお~!」
……どういうわけか、風祭先生がレフェリーを務めるようだ。
僕も龍上さんも、彼女が担任だし、龍上さんが頼んだのかもしれない。
まあ先生なら不正はないだろうという信頼はあるし、いいか……。
『――Listed the soul!!』
リステッドザソウル。
魂を掲げよ、という意味の開戦を告げる電子音が響く。
魂装者が変じる武装の形状は、その魂の在り方だと言われている。それを掲げ、騎士として己の魂に恥じない戦いをしろという意味だ。
「これで終わんないでよ、シラケちゃうからさぁッ!」
龍上さんが右の刀を振るう。
刀身が青色に染まった刀が纏っているのは、氷属性の魔力だろう。
彼女の周囲に冷気が渦巻き、気温が下がっていく。
前方に生成された氷柱がこちらへ向けて放たれていた。
二本を身を捻って躱し、一本を鞘をぶつけて破壊。何の変哲もない攻撃だ、ただの挨拶代わりだろう。
「へぇー、動けるねえ……だったら!」
龍上さんが、右の刀をタクトのように振るった直後――足元に魔力の反応。即座にその場から前方へ大きくステップ。つい数瞬前まで僕がいた空間に、巨大な氷柱が突き立った。
「これも避けるぅ? なら今度はこれでどーよ!」
放たれたのは先刻と同じ氷柱――ではない。
氷柱の内部に、先程とは異なる魔力の反応を感じた僕は、即座に抜刀して氷柱を斬り伏せる。
大きく狙いを外していた一つを除き、全ての氷柱を両断、破砕。外れた一つが、後方で爆散した。細かな氷刃が辺りを引き裂く。
「マジ? 初見で反応するそれ?」
「一つの攻撃に別の術式を混ぜる発想は悪くないけど、それなら完璧に最初の氷柱と同じように偽装しないと意味がないね。僕が言える義理じゃないけど、術式の作り込みが甘いよ」
「そうだよキララちゃん~! あとでコツ教えてあげよっかー?」
「まつりちゃんうっさい! 気が散る黙って!」
「……は、はぁーい……」
しょんぼりして、肩を落としとぼとぼと下がっていく風祭先生。なんだったんだ……?
まあいい。気を取り直して、戦いに集中しよう。
先刻の攻撃。
氷柱を飛ばす単純な魔術を改造して、氷柱の内部に火属性の術式を組み込み、相手の付近で爆破、氷の破片によるダメージも狙っていたのだろう。
爆破術式の起動の前に、微弱な魔力を込めた刃で斬り伏せ、術式の作動を阻害したのだ。
爆破術式の存在をさらに偽装する術式まで組み込んでこその技だろう、そこに至らなかったのは詰めが甘いと言わざるを得ない。
しかしこれでわかった。
龍上さん自身が恐らく火属性。
そして魂装者の方が氷属性か。
火と氷の二重属性。やれることのバリエーションは多いだろう。
加えて彼女はBランク。ならば瞬間出力もスタミナもかなりのものだろう。
こっちは瞬間出力――一度に出せる魔力量の限界で、技の威力はこれで決まる――も、スタミナも大してない。
攻撃力は頼りなく、長引けばスタミナ切れで終わりだ。
厄介だな……正直、楽に勝てる相手ではない。
『ジンくん……大丈夫なの?』
ライカの声が響く。
「大丈夫、きっと勝てるさ」
楽に勝てる相手ではない?
当然だ。
誰よりも才能がない僕が楽に勝てる相手なんて、この先に誰一人いないだろう。
僕が目指す道は、願う夢は、そんな簡単なものではない。
ああ、訂正。
「――必ず勝つよ、僕達が目指す夢のために」
「小手調べでイキんなっての~……ちょこまかうっざいなぁ、そしたらこーじゃん!」
青色の刀を床へ突き立てた。莫大な魔力が放出され、龍上さんの周囲が凍りついていく。
スケートリンクさながらに氷が張られたリング上。
再び氷柱が放たれた。なんとか身を捩って躱し、破壊していくも――転倒を恐れて大胆な回避が取れない。
焦燥に駆られたその時。
氷柱が炸裂――破壊も、完全な回避も間に合わない。
転倒を厭わず大きくステップ。
案の定、着地がままならず、大きく滑って体勢を崩す。
「やぁーっとGランクに相応しい格好になったじゃん♪」
よろめいた姿を見て嘲笑を浮かべる龍上さん。
「キミの目的は僕を転ばせることなの?」
「……。そぉーだよ、アンタが無様にすっ転んでるところを笑うのが目的だっつぅーの!」
苛立たしげに氷柱を放ってくる。
僕はそれに対して――前方へ踏み出した。
□ □ □
ジンヤが前方に踏み出したのを見て、龍上煌麗は目を剥いた。
ここで接近してくるというのは、予想外だったのだ。凍りついた足元への対策を講じなければ、まともに戦うことが出来ないはずだ。
その前にまず、この足場で攻撃を躱すのが至難である以上、回避に専念するのが当たり前だろう。
予想を逸脱した行動。次なる一手もまた、キララの想像の外にあるものだった。
ジンヤの右手が霞む。
投擲。
微弱な魔力を宿した何かが放たれた。
いくつかは氷柱と激突する。キララとジンヤのちょうど中間程度の場所で迎撃され、炸裂した破片が意味を成さない。
キララは二刀を振るって、飛来したモノを打ち落とす。
金属音が響く。弾かれたそれが、床に突き立つ。
二十センチ程の先端が鋭く尖った金属の棒――それが飛来したモノの正体だった。
「棒手裏剣……? 忍者かっての。しょーもな、こんなもん効くわけないじゃん?」
断じた瞬間。
目の前にジンヤの姿が。
□ □ □
「なっ……!?」
この戦いで初めて、龍上さんが明確に動揺を露わにした。
足場が悪い以上、僕が大胆に接近してくることはないと思っていたのだろう。
そもそも僕がそれを試みるかどうかとは別次元の場所にある問題として、転倒の危険性がある以上、慎重にならざる得ないのだ。
接近には時間がかかる――はずだったのだ。
その大前提を覆された故の驚きならば、無理もない。
前提を覆したカラクリはシンプルなものだ。
答えは磁力。
磁力を操り、大きく踏み出した一歩そのまま、床から数センチのところを滑空するかのように移動したのだ。
どれだけ足場が悪かろうが、足場に触れていなければなんの関係もない。
磁力を操るのに必要なのは、雷属性魔力の精密操作だ。
騎士の僕も、魂装者のライカも、雷属性だ。
属性が一致している場合は、出力が精密性が上昇する。
雷属性の特徴は、凄まじい攻撃力に、様々な応用力。
僕は、自身が持つある欠点からその特性のほとんどを使うことができない。
自身の外に電撃を放つことが出来ない。瞬間出力も乏しい。
よって、攻撃力も、射程も、騎士の中では最低クラス――故に最低のGランクの評価をくだされている。
――代わりにできることを限界まで伸ばした。
すなわち、魔力の精密操作。
一日四十キロのランニングと、一万回の素振り。
これを行う時、同時に常に魔力を練り上げ、体を循環させたり、動作の際に動かす筋肉へ、魔力を移動させ強化たりということを繰り返し、魔力操作の精密性を高め続けている。
この三年間、このトレーニングを一日足りとも欠かしたことはない。
これが他者より劣った僕が見つけた、強くなるための答え……その一つ目。
接近と同時、右袈裟の一閃。
これは左で受けられる。
右での突きが放たれた――体を右へ振って回避しつつ、彼女の右での突きを左方向へ払って、逆袈裟で返す。彼女の右肩へ入る軌道は、再び左の刀に受け止められた。
となれば当然、今度は空いた右が舞い戻ってくる。
たまらず後方を下がって回避。
二刀である以上、単純に数の利で負けているのだ。片方が防御、片方が攻撃、ただそれだけで、こちらの攻撃は通らず、一方的に攻撃される。
二刀の利は数あるが、まず特筆すべきはその防御力、二刀で防御に徹されれば、崩すのは至難だろう。
龍上さんがこちらがGランクであることを知っている以上、僕にスタミナがないことは露見している。単純に打ち合ってもスタミナの差では大敗するだろう、そこに二刀の防御が加われば、僕の敗北は必定にも程がある。
勝機は短期決戦に見出さなければならない。
ただでさえ攻めあぐねている二刀に、さらに時間制限までついている現状を目の当たりにして僕は――口端を吊り上げた。
不利上等、逆境上等……難敵である程に、斬り甲斐は増すというものだ。
「なぁーに笑ってんのかなァッ!?」
後ろに下がっていたところへ追撃を仕掛けてきた。
極小規模な爆発を刀身に当てることによる斬撃加速――それを二刀同時に行使してきた。
回避は――間に合わない。
一度後ろへ下がったところを狙われた。回避モーションの終わり際、この瞬間はどんな行動も叶わない空白地帯だ。
防御は――一手足りない。二刀による斬撃、こちらは一刀。なにをどう計算しても一つ足りない、誰でもわかる明瞭な解答……それは、僕の敗北。
どう計算しても出る答えが同じなら、まず前提の部分を変えるしかない。
僕の出した次の答えもまた、本当に単純なものだった。
「――チッ、小賢しいじゃん……ッ!」
龍上さんが眉をひそめる。
彼女の二刀を僕は確かに受けていた。刀と――そして、鞘で。
一手足りないのならば、一つ補えばいいだけの話。
互いに両手を使い尽くしての、膠着状態。
そして、これが僕の狙いだ。
わざと一歩下がって、
隙を作って誘い出した。
あれは二刀による攻撃で決めにかかってくるよう仕向ける釣りだ。
「で、これでどーすんの? なぁーんかドヤ顔だけどさあ、そっちも、鞘での即席の二刀で戦おうって? 無理でしょ、さすがにナメすぎ」
彼女の言うとおりだ。
鞘とは本来、刀のように振るわれることを想定されて出来ていない。そもそも刃がない以上、鞘での攻撃では致命打を与えることはまず無理と考えていいだろう。
この即席二刀でできるのは、無様に戦いを引き伸ばすことくらいだ。
なので当然、この即席二刀で勝とうなどと、そんなことは狙っちゃいない。
僕が狙っているのは――、
「いや……この形に持っていった時点で、キミの二刀はもう終わりだ」
「はぁ? なに意味わっかんない強がりを……」
言葉の途中。
僕が狙っていたものが飛来した。
「――痛っ」
龍上さんが呻き声を漏らす。
彼女の右手には――先刻、僕が放っていた棒手裏剣が突き立っている。
磁力で手元に引き寄せたのだ。
「ハッ、甘いって! ナメんなっての、こんな雑魚の小細工効くわけないじゃん? 魔力がカスだと頭までカスなの!?」
彼女の言葉は最もだ。
事実、棒手裏剣は先端がほんの少し肌に触れるのみに留まっており、ダメージはほぼ皆無といっていいだろう。
彼女程の魔力の持ち主となれば、ただ魔力を放出するだけで堅牢な防御を誇る。
僕の小細工如き彼女にダメージを与えることは出来ない。
だが、それがどうした。
何もこれを決め手として彼女を倒そうなどとは、微塵も思っていない。
「僕はこう言った――『キミの二刀はもう終わりだ』……とね」
刹那。
バチィッ! と電撃が弾ける音が響いた。
棒手裏剣に込められていた雷属性の魔力が解放されたのだ。
「ぐ、あッ……」
からん――と硬質な金属音が鳴る。
龍上さんが、右手から刀を取りこぼした音だ。彼女の右手は、電撃により麻痺している。
これでしばらくは二刀を使うことは出来ない。
そして、彼女の右手が回復するまで戦いを長引かせるつもりは微塵もない。
左手のみの一刀である彼女と、両手健在の僕。
もはや勝負は明白だろう。
上段からの斬り下ろしを放つ――刀を寝かして構え受けようとした、そこを狙って斬り下ろしの軌道を変更。この一刀は最初からフェイントだ、そう弁えて放てば軌道変更は容易い。
斬り下ろしは、左から横へ抜ける一閃へと変貌を遂げた。
龍上さんの左手に残った一刀が、大きく外側に弾かれ、彼女の体が流れる。
刀は流れ、体勢は崩れている。隙だらけだ、こうなったらもうあとは斬り伏せるだけ。
「勝負有りだ」
最後の一閃――
「――早漏かましてんじゃねえっての雑魚がッ!」
トドメとなるはずだった一撃は、突如出現した氷の壁に防がれていた。
その手応えに驚愕する。
傷一つ、ついていない。
恐らくこのまま何度斬撃を加えようと、砕けることはないのではないか。そう思わされた。
「ナメんなGランク! 腐ってもアタシはBランクなんだよ! アンタとは根本的な魔力の量が違うの! この壁は絶対だ! これを砕けるのも、これより上の防御力を持っているのも、うちの学園にはたった一人しかいない! 間違ってもアンタじゃどうにもできないんだよ!」
ああ、そうかもしれない。
――そうだったかもしれない。
このままの僕なら。
かつての僕のままなら。
才能という壁の前に屈して、諦めていたかもしれない。
でも。
今の僕は、その壁を壊すためにここにいる――!
「ライカ、見ていてくれ」
霊体となっているライカが、僕の背後で息を呑む気配が伝わってきた。
魂装者は武装化している時、霊体となり、周囲を確認することができる。
「この一刀で、僕らの可能性を示そう」
僕は刀を鞘に収めた。
「はぁ? なに? 諦めたの?」
納刀した僕を見て、龍上さんが笑う。
「いいや、諦めることにはもう飽きているんだ。それに僕は誓っている。もう絶対に、何があっても諦めないと」
「ムカつく……ムカつくなぁ……アンタがなんか色々努力してるのはわかったけどさあ、いいからそういうの、無駄だから……カスみたいな才能しかないアンタは、天才のアタシには絶対勝てないから。アタシにここまでさせたって事実だけ誇りにして、さっさと消えなよッ!」
左の刀を振り、氷柱を放ってくる。
体を僅かに捻るのみの最小限の動きで躱し、肉薄。
剣の間合い。
氷壁が出現する。
膨大な魔力が込められた、絶対不破の盾。
こちらは右手を柄へ、左手を鞘に――刹那、鞘の内部で雷撃が弾ける。
僕の致命的な欠点。
魔力を外部へと出力する能力の欠如。
本来、可能だったはずの、雷撃を放つような攻撃は、僕には出来ない。
それ故のGランク。
僕が魔力を流せるのは自身の体と、武器までだ。たったそれだけの範囲にしか、魔力による影響を及ぼすことができない。
敵を雷撃で撃つことは、僕にはできない。
ならば。
この欠点を抱えたままに、僕が強くなるにはどうすればいいか。
他者より劣った僕が強くなるための答え――その真髄を、ここに示そう。
この技は、僕とライカでなくては使うことはできない。
僕もライカも、雷属性。
騎士と魂装者で、属性が一致している場合、魔力の出力量や操作の精密性は格段に上がる。
ライカの武装形態は、鞘付きの刀。そして、僕とライカが通っていた道場で教えていた流派、雷咲流の技には、抜刀術も存在している。
これらの要素から、最強への道筋を導き出した。
その答えが――
「雷咲流〝雷閃〟が改――迅雷一閃ッ!」
鞘と刀身を磁力により反発させ、極限まで加速させた神速の抜刀術。
完璧な魔力操作と、持てる限りの魔力を注ぎ込んでやっと放つことが出来るこの一刀。
絶大な威力と、凄まじい速さを誇るこの一刀は――
――躱すことも、防ぐことも、出来やしない!
まず響いたのは、不壊であるはずの氷壁が、澄んだ音を響かせて砕け散る音。
そして、一閃された龍上さんの体が、崩れ落ちる音。
「勝者――刃堂ジンヤ!」
風祭先生の声が響く。
闘技場は静寂に包まれた。先程までは、龍上さんの友人達が口汚く野次を飛ばしたりしていたのだが、今は誰も、何も口にしなかった。
水を打ったような静けさの中で、最初に聞こえてきたのは。
「……ジンくん」
ライカの声。
武装化を解いたライカが、呆然としていた。目の前で起きていることが信じられないというような表情。
「……ジンくん、ジンくん……すごい! すごいよ! あの龍上キララを倒すなんて……!」
「言ったでしょ? 必ず勝つってさ――ぐわっ!?」
ライカに抱きつかれる。すごい、すごい弾力だ……。
「本当に勝っちゃうなんて、本当に、本当にすごい……強く、なったんだね」
「ああ、もう夢を諦めなくていいように。……ねえ、ライカ」
彼女の顔を見つめる。
出会ってからずっと、うつむいていて、どこか陰のある暗い顔だった。
けど、今は違う。
目を輝かせて、幼い頃のようにワクワクしていることを隠せない、そんな顔。
「……なに?」
「いい表情になった。やっとキミと再会できた気がする」
「――あ……、」
ハッとして、ぺたぺたと自分の顔を確かめるように触るライカ。
「私……ずっと暗い顔してた?」
恥ずかしそうに、口を引き結んで、上目遣いでこちらを見つめてくる。
「そうだね……でも、今は違う」
「そっか。ならそれはジンくんのおかげだよ」
そう言って、ライカは笑った。
「……よかったよ、本当に、よかった……やっと……」
ライカは昔から、笑顔が素敵だった。
笑う時は、本当に嬉しそうに笑うのだ。
ニッと白く綺麗に並んだ歯を見せて。やんちゃさとおてんばさを感じさせるような八重歯を見せて、笑うのだ。
まだ夢は遠い。ここはただの通過点。でも確かに、ここは夢へと繋がる道だと、そう思った。
「……やっと、笑ってくれた」
万感の思いを込め、そう口にした時。
「……負けた?」
龍上さんが、何が起きたかわからないと言いたげな声をもらした。
□ □ □
龍上キララは、生まれて一度も――心の底から悔しいと思ったことはなかった。
なぜなら彼女は天才だから。
一度だって努力したことのない、天才だから。
自分より才能が劣ったものに負けたことなどない。
仮に敗北したとしても、それは相手が自分と同等かそれ以上の才能を持つ天才で、なおかつ努力していたからだ。
才能の量が同じなら、努力したほうが勝つのは当然だろう。
当然のことで悔しがるなど、馬鹿らしい。
だから。
凡人に負けたことはなく。
天才に負けようが何も感じない。
そんなキララは、悔しいと思ったことが、一度もないし、それでいいと思っていた。
『悔しさ』などという、負け犬の感情に興味はなかった。
自分は生まれながらの勝者として、なんの努力もせずに勝ち続ける。
そのはずだったのに――。
「負けたの……このアタシが……Gランクの、カスに……?」
取るに足らない相手だと見下していた。
ただ自分に弄ばれるためだけに生まれた、哀れな凡人だと。
では、そんな相手に負けた自分は、一体なんだ?
ありえない、あってはならない――だが、どれだけ否定しても、事実は消えてくれない。
起きた出来事が、じわじわと自分の中に染み込んでいく。
敗北が、染み込んでいく。
そして。
「……ひっ、ぐ……ぁっ……うう、うあああああああああああああああああああっっ!」
決壊した。
涙が溢れた。
生まれて初めて思った。
悔しいと。
これが、悔しさ。
勝てると思っていた。
終始自分が押しているはずだった。
負けるわけがないと思った。
なのに、負けた。
龍上キララは、人生で初めて――本当の意味で敗北した。
悔しい。悔しい。勝ちたかった。こんな気持ち、知らない。知りたくない。惨めだ、負け犬だ、勝利だけを定められた自分の人生には必要ないものだ。
そして何より――努力したいと、次は努力して、この相手に勝ちたいと。
絶対に自分には必要ない、見下していたものを欲してしまっていたことが、悔しい。
こんな初めての気持ちを、馬鹿にしていた相手によって芽生えさせられたのが悔しい。
悔しい。
(ああ……そっか……)
これが悔しさなのか――認めてしまうと、それはどこか清々しいものでもあった。
確かに負けた。
敗北した。敗北したが、しかし。
この敗北が意味するのは――本当に、ただの敗北だろうか?
敗北は許せない、許したくないものだけど。
もしこの気持ちを抱えたまま、努力して、もう一度戦って、勝てたら。
それはどんなに気持ちのいいことだろうか。
この日がなければ、きっと一生知らないままで終わっていた。
ならば、本当の敗北というのは……。
そんなことが頭に浮かんだが、しかし今はそれよりも。
「ふっざけんな! こんなのおかしいじゃん! Gランクのカスにアタシが負けるわけないじゃん!」
胸の内にどれだけ自分に似つかわしくない綺麗な気持ちが浮かぼうが、同時に溢れ出る感情を留めることなど出来はしなかった。
こんなやつに、こんなやつに――そんな気持ちが溢れて、罵詈雑言になってこぼれ出る。
「バカ! アホ! 死ね! バカ!」
落ちている氷を手当たり次第にジンヤへ投げつける。
「……龍上さん、ありがとう。いい勝負だったと思う」
ジンヤのそんな言葉が、さらに頭にきてしまう。
「いい勝負? ふざけんな! いい勝負ってのはアタシが気持ちよく勝つこと! それ以外は全部ゴミだから! ダメな勝負だから! そんなこともわかんないのかこのクズ! 童貞! 早漏! 包茎! 短小!」
「僕は童貞だが、早漏でも包茎でも短小でもないッ!」
即座にツッコまれた。
なんなのだこいつは。
わけがわからない。
「……ジンくん……」
ライカがジト目でジンヤを見つめる。その頬は少し赤くなっていた。
ジンヤも顔が赤くなっていて、気まずそうに目を伏せていた。
「うるっさい変態! セクハラ! 死ね!」
「き、キミが最初に言い出したんじゃないか……」
「うっさい死ねバァ――――――――――カッ!」
もう滅茶苦茶だった。
滅茶苦茶で、みっともなくて、消えたくなる。
なのに。
ジンヤという少年は――笑っていた。
馬鹿にするような笑みではない。自分が彼に向けていった嘲笑では、決してなかった。
「……なに笑ってんだよぉ……」
「おかしくてさ……龍上さん、負けず嫌いなんだね」
「……は?」
負けるのが好きな人間などいるわけがない。
何を当たり前な――と思ったが、そこで気づいた。
そうか……自分はずっと、己のプライドを守りたかったのだと。
負けるのが嫌いだから、プライドを傷つけたくないから、努力せず、才能に胡座をかいていたのだと。
今はもう、完膚なきまでに壊されてしまった。
でもどうだろう、壊れてみると、案外すっきりするものだった。
同時に思う。
負けるのは悔しい。
きっとこんな悔しい気持ちを、目の前の男は何度も味わっているのだろう。
想像を絶する。
信じられない。
それでも折れないというのは、一体どれだけの覚悟を――……そこまで想像して、キララは震えた。
こいつは……。
こんなヤツ……。
こいつは、なんて……。
アンタなんか、アンタなんか……。
「アンタなんか、嫌いだ――――――――ッッ!」
こいつはなんて、すごいのだろう……っ!
内心とは真逆のことを叫んで、走り去った。
キララの手下達は、呆然としつつ、後を追って去っていく。
「すごい……あのダメージでもう動けるなんて、やっぱり魔力量が多いと回復速度も高いのかな……」
ジンヤはそんな、どこかおかしな感心をしていた。
ライカはジンヤの方をチラチラ見ながら、顔を赤くしていた。
「いやぁ~……青春だね☆」
教師である茉莉は、そんないい加減な調子で、この一幕を締めくくった。