第10話 魂を焼き尽くして
「――で、どっちが勝つと思うんだい?」
ホロウィンドウを操作しつつ、なんでもないように問いかけるのはビクター・ゴールドスミス。
問いかけた相手は――
「カハハ……そりゃあまあ、真紅園ゼキだろ。ちょっかいかけといて推さねえ訳ねえだろ」
「ほほ……では、私はアグニ殿ですな。弟子の贔屓目がありますので」
応じるのはトリスタン・ベオウルフに、ギースバッハ・エノシガイオス。
粗暴な男と落ち着いた老人はそれぞれ余裕を持って答えた。
「なるほどね。まあ当然と言えばそうだ」
トリスタンはゼキに目をつけていると言っていた。なんでも直々に相手までしたとか。
確かに彼が気に入りそうな相手ではある。
そして――ギースバッハは、アグニの師だ。入団の経緯からして団員を目の敵にしているアグニも、ギースバッハに対してのみは心を開いている。
なにせアーダルベルトを殺すために、アグニは力を欲している。
そして、そのためにギースバッハの教えを受けられるのは最短の道だろう。
驚くべきというか、流石にもう慣れたが、それもアーダルベルトが命じているというのだから、本当に狂っている話だ。やはり古参組は狂気が違う。ビクターは後から入団したため、どうにもその辺りにはついていけないと思っていたが、別段ついていく必要も感じない。
――さて、予想してみよう。
勝つのはどちらか。何も暇つぶしという訳ではない。ここでの思考は、後々のビクターの目的にも役に立つ。
順当に考えればアグニだが、ではゼキが勝利できる道筋はあるのだろうか?
お互いに《主人公》同士。
《主人公》とそうでない者程、《法則》に強制力はないだろうが、それも刃堂ジンヤというイレギュラーの出現でどこまで信用できるか。
その辺りも考慮しなくてはならないか。
まず、基本の《係数》で言えばアグニが圧倒的。
なにせ彼はアーダルベルトとの《因果》があるのだ。
単純に、持っている《因果》の強さであれば圧倒的だろう。それだけで《係数》は決まらないが、強固なアドバンテージであることに代わりはない。
さらに、真紅園ゼキの不利になる材料としては、彼は既に蒼天院セイハと全力で戦ってしまっている。
《法則戦闘》においてこれはかなりの痛手だ。
一人の《主人公》が、そう何度も短期間で劇的なドラマを持つことは難しい。特に蒼天院セイハは、真紅園ゼキにとって宿命のライバルだろう。唯一無二の強い《因果》で結ばれた相手と戦って、劇的な勝利をしてしまった後だ。
こんな経験はないだろうか。
長期連載の漫画において、終盤の敵よりも、それ以前の敵の方がずっと魅力がある。
それと似たような話だ。
先に強いドラマを使ってしまえば、後でネタ切れになってしまう。
その辺りの長期的な計算、調整を、《法則戦闘》を知らない子供に求めるのは無意味だが。
それにトーナメントの組み合わせ次第だ。
真紅園ゼキは運があるのか、ないのか。見方次第だが、なくはないだろうか。本当に運がなければ、蒼天院セイハと当たることすらなく、つまらない消え方をしていただろう。
アグニの方が、余程《物語》を温存できている。
基本的な数値で劣っている上に、これまでの流れを見ても、ゼキが不利か。
ではここでイレギュラーを考慮してみよう。
簡単に結論を急いでしまっては、トレバーと同じだ。あれはあれで面白いが、彼は思考に遊びが足りない。それでは《法則戦闘》には対応できないだろう。なにせこれは、まるで《神》の遊びなのだから。楽しむくらいでちょうどいいのかもしれない。
――真紅園ゼキは、《法則》を超えられるのか?
こう言い換えても良い。
彼は刃堂ジンヤと同じ境地に到れるのか?
だが、真紅園ゼキは、刃堂ジンヤではない。別段、イレギュラーである必要はないのだ。
《主人公》なのだから、素直に《法則》に沿った勝利をしたっていい。
むしろ《法則》を超えることでしか勝ち筋がない刃堂ジンヤより、余程予想が難しいかもしれない。
思考の盤上にある要素のみで行き詰まったら、もう少し俯瞰してみてもいい。
例えば、今後の《因果》。
トリスタンは、封印した真紅園ゼキとの《因果》を解放するだろうか?
真紅園ゼキに、他の《因果》はないだろうか。
――そういえば、ユウが暴れた際に、真紅園ゼキは、龍上ミヅキと交戦していたか。
龍上ミヅキ。
ビクター個人として、とても興味深いピースだ。
彼の性質を考えれば、彼がこの大会で負けようが、勝とうが、どちらでもいい。
所詮は命の懸からない戦いだ。本当の戦いはこの先である。だからこそ、安全に蠱毒を行えるという特異なメリットがある。
だが負けるのならば、劇的に、屈辱的に負けてもらわねば困るか。
下らない負け方では、彼の今後のためにならない。
だが勝つなら勝つで構わない。赫世アグニや輝竜ユウヒを蹴落としてしまうことがあれば、彼の価値に気づかれてしまうが――その時はその時だろう。
そうなれば少し計画を調整してやればいい。
龍上ミヅキ対真紅園ゼキ。
そういう決勝も楽しめるだろうが――そのパターンなら、邪魔になるのは輝竜ユウヒだろうか。
彼も彼で興味深いが――なにせ相手はレヒト・ヴェルナーだ。
レヒトが関わってしまうとますます読みにくい。彼は異質すぎる。
ああ、本当にイレギュラーだらけで面倒だ。
だからこそ面白いが、読み筋が無数に増えて厄介であることには違いない。
さて――では結論。
「うーん……さっぱりわからないな」
お手上げだ。
だが、ビクターはトレバーのように結論を急ぎすぎることもなければ、一つの要素に拘って視野狭窄に陥ることもない。
「というか、どちらが勝つかよりも重要なのは……」
そこでビクターは気づいてしまう。
今後の展開次第では、《法則》の読み方がより面倒になってしまうことに。
□
「――――――さあ、殴り合おうや」
澄み渡る夏空の下で、少年のような笑顔を浮かべるゼキ。
その瞬間――アグニの脳裏に、いつかの夏の日の記憶が蘇ってきた。
麦わら帽子を被って、ワンピースの裾をはためかせて笑うカレン――
刹那――バキィッ! と肉と骨を打つ音が響いて、ゼキの拳がアグニの顔面に突き刺さった。
が、アグニは一切動じず。
顔面にゼキの拳がめり込んだ状態のまま口端を吊り、狂気の混じる笑みを浮かべた。
「ぼけっとしてんじゃねえぞ」
「……ああ、詫びの代わりだ」
アグニの剛拳がゼキを吹っ飛ばした。
なぜ、笑みなど。
何を思い出そうとしているのだろうか。
自身が制御できない。
この高揚は、なんだと言うのだろうか。
――――戦いを、楽しんでいる?
あり得ない。
それは余分だ。必要なのは殺意のみ。
復讐に全てを焚べた己にそんな余裕があるはずがない。
なにより笑うことなど許されない。
もう愛する者達は二度と笑うことも悲しむこともない。
永劫に全てを奪われた。
たった一人生き残った自分が、どうして笑うことなどできようか。
それをしてしまえば、愛する者達への、これまでの復讐の道を歩んできた己への侮辱となる――そのはずなのに。
吹っ飛んだゼキがリングへ叩きつけられて、歓声が湧き上がった。
――――耳障りだ。
不愉快だ/そのはずなのに、
不愉快だ/さっさと終わらせるべきだ、そのはずなのに――、
再び、過去の記憶が蘇ってくる。
□
「…………また負けたっ……! くっそぉ……、なんでだよ……」
「ははっ。本気で悔しがるのはいいけどな、でもさすがに今のアグニには負けてやれないなあ」
「なんだよそれ、子供が大人に勝っちゃいけないの?」
父は――赫世紅炉は、本当に強かった。
いずれアーダルベルトが自ら手を下す程だ。当然、幼いアグニではまるで歯が立たない。
「いいや、年齢で全ては決まらないよ。実際、アグニは大人にだって勝てるだろう? それはもちろん、お前がしっかり努力しているのもあるが……お前がちゃんと僕の才能を受け継いで……いや、僕よりもずっとすごい才能を持っているからだ」
「本当? 僕、父さんよりすごくなれる!?」
「なれるさ。今のまま頑張っていればね。……いいかいアグニ、お前は僕よりも優れた才能を持っているが、それでも今は僕の方が強いのは、長く生きている分色々な経験をして、たくさんの努力をしてきたからだ。そういう確かな積み重ねに勝つのは、簡単なことじゃない」
「じゃあどうすればいいの……?」
「うーん、そうだなあ……」
父は少し考え込んでから、
「罠に嵌めるとか、相手より大勢の人数で戦うとか、そうやって有利な状況に持ち込むことかな」
「ええ~……なんかずるい、普通の方法教えてよ」
「あのなあ、アグニ……これが『普通』だ。勝たなきゃいけない時にずるいだなんだと言っている方が普通じゃない。まあ……お気に召さないならそうだな、つまり、一対一で、正々堂々と、『確かな才能と、確かな積み重ねを持った強い相手』を倒すにはどうすればいいか、ってことか?」
「そう!」
「……じゃあ、死ぬほど頑張るしかないな」
「なんだよ、あいまいだな」
「お前が無茶を言うからだ」
そう言って紅炉はアグニの頭を乱暴に撫で回す。「なんだよー」と言いつつ、アグニの顔は嬉しそうだ。
「……まあ生きてればそういうどうしようもない相手を当たることもあるからな。状況によるさ。例えばそうだな……カレンちゃんを守るために戦わないといけないって時に、お前は『ずるい』だなんだと、そういうことを気にするのか?」
「なんでそこでカレンが出てくるんだよ」
「いいから。答えろ」
珍しく鋭い声を発する父に少し気圧されつつ、アグニは言葉を紡ぐ。
「……なんだってやるよ。カレンのためでも、父さんや母さんのためでも。ずるいとか言ってる場合じゃないだろうし」
「まあそういうことだ。その時々だな。その戦いはなんのためなのか。守りたいのは自分のプライドなのか、それとも大切な人なのか。その内そういうことを考える時がお前にも来るよ」
「……なるほど……」
もっともらしく頷いているが、本当にわかっているのだろうか。だが彼ならばいずれわかる時が来るだろう。
「……じゃあさ、父さんは今までそういう戦いってしたことあるの? 父さんより強いヤツっている?」
「っはは、そりゃ大勢いるさ。世界は広い」
「嘘だろ、大勢……? 僕、父さんにも勝てないのに……」
「お前……時々生意気というか、大物だな……、どれだけ強くなる気だ……?」
「それは……わかんないけどさ」
「よし、じゃあいいものを見せてやろう。今のお前にも参考になるだろうしな」
そう言って、端末のデータにある動画ファイルを送信してもらった。
それからアグニは、何度も何度もそれを夢中になって見ることになる。
□
「カレン、カレン、これ見てよ」
「どうしたの? 今日は元気がいいのね」
いつになく興奮した様子のアグニに不思議そうに首を傾げるカレン。
それからアグニの端末で一緒にある動画を見た。
――それは、過去の彩神剣祭のものだった。
赫世紅炉が出場していた。
今の彼よりもずっと若い。なにせ紅炉の学生時代――アグニが生まれる前の話だ。
アグニが成長したらこうなるのかと、カレンは少し息を呑んでしまう。
紅炉は強かった。学生時代の彼でも、やはり今のアグニでは到底及ばないだろう。
次々に勝ち上がっていく紅炉の姿にも勿論憧れたのだが、なによりも。
その動画の中で最後の試合。これが一番の名勝負だった。
相手の騎士は凄まじく強かった。それでも父だって負けてはいない。一進一退。そして、壮絶な勝負の果てに、父は負けてしまう。
だが、父を倒した相手はその大会で優勝する。きっとその相手さえいなければ父は優勝できたはずだ。
優勝こそ逃したものの――父の背中は本当に格好良かった。
――――アグニは、どうしようもなくその背中に憧れた。
こんな風になりたい。
父と同じ場所に立って、自分の全力を賭して戦いたい。
そして出来ることならば、父ができなかった優勝を勝ち取りたい。
それができれば、どれだけ誇らしいだろうか。
父は褒めてくれるだろうか。
――だが、そこで気づいてしまった。
カレンは戦いが嫌いだ。
自分だって、そうだった。強大過ぎる力は、他者を傷つける。
父の手に残る火傷の痕。アグニはずっと、自分の力を恐れていた。
だが、ただ恐れているだけではいけないと、父から教わった。自分の力を理解し、制御し、練磨していく。そうすればもう二度と、望まぬ形で他者を傷つけることなどないと、そう父は教えてくれた。
カレンも同じだった。
だから一緒に、誰かを傷つけてしまうかもしれない力を磨き続けてきた。
それなのに。
こうして戦いの場への憧れを語ってしまえば、カレンに嫌われてしまうかもしれない。
そんな不安が浮かんで、恐る恐る彼女の顔を覗き込むと――。
彼女は、嬉しそうに微笑んでいた。
「……アグニ、これに出たいの?」
「……え、と……あれ……カレン、なんで……」
カレンの表情に驚くアグニ。
「なんでって、なんでよ? わたしが嫌がると思った?」
「それは、だって……」
「もちろん、戦うのは怖いわ。……でも、なんだかこの人達は少し違うの」
「……うん、そう、そうなんだ……! カレンも、わかる……? なんでかな……」
勢い良く頷くアグニ。
彼だって戦いが怖いのは同じだ。それなのにどうして、こんなにもあの場所に惹かれてしまうのだろうか。
アグニはそれを、大好きな父親が活躍しているからだと思っていた。
無論、それもある。
だが、それだけではなくて――。
「……だってみんな、こんなにも楽しそうなんですもの」
「――……あ、そうか……」
カレンの言う通りだった。
ここにいる者達は、みんな笑っている。その在り方は、アグニが思う『戦い』とは異なっていた。誰かを傷つけることだけが目的ではない。勿論、傷一つつかないという訳ではない。
選手のスタンスはそれぞれ異なっていて、相手を傷つけることを厭わない選手だっている。
それでも大半の選手は、傷つけることが目的ではない。
ただ、自分の力を出し切って、己の限界へ挑戦して、そうして相手と競い合って。観客は試合の行く末を見守り、磨き上げられた技に興奮し、戦いが終われば、双方の健闘を称える。
最後には、みんなが笑顔だった。
父さんだって、笑っていた。
負けたって、悔しくたって、それでも、全力で戦い抜いたから。
「……それにわたし、アグニと一緒、アグニの夢を追いかけてみたい。もしもそんなことができたなら……それはきっと、とても素敵なことだと思うわ。少し怖いけど……それでも……今は、楽しみな気持ちの方が強いの」
「うん、うん……そうだよ、僕も同じなんだ……怖いけど、でも……!」
臆病な二人が、初めて、心の底から戦いたいと願って。
一緒に追いかけると誓い合った夢だった。
剣祭へ出場する数多の騎士と魂装者が同様にしているであろう誓いを、二人はここでしていた。
いつか二人で、あの場所へ行こう。
だが――二人の夢が、果たされることはなかった。
□
蘇っていく記憶を手繰る。
ずっと閉じ込めていた記憶。
忘れようとしていた。目を背け続けていた。
過去のことを思い出すと、心が折れそうになるから。
矛盾だった。
過去がなければ、復讐なんて出来ない。
過去にすがれば、復讐なんて出来ない。
大切な者達のために――だが、その大切な者達が、こんなことを望むだろうか?
そんなことはわかっている。
こんなことは、誰も望まないだろう。
しかし、意味がない。望まないから、それがどうした。
誰も望まずとも、自分自身が許せないのだ。それにもう、父は死んだ。死者は何も望まない、願わない、願えない、だって全てを奪われたのだから。
過去がなければ、復讐などしていない。
過去を思い出す程に、復讐など望まれていないことに気づいてしまう。
――結局は、自分次第だ。
そして、それ以前に。
復讐の是非がなんだと言う前に――今のこの状況。
全力を出してなお、相手を仕留めきれていない。
この場所。
彩神剣祭という舞台。
いつか果たされなかった夢。約束の残滓。叶わないはずだった願い。
「……ああ、そうか……」
気が付かなかった。
いいや、気づいていたとしても、今更どうでもよかったはずなのだ。
それなのに。
もうどうでもいいと思っていたはずなのに。
こんな下らない事実が、どうして今になって胸を締め付けるのか。
「……カレン、俺は今、叶わなかったはずの夢の中にいるよ」
心が折れそうになる。
彼女に縋りたくなる。
こんな形で夢が叶ったところで、この手にあるのは彼女の残滓だけ。
彼女の魂はここにはない。
これでは、夢が叶ったとも言えないか。
それでも。
ああ、だから。
――自分でもわからない、心の動き。なぜこんなにも高揚していたのか。なぜ笑みなど浮かべてしまったのか。
今、この瞬間のだけのものではない。これまでにも、おかしな点はあった。
――――なぜ、あんなにも刃堂ジンヤに対して苛ついていたのか。
分不相応な大望を抱くのは勿論不愉快だった。
だが、それだけではないのだろうか。
――あの時、父が剣祭で敗北した相手。雷を纏った抜刀の使い手。
あれはきっと刃堂ライキ――刃堂ジンヤの父親だろう。
無意識に対抗心を抱いていたのだろうか。気づいていても、取るに足らないと決めつけていたのか。どちらでもいいか、気づいてしまったのだから。
――――勝ちたい。
彼と戦って、勝ちたい。父を倒した男の息子を、ここで倒す。
父の無念を、今ここで晴らす。父に出来なかったことを成し遂げる。
彼に才能がなかろうが、《英雄係数》がなかろうが、知ったことではない。そんなことは関係ないと、彼自身が既に証明している。
あれだけ彼を認めないと言っておいて都合のいい手のひら返しだろうが、そんなことはどうだっていい。
――あの日の憧れた背中に、追いつきたい。
許されるのだろうか、そんなことが。
今になって、そんな想いを抱いていいのだろうか。
復讐はどうなる。
それは、これまでの己の歩みを、否定することになるのではないか。
「――――おい」
その時、立ち上がったゼキの声が、鋭く響いた。
「なに迷ってんだか知らねえけどよ……いつまでもビビってんじゃねえよボケが」
この男も、本当に、つくづく苛つくな――と、アグニは改めて思う。
どこまでも見透かしたようなことを言う。
「――――テメェは、笑ってんじゃねえか。テメェに何があったかなんか知らねえけどな、それが全部だろ。なあ、今おもしれェよな、そうだろ? そうだよなあ? だったら他にそれより大事なことがあんのかよ?」
「……ああ、そうだな」
こいつは最初からこちらのことを見透かしていた。
――「ビビってんじゃねえぞザコがァァッ! オレはなあ、セイハの代わりにテメェをぶっ飛ばさなくちゃいけねえんだよ。悪党が尻尾巻いて逃げ出してえのはわかるけどなァ……、きっちりオレにぶっ飛ばされてから消え失せろや、チキン野郎がァッ!」
そうだ。
赫世アグニは、臆病者だ。
何に対しても恐れを抱いていた。
――他者を傷つけることを、恐れていた。
――臆病者のくせに、復讐なんて不相応な大望を抱いたから、必死に強がっていた。自分の心が折れるのを怖がって、殺すだなんだと息巻いて、弱い自分を隠そうとしていた。
――そして今になって、自分の本当の願いに気づいてもなお、それを受け入れることを恐れている。
今からこれまでの全てに泥を塗る。
復讐が全てを定めた己の誓いを炎に焚べる。
無論、復讐を捨てるわけではない。諦めるわけでもない。
それでも、もう笑う資格がないと、何かを楽しむことなど許さないと、そう決めていたことを捨てる。
戦いを楽しむなどという余分などいらない、必要なのは憎悪と赫怒。そう定めてきた在り方を捨てる。
おかしな話だ。そんな復讐者がいるだろうか。不純だ。とても純粋ではない。
だが、知ったことか。
――それが全部だろ。
ああ、そうだ。
どうしようもなく癪だが、あの男の言う通りだ。
「……いくぞ」
「おう、来いよ――随分といいツラになったじゃねえか」
互いに魂装者を解いた。男の喧嘩に武器は不要――などと考えた訳ではない。
もはや互いに魔力は枯渇寸前。その状態で魂装者をぶつけ合えば、破損の可能性が高まるからだ。
《魂装供犠》を経た状態の魂装者は、通常の魂装者にある自動修復機能が存在しない。
破損した際にその箇所を修復するのなら、既に武装と一体になっている、元となった魂を削って、修復に回さなければならない。
それを繰り返せば、やがて魂は摩耗し、その武装は永久に修復不可能になる。
輝竜ユウヒが自身の魂装者が傷つくことを極端に恐れていたのは、こういう理由からだ。
そして二人は駆け出し、拳と拳をぶつけ合う。
互角――否。
「ぐッ、ぎィ……!」
ゼキが歯を剥いて、奥歯を噛み締め痛みを堪えた。
力比べならば、やはりアグニが上。
そして、さらに激しく攻め立てていくアグニ。
一撃が重い。その上で、身のこなしが軽く、回転数の高いラッシュをかけてくる。
ガードしても、その上から効かされる。
ただガードしても意味がない、削られていくのと同じだ。
「――ッ、のォッ!」
隙を見て反撃。アグニも相手に一発でも多く当てようと前のめりになっていた、隙自体は簡単に見つけられた――が、
止まらない。
顔面に拳を叩きつけても、動じずそのまま突き進んでくる。
一撃が重い上に、凄まじいタフさ。
「がッ、は……ッ!」
ブッ飛ばされた。血を操作し地面に血杭を打って削り勢いを殺して体勢を立て直す。
後少しのところで、アグニが《メテオール》によって生み出したマグマの海に落とされるところだった。
そこに落ちたところで、魔力で自分を守れば問題ないのだが――今のようなギリギリの状態で、そこに魔力を割いていれば、ただでさえやっとの思いで掴んでいる勝機の糸から手が離れてしまう。
「ずっと思ってたが、どういうパワーしてやがんだマジで……」
「悪いが鍛え方が違うのでな」
文字通りの意味だった。
アグニは生まれつきの膨大な魔力を利用して、幼少期からずっと己に負荷をかけつづけている。
それ自体は、騎士にとって一般的なトレーニングでしかない。
だが、それをアグニという世界有数の才能を持つ者が行えば?
しかもアグニは、復讐を誓って以降、その負荷をさらにリスク度外視の域まで高めて行っていたのだ。
――現在、ゼキの記憶からは抜け落ちているが、トリスタン・ベオウルフの異様な膂力と、理屈は同じだ。
もはやアグニやトリスタンは、人間としての限界など軽く超えている。
そして、その超人的肉体に、膨大な魔力を通せば?
パワーの面でアグニが別格なのは当然のことだろう。
二回戦、彼が魂装者なしで相手を倒してしまったのもそういうことだ。
殴り合いの勝負に持ち込めばこちらに分がある――ゼキはそう考えていたが、そもそもの大前提に誤りがあった。
殴り合いだろうが、依然アグニの圧倒的有利は揺らがない。
それでも――
「……まあ、知ったこっちゃねえがなッ!」
ゼキは駆け出し、殴りかかった。
「喧嘩ってのは筋肉でやるもんじゃねえんだよッ!」
この戦いはベンチプレスの重量を競うものか? 違うだろう。それならばゼキはとっくに負けている。
「……だったらなんだ?」
以前までなら、ゼキの戯言になど興味はなかっただろう。だが、今は違う。この男を殺したいのではない。
ただ殺すことが、殺意の強さが、そんなものが大切だと思っていた。
だが、本当にそうだろうか?
――「殺意が透けてンだよ。冷静ぶっても、頭に血ぃ上って攻めが甘くなってんぞ」
ただ殺意を滾らせたところで意味はない。
むしろ、相手を殺すと決めつけてしまっては視野が狭まる。こいつの命など、どうでもいい。こいつは復讐の対象ではない。
大切なのは、勝つことだ。
殺すのか/殺さないのか――そんなことを確定させて戦う必要はない。どちらでもいい、そちらの方が取れる選択肢は増え、相手にとっては読みづらくなるだろう。
この大会には、『殺さない』ことに拘る温いヤツらが多い。そいつらも同じだ。相手を傷つけないようにという思考は刃を鈍らせ、選択肢を狭める。
アグニはここに来て、ただの学生騎士にも、殺意にのみ染まった復讐鬼にも至ることの出来ない、新たな境地へ足を踏み入れていた。
「喧嘩ってのはなあ、拳に握った魂でやんだよ――――いいか、魂を握った……オレの、拳は、砕けねえッッ!」
ゼキの拳が、再びアグニを捉えた。
大きく仰け反るアグニ。
倒せてはいない。それでもまったく効いていない訳でもない。
そしてダメージ以上に、どうにもこの男の言葉は無視できない何かがある。
相手をただ倒すのではない。相手と向き合い、全力を引き出し、己もまた全力で臨む。相手が余所見をすれば激昂し、徹底的に相手と力をぶつけ合うことに拘る。
復讐に染まっている時のアグニならば、ただの理解不能な愚か者としか思わなかった。
だが、今は違う。
過去のことを思えば、彼の戦いはある種の理想だ。
相手をただ傷つけるのが目的ではない。純粋に競い合うことに拘る。
――こいつは、蒼天院セイハとの戦いが終わった後も、楽しそうに笑っていた。
それは、かつてこの場所に抱いた憧れそのものだ。
どうしようもなく嫉妬してしまう。
もしもここにカレンがいれば。自分の人生が、こんな悲劇に満ちたものでなければ。
彼と心からの喧嘩ができていれば。そんなあり得ない夢を見てしまう。
そんなことは、絶対にできない。
――いいや、本当にそうだろうか。
なぜ勝手に己の可能性を狭める必要があるのか。
この期に及んで、一体何に拘るというのか。
蒼天院セイハが、勝つための手段として戦いを楽しんだように。
どんな手を使ってでも、勝つことに拘るべきだ。
「いいだろう……やってやるよ、喧嘩とやらをな」
「おいおいなんだよ、随分ノリが良くなったな。ま、こっちとしちゃ大歓迎だがよ」
そう言って、睨み合って、互いに狂気に満ちた笑みによって犬歯を剥き出しにしていく。
「――――ただし、俺のやり方でな」
アグニはそう吐き捨て、駆け出した。
右ストレート――何の変哲もない一発でさえ、アグニが放てば必殺になる。ゼキはどうしてもアグニの持つパワーを意識してしまい、必要以上に身構えてしまう。
それが僅かな隙を生む。
アグニの握られた拳が直進しながら変化――鋭く指が伸ばされ、貫手となって、ゼキの目を狙い澄ます。
――目突き。
眼球を抉って、視力を奪う算段だ。
ゼキの楽しみ方に合わせるようなことを言っておいて、情け容赦ない手を繰り出してきた。
『俺のやり方で』と、そう言ったはずだ。
正々堂々とやり合う気など毛頭ない。ただ確実に勝つ。
今のアグニは拘泥しない。殺すことにも、殺さないことにも。
想いのままにゼキと競い合ってやってもいいが、それでも勝ちを譲る気はない。
アグニの格闘術は、生死がかかる場で鍛え上げられた人体破壊術。軍隊格闘術や中国拳法をベースに、徹底的に急所を狙い、相手を破壊する技に磨きをかけている。
そんな相手に殴り合いを挑むほうが愚かなのだ。
――しかし、ゼキは退かない。
(――……こいつ)
刹那、アグニは驚愕した。ゼキは一切恐れず、眼球狙いの攻撃に対して、頭突きで迎撃することを選択。
如何にアグニの肉体が堅牢と言えど、指に額を合わされれば、指が折られる。
アグニの貫手とゼキの額が激突する直前、アグニは手の形を変え、五指を折り曲げた虎爪を選択。
指に目を入れる、もしくは口に指を引っ掛けて頭を下げさせて、そこに膝蹴りを叩き込む。
――が、ゼキが先んじた。
ゼキの額が、アグニが突き出した虎爪の手のひら部分へ当たる。これではこちらの意図した次へ繋げられない――、
瞬間、ゼキの拳がアグニの腹部へ突き刺さる。アグニの人間離れした高密度筋肉によって形作られた、異様な重みのある巨体が僅かに浮き上がる。
そこへさらに追撃――
しかし、アグニも黙ってやられっぱなしでいる訳ではない。
攻撃をもらうのを覚悟で、ゼキに掴みかかる。
アグニの桁外れの膂力で掴んでしまえば、ゼキの力では脱出できない。そのまま腕をへし折ってやれば、それで終わりだ。
ゼキは追撃をキャンセルし、後方へ跳ぶ。
アグニの伸ばした手が空を切る――が、まだ終わらない。
アグニが激烈な勢いで地面を踏みしめる――動きとしては震脚に近いが、用途がまるで違う。
彼の桁外れの力でそれを行えば、どうなるか。
答えはすぐに出た。
直後――ゼキの足元が、崩れ、大きく陥没した。
「……ちッ、」
「地形を使うのはお前の特権ではあるまい」
ゼキがトンネルを掘り進めたことで脆くなっていた場所を狙い、そこを崩した。
足を取られ、ゼキの体勢が崩れる。
その隙を狙われて、ついに――。
「――ここまでだな」
アグニの左手が、ゼキの右手を――右手が、左手を掴んでいた。
動かない。万力に締め上げられるような――どころか、巨大な岩壁、その隙間に腕を差し込んでしまったかのような、途方もない存在感に圧倒される。
蹴ろうが、頭突きを当てようが、外れることはない。
左手は手首の部分を、右手は握った拳をそのまま掴まれている。
ゼキは血液を操作――左腕から血杭を噴出させ、アグニの右手を串刺しにした。
――が、
離さない。
「言っただろう、ここまでだと。何をされても離すつもりはない。これで、終わりだ」
ぎちぎちと、アグニの力が強まっていく。
――折られる、
そう思った瞬間には。
「が、ァ、……、ぐ、ィ、アアアアアアアアアア………………ッッッッ!」
骨が軋み、そして、砕け散る異音が響いた。
――さらに。
「……砕けないと、そう言っていたな」
刹那――アグニは膨大な魔力をその手に注ぎ込む。直後、凄まじい高熱がゼキを襲う。
いくらゼキが《火》を扱い、熱に耐性があろうが、相手の膨大な魔力に捻じ伏せられ、防御を突破された状態では防ぎようがない。
「が、ァァ……アアァッ……!」
ゼキの左腕が、焼き切られた。
仮想欠損などではない。真実、ゼキの左手が、地面に落ちて、べちゃりと肉の音を響かせた。
「――次だ」
右手も同様の末路を迎えさせようとした瞬間――
アグニの手から、ゼキの右手がすり抜けた。
宙を舞うのは、赤い液体――ゼキの血液だ。
ゼキは握られた右手、その内側から皮膚を裂いて血液を出して、それを潤滑油に脱出を成功させたのだ。
飛び退いて、距離を取る。
「……は、ァ……、はっ……、あ、がァッ…………」
痛みに激しく呻きながら膝をついてしまう。
左腕欠損。
右手は皮膚が裂け、骨も多数砕けている。激痛で拳を握ることもままならない。
リング上に落ちたゼキの左腕。
あまりに凄惨な光景に、会場は静まり返っていく。
――――所詮、俺はどうあっても、このような在り方しかできないか。
静まり返った会場を見て、アグニは自嘲を込めた笑みを浮かべる。
ゼキを惨たらしく殺して、この大会を汚してやろうなどという想いは消えていた。
ただ、勝つために最善を選び取っていただけだ。
それでもどうしようもなく、相手を傷つけるような、凄惨な戦い方しか身に着けていないのだ。相手に向き合う、競い合う――ゼキやジンヤが拘っていたような、爽やかな競い合いなどとはつくづく縁遠い。あんなものとは、相容れることなどない。
――なぜだろうか。それが今は、少しだけ、寂しいと思えた。
やっと勝利を掴めるというのに。
この男に、心の底から勝ちたいと願ったのに。
掴んでしまえば、憧れた程の価値があったとは思えなかった。
――――そう思った、刹那、
――ッダンッッ! と力強くリングを踏みしめ、ゼキが立ち上がった。
□
「なに勝ち誇ったツラしてんだよテメェは……」
「……往生際が悪いにも程があるな」
「うるせェよボケが、ンなもんはな、テメェが決めることじゃねえんだよ」
左腕をなくして、右の拳は砕け散って、それでもなお彼が虚勢を張る意味がわからない――アグニは心底怪訝そうに眉を顰めた。
絶望的。
あまりにも絶望的。
もはやここから逆転する方法などないだろう。
試合は完全に決まった。
赫世アグニの勝利だ。
あとはどれだけアグニがゼキを痛めつけるのか。観客達は、そのことに対して恐怖している。
だが。
それでも。
――それでも、
――それでも、
――それでも、
――――――ゼキは、
――――笑った。
「っはは、……カハハ……、カッハハハハハ! あァ、わりィな……ちょっとオーバーに痛がりすぎたな。さすがに腕が吹っ飛ぶのは久々でな、いやあ痛ェ、めちゃくちゃ痛ェわ……」
なにが。
一体、何が可笑しいというのか。
「ンだよ……、ちょっと観客がシラけたくらいで落ち込んでんじゃねーよ。好みが分かれるだろうが、オレァこういう喧嘩もありだと思うぜ? 気にすんな気にすんな」
左腕の断面を焼き塞いで止血。
右手は未だに、だらんと垂れ下がったままだ。
「……テメェが全力でオレを潰しにきてんだ。潰し方にまで文句は言わねえよ。ああ、最高だ……最ッッ高に楽しいぜ、今。だからよォ、もっと楽しもうや。いいんだぜ、テメェも楽しそうにして」
「お前は……、本当に……」
――――狂っている。
こいつは、アーダルベルトやトリスタンと同じだ。
闘争そのものが人間の形をしている狂人。
壊れている。完全に破綻している。
アグニの中に、恐怖が芽生えた。
あの日――アーダルベルトの瞳に怯えた時と同じだ。
闘争という概念そのものが目の前にいる恐怖。
だが、恐れたと同時に――
――――勝ちたい。
やはり、どうしようもなく、この男を倒したい。
憧れ続けたこの場で、自身が最も恐れるモノと同じ存在であるこの男を超えることが出来れば。
自分は、もっと強くなれる。
もっと先へ行ける。
復讐のために。恐怖を乗り越えるために。弱い己に負けないために。憧れのために。夢のために。
アグニの中で、あらゆる感情がぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。綺麗なモノも、禍々しいモノも。
しかしそれが、たまらなく気分が良い。
ずっと何かに怯え、何かに縋っていた。
復讐者の在り方だとか、もうそんなことはどうでもいい。
ただ――赫世アグニという全存在を賭して、この真紅園ゼキという偉大な男を超えたい。
「……拳を砕いただけでは足りないようだな」
「……ハッ、どうかな……」
「……お前の魂まで焼き尽くして、俺が勝つ」
「ああ、やってみろよ……勝つのは、オレだ」
そして、ついに――
「……いくぞォッ――真紅園ゼキッ!」
ついに、アグニはその名を、ゼキの名を憎悪と恐怖と敬意を込めて叫び、駆け出した。
「こいやァッ――赫世アグニッ!」
ゼキも応じ、さらに――こう付け加える。
「ああ、もういっぺん言わせてもらわねえことがあるんだがよォ……ッ!」
――「……拳を砕いただけでは足りないようだな」
――「……ハッ、どうかな……」
「なんべんだって言うがなァ……ッ!」
二人の男が駆ける。
アグニが右の拳を振り上げる。
対してゼキは、左手は失われたまま、右手は垂れ下がったままだ。
拳がないままで、ゼキはどう立ち向かうというのか。
――――いいや、否。
アグニが右拳を振り抜いた――刹那、その拳は空を切る。
「――――――オレの拳は、砕けねえ」
ゼキの右拳の顔面へ突き刺さり、彼の体をブッ飛ばしてリングへ叩きつけた。
ゼキの右手の骨は、粉々に砕け散っていた。
もう拳を握ることはできないはずだった。
だからゼキは、痛みに耐えながら強引に拳を握り、そして自身の能力で拳を焼いて、肉を溶接し、骨を溶接し、強引に拳を作り上げ、それを叩きつけたのだ。
真紅園ゼキの拳は、砕けない。
真紅園ゼキは、握りしめた魂を焼き尽くす程に燃え上がらせて、絶望を打ち砕く。
たとえ骨を粉々に折られようが、それでも、彼はその右手で魂を握りしめて、相手へ叩きつけることをやめはしないのだ。
――今度こそ、アグニが立ち上がることはなかった。
三回戦第二試合――――勝者、真紅園ゼキ。
□
「…………いや、やっぱりすげえなゼキ先輩……」
声を震わせて興奮を滲ませるハヤテ。
――だが、ジンヤの表情は苦しそうだ。
「…………お前……、ああ、そうか……」
ハヤテは一瞬怪訝に思うも、すぐに気づいた。
「……腕のことか」
「……うん。傲慢かも知れないけど……」
――――ジンヤは片腕のゼキに負けるつもりなど少しもない。
あの腕では、きっと準決勝には間に合わない。
ここでゼキの大会は終わりか――片腕でも、それでも挑んでくるか。
いずれにせよ。
全力のゼキと戦えないことがどうしようもなく悔しくて――、ジンヤは強く強く、拳を握りしめていた。
□
「…………まさか、本当に、やってのけるなんて……」
アザミは目の前の光景が、ずっと願っていたものであるのに、信じられなかった。
赫世アグニは、真紅園ゼキを殺さなかった。いいや、殺せなかった。
アザミは、アグニに復讐をやめて欲しいのではない。正しい道に進めなどと、そんなことを言うつもりは少しもない。
改心しろなどと、傲慢で勝手な正義感をふりかざしたことは一度もない。
彼女はただ、アグニが破滅の道へ突き進むだけなのが嫌だったのだ。
彼女は知っている。その道の末路が、どういうものなのか。
兄は結局、その破滅の道を突き進み、歩みを止めることはなかった。
それも一つの結末だ。
あの結末に文句をつけるつもりもない。
それでも――――目の前で同じような者がいて、ただ破滅を見過ごせるかといえば、そんなことはあり得ないのだ。
ましてやそれが、その破滅に、自分が加担しているとなればなおさらだ。
だが、アザミの説得には耳を貸さなかったアグニが――――ゼキの拳で、ほんの少しではあるが、変化がもたらされた。
彼が復讐をやめることはないだろう。だが、ただ破滅へ突き進むだけのままで終わることもないはずだ。
彼が戦いの中で最後に見せた表情。
その表情に、アザミはどうしようもなく救われる。
――――それは、アザミの兄が心から欲して、手届かなかったものだから。
そして、ゼキが使った最後の技。
あの技は《真紅園流奥義・不知火》。
この世界では《魔剣》――いいや、《魔拳》と言うのだったか。
兄とも縁深いあの技が決め手になるのにも、奇妙な運命めいたものを感じる。
――《作者》が設えた運命ではなく、人が切り開いていく運命。
「……彼ならきっと、大丈夫ですね」
アグニの表情を見て――アザミは思う。
彼ならばきっと、いつか、《呪い》すら焼き尽くして、自分自身の運命を選び取っていける。
「……さて。私も託された仕事をしますか」
アザミは赤色の宝石を握りしめて、駆け出した。
□
――――彼女が向かった先は、ゼキが運ばれた医務室。
そこにはアザミと――そして、ジンヤとトキヤの姿が。
「…………どうしたよ。勝利を祝ってくれるってんなら嬉しいけど、ちょっとそういう雰囲気じゃな……」
医務室の外では、ヒメナが膝を抱えて泣いていた。
――――左腕欠損。
もう、これ以上の大会は不可能だ。
誰が見てもわかる、簡単の事実。
「悪いな、刃堂。全力でやれなくて。オレが弱いせいだ。でもよ、手加減なんていらねえぜ?」
「……ゼキくん、そのことなんだけどね」
アザミはアグニのもとへゼキを連れて行った時に、彼と初対面を済ませてある。
だが、不思議だった。
なぜ会ったばかりの彼女が、申し訳なさそうにしているのだろうか。
ゼキの怪我と彼女は、なんの関係もないはずなのに。
「――――その腕、すぐに治るって言ったら、どうするよ?」
その言葉を発したのはアザミ――ではなく、トキヤだった。
「そんなの、どうやって……」
「こうすんだよ――――《開幕》」
突然、《開幕》を行使するトキヤ。
あり得ない。
そして意味がわからない。
トキヤはついさっき、試合で《開幕》を使っているはずだ。
一日にそう何度も使えるはずがない。
だが、もしも本当に使えるのだとすれば――。
黒宮トキヤの《開幕》ならば、時間を戻すことができる。
「はぁ……!? なにが、どうなって……」
「理屈は内緒なんだけどね……でも、可能性はあるの。ゼキくんに、負荷がかかるかもしれないけど……」
あり得ないことを成し遂げる秘策――それは、アザミが赫世レンヤから託されていた《想星石》だ。
そこには、赫世レンヤの魔力が込めてある。
同じ《時》を操るトキヤならば、それが使いこなせる。
完全に空になっているはずのトキヤの魔力が蘇っているのは、そういう理由だった。
部分的に、それも特定の時間を狙っての『巻き戻し』――というのも、今のトキヤには到達していない領域ではあるが、それも《想星石》の中にレンヤが組み込んだ術式を、トキヤが利用するという形で実現可能。
簡単に言えば、《想星石》に込められたレンヤの技を、トキヤが発動させるようなものだ。
そして。
負荷がかかると、その程度のことで真紅園ゼキが臆するかと言えば――
「別に。死ぬかもしれないってんでもいいッスよ。ここまできたら、優勝しかありえないんで」
「…………そう言うよなあ、お前は」
□
かくして――。
両腕健在、万全となったゼキが、次の対戦相手であるジンヤを睨み、心底嬉しそうな、獰猛な笑みで言う。
「やっとだな――――楽しい喧嘩にしようぜ」
「…………はいッ、臨むところです……ッ!」
目元を拭って、同じく獰猛な笑みを浮かべ、ジンヤが応じる。
一度は諦めた。
実現しないはずだった。
それでも――こんな事態まで予測していた、彼らを見守る者達の助力によって、条理は覆り、戦いは実現した。
――――あの時。
罪桐ユウを巡る一件の時は、今よりもずっと弱くて――それに、訳もわからないまま藻掻いている最中で、とても全力でぶつかれたとは言えないまま、ゼキに敗北していた。
自分はあれから、一体どれだけ強くなれただろうか。
セイハとの戦い。
アグニとの戦い。
ゼキはどれだけ絶望的な戦いでも、進み続けた。
その魂の在り方を――戦う者としての心意気を、見せつけられた。
その度に、どうしようもなく焦がれた――――この人と、戦いたいと。
それがついに、実現する。
第二十八回彩神剣祭。
準決勝――――刃堂ジンヤ対真紅園ゼキ。
勝敗に関する言及は伏せでお願いします……_(:3」∠)_




