第五話 剣聖の弟子 追憶/前編
ジンヤのハヤテの過去を語るには、彼女について語らなくてはならない。
初めて彼女とジンヤが出会ったのは、ジンヤの母、美華の葬儀でのことだった。
「よお、少年」
最初にかけられたのはそんな言葉だった。
この度は、この度は、ご愁傷様、ご愁傷様、ご冥福ご冥福……当然とはいえ、いい加減決まりきった言葉の繰り返しで、頭の中でテンプレートな挨拶が反響しはじめて、うんざりしていた時だった。
不躾な挨拶は、新鮮に聞こえた。
「アタシは美華さん……それから雷騎さんには世話になったんだ。だから、少年がなんか困ってたら力になるぜ」
二十代半ば程の女性だった。
雷騎というのは、ジンヤの父の名。
両親に世話になったと言う彼女から漂う気配は、ただならぬものがあった。
一流の騎士――いや、剣客の纏う独特の澄んだ殺気に近いだろうか。
刃のような剣呑さを持つ女性から、ジンヤは名刺を手渡される。
名刺には彼女の肩書、名前、電話番号、住所が書かれていた。
「そこに来りゃ、力になるぜ……ま、アタシの世話なんかにはならねーほうが人生楽しいと思うけどな……じゃ、少年が来ねえことを祈ってるぜ」
そう言ってひらひらと手を振りながら踵を返す女性。
――叢雲オロチ。
名刺に示されたその名は、ジンヤの中に強い印象を残していった。
□ □ □
母を亡くし、既に父も亡くしているジンヤは、親戚に引き取られる予定だったが、ジンヤ自らその話は断り、ある場所に向かうことを決めていた。
叢雲オロチ。
彼女の所だ。
葬儀を終え、あれからオロチのことを調べてみた。
調べてわかったことはいくつかある。
彼女が道場を開いていること。
彼女が騎士であること。
中でも驚いたのは、彼女は《三大剣聖》のうちの一人のもとで教えを受けていた過去を持っていることだ。
《三大剣聖》。
綱手 真経津。
都牟刃 巳蔵。
八尺瓊 自来也。
この三人の騎士を表す言葉。
――騎士において、重視されるのは能力だが、能力を極めていった果てに、強大な能力を持った騎士同士が戦う場合、勝敗を決するのは剣の腕だ。
能力があることで軽視される風潮のある剣術だが、能力を極めていくと再びそれは重視される。
《三大剣聖》は、能力・剣術ともに騎士の中で最高位の力を持っている。
全ての騎士の頂点。
全ての騎士の憧れ。
騎士であり、剣の道を歩む者のはしくれであるジンヤも当然、剣聖には憧れを抱いていた。
剣聖の一人、都牟刃巳蔵の教えを受けた女性が、ジンヤの前に姿を表したあの叢雲オロチだったのだ。
ジンヤにとってその事実は、オロチに師事することを決めるにはあまりにも充分だった。
□ □ □
「あーららぁ、来ちまったか」
名刺に記載された住所を訪ね、やって来たジンヤの顔を見た後の第一声。
オロチの印象は、葬儀で会った時とは大きく異なっていた。
喪服の時と平時では、確かに印象は変わるだろう。
(しかし、これは……)
萌葱色の長髪を、高めの位置で大雑把に括っている。
胸元や肩が大きくはだけた甚平姿、右手には煙管、そして左手には――酒瓶。
昼前だった。
昼前から、飲んでいた。
ジンヤは彼女からひしひしとダメ人間のオーラを感じ取っていた。
先日纏っていた剣客の雰囲気はなんだったのだろう。
「ま、とりあえずあがんな。……あ、飲む?」
酒瓶を揺らしてだらしない笑みを浮かべるオロチ。
「未成年です」
「あァ~? お姉さんの酒が飲めねえってのかあ?」
「未成年です」
「おっぱい揉ませてやるよ、おっぱい揉みながら飲む酒はうめえぞ~?」
「み――せ、……お、おっぱ……」
あろうことか、逡巡した。
ジンヤは脳裏に強く想い人のことを浮かべる。
今は離れ離れになってしまった、あの約束の少女のことを。
「――未成年です! あ、あの……僕、ついこの間小学校を卒業したばっかりなんですけど……っていうか酔ってますよね!?」
「ろってないのらー」
「すごい酔ってる!」
選択を間違えただろうか――と、早くも先行きへの不安を強く感じるジンヤだった。
□ □ □
オロチが住まう屋敷の客間に通され、二人は卓袱台を挟んで畳の上に向かい合って座る。
今日日、時代劇でしかお目にかかれないような立派な屋敷ではあるが、ジンヤの場合は道場に通っていた経験から、こういった建物にはそれなりに縁がある。
いちいち障子や畳、長い廊下や踏めば軋む床に驚くようなことはなかった。
驚かされたのは、そこに住まう彼女にだ。
《剣聖》の弟子、父の知人、一流の剣客……どの要素を取っても、彼女は只者ではなく、尊敬に値すべき人物に思えたが、尊敬の牙城が崩れ落ちていく音が聞こえてくる。
「そんじゃ……聞かせてもらおうか。アタシのとこに来たっつーことは、あるんだよな、娑婆じゃどうにもならねえ、のっぴきならねー事情がよ」
雰囲気が変わった。
先程までの抜けた印象はない。
鋭い眼光は、やはり先日感じた殺気に近いものを含んでいる。
ジンヤは居住まいを正し、考えを改めた。
……改めたところで、一つ引っかかる。
ここは、外の世界ではないのだろうか。
引っかかりつつも、彼は語り始めた。
始まりは、とても情けない少年の物語からだ。
彼には夢がない。力もない、才もない、友もなく、なにもない。
父親の期待に応えられなかった経験から、己にはなにもないと強く自罰し続ける少年。
彼を救ったのは、一人の少女だった。
少女は彼の全てになる。
少女のために、少女のために、そうして少年は強くなっていく。
しかし――ある決定的な敗北により、少年の道は閉ざされる。
その敗北で、彼は全てを奪われ、全てを諦める。
騎士としての道も、少女との約束も、全て。
そんな彼を救ったのは、母の言葉だった。
『「迅也」っていうのはね、父さんがつけた名前なのよ』
『――強く産んであげられなくて、ごめんね……』
『……母さんはね……ジンヤがこの先どんな道を選んだって、絶対にあなたを応援するわ』
父の真実、母の願い……それを胸に、絶望の底から再起した少年。
後にこの決意は、『自分一人で全てを背負わなければならない』という思いを抱かせてしまい、さらなる絶望の銃爪となり、約束の少女の言葉により救われることになるが、それはまた別のお話。
この時点で、少年がどれほど強い決意を燃やそうとも、あの因縁の彼との差は歴然だ。
片や、同年代の騎士とは格が違う、冠絶した才能を持った騎士。
片や、全ての騎士の中で最低ランクという烙印を押された騎士。
少年の前に絶望的な高さを伴って立ちはだかる才能という壁。
壁を突破するためには、生半可なことでは到底叶わないと考えた答え。
それが彼女――《剣聖の弟子》叢雲オロチへの弟子入りだった。
話を聞き終えたオロチは、紫煙は吐き出し、煙管で灰皿の縁を軽く叩いて灰を落とした。
そして。
「……少年は、雷騎さんにそっくりだな」
「そんな……僕は、父さんみたいに騎士の才能がなくて……」
「んな上っ面のことじゃなくてさ、もっと根っこの、一番大事なとこだよ」
煙管の先でジンヤの胸元を指し示す。
「雷騎さんも同じさ。どんなにすごい騎士でも、才能があろうとも、何かを成そうとすれば、困難は伴うもんさ。……そして、どんな困難だろうと、あの人は諦めないんだよ。アタシは何度も思ったよ、この男は絶対にイカれてる、ってね」
「僕が、父さんと、同じ……」
考えたこともなかったことだった。無能と天才――本当に自分は父の子なのだろうかと、何度も思った。己の無力を呪い続けていた。
父と自分は正反対だと、そう思っていたはずなのに。
父が亡くなってから、母は父を想起させることを遠ざけていてくれたように思う。
きっと、父への劣等感を見抜かれていたから。
だから、父と自分を比べる人間が――そもそも、父を知る人間と接する機会が、ジンヤにはほとんどなかった。
仮にいたとしても、父と比べるまでもなくあまりにも非才な己に落胆するだけだろう。
なのに、彼女は――。
その言葉は、響いた。
涙が出そうになった。
「……ダメだな、僕は」
こみ上げてくるものを塞ぐように、手で瞳を覆う。
再会しても泣き虫のままでは、あの少女に笑われてしまう。
「――で、どーするよ? あんな話を聞かされた後じゃ、少年の願いをどうにも断れなさそうにないんだがね」
「オロチさん――僕にあなたを、師匠と呼ばせてください」
「ん、しかたないね。師匠なんてガラじゃないけど、好きに呼びな。……なーんてね、恩人の息子が頭下げてるんだ。最初から断るつもりなんてさらさらなかったけど、話を聞いてアタシも俄然楽しみになってきた」
少年のように、彼女は笑う。
純粋で、凶悪で、凄絶で、美しい笑みだった。
「蛇の道は蛇ってね……アタシは蛇は蛇でも、龍すら食らう大蛇――その龍上巳月とやらを食らう方法、伝授してやろうじゃねえか」
「はいッ! 師匠!」
こうしてジンヤは因縁の相手を倒すため、オロチに弟子入りしたのだった。
□ □ □
これからはオロチの屋敷で暮らすことになった。物置同然だった部屋を一つ与えられたジンヤの、最初の修行は掃除だった。
刀やら鎧やら、なにやら貴重そうな骨董品を慎重に運び、別の部屋に移動させ、どうにか寝床を確保。
その日はそれだけで終わってしまう。
修行は明日から、今日はよく休めというのが師となったオロチの言葉だった。
そしてもう一つ。
『……ここ、出るからな。夜中はあんまうろうろしねー方が得策だぜ?』
なにやらとんでもないことを言っていた気がする。
今時幽霊など、と否定する。……あるならそういうタイプの騎士の攻撃を疑ったほうがまだ可能性としては高いだろう。
信じていない、そんなことは微塵も信じていない、と言い聞かせつつ、ジンヤは早めに眠ることにした。
布団があると教えられた部屋に向かい、布団を抱え自室へと帰る途中。
ぎぃぃぃ……と、不気味は音が響く。
屋敷の床で、踏めばそんな音が鳴る場所がいくつかあった。
「し、師匠……? いるんですか……?」
静寂。
返事はなかった。
ぎぃ。
ぎぃ、ぎぃ。
音が響く。たまらずジンヤは首を傾け、視界を塞ぐ布団から顔を出して前方を確認。
――――いた。
白い怪物だった。
全体の色は白く、そこから青白い四肢が伸びている怪物。さらにやたらと長く綺麗な黒髪。
師匠ではない、オロチの髪は萌葱色だ。というか明らかに人のフォルムではない。
出た。
「あああああああああああああああああああああああああ――――――ッッッッッッ!」
「きゃあああああああああああああああああああああああ――――――ッッッッッッ!」
ジンヤが叫ぶ。
同時、白い怪物も叫ぶ。
ジンヤと怪物はたたらを踏みつつその場から走り出そうとして、同時に転んだ。
再びジンヤが立ち上がった時には、怪物の姿は消えていた。
代わりにぽつんと、赤いリボンが落ちている。
リボンを拾い上げて、ジンヤは首を傾げる。
「…………最近のお化けは、可愛い声してるな」
あれはなんだったのだろうか。
不思議に思いつつ、ジンヤは布団に潜り込んで震えた。
□ □ □
「ああ、出たか。そりゃアンナだな」
「……アンナ?」
翌日。昨夜あった怪異譚をオロチに話してみると、そんな言葉が返ってきた。
「ここの住人は今んとこ三人、アタシに少年、そんでアンナだ」
「どちらさまなんですか……」
「これ」
オロチは自身の背後を指差す。
いた。
真っ黒い足元まで伸びた艶やかな髪。真紅の瞳は美しく鮮やかだが、どこか虚ろで光を宿していないように見える。青白い肌からは、日頃あまり日に当たっていない不健康な暮らしをしていることが容易に伺えた。
その細く白い四肢は、昨夜の『白い怪物』から伸びているのと同じものだった。
「…………ふとんおばけ」
少女はこちらを見つめて言う。
「……あッ!」
そしてジンヤも思い至る。
あの『白い怪物』は、この少女が布団を抱えて移動していた姿。そしてこちらも少女の視点からだと同じく『ふとんおばけ』になっていたのだ。
「なんて、まぬけな……」
真相に気づいてしまえば、拍子抜けする話だった。
ジンヤとアンナという少女は、互いに互いをお化けと勘違いして驚いていたのだ。
「……師匠、僕に彼女のこと黙ってましたよね」
「ん、うん」
「彼女にも、僕のこと黙ってましたよね」
「うん」
「…………どうしてですか?」
「そっちのがおもしろいじゃん」
「鬼ですか!」
「おろちのおにー!」
アンナがオロチの背後に隠れつつ、ぺしぺしとオロチのことを叩いている。凄まじく華奢な腕から繰り出される一撃は、あまりにも弱々しかった。
ジンヤもアンナも、オロチに弄ばれたのだ。
「まーまー、怒るなって、いいじゃねえかアタシが面白かったんだから」
無茶苦茶な発言だった。
ジンヤは昨日の昼間から飲んでいたことも踏まえ、この人は基本的にいろいろダメなタイプの人間だと認識。
アンナという少女とは初対面で、互いを怪物と勘違いしたなんとも言い難い初対面ではあったが、共にあの暴君の被害者ということで、奇妙な連帯感を覚えていた。
「……初めまして。僕は刃堂ジンヤ」
気を取り直して、少女へ名乗り、手を差し伸べる。
アンナはオロチの陰に隠れつつ、恐る恐る手を伸ばしてくる。
「……アンナはアンナ……屍蝋アンナ、です……すごく、ひとみしり、です。ちなみに、とてもひきこもりです」
(デカいな、『ちなみに』の後の情報が)
そして人見知りなのは見ればわかる、とジンヤはさらに思ったが黙っておいた。
何もかも口にしてしまえば、世の中立ち行かないのだ。
ジンヤの差し伸べた手の人差し指を、自らの人差し指と親指で摘むと、くいくいと僅かに上下させて手を引っ込め、オロチの後ろに隠れてしまう。……今のは彼女流の握手だろうか。
オロチの背後からこちらをじー……っと伺ってくるアンナ。
言葉通り人見知りなのだろう。自分もコミュニケーション能力はとても低い方だ。初対面から気安くできるようなタイプではない者同士、この程度の距離感でいいのかもしれない、とアンナの態度に勝手に納得する。
「……これ以上、実はまだ住人がいました、なんてないですよね?」
「ねえよ、今んとこ。たぶん増える」
「……よかった、今教えてもらって」
また見知らぬ布団がふらふら歩いていたら腰を抜かしてしまう。
「どんな人なんですか?」
「まーそりゃ会ってみてのお楽しみってな」
「教えてくれないんですか……」
「うん」
「そっちの方が面白いからですか?」
「正解~。少年、アタシのことわかってきたじゃねーか」
「……はい、昨日と今日で嫌って言うほど」
「いーや、まだまだこれからだぜ、アタシはこんなもんじゃねーぞ?」
先が思いやられる……とジンヤは頭を抱えしゃがみこむ。
「…………だいじょーぶ?」
アンナはオロチの背後から恐る恐る手を伸ばして、ジンヤの頭を撫でる。
「よしよし、元気元気」
「うう……ありがとうアンナちゃん……」
「……アンナちゃん? アンナは、アンナちゃん?」
「嫌だった?」
「んーん、アンナはアンナちゃん。よろしくね、じんや」
「うん、よろしくね……これから一緒に頑張ろうね……」
言外に『師匠に振り回される者同士として』という意味を込めておいた。
□ □ □
そしてやっと、オロチの指導の下でジンヤの修行が始まった。
場所は屋敷の広大な敷地の中にある道場。
まずはジンヤの力を見るためということで、オロチとの実戦形式での戦い。
ジンヤは刃引きされてはいるが、魔力を通す事もできる訓練用の魔装具。対してオロチはただの竹刀。オロチは攻撃に関しては一切魔力を使わない、ジンヤの魔力の使用は自由。安全のために、仮想戦闘術式を使用。
仮令どれだけオロチが強くとも、こちらは魔力使用有り、相手はなし。ジンヤがGランクということを考慮しても、魔力使用をしていない人間には負けようがないだろう。
魔力に関する部分を差し引いても、ジンヤだって幼少期から雷咲流を修めているのだ。
男として、騎士として、雷咲流の剣士として、こんな条件で負けるわけにはいかない……そう思って臨むジンヤだったが。
負けた。
負けて、負けて、負けまくった。
ただの一度も攻撃を当てることができなかった。
オロチは、格が違った。
彼女は何か特別なことをしているわけではなった。
ただ、全てを読むのだ。
どう打ち込むか。どういう足捌きで攻め込むか。どういう角度で、どれくらいの速さで、どう繋ぎ、どのように攻撃するのか。どこで、どんなタイミングで、どのような騙しを入れるか、足、腕、視線、あらゆるフェイント、全て、一切合切を、読み切る。
ジンヤは思い知らされていた。
そう――彼女は《剣聖の弟子》。
《三大剣聖》が一人、都牟刃巳蔵。
彼は《天眼の剣聖》。
『剣術とは、心の読み合い』という理を唱え、相手の全てを読み切り、躱し、切って捨てると言われている。
その弟子であるオロチも当然、同じ剣を使っても不思議ではない。
そして残りの《剣聖》。
《全知の剣聖》綱手真経津。
『剣術とは、技の競い合い』という理を唱え、ありとあらゆる技を知るという。
《神速の剣聖》八尺瓊児雷也。
『剣術とは、ただの速さの比べ合い』という理を唱え、技も読みも全て弱者の工夫と断じて、ただひたすらに速さのみを求め続けた。
龍上巳月の剣は、《神速の剣聖》に近いだろう。駆け引きなどする前に切って捨てれば存在しないも同然、という暴君めいた意志を、ジンヤは彼の剣から感じ取っていた。
ジンヤにミヅキのような才能はない。
ではどうするか。才がなければ、努力と工夫で埋め合わせるしかない。
そのためにも、目の前に立つ最高の手本から技を盗もうとするが――何をしているのかわからない、何をされているかわからない。
何もわからず、ただただ打たれ続けて、この日の修行は終わった。
□ □ □
「いてて……疲れたあ……」
一日中動き回り、全身めった打ちにされて軋む体でどうにか自室までたどり着き、布団に体を投げ出す。
オロチは手加減という言葉を知らないようだ。それは普段の彼女を見ていれば察せられたが、ここまで予想通り――いや、予想以上だとは。
だがジンヤは歓喜に震える。龍上巳月を倒そうというのだ、半端な努力ならばするだけ無駄。欲しいのは地獄だけだ。まさに今、欲した地獄の只中にいるという実感が、どうしようもなく嬉しい。
痛みと喜びで震えつつ、笑みを浮かべる。傍から見れば、さぞ不気味だろう。
「……じんや、まぞひすとさん?」
傍から見られていた。
アンナが戸の隙間からこちらを覗いている。
「いや……そういうわけじゃ……」
「でも、いたそうなのに笑ってる」
「これには複雑な事情がね……ああ、そうだアンナちゃん、ちょっと来てくれる?」
「……へんなことしない?」
「し、しないよ」
「じんや、女の子を自分の部屋に入れたい人?」
「言い方一つですごいことになったな僕」
確かに彼女を自分の部屋に招き入れるのは失礼だろうかと思い直し、自ら痛む体を起こして彼女のもとへ向かおうとするも――
「いいよ、へーき」
アンナが部屋に入ってくる。
「どーしたの?」
「これ、返そうと思って」
ジンヤが差し出したのは、赤いリボンだった。
『白い怪物』もしくは『ふとんおばけ』騒動の時に、アンナが落としたものだ。
「……あっ!」
アンナはそれを見ると、すかさずリボンをひったくり、ぎゅっと胸の前で抱きしめた。
「ごめん、返すのが遅れて」
「んーん……ありがとう! ありがとう、ありがとう、じんや……これ、だいじなものだから」
「そっか。ならよかった」
「んっ」
どういうわけか、今度はアンナがリボンを差し出してくる。
「ん」
そして、足元まで伸びる黒髪の末端を指差す。
「えーっと……?」
「いつもはおろちがやってくれる」
「そうなんだ」
「じんや、だいじなリボン、見つけてくれたから」
「……だから?」
「髪、やっていーよ」
「リボンをつければいいの?」
「うん。ママとおろちにしか触らせないんだよ?」
「それは……えっと……光栄です?」
「くるしゅーない」
うんうんと頷くアンナ。昨日に引き続き、やはりぼーっとした虚ろな瞳をしているが、口端は僅かに上がり、辛うじて笑みを浮かべているとわかる。
ぎこちない手つきで、リボンをアンナの髪にくくる。
経験がないわけではなかったが、不慣れなせいか不格好になってしまった。
「じんや」
「はい」
「…………へたっぴ!」
アンナはそう言いながらも、愛おしそうに不格好なリボンを撫でた。
□ □ □
翌日。
修行を終えたジンヤは、自室で荷物の整理をしていた。
明日から、ジンヤは屋敷の近くにある中学に通う。
憂鬱だった。幼馴染とした約束では、今頃は騎装都市にある騎士を養成する学園で、ジンヤは騎士に、彼女は魂装者になって、共に高みを目指すはずだったのに……。
それが騎士など一人もいない、一般の学校に通うことになるとは。
……通う学校には失礼ではあるが、ただ三年の時間をやり過ごすだけのためにいく場所という認識だった。
「じんや、なにしてるの?」
「学校の準備。僕も明日から中学生だからね」
小学校から中学校へ。
ジンヤの頭の中には、幼馴染のことと、因縁の相手を倒すことしかないので、彼の十二年の人生の中ではかなり大きなイベントであるはずの『中学校の入学式』に、あまり興味を持ってなかった。
「がっこーいくんだ……ふぅーん……」
「……アンナちゃんって、今いくつなの?」
「れでぃーに年齢を!?」
ぼーっとした表情を貼り付けたまま、表情に反して仕草だけは驚愕を表現するように仰け反って見せた。
「いや、れでぃーって……」
見た目から察するに、十歳程度だろうかと勝手に思っていた。もう少し低いかもしれない。少なくとも、見た目の年齢よりは幼い喋り方だ。
「アンナは十二歳」
「…………ええ!?」
同い年だった。
「えっと、学校の準備は?」
「いきたくない。おろちも『いかなくていいんじゃねえの、いやなら。べんきょうならおしえてやるよ』って言ってた」
「……そっか」
きっと何か事情があるのだろう。
彼女がここにいる理由、見た目と中身のギャップ、学校に行きたくない理由……誰しも、なにかしら人に言えないことはあるだろう。
自分だってアンナにはなぜここにいるか事細かに話したわけではない。
「でも……やっぱいきたいかも」
「……え?」
「じんやといっしょなら、がっこーもわるくない……かも?」
自分で言いつつ、首を傾げるアンナ。ふらふらとそのまま立ち上がり、とてて……と部屋を出ていく。しばらくすると「マジか!?」というオロチが驚愕する声が。
どうやらアンナが学校に行くと言い出すのは、オロチですら驚くことらしい。
□ □ □
下ろしたての学ランに身を包むジンヤ。
同じく下ろしたての、真っ黒に赤いリボンのセーラー服を着たアンナ。
これが恐ろしく似合っていた。彼女の黒髪に真紅の瞳に、まるでそのためにあるかのようなカラーリングの制服だ。
「っしゃ、写真撮ってやるよ! ……おい、もーちょいめでたい表情できねえのかお前ら!」
カメラを持ち出してはしゃぐオロチ。
対照的に、ぎこちない表情のジンヤと、いつも通りの無表情に虚ろな瞳にアンナ。
「……師匠、嬉しそうですね」
「いや~……まさかアンナが部屋から出て、外にも出て、学校に行きたいなんて言い出すとはなあ、正直泣きそうだぜ」
「……そんなに、その……重症だったんですか?」
「まあな。別にアタシとしちゃどうしようがこいつの勝手だとは思ってたが……外に出てくれる分にゃ大歓迎だ」
「アンナちゃん、何があったんですか?」
「……ちょっと複雑でなぁ、こいつは少年にゃ身に余る。知らねえほうがいいこともあるんだよ」
アンナの過去は気になるが、そんなふうに濁されてしまう。
彼女と共に、桜舞う道を歩き、学校へ到着。
そこから先は退屈だった。
顔見知りなどまったくいないため、居心地はあまりよくない。どうせ三年すればこの場所を離れて騎装都市に向かうのだ、ここで誰かと親しくする必要性を感じなかった。
……というかそもそも、ジンヤはこれまで、まともに友達ができたことがない。
親しいのは、幼馴染のライカと、姉弟子であるヤクモのみ。彼女達の存在は『友達』とは近いものの、決定的に異なっている。
尤も、そう思っているのはジンヤだけだったかもしれないが……ともかく、ジンヤは友達という概念があまり好きではなかった。
特に同性の友人だ。ジンヤは男の友達ができたことは、ただの一度もない。同世代の同性には、いじめられたことしかない。
退屈な入学式が終わる。
なにやら新入生が喧嘩騒ぎを起こしているようだが、ジンヤは気にせずアンナを探して帰宅。
その時ジンヤは気づかなかった。
アンナを見つめる、敵意に満ちた視線に。
□ □ □
「アンナ、どうだったよ入学式は?」
「つまんなかった!」
「だよなぁ! つまんねーよな! そういうもんだ!」
入学式の晩。オロチはいつにもまして勢いよく酒を飲んでいた。アンナの社会復帰が嬉しいのだろう。
「あー、そうだそうだ、もう一人ここへ来るって言ってたろ、そいつな、明日来る」
「え、明日ですか」
急だな、と思った。もはやいつもの事ではあるが。
「まあ、諸々は明日な。あ、そうだ、ジンヤ、あとでちょっと話があるから来な」
アンナが自室に戻った後、オロチと二人きりになる。
そこで話されたのは、アンナの過去についてだった。
彼女はある事情からオロチが預かっている少女で、その事情に関しては今は詮索しないでほしいということ。
かつては近所の小学校に通っていたのだが、あることが原因でアンナは引きこもるようになってしまったということ。
「……いじめ、ですか」
「ああ。そのガキと親はぶっ飛ばしてやりてーが、ガキの問題を大人が出張って腕力で、ってわけにもいかなくてな……どーにもアタシには向いてねえよ。こーゆのも……っつーかそもそも、ガキ預かるのもな」
そういえば『師匠なんてガラじゃない』と言っていたな、とジンヤは思い出した。
彼女自身、子供を育てるということに自分が向いているとは思っていないというのは、謙遜でもなんでもなく、真剣に思い悩んでいることなのだろう。
……確かに、その無茶苦茶さは向いてるとは……というの言葉は、飲み込んでおく。
「情けねえ話だが、ガキのことはガキに頼むのが一番だ……頼むぜ少年、アンナを守ってやってくれ」
「……わかりました。師匠の頼みがなくても、しっかり守りますけどね」
「あん? 少年はあーゆーのがタイプか? マニアックだな」
「僕にもアンナちゃんにも失礼ですよ……」
「で、どーなん? ロリコン?」
「ろりこ……なんですかそれ」
「幼女が好き? 年下にしか興奮しない?」
「……えっと、僕は十二歳だし、アンナちゃんとは同い年なんですけど……」
「うーん? じゃあなんだよ?」
(思いつく選択肢少ないな……)
ジンヤはお馴染みになりつつある師の無礼さを流しつつ、理由を考えてみる。
「……ずっと一人っ子で、兄妹って憧れあるんですよね。アンナちゃん、妹みたいで」
「同い年だろ?」
「あんまりそう見えなくて」
「ロリコンだ」
「違いますって!」
「シスコンだ」
「しすこ……?」
「シスターコンプレックス。厳密にはちげーが、ここでは妹を病的に好きっつー意味で使った」
「ぐっ!」
(微妙に否定できない!)
そんな馬鹿なやり取りを繰り返した後、ジンヤは床につく。
眠りに落ちる前に決意する。
アンナには謎が多い。わからないことだらけだ。
しかし、わかっていることがある――アンナのことは、必ず自分が守るということだ。
□ □ □
「おまえか、あの幽霊屋敷に住んでるってのは」
突然だった。
翌日、放課後の教室での出来事だ。教室から出て、アンナと合流し帰宅しようとしてるジンヤに話しかけてくる男子生徒。見るからにガラの悪い生徒だった。
「幽霊屋敷……?」
オロチが住んでいる屋敷のことだろうとは察したが、彼が一体どういう用件なのかは見当もつかなかった。
「一応忠告な、おまえ、あの幽霊女に肩入れしないほうがいいぞ?」
「……誰のことかな?」
「一緒にいただろうが、髪なげー陰気な女だよ。痛い目見たくなかったらおとなしくしとけ、じゃあな、忠告したぞ?」
「……ねえ、待ってくれないかな」
「あん?」
男子生徒が振り向いた瞬間。
「五秒だ」
ぎちり、と万力のような力で、男子生徒の右腕が押さえつけられた。
「五秒以内に、アンナちゃんに何をするつもりなのか教えてくれないなら、僕もこの腕に何をするかわからないな」
彼も自分の腕は大切だったらしい、五秒も経たずに全て話してくれた。
□ □ □
――ここから先の出来事を、僕は鮮烈に記憶している。
吐き出した血が、地面を赤く染める。
周囲には何人もの男が倒れていた。
僕の拳は、血に濡れている。
意識が朦朧とする。体中が痛み、軋む。
依然として、僕は十数人の男に囲まれていた。
「クソが、どんだけ諦めが悪いんだてめえ……」
「君達もね……」
どれだけの数に囲まれようが、騎士である僕が、その力を使えばそこらの不良に負けることはない。たとえ僕にどれだけ騎士の才能がなくてもだ。
だが――今の僕は、一切の魔力を使っていない。相手は一般人だ。魔力を使えば、それだけで細かい事情抜きで僕が悪いことになる。騎士は力を持つ以上、そこには責任がつきまとう。
鍛えた肉体と、この身に修めた武のみで、この場を切り抜けなければならなかった。
しかし……どうやらここまでのようだ。
足がもつれる。立っていることもままならない。
「やっとぶっ倒れてくれるみてえだなあ……んじゃ、いい加減死ねやオラァ!」
「――テメェが死ねボケが!」
瞬間。
僕を殴ろうとした男の顔面に、突然現れた別の少年の足が突き刺さった。
サラサラと風になびく、肩辺りまでの髪。軽薄そうに、笑みで歪む口元。
鮮やかな飛び蹴りを叩き込んだ少年が、僕の方を見て驚いたように目を見開いてる。
「うっわ、ボロボロじゃねえかお前。どしたよ?」
僕は黙って前方を指で示した。声を出すのも億劫な程にボロボロだったのだ。
示した先には、縄で縛られている少女が。
アンナちゃんが、捕まっていた。
「ひゅー……やるねえ、囚われのお姫様救出作戦だったか、熱いじゃねーかよおい、いいね……男助けるよか燃えるわ。あ、まあお前助けてやるのもまあまあ燃えるぜ? こう、大勢相手にこっちは二人、信じられるのは背中を預けた親友だけ……みてーなのもいいじゃんか?」
こんな時にこの人は何を言っているんだろう。
そう思いつつも、僕は口端に笑みを浮かべている。
ああ、そうだ。確かに彼の言う通り。
たった一人で大勢に囲まれていた時とでは、心強さが違う。
もうダメかと思っていた。
師匠との約束を守れない。
守らなくちゃいけない彼女を守れない。
そう思っていたはずなのに。
彼が誰なのかはわからない。
でも、一つわかっているのは……。
彼と一緒ならば。
彼と共に戦えば。
僕と彼は、背中を合わせて、周囲を見回し――
「負ける気がしないね」「負ける気がしねえなあ」
同時に、そう呟いていた。
「お、なんだ気が合うじゃんか、マジで俺ら親友になれるかもな」
「さあ、どうだろうね……」
僕には友達がいないから。
本当の意味での『友達』は一人もいなかったから。
だけど。
――これが、僕と僕の親友になる少年、ハヤテとの出会いだった。
追憶の役者は揃った。
僕とハヤテ、そしてアンナちゃんと師匠……四人で過ごした、あの屋敷での日々を、僕は一生忘れないだろう。
ここからが、この追憶の、本番だ。




