その縁の名は
布男がシドに向かって跳躍する。賭場の天井に這うように張り付いたかと思うとそのまま走り、上方から身を躍らせ、大きな口のような穴を開けて襲いかかる。
シドは慌てなかった。半歩引き、腰を落とし、しっかりと異形の顔を見据える。
飛びかかってくる寸前、踏み出すのと同時に尽きだした左拳から火柱が上がった。
それは正確にまっすぐ伸びて異形の全身を包み込む。
子狐の兄は苦悶の声を漏らして床に落ち、そこでじたばたがさごそと暴れ回ろうとする。
その前に素早く落ちた場所まで追いついて、シドは異形の首根っこのあたりを、未だ燃え上がる腕でとらえ、押さえつける。
賭場が揺れた。化け物の声と、命がけの暴走でぐらぐらと。
シドは動じない。瞬きすらもせず、赤に変色した目で冷ややかに最期の時を見守る。
ミイラのように布でぐるぐる巻きにされた男の足の方から、不意に燃えながらもしゅるりと先端が伸びる。
それはシドではなく、部屋の隅でじっと息を潜めていたファラン達の方に向かって、あっという間に伸びた。
最期の悪あがきなのだろうか。ファランは思わず息を呑む。
しかし、彼女の視界の端で鳥がやけに余裕を持った態度でほおう、と鳴くのが目に入った。
こちらに燃える塊が暴れながら向かってくるのを視認した瞬間、ナークが一歩前に出て、片耳にそっと手をやる。
「青水蛇、頼むっす!」
彼の言葉に答えるように、鈴が鳴るような音が小さく転がった。
するとナークの耳の青銅色の飾りが、あふれ出す。
どこから湧いて出たのか、粘度を持った青色の水はみるみるうちに伸びて大蛇の形となり、燃え上がる布にしなやかにうねりながら向かっていく。
最初に一噛み。
それから丸呑み。
ギョーン、と生地は鳴いて逃れようとしたが遅い。ずるずると大口を開けた蛇の喉奥に吸い込まれていく。
その一方、布男の頭を押さえたまま、シドもまた静かに言った。
「紅炎熊、喰っちまえ」
火柱がうねり、赤い大熊のシルエットを描き出す。
熊は一声吠えると、両足でしっかりと布男の身体を押さえ、頭の先からばりばりと音を立てながら食べ始めた。
血は吹き出さない。
もはや悲鳴も上がらない。
ただ布だけが、赤と青の獣たちに消費されていく。
両方向から喰われ、やがてぴんと張った生地が引っ張られて裂け、すべて獣たちの腹に収まる。
奇妙なことに、燃えさかる布地が完全に別れて二つの獣の腹に収まると、ちょうど布が裂けた場所か真白い塊のようなものが生まれ、賭場の中をびゅんと飛ぶ。
それはひどい火傷を負っているもう片方の男の色の抜けた襟巻きまで飛ぶと、飛び込むようにして入っていった。
すべてを見届けたように、獣たちの姿も一度渦が巻くようにしてから、それぞれ腕輪と耳飾りの中に消えていく。
しんと静まりかえり、ファランが目をこすってから改めて賭場の中を見回すと、火傷をしている男、シドの側で倒れ伏している男が残され、鮮やかな黄色の生地はどこにも見えなくなっていた。
ほええ、とナークが気の抜けたような声を上げてから、のした男をひっくり返して何やら調べているシドに向かって人差し指をつきつける。
「ちょっとぉ、おれっち戦闘向きじゃないんすけど、荒事とかマジ勘弁なすけど、何半分投げてくれちゃってるんすか!? 肝が縮んだっつーの、あんた逃げた方の先におれっちいたからって後半わざと見逃したっしょ!」
「うるせえ半分はテメエが呼び込んだみたいなもんじゃねえか。それにたまには実戦で使ってやらねえと青水蛇も錆びるだろ」
「色々言いがかりっすよ!」
シドの方は汗一つかかず、至って余裕の表情である。
横で客観的に見られるファランとしては、ナークに対する所行は賭場に連れてきたことに対する当てつけの意味が大きかったのではないかとちょっと思った。
普段のシドならきちんと自分で全部片付けるので、今回あえてナークに処分の一部を任せたのは明らかだろう。
とは言え、少しごたついたもののおおむね危なげなく片付いたようでほっと彼女が一息つくと、どこに隠れていたのやら、ひょっこりとあの老婆が出てきてシドに近寄る。
「ヒョッヒョッヒョ、終わったかの」
「ン。子器はほぼ無力化した。半分ぐらいは生き残ってるから、適切な処置をしたら使えるようになるさ、使うなりしまうなり、適当にうっぱらうなり好きにしろよ」
「男達はどうサねえ」
「さあな。そっちのは顔は駄目になったが、治療すりゃまだ十分労働力になるだろうよ。こっちは割と駄目だ。身の丈以上の道具使った報いだな、魂持ってかれてやがる」
シドが言いながらファランに絡んだ男の方を投げ出すと、男はどさりと床に投げ出される。その目はうつろで焦点が定まっておらず、口の端からはよだれがだらりと垂れていった。生きてはいるが、とても尋常な様子ではない。先ほど黄色の布に身体を覆われた折、シドの言うように魂を食べられてしまったのだろうか。
老婆はコツコツと木の枝を揺らしながら男達二人に近づき、色の抜けた布きれを持ち上げて手早くたたみながらもシドと話している。
「できればァ、生け捕りがよかったんじゃがあね。それが無理なら綺麗に片付ける。どっちにも中途半端だがネ」
「生きてるだろうが二人とも。子器もな」
「だってヨォ、これじゃ主様の予定と違うが」
「ぼってんじゃねえ、十分だろうが、どうせ山送り程度だろうに。どっちにしろ最近じゃ珍しい派手な賭場荒らしだ、この後生きてても死んでてもそう変わらねえ。片方はちゃんと口きけるんだから、まずはそいつにせしめた金どこにやったか聞いてみな」
「……マ、一応は依頼達成ってことにしておきましょうかネ。アイヨアイヨ、皆戻ってきんさいな!」
婆がガンガンと木杖を何度も打ち付けると、それを合図にするように賭場の人間達が帰ってくる。掛札交換の男や、入り口の二人の門番達……それから逃げたはずの客達まで。
ファランは呆然とそれを見送ろうとして、くいくいと腕を引っ張られるのを感じた。
「さ、ファランちゃん。色々聞きたいことあるかもしれないけど、後にするっす。つーかこっちからも話をしないと駄目だと思うっす。今はちょっと邪魔になりそうっすから離れましょ、ね」
ナークはシドの方を軽く示しながら、彼女を促す。シドは戻ってきた周り男達――あれは客ではなく、どうやら店の関係者のようだ――と話をしていて何やら忙しそうだ。
「アイヨアイヨ、あんたらはこっち来て、終わるまで待っといておくれ」
いつの間にか老婆がファラン達の側までやってきており、案内でもしようというのかひょこひょこ賭場を出て行く。
再度ナークに促され、ファランは少し後ろ髪を引かれる思いになりながらも大人しくその場を後にした。
* * *
がくりと頭が落ちそうになって、自分が睡魔に飲まれかけていたことを知った。
すっかり夜も更けて少し寒いが、上着のようなものがかけられていたため身体が震えずに済んでいる。ナークは着替えてくることを勧めた気もしたが、ファランは結局賭場に出かけた格好のままシドを待つことを望んだのだった。
ファランがはっと顔を上げると、あたりは薄暗い。帰ってきた宿屋の一階、玄関の下駄箱の側で靴も脱がずにナークと腰掛け、ファランは待ち続けていた。
ふと見回すと、そのさっきまで一緒に座っていたはずのナークの姿が見当たらず、きょろきょろする。不安に思って立ち上がろうとした瞬間、外から話し声がぽつぽつ聞こえてきた。内容はわからないが、話している人間なら声から容易に特定できる。
身体を緊張させ、姿勢をぴんと伸ばして待っていると、果たして少し経つとシドががらがらと戸の音を立てながら入ってきた。
気を利かせたのか外でシドに何か言われて席を外したのか、ナークの姿は見えない。
じろりとにらまれ、ファランは思わず身体をすくめて口走る。
「……ごめんなさい」
シドは開口一番のファランの言葉に一度立ちすくむように止まると重く息を吐き、しゅんとしている彼女の隣に同じように腰掛けた。
「謝るぐらいなら、なんで来やがった」
「こんなにあっさり、本当に入れてもらえると思ってなかった。外で待ってるつもりだったの。それに、まさかあんな……」
「あー……そうだな、なんで入れたのかと思ったぜ。あのババアのせいだな、くそったれが」
「……おばあさん?」
「あいつはあの賭場の管理代行を任されてる。ま、実質の管理人ってところだ。下世話な奴だからよ、またなんか変な事でも考えたんだろ。道理で……もっと給料引っ張ってきてやりゃあよかったな……」
シドはばりばりと首をひっかき、ファランをちらりと見やり、また重たい息を吐いてからゆっくり言い聞かせるようにしゃべる。
「俺が怒ってんのはな。テメエがちょうど危ない所に来て、案の定引っかけられたからだ。今日のはただの賭場の護衛じゃねえ、元から賭場荒らしの捕り物の予定だった。それを、なあ……」
ファランがますます萎縮するように小さくなるのを見て、シドは一度言葉を切り、うなったり頭を掻いたり忙しくする。
「けどよ、ナークから聞いてみたら、元はあいつが変なことぬかしてたきつけたんだって言うじゃねえか。お前だけを責めるわけにも行かねえだろうよ、単に特別間が悪かったってだけだ。今日だけは駄目だって、その辺ちゃんと言い聞かせなかった俺にも落ち度はある」
「ナークは悪くないよ……たぶん、その、あんまり」
シドはファランを見下ろした。
ファランはうつむいたままだったが、やがて根負けしたようにゆっくりと振り返り、シドに顔を向ける。深紫色の目が瞬いた。
「本当はお前、何しに来た。別に冷やかしたり邪魔するつもりはなかったんだろ」
彼女は少し迷った。迷ったが、シドが有無を言わせぬようなまなざしで見下ろしてくるので覚悟を決めた。深呼吸して、言う。
「……ってほしくなかったから」
「なんだァ?」
「娼館に行ってほしくなかったから、止めたかった。だから行ったの」
ファランはぎゅっと自分の服の裾を握りしめ、言い切った。
シドは一瞬彼女が何を言っているのかわからない、と言った顔をしていたが、みるみるうちに険しくなる。眉間にしわがたくさん寄った。
「それがどうした。なんでテメエに、んなことうるさく言われなきゃならねえんだ。俺の情婦にでもなったつもりか? 下らねえ……」
ファランは近い距離から強くにらまれ、少しおじけるように目をそらす。だがぎゅっと服を握ったまま、何度か落ち着かせるように深呼吸する。自分の足下に目を向けて、それでも小さく問いかけた。
「シド、わたしね、ずっと聞きたかった。わたしたちって一体何なの?」
今度はシドの方が若干動じる気配があった。彼はすぐには答えられない。彼が言葉を探して目を泳がせているうちに、ファランは次々と、静かな力のこもった言葉を続ける。
「あなたは最初に言ったね。俺を父親と思うな。俺はそういうのになれる男じゃねえ。だからわたし、そう思ってきたよ、今まで。でもね、ちょっと考えたの。ううん、本当は拾ってもらった最初っからずっと考え続けてたよ、最近になってようやく言葉にできるようになってきただけ。わたしたちってなんなのかなって」
「……ファラン」
「じゃあわたしたちって他人なの? それにしてはずいぶん近しい関係性だと思わない? 家族と思うなって言ったのはあなただよね。だったらわたしがあなたをそういう風に慕うことに、何か文句でも言えるの、それってあなたがわたしに命令できることなの。自由に考えろ、好きにしろって言ったのだってシドのくせに。どうして? 嫌いになんかなれないよ。ずっと一緒にいたんだもの」
「ファラン、あのな」
「だって仕方ないじゃない。わたし、もう――」
「それ以上言うな!」
「あなたが好きになっちゃったんだよ、シド! それを悪いと言うの、あなたが!」
闇は更け、夜は凍え、しんと切り詰めた静寂が耳を打つ。
薄々、感じ続けて、けれど言葉にされず、暗黙の話題として封じられてきた、お互い触らないようにしてきた場所。それを今夜、ファランは暴こうとしている。
シドは思わずといった風に立ち上がった。
が、ファランが追うように同じく立つと止まり、背を向けたまま語り出す。
「……錯覚だ」
「シド」
「お前のそれは、父親代わりの感情を、俺がその呼び方を奪っちまったせいで勘違いしてる、そういうもんだろうが」
「シド!」
「娼館に行くな? だったらなんだ、お前が俺の相手するってか。舐められたもんだ。俺はお前にはなんもしねえ。拾ったときからそう決めてんだ、馬鹿にするのも大概にしろ」
そのまま出て行こうとしたシドだが、服の裾を引っ張られる気配に立ち尽くす。
「逃げるの、シド。ナークの所に行って責める? 確かにきっかけをくれたのはあの人だけど、今晩言うって決めたのはわたしだから」
ファランはうっすら濡れた瞳のまま、シドの広い背中を見上げる。
「どこに行くつもり。今からここを出て、どこに泊まるって言うの」
「……だから、それはお前に」
「関係ないの? わたしが子どもだから」
「……そうだ」
「ナークの故郷ではわたしはもう大人の仲間入りをしていておかしくない時期なんだって。他の人だって、わたしはもう女の時期にさしかかってるんだって言うよ」
「……やめろよ」
「わたしはいつになったら大人になれるの? いつになったら大人って認めてもらえるの?」
「テメエが大人になったってんなら、俺が面倒見る道理はなくなるはずだ――」
「だったら面倒なんか見なくていい、わたしもう自分のことぐらい自分でなんとかできる――なんでいつまでも目を合わせてくれないの、シド!」
それは、いつまで経ってもシドが振り返らないことに、その広い背中が自分を拒絶して、追いつかせまいとしている態度に、自分の話を聞いてはくれるけど、聞き届けてはくれない、いつまで経っても子どもの意見としてしか見てくれないことに対する、いらだちのような、怒りのような、嘆きのような、とにかく今まで煮詰めて隠して、表に出してこなかった感情の塊だった。
ナークに問われてほんの少しだけとどめていた関がたわみ、賭場での出来事で、今の会話で、少しずつたわみと歪みが広がって決壊した結果、喉からあふれ出てきた黒い塊だった。何年も何年も押さえ続けてきた、煮えたぎった感情の爆発だった。
しかし、ファランが一つ忘れていたことがある。
彼女の言葉は、彼女の感情は、力を持つ。
――彼女の片割れに行動の契機を与えさせてしまう、危険な刃となる。
ファランは自分の影から音も前触れもなくするりと鳥が躍り出て、シドを追い越していくのを見た。
シドが彼女をふりほどこうとするかのような動きをしようとして、わずかに振り返ったその頬を、鳥の翼の先端がかすめるのを見た。
すると、どんな刃物で切りつけるよりもなめらかに美しく、ぱっと赤い線が走る。
シドの顔が傷つく。
ファランの顔から血の気が引く。
それだけに終わらない。
鳥はなおも飛んでいき、閉まっていた玄関の扉を透過した。
すると羽ばたいた羽の線に合わせるように、さっくりと扉が切れて、音を立てて崩れ落ちる。
駄目だ、と思った時にはもう遅すぎた。
止めようと口を開けたときにはオウドはすべての事を終わらせていて、シドがものすごい形相で振り返った後だった。
「――ファラン、お前」
彼が驚愕に満ちた顔で、ぱっくり裂けた自分の顔を押さえながらファランを見下ろす。
彼女は呆然とそれを見ていたが、やがてぐらりと視界が揺れ、自分の身体が倒れていく気配を感じるのを最後に、すべてが闇の中に包まれていった。
ただ遠くで鳥が勝ちどきを上げるようにくちばしを何度も打ち鳴らす音だけが、最後まで耳の奥に残っていた。