嘴の音
シドは二人を、「どう見ても怒っています」と言う顔でにらみつけていたが、次の勝負が始まると大人しく賽子係に戻っていった。どうやら今すぐこちらにやってきてつまみ出されるということはなさそうだ。けれど、代わりに二人のことはこの場で無視することに決めたらしく、「話しかけるな」「邪魔をするな」「さっさと出て行け」オーラに満ちているのは遠目にも明らかだった。賽を振る手にも力がこもっている。おそらくは怒りで。
「あちゃー、怒ってる、すっごい怒ってる」
ナークがのけぞり、顔を覆ってうめいていると、ファランが彼の袖を引っ張って注意を引いた。
「どうすればいいと思う?」
「えええ。ど、どうしようかなぁ……?」
「わたしはこのまま適当な所――あのあたりとかに座って終わるまでシドのこと見続けるつもりだけど、ナークはこの辺で帰った方がいいと思う?」
頭巾の奥の深紫色の目が案外とても冷静なのをきょとんと見やってから、ナークは首をかしげる。
「……やけに冷静ってか、動じないっつか、素直っつか――どしたっすか?」
「来たいって言ったのはわたしだけど、中に入ったらナークの言うこと聞くって言ったし、何かあったらすぐ帰るって約束だし。別に、シドの働いてるところが見たいだけで、邪魔がしたいわけじゃないもの」
ファランの本当の目的とは、実は働いているところ云々ではなく、働いた直後のシドに干渉したい、さらに言うと働いた直後のシドが予想する場所に行こうとしたら阻止したい、というところなのだ。
ナークに向かって賭場に行きたいとは言ったが、元々こうまであっさり入れさせてもらえるとは思っておらず、適当に門番に追い払われておいて外で待っている流れにしよう、というのが彼女の最初の計画だった。
とは言え、入れたのならついでにシドを見ていこうと思ったし、せっかく隅っこにいて大人しくしていたのに、こんなに早く見つかってしまったのは残念だ。服だって実はいつも着ているものでなく、念を込めてナークからの借り物なのに。
……でも考えてみればナークが顔を出しているんだから、自然と連れが誰なのかもわかってしまうのか。
ファランは静かに思考を巡らせつつ、ナークに話しかけ続ける。ナークの服を握る手が小刻みに震えるのを感じた。
「あとね。ここ……何か、変なの。空気って言うか、何かって言うか。でも、賭場って元々こういうところなのかもしれないし、だからナークの意見が聞きたい。わたし、さっさとここから出て行った方がよさそう?」
ファランがにわかに緊張を強めているのは、彼女の中で静かに寝ているばかりだったあれがいつの間にか起き出していたことに気がついたからだ。
あれは昼間に女衆たちの洗濯物を巻き上げたように、上機嫌な時もたまに彼女の中から滑り出ては勝手にその辺を飛んでいる。だから今も気まぐれに起き出してきた、それだけなのかもしれない。
しかし、ファランが危うい場面になると必ず出てくるのもあれの奇特な習性の一つだった。
一緒にいるとシドが荒事を代わりに引き受けてくれるからか、二人旅を続けている間は幸いにもあれが暴れたことはない。
とは言え、毎回起き出してきてはくちばしをカチカチ鳴らすので、ファランとしてはあれが起き出してきて不機嫌そうな顔でいると気が気でなかった。
今はまだ、眠る姿勢のまま目を開けただけのようだが、これが偶然なのか、彼女のために準備を始めようとしているところなのかは慎重に見極めなければ。
だって、オウドが起きたって事は、シドも危ない――。
緊張しているファランに、ナークは彼女の事情を完全には知らないものの、何かに思い当たったらしく手を打つ。恐れ入りました、と小声でつぶやいてから、少し真面目な調子で答えてきた。
「正直言うとね、今夜は若干臭うっす。嫌なときに来ちまったかもしんない。畳の方は駄目だ、おれっちの勘がそう言ってやがる。でも卓の方も一部怪しい。このまま何もせずに帰るのはさすがに場の管理人に喧嘩売ることになるっすから、卓組のよさそうなどこかに混ぜてもらって、適当に勝つか負けるかしてくるっす」
「えっと、じゃあ……あそこがいいんじゃないかな。ちょうど一人空いてる。わたしは――」
「おい、おい、そこの!」
二人で作戦会議をしている最中に、急に男の野太い声が上がった。シドではない。
ファランがはっと顔を上げると、畳の方から近づいてくる影がある。
ナークはさりげなく彼女をかばうようにさっと手を出し、自分の後ろに素早く引っ込めて隠した。
「なんすかァ、旦那さん。邪魔する気なんてありませんよ」
ひとまず愛想良く彼が応じると、いかにもなならずものが相手だったようだ。むさくるしい雰囲気にだみ声。中座して畳の方からわざわざこっちに絡みに来たらしいが、さっき負けて悔しがっていた一人じゃなかったか、とファランはこっそりナークの影から観察しながら考える。
「さっきからこそこそと、怪しげな子どもなんか連れてきて何の用だ、え? 気が散って仕方ねえんだよ、邪魔だ」
「おれっちが怪しげな事は認めるっすが、立っているだけで場乱し呼ばわりとは心外っすー。それとこの子はおれっちの弟分。本人には打たせないけど、雰囲気を覚えさせに来たっすよ。良い遊び方を教えてやりたいからね、色々説明したり、お手本になってくれそうな兄さんを探してたっす。入場できたって事は管理人さんだって許可してくれたはずだ、あんたにとって何か悪いことでも?」
「ほう、そうかい、そうかよ。ならおめえ、一緒に来い。大事なガキとやらに、一つ厳しい人生の手本を見せてやろうじゃねーか」
男の下卑た声に顔をしかめ、ファランはナークのひょろ長い背を見上げた。
彼はしっかりファランをかばいながら、彼女にだけ聞こえるような小さな声で「めんどくせーっすね……勘違いの破落戸だ」とつぶやく。
(大丈夫?)
(長引いても面倒なんで、これから担当に投げるっす)
唇を動かさず早口で答えてきたあたり、まだまだ余裕はあると見てよさそうだ。それにしても若干言っていることに不穏な雰囲気を感じたのだが――。
ファランが何か言う前に、ナークは一際皆に聞こえるように声を張り上げ、少ししゃべる調子を変えた。
「ははあ、ちょっとばかり目立つ見学者がいた程度で鈍るような勘じゃあ、大勝はできねえっすなあ、オッサン。その分だと今日は負けが込んでるんで、運気を呼ぶかおれっちをカモにするかしたいっすね? それにしたって、テメエが冴えないことの難癖なんかつけられたかぁないね、自業自得っす」
「んだとォ!?」
「お客さん。騒ぐようならテメエが出ていくこった。楽しい会にケチがつく」
突如、すっと入ってきた声に絡んできた男は凍り付く。反対に、しめたとでも言うようにナークは明らかに表情をゆるめた。
牽制をしたのはシドだ。遠くから賽子を手にしたまま、こちらを見ようともせずに、それでも明らかにこちら側に向けて言葉を発している。
ファランは思わず頬を膨らませてナークの袖を引っ張った。
(ちょっと。担当に投げるって、そういうこと!?)
(適材適所って奴っすよー、これが一番楽だし早い)
ナークは特に悪びれた調子もなくへらへら答えた。
ただでさえ、見つかったから後で怒られることが決定しているのに、これ以上機嫌を悪くさせてどうなるのかとファランの方は気が気でない。
「くそっ」
今回は幸いにも、男はシドの雰囲気に気圧されたのか素直に引き下がっていった。
ほっとするファラン達だが、シドが顔を上げてこちらを向いてきたので二人でピンと姿勢をただす。
「とは言え、あんたらも来た以上、ただで帰るってわけにはいかねえだろ。どうだ、打っていったら」
シドは畳を囲むようにしいてあるござの一つ、端の方を示した。ファランがこっそり周囲を見回すと、いつの間にか賭場中の視線がナークに集まっている。
(……ありゃむしろフォローだな。しゃーねっす、ちょっと目立ちすぎたっす)
ナークはファランに小さく慰めるようにささやきかけてから、畳三つ分の長方形の短辺――ちょうどシドと体面するような場所に位置取ろうとする。
通常なら長方形の長辺を囲むように座るのだろうが、ここならファランが後ろにちょっこりくっついていても、他のどの参加者にも絡まれにくい。落ち着こうとした瞬間、またも声が上がる。
「やあ、優しいお兄さん。どうやらずいぶんと弟分が大切らしい。そんなに心配なら、あんたが熱中している間、私が代わりに見ていてあげようじゃないか」
今度ファラン達に声をかけてきたのは、どうにも平凡な毒のない顔立ちの、ぱっと見普通すぎて印象が薄い人物である。町や街道でならすれ違ってもまずなんとも思わないだろうが、どちらかと言えば明らかにガラが悪かったり人相の悪かったりする男達が集う場所にあって、少し浮いているように見える。
ファランははっとした。
シドと反対側の端に座っているファラン達に一番近い場所に、あぐらをかき、腕を組んで悠然と座っている男は、確かさっき、ビンゾロで大勝ちしたあの男だ。首に巻いている黄色い生地の布が気になったのを覚えている。
(ナーク、あの人、よくないよ)
思わず訴えかけてしまうが、言われるまでもなくナークは相手のうさんくささに気がついているらしい。ファランと男の間にしっかり自分の身体を移動させ、朗らかに、けれど有無を言わせない調子で応じる。
「そいつはありがた迷惑ってもんだ、旦那さん。この子は人見知りでね、おれっち以外になつかねえ」
「私が害でもあるってのかい? 心外だなあ――」
「おれっちの最初の札は五枚、ここから始めるっす。さ、お前はおつかいっすよ。あっちの、ちょっと怖い兄さんが座っているところまで行って、この銭と掛札を交換してきておくれ」
ナークは素早くなおも続けようとする男の言葉を遮って、ファランにおつかいを頼むなりで話しかけつつ、直後小さく耳打ちする。
(そんでそのまま、お兄さんの隣に座ってていいっすから。あそこなら金の取り扱いしてる以上店も警戒してるし、当番の男も余計な事をするような奴じゃないからある程度安全っす。こいつとはちょっと離れておいた方がいい、なんかヤバそうっす)
(わかった。でも札は足りるの?)
(必要になったらこっちで取りに行くから、大丈夫)
「ほら、怖いお兄さんたちをこれ以上待たせたらおれっちが怒られちまうから、ね?」
ナークはぐずる弟分を優しく押しやるような体でファランを送り出す。ファランは心得たとうなずくと、ナークに持たされた銀貨を手に、深呼吸して一度自分を落ち着かせる。そのまま小走りに、掛札と銭を交換する場所までさっさと行こうとした。
「キャッ!?」
それを遮られ、思わず高い声で悲鳴を上げる。
なんと、卓を囲んでいた別の男が通り過ぎようとするファランに向かって急に立ち上がったかと思うと、あっという間にファランに追いつき、腕をつかんできたのだ。
銭が床に散らばる音が響き、ナークが血相を変えて素早く立ち上がる。
「テメエ、何しやがんだ!」
「細い腕だね。それに可愛い声。ああ、それといい匂いがする」
この男はさっきの男よりは場になじむ顔立ちだが、ファランは同じような黄色い布を彼が頭に巻いているのを確認する。手首をつかみ上げられ、引き寄せられてすんすんと鼻を動かされ、ぞっと自分の血の気が引いていったのを感じた。
同時に、影から滑り出たそれが男に向かって不快そうに嘴を鳴らし始める。
(何? なんなの、この人――この人達!)
ふりほどこうと暴れるファランだが、びくともしない。
ナークはこちらに来ようとしてくれているようだが、あの平凡顔の男が立ちふさがって邪魔をしている。
(シド――シド、ごめんなさい、助けて!)
ファランが心の中で叫んだその瞬間、ガーン! と硬い物を打つ音が賭場に響き渡った。