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 ひやりとした風が肌をくすぐっていく。

 穂の群れが揺らされ、さらさらとくすぐったい音を立てていた。


「おうい」


 空は青く澄み渡っている。雲がゆっくりと流れていく。

 村の田畑はこれから収穫の季節、忙しくなる。けれど冬にさしかかる前のこの時期が、一番綺麗だとも彼は思う。

 稲の群れはほんのひとときだけではあるが、一面の黄金を見せてくれる。

 本物の金とは縁遠い生活を送っていた彼にとっては、収穫前の田畑こそが金塊だった。


 あぜ道と古ぼけた家々の向こうに、村――見知った顔の人々があちらからこっちに手を振っている。

 村長、よく遊ぶ友人、隣人達、気むずかしい老人、働き者の大人達、父や母、兄弟――。


 おおい、おおい。

 ぼんやりとした声を上げている。


 早く行って、混じらねば。

 そう思うのに、なぜか足は重い。

 後ろ髪を引かれる思い、とはこのことだろうか。

 身体がなぜか動かない。

 気持ちは今すぐにでも飛んでいこうとしているのに。


 理由のわからない葛藤に苛まれているうち、ニコニコと晴れやかに微笑んで手を振っている村人達と反対の方、自分の背後の方からささやくような少女の声を聞いた。


 ――シド。


 するとその声を遮るように、阻むように村人達の呼び声が大きくなる。

 おいで、おいで。

 さやさやと穂先を揺らす稲の群れまでもが、優しく彼を誘っている。

 そこは楽園であり、終点であり、安息の地なのだと、彼は知っている。彼らのところに行くのが正しいのだと、知っている。


 けれど、同時に胸に、喉にざっくり刺さって引っかかって、どうにも無視できないものを感じるのだ。

 やり残したことがあった。

 心残りがあった。

 この一歩を踏み出せない理由があった。


 ふわふわとした意識の中、それでもゆっくりと、わずかに、少しずつ、彼は村人達の方に引き寄せられそうになる――。


 志道シド


 ささやくようだった少女の呼び声が、不意にくっきりした。


 ヤマゼ志道シド


 二度呼ばれ、ついにはっとした。彼は勢いよく振り返る。


 いつの間にか、暗かったはずの背後がまぶしい白い光に包まれていた。

 それに目を細めてから、もう一度収穫の歌がのどかに響く光景を見直してみれば、先ほどまでと少し違った景色が見える。


 今ならぼんやりした違和感、思い出せなかった事が何なのかわかる。

 とても懐かしい光景だった。

 生きていればもう、二度と見ることのないものだった。


 貧しくもおだやかな田園と、そこに生きていた人々は、よく意識を向けてみれば彼を漠然と誘うのみで、その言葉を発しない。

 彼らはシドの名前を呼ばない。

 輪廻に還った魂の真名は失われ、死者は生者を拘束する術を失う。

 ただ愛着と未練と、切れることのないかつての縁のみが彼らをゆるやかにつないでいる。


 見下ろした身体は見知った壮年のもの。

 遠くにある彼らの姿はおぼろげな一番最後の記憶のまま、気がつけば兄はとっくに年下になり、母の、父の年を越そうという年齢になっている。



 遠い昔に終わった置き去りの過去。



 上空で、見知らぬ鳥がよく聴いた旋律を奏でている。

 それはなんだ、と尋ねると、わたしも知らないなんて言いながら、上機嫌に小さく奏でていた鼻歌。


 そうか、あいつはこの音を聞いていたのか、ああいう姿を毎日見ていたのか。


 狭間の世界で初めて見知ったものに、彼はふと小さな感動を覚える。

 じわりと広がった温かな感覚は、胸の内から身体の隅々まで渡っていく。


 田園にもう一度だけ目を向けてみると、既に名前も顔も忘れかけている彼らが未だに遠くでおいでおいでと手招きしている。

 感傷を目に焼き付けてから、シドはくるりときびすを返し、光に向かって、上空の鳥がゆるやかに誘導している方に向かって歩き出す。


 いつかは、ここに戻ってくるのかもしれない。また巡っていくために。あるいはこの穏やかな光景は幻想で、田園に至れば穂先は切っ先に、田畑は血の海に変わるのかもしれない。


 けれど、今はまだ。


 彼は自分の名を呼ぶ光に向かって歩き、手を伸ばす。

 光の方へ一歩進むごとに苦しくなる。

 その分、大事な物が一つ一つ返ってくる感じがする。


 シド。


 頭上で一声鳥が吠えた。

 空を覆い尽くす翼が七色に輝く。

 彼は促されるように、自分の名前を繰り返し呼ぶ者に向かって、ついに手を伸ばす。


「シド……」


 六年前に山奥で拾った。

 他に行き場のない子どもをそのままにはしておけなかった。

 そのときそこにいたのが自分だったから、そうするのが自然だと思った。

 なんの疑いもなく、なんのためらいもなく、気がつけば小さなその手を握り、不器用に引いていた。


 そうしていつの間にか、死に場を探していた死神が、あと少し、もう少し長生きしていたい――と無意識に考えてしまうほどの未練に育った。



 この未練を、彼女の名を――。


「ファラン」


 ――と呼ぶ。


 お前、俺と来るか。

 そう声をかけたときからずっと、幾度となく呼び続けてきた、大事なものの名前だった。




 伸ばした無骨な手は小さな両手につかまれ、温かく柔らかな頬に押し当てられる。

 ぽろぽろと落ちてくる塩辛い水滴は涙だった。

 薄闇の中、えずく間にシドの名を何度も呼びながら、少女ははらはら涙をこぼし続ける。


 彼は少しの間ぼんやり彼女が自分の手の甲に頬ずりするのを眺めていたが、苦笑してから咳き込む。

 少女は瞬きして顔を近づけた。

 男が咳き込む前に何か言った気がしたからだ。

 彼はそのままそっぽを向こうとしたが、少女が聞きたがっているのを理解すると小声で繰り返す。


「……目ン玉、こぼれっちまうぞ」


 そんなに大きく目を開いて、滝みたいな涙を流していると。


 言葉を聞き届けると、少女はわっと声を上げ、ますます激しく泣きじゃくりながら彼の身体を叩く。

 シドはされるがまま、なすがままに任せて、時折大きな手でなだめるように頭をぐしゃぐしゃと雑になでつける。

 するとますます少女は大声を上げて泣く。


「死んじゃうかと思った――シド、死んじゃうかと、思った!」

「悪かったよ、ファラン。悪かった……」


 シドが不器用に頭に手をやっていると、いつまでも続くかに思われた嗚咽はだんだんと小さくなる。

 彼女が何も言わずとも、シドはすべてを察したような顔で何も見えない夜空を見上げ、深く息を吐く。


「お前も大概バカだな」

「シドが育てたからでしょ」


 鼻をすすりながら間髪入れずに言い返す彼女に、違いないとシドは苦笑する。




 ――と、砂利を踏みしめる音がして、二人は同時に素早く顔を上げた。


「シラン様……」


 少し距離のある場所で呆然とし、ふらふらと身体を揺らしているのは蜘蛛の獣器を所有する少年だ。

 仰向けの状態から身を起こして応じようとするシドだったが、それをやや押しとどめるようにしてファランが少年をにらみつける。


「無駄よ。あなたはもう、何もできない。わたしは無皇凰オウドの力を完全に引き出す方法を手に入れた。もう二度とシランは蘇らせないし、あなたの思い通りにだってなってあげない」


 シドはファランが自分から少年に話しかけるのを見ると、動きを止めて様子を見守る風になる。

 少年は自分の両手を見ている。

 焼かれたはずのそれは、いつの間にか真っ白い、元通りの無傷に戻っていた。

 シドの大怪我が消えたのと同様に、少年の負傷も不思議な光が夜を包んだ際に治療されている。


「どうして、シラン様……」


 訳がわからない、という風に頭をゆっくり振る彼に、ファランは落ち着いた声のまま重ねて言葉をかける。


「わたしはファランです。シランはもう、死んだ人なの。自分で死を選んだ人なの。あなたの……あなたたちの望みは、誰も救わない。不幸を増やすだけ。そんなことに手を貸してあげる道理なんてないわ。わたしはこれ以上あなたに何もしてあげるつもりはないし、あなたにさせるつもりもない。……お願い、もう、わかって。わたしの前から去って、二度と現れないでください」


 凜とした口調で言い終える彼女を、少年の紫色の瞳が見つめている。

 彼女は毅然とした――少し前までは恐れ、理解出来ないものに怯えるだけの目をしていた無力な少女のものではなく、根拠のある自信を持った、大人びて落ち着いた表情をしていた

 ファランはしっかりと傍らの男の手を握りしめており、上半身を起こした男も油断なく少年のことをにらみつけている。


 彼は瞬きをして目を伏せた。自分の手をもう一度見る。

 彼の白い手を握ってくれる相手は、幻視すらできなかった。

 ぽつり、と足下に落ちるものがある。


「そうですか。……生まれ変わっても変わりませんね、あなたは。手にかけてすらくれないんだ。そうでしょうね、僕はそれっぽっちの存在だったんでしょうね。今も……あの時も……一度もあなたは僕を見てくれなかった、我が主よ」


 瞳を閉じ、ゆっくりと右手の親指から黒い指輪を抜き取って懐に入れながら、少年は小さく呟く。

 以前のような奇妙な抑揚はなく、不気味な覇気もすっかり消えている。


 ファランもシドも少年も、あまり多くの言葉は交わさない。

 ただ、空が見たこともない輝きを放ったこと、尋常でない奇跡がその下で起きたこと、少女が落ち着き払い、屋敷と庭の空気がこれまでになく穏やかな風に包まれていること――それらの状況が、彼女が何も語らずとも、おのずと答えを導き出すのかもしれない。


 少年はフラフラと歩き出す。

 シドとファランが見守っている前で、中庭から出ていこうとするが、一度だけ立ち止まる。


「誠に残念ながら……僕の完敗と言わざるを得ません。最高の、至高の獣器を手にしたあなた。僕を一切必要としないあなた。アルデラの反応も消えた今、現世でこれ以上あなたに干渉することは不可能でしょう。……ですからここで失礼させていただきます」


 礼は取らない。彼は背を向けたまま、小さな背中を向けたまま静かに語る。

 シドもファランも邪魔をせずに聞いていると、ほんの少しだけ、横顔が見える程度に顔を向け、続けた。


「けれど、来世では……次こそは必ず。必ず、今度こそこの想い、受け入れていただく。僕は、僕たちはもっとうまくやるよ。あなたは知らないだろうけど、三百年前だってずっと見ていた――今度はちゃんと、わかってもらえるように動くよ。だから、あなたも覚えていてくださいね」


 蜘蛛の糸が絡みつくようなねっとりとした意思が、最後にほんのひとすじまとわりついていこうとする。

 敗北を認めつつ、次をほのめかす彼に、最後もシドは黙ったままで、ファランが冷静に答えた。


「あなたにもし来世があるなら、今度こそ平凡でも優しい家族の元に生まれて、わたしのことなんかすっかり忘れていることを祈るわ」


 簡潔に優しい拒絶の言葉を紡がれた少年は、苦笑のような吐息をもらし、それで吹っ切れたように顔を上げる。一度も振り替えずにふらふらとどこかへ去っていく、寂しい背中が消えるまで二人はどちらも動かなかった。


「俺もお前も、何か違えばあんな風になっていたかもしれねえ。同情や共感はしねえが、赤の他人とまでは思い切れねえよな」


 完全に黒装束が視界から消え去ってから、ぽつりとシドが呟くと、ファランは彼に身を寄せてささやく。


「でも、わたしにはシドがいたもの。シドはどう?」

「うるせえよ、知るか」


 シドは鼻を鳴らし、顔をしかめてそっぽを向くが、ファランの細い腰にはいつの間にか彼の毛深く太い腕が巻き付いている。


「わたし、これからもシドと一緒にいたい。……シドはどう?」


 ファランはシドの広く大きな胸に身を寄せて目を閉じた。

 言葉での返事はない。

 けれど、彼女は自分を抱き寄せる腕にしっかりと力が込められたのを感じ、思わず身体を、頬をふわりとゆるませるのだった。



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