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魂呼び 後編

 いつの間にか、胸の痛みが戻ってきている。


 見ないで、見ないで。


 もう一人の彼女が抵抗をする。


(そうか。そういうことだったのか)


 ファランが奇妙にくっきりと冴えた頭で真実を理解しようとするのにつられるように、でなければ阻止しようとするように、鈍痛は重たくなっていく。




 シランは強い女だった。

 もう少し正確な言い方をするのなら、強く振る舞うことができる人間だった。

 それは彼女が自分で望んだ道だし、そうでなければとっくの昔にあらゆることで挫折していただろう。


 彼女は強さを、何事にも動じない方向に求めた。

 本当は人並みに、あらゆることに反応だってできた。

 悲しいことがあれば心は震え、腹立たしいことがあれば燃え、驚くようなことがあればびくりと反応し、恐ろしいことがあれば縮む――そういういかにも年頃の娘らしさを、持っていなかったのではない。

 ただ、一度揺らいでしまえば、揺るがされてしまえば、二度と立ち上がれないことを知っていたからこそ、誰に何を言われようとも頑なな心を閉ざしたままだった。


 彼女の強さは拒絶から始まるものだった。

 それは人に感心こそ抱かせたが、共感は呼びがたく、他人は彼女を遠巻きにするしかなかった。彼女本人が、必要以上に他人を近づけたがらなかった。

 けれど、異民族で、異文化圏の人間で、若く、女の身で、育ちにも経済的にも確固とした後ろ盾のない――都で一切の「力」を持たなかった彼女が他に取れたとしたら、それこそ他人に媚びを売り、したたかに人の間を泳いでいくような、そんなやり方しかなかったのかもしれない。




 彼女は強い人間だったが、同時にとても弱い人間だった。

 素直で、繊細で、不器用な人間で――うまく頼る、すがる術を知らなかった。

 おそらくは、幼少期から青春期にかけての父や一族とのかすかな、それでいて決定的な断絶――それが彼女に、世界に対する基本的な不信を植え付けたのだろう。


 そして彼女の周りの人間もまた、彼女を傷つけてまで深入りすることをはばかり――結果として、彼女はずっと一人だった。




 ――鳥は。

 鳥ゆえに、それらすべてを軽々と乗り越えることができた。

 鳥だけが、彼女の密やかに漏れ出した悲鳴を聞きつけ、駆けつけることができた。

 けして口に、聞こえる言葉にはされない、心の奥の引き出しに大事に大事にしまい込まれていた彼女の本音を、彼だけが聞き当てて、外に出してしまうことができたのだ。


 シランは鳥を見ることのできる目を持っていた。

 あるいはそれが、彼が彼女に惹きつけられ、何度も害なく姿を現した理由だったのかもしれない。

 それが一体何を考えていたのか、何を考えているのか、人に理解することは不可能だろう。

 そのことが幸だったのか不幸だったのか、人が断じることは不可能だろう。


 一つの事実として、人は誰一人としてシランの精一杯の意地の中に踏み込むことができず、ただ一頭の魔獣のみが彼女の堅牢な壁を易々と乗り越え、柔らかな内部をこじ開けて侵入し、膿んで血を垂れ流す彼女の深い深い傷に、静かに共に寄り添ったのだ。


 シランは静かに陥落した。

 どの人にも明け渡さなかった心の内側を、鳥にだけ分け与えた。




 その日は、結局それだけで終わった。

 鳥が帰ればまたいつも通りの日常。

 けれどその日から、シランの様子は変わった。


 彼女は夜牢に戻されると、壁に手をつき、誰にも聞こえない声で彼を呼ぶ。

 すると鳥は彼女の言葉を聞きつけて必ずやってくる。

 シランが眠りにつくまで彼は寄り添い、明け方人々が目を覚ます頃に再び飛び去っていく。



 ささやきかわし合う――というよりは、シランが一方的に鳥に小さな声で語りかけていたのだが――二人のささやかな平和は、永遠に続くかにも思われたし、ほんの一瞬のことにも思えた。

 涙と共にすべての感情をあふれさせてしまったシランは、落ち着くとぽつりぽつりと鳥にあらゆることを語りかける。


 彼は人のように相づちを打つこともない。本当に聞いているのかもわからない。

 けれど、彼女が名を呼べば必ず色を反射させる二つの瞳でのぞき込む。

 シランはもう、鳥と共有することを恐れなかった。

 彼の目を借りている間、彼女はどこまでも自由だった。

 どこへだって行けて、何にも縛られることはなかった。


 甘やかにとろけた瞳で、鳥の首を撫でながらささやく、その言葉――。




 やめて!




 ファランの耳に絶叫が響き渡る。

 彼女はぶつりと頭の奥で何かが切れた音を聞いた。尋常でない痛みにぐらりと頭部が揺れるのを感じた。鼓膜が破れたのかもしれない。


 シランが拒んでいる。

 それだけは、と彼女が叫び、荒れ狂うのを感じる。


 けれどファランは、笑った。

 あらゆる感情を少しずつ込めながら――静かに、笑いかけた。


 虚を突かれたのか、ファランを苛んでいた苦痛が和らぐ。

 その瞬間を逃さず、ファランは静かに語りかけ始めた。


(……わたし、きっとわかったわ、シラン。あなたは……聖人になりきれなかったのね)


 ファランの中のシランが動揺している。

 主導権が自分にある事を感じながら、ファランはたたみかけた。


(隠さなくて良いわ。隠す必要なんてないわ。わたしはあなたの来世。あなたはわたしの前世。本当は、思い出したくなんかなかった、分かちたくなんかなかった。……けれど、こうなってしまった以上、わたしはあなたを暴く。あなたの本当を、教えてあげる)


 一度大きく息を吸ってから、ファランはゆっくりと言葉を紡ぐ。


『あれは、けだものの王は、必ずまた戻ってくる』


 それはかつて、シランが文にして残した遺言。凶鳥の片割れの存在――人々を震撼させ、ファランの人生を決定づけた、忌まわしい一連の言葉。

 それを彼女は紡ぎ、そして合間に補足する。


(彼の封印は不完全なのだから)


 シランが再び何かしようとする気配が一瞬だけ上がる。

 が、ファランの気迫が上回る。


『獣器が彼を呼ぶ限り、けだものどもが楔から解き放たれる時を望む限り』


(いいえ、それは嘘。わたしの魂が彼を求める限り、彼は応え続けるだろう)


『人よ、私の死の後、翼を持つ女子――凶鳥の片割れを探せ』


(それはわたしの転生体)


『見つけて、これを確実に封ぜよ』


(それがあなた方が平穏に暮らすための、唯一の手段)


『さもなくば、かの凶鳥は再び天空を舞い、地上に地獄をもたらすであろう』


(わたしたちはきっと人の世には、ただ在ることすら、許されない)


『ゆめゆめ忘れることなかれ。情をかけることなかれ』


(わたしを憎んでいい。けして許してくれなくていい)


 ――ファランはその言葉を結ぶ前に、一度ぐっと、強く唇を噛みしめた。


『その子は災厄の子、惨事の招き手、大過を犯す不幸の使徒なり』


(――わたしは)


「この存在を、どうしても他の誰かに渡すことが、人の世のものとすることが耐えられなかった……そういうことなのね、シラン」


 ガラスのような何かが砕ける、とても美しい音がした。

 嵐のように暴れていたシランの感触が失せる。

 もはや何も聞こえない、何も感じない。


 ファランは目を開ける。意識を戻す。


 闇の中に沈む鳥は、漆黒に染まりつつもじっとファランを見つめている。

 それは何かを待っているようにも見えた。


 彼女は苦笑して、呼びかける。


「わたしの片羽。ようやく今、ほんの少しだけ、お前のことを理解したよ」


 薄暗い地下牢の中、シランは何度も彼に向かって呼びかけた。


 わたしの比翼(・・・・・・)連理の枝(・・・・)


 何のことはない。

 鳥を自らの身体に迎え入れると決めたのは、他の誰でもないシラン自身の意思だったのだ。

 それはきっと、ただただひたすら善であろうとした彼女のたった一つのほころびだった。たった一つの邪悪だった。


「……あなたはシランを一度も助けはしなかったけど、ずっと一緒にいることは許したのね」


 独占欲(・・・)

 無皇凰オウドという不完全な獣器ができあがったのは、凶鳥の片割れが生まれたのは、ただそれだけのことだった。それだけの理由だったのだ。


 鳥を獣器に。

 シランの目標は、いつからか皆のためから自分のために変わっていったのだろう。

 彼女は牢で鳥と蜜月を過ごしながら、恐れていたに違いない。

 彼がいつ何時、気まぐれを起こして彼女のもとから去っていってしまうことを。

 だから側に縛り付けたかった。

 封じてしまえばもう前のように自由に勝手にどこかに行ってしまわない。

 ずっと側にいてくれる。


 ――けれど、獣器にしてしまえば、真名を知っている人間すべてに所有されることになる。

 もちろん、獣器自身も使い手を選ぶことはできる。

 シラン以外の使い手には心を許さないかもしれない。

 その可能性にすら、彼女は満足できなかったのだろう。


 ずっと側にいてほしい。

 願ったのはただ一つだけ。


(遺言で凶鳥の片割れなんて言ってしまうあたり、たぶんまだ公共人としての意識や罪悪感はあったんでしょうけどね。それとも少しは都人への意趣返しの意味もあったのかしら?)


 ファランは苦笑する。

 シランが余計な言葉を残してくれたおかげで、彼女は今日までさんざんな目に何度も遭わされてきた。

 適当に封印は失敗したとか言ってくれればいいものを、嘘は言っていない、けれど本当の事をすべて話したわけでもない――そんなこずるいやり方で片付けて周囲を攪乱して、自分はまんまと勝ち逃げしたのだ。


(善い人として振る舞いたかった。けれど、なりきることはできなかった)


 遠くのぼやけた輪郭、対立するばかりだった人物の像が、今は近く、穏やかな心で考えることができる。

 シランに対して思わないことがまったくないわけではないが――。


(いいの。色々すっきりしたし、はっきりわかったこともある)


 彼女が力に目覚め、発揮するほどに、人は彼女を化け物とののしり、離れていった。

 彼女と世界を共有できる相手は人間になく、ただ鳥のみが彼女の連れ合いとなった。


 信じたかったものに裏切られ、憎んでいたものにいつの間にか愛情のようなものすら抱き始めて、前の自分も新しい自分も捨てきることができず、その苦しみたるやどれほどのものだったろう。

 鬱屈し、相反する二つの真実を抱えて、抱えて、死んだ後まで抱え込んで。


「それでも、わたしはシランじゃない。善人にも、悪人にも、お前のつがいにも、何者にもなりきれなかった……そんな女ではないのよ。あなたを憎みはしないけど、あなたのしたことを許すつもりはないし、あなたのやり直しに、二人目になってあげるつもりはない」


 深呼吸をしようとすると、喉がおかしな音を立てる。

 精神世界でのダメージはあながちすべて幻というわけにもいかなかったようだ。

 身体のあちらこちらにガタがきはじめている。

 それでも奇妙に心が穏やかなのは、いつもぼろぼろになりながら彼女の前に立って庇ってくれた大きな背中を知っているからだろうか。


「……ソン花欄ファランの名を以て命ずる」


 彼女は静かに、朗々とよどみなく唱え始める。

 決別の言葉を、自分が何者であるかをくっきりと口にしてから、不思議なほど自分の中のシランが静かになったのを感じる。


 鳥はファランは真名を名乗った瞬間、すっとしなやかな首を伸ばした。

 そして彼は行儀良く、静かに待ち続ける。


「其は万物を越えるもの。全にして個、有にして無。民なき王であり、知なき賢であり、剛なき力である。頭は満。嘴は響。翼は空。足は支。七星来たりて言祝ぎ与え、七つの大地が呪を与う。其は無限にして唯一、永遠にして刹那、光にして闇、過去にして未来、公にして私。我ら、違うことなき盟約の伴侶なり――」


 頭に浮かぶ言葉をそのまま口にすれば、両手が、身体が自然と動いて印を結ぶ。

 ファランの足下に白く輝く不思議な模様が浮かび上がった。それは鳥の元にも現れる。

 彼は逃げようともせず、どこか挑みかけるような、試しているようなまなざしで、ファランの詠唱を待っている。彼女が言い当てる瞬間を待っている。


 言葉を句切る。

 からからの喉につばを飲み込もうとする。

 喉が呼吸のたびにぜいぜいひゅうひゅうと音を立てる。

 大きく息を吸って、吐いて、もう一度吸った。

 片手を鳥に向かって差し出し、ファランはついに最後の一説を唱える。


「其は、アイラ……お前の本当の名前は、愛羅アイラ


 その言葉を出した瞬間、ぞっとするような寒気がした。

 何者かが頭上を歩き、心臓を撫で、腹のあたりを踏みつけて去っていく。

 ――恐怖。

 それは全身を支配し、連れて行こうとする。


 けれど一方で、今までにない安堵がわき上がってくる。

 長い間の断絶がようやく埋められたような。


 ファランははっと見上げる。

 鳥が庭から飛び立ち、羽ばたいていく。

 その翼は夜空の中にどこまでも広がっていき、間もなくあっという間に覆い尽くしてしまう。星のように瞬く頭がこちらに振り返る。


 愛羅アイラとささやく度に、鳥はほおん、と腹を大きく揺らすような心地よい音を鳴らす。

 そうだよ、と答えているようにも聞こえた。

 真名を探り当てられた彼は、じっとファランを見つめる。


 それで、お前は何をなすのか?


 声なき問いが、ファランに向けられている。


 ぐっと、身体から力が抜けていくのを感じる。

 両手で自分を抱きしめ、倒れそうになる身体を励ましながら、ファランは大空を仰ぐ。

 顔が歪み、声がかすれる。


「助けて、愛羅アイラ――わたしの大事な人を、お前の力で救って。シドを助けて!」


 鳥が吠え、大空が七色に輝いた。

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