魂呼び 前編
過去の記憶が流れてくる。
今までの何倍も早く、何十倍の質量を持って。
見たことのある映像、見たことのない景色。
ファランは特に激しく抵抗せず、しばらくは流されるに任せてじっとこらえた。
そのうち慣れてくると自分の内側に意識を集中し、落ち着いて深呼吸する。
(オウドの、鳥の、真名につながるシランの記憶を――)
ファランが流れの中で念じると、それに応えるかのようにいくつかの記憶の濃度が増す。
それは当初激しい苦痛を伴う物だった。
おそらく、シランが最も思い出したくない、そういう類いの記憶なのだろう。
だからこそファランは根気よく挑みかけ続けた。
きっと、大層不快で醜悪で――そういうものにこそ、答えがあると考えられたから。
もう駄目か、と音を上げかける一歩手前でさっと痛みが引いていく。
どうやら根比べには勝てたようだ。
息を荒げていると、ある映像が目の前にやってきた。
そこは屋敷の中だった。
シランが周囲が驚く顔をするのを気にもかけず、突き進んでいく。
映像が雑音とともに歪み、時間が少し飛んだ。
屋敷の中で、シランがルゥリィを責めている。
今までにない剣幕のシランに、ルゥリィは完全に困惑し、泣きそうな気配にすらなっている。
(これは……たぶん前に見た出来事の続きだ。無皇凰と感覚を共有してしまい、庇護を受けていたはずの彼女の出身部族が実際には滅ぼされていたことを、パトロンであるルゥリィに問い詰めた。そして……ルゥリィはその件について、何も知らなかった)
ファランは様子をうかがいながら静かに考える。
やがて、見かねたのかルゥリィを庇うように周囲の人が間に入ると、シランは黙り込んだが間もなくきびすを返し、立ち去って行こうとする。
引き止めようとしたルゥリィを振り返った顔には、くっきりと軽蔑するような表情が浮かび上がっていた。
お暇を。
唇がそんな形に動いた。
ルゥリィは血相を変え、倒れ込んでしまう。どっと人々が駆け寄ってくる。
すると気にも留めないだろうと思われたシランは、容態を急変させたルゥリィの様子を耳にした瞬間足を止め、つかの間何かに惹かれるように、迷うように振り返る。
(約束を破られたとは言え、本人だけを責めきれない――ルゥリィはただただ人が良かった。他の人の悪意を疑えず、謀略を阻止できない程度に。シランは彼女の能力に、約束が果たされなかったことに失望した。けれどまだ――人としてルゥリィを嫌いにはなりきれなかった、どこかで彼女だけを責められない事をわかっていた。シランもまた、少し人が良すぎたのかもしれない)
シランは迷っている。身体の向きはちょうど、このままルゥリィに駆け寄る方にも、出て行く方にもすぐに転換できそうなところで止まっている。
けれどルゥリィを囲む誰かの一人に強い口調で責められると、表情を凍らせ、その後は振り返ることもなく出て行ってしまう。
何人もの人がルゥリィの方に駆けていく。彼女は彼らと正反対の方向に、たった一人だけで歩んでいく。
(……でも、そんなことをしたら、シラン、あなたは)
ファランの思考に連動するかのように、景色が飛ぶ。
シランが歩いているのはまだ都の中のようだが、今までの映像では見なかったような場所だった。
路地裏を足早に過ぎていこうとしていた彼女は、間もなく男達に取り囲まれ、麻袋を被せられて連れて行かれる――。
(やはり……ルゥリィという庇護者を失った彼女の行く末なんて、わかりきっている。獣器を持っていれば抵抗もできただろうに、このときにはすべて取り上げられていたのね。いえ……それとも怒りのあまり、ルゥリィの屋敷に全部おいてきてしまったのかしら。すべてがどうでもいいぐらい自暴自棄になっていたのかしら)
映像が変わる。
シランが連れ込まれたのは、どうやらルゥリィとはまた違う派閥のやんごとなきお方の屋敷らしかった。
都を去ろうとする彼女を引き止めたいらしい。
罪人のように引っ立てられて表情をこわばらせている彼女に向かって、いかにも身なりがよさそうな人間が御簾の向こうから呼びかけてくる。
シランは毅然とした態度で抵抗していたが、やがて御簾の向こうから投げかけられたとある一言をきっかけに血の気が引き、勢いが落ちていく。
(おそらく、この人達が故郷の襲撃に関わっていたのね。そして彼女の唯一の弱味を――生存者の存在をちらつかせた)
抵抗が、覇気が一気に薄れた彼女を、取り押さえている男達が乱暴に突き飛ばす。
――流民風情が! 町に入れば風紀を乱し、犯罪の温床となり、どこに行っても存在するだけで迷惑をかける。挙げ句の果てには魔獣風情と交わりを持つ。それが貴様らだろうが、違うか!
御簾の向こうから荒々しい罵声が飛んでくる。
シランは反論しようとするが、そのたびに腹を蹴られてうずくまった。
ファランはぎゅっと眉をひそめたが、目をそらさずに一連の出来事を見守る。
(……あんなに身を粉にして働いてきたのに、その仕打ちがこれか)
やがて乱暴に耐えきれなくなったのか、ついに気絶したシランの身体を抱え上げ、男達は移動する。
――地下牢に幽閉しろ。
御簾の向こうから、やんごとなきお声がまた囀った。
映像が変わる。
ファランは自分の身体が、胸のあたりがぎゅっと痛くなるのを、きしむのを感じる。
それからの彼女の日々は一言で言って地獄だった。
ルゥリィという良心的な庇護者を失ったシランは、希望を餌にただただ搾取を続けられた。
地下牢の中ではありとあらゆる暴行が、彼女を壊しきらない程度に連日加えられた。
シランは彼らがやってくると、平然とした皮を被る。
何をされても悲鳴一つ上げず、無表情に冷たい目で彼らが満足するまで待っている。
それがより一層、生意気だ、気にくわないと彼らの気分を逆立てる。
牢には見張りがいる。
彼女は眠れない。
時折連れ出されて獣器作成を命じられれば、以前よりもさらに研ぎ澄まされた力で作り上げる。
外に出ているときは、工夫して一切の虐待の痕跡を見せようとしない。
誰かが勘付くような素振りをしても、冷たくあしらって自ら牢の中に戻っていこうとする。
(本当は、一族滅び果てている事……シランにもこの時点でわかっているのでしょうね。鳥の目を借りて、彼女はその瞬間を見た。でも、もしかしたら、誰か一人でも――その可能性が、未練が、どうしても捨てきれない。だってそれを失くしてしまったら、なんのために今までこうしてきた? なんのために今こうしている? すべての境遇に耐えられなくなる。希望を捨てきることはできない。……それが半分。もう半分はきっともう、彼女は自分のすべてがどうでもよくなりつつあるのだ)
残酷な堂々巡りだ、息が詰まる。
ファランは奥歯を噛みしめながら成り行きを見守った。
ろくな食べ物が支給されないこともあってか、シランには今にも壊れそうなはかなさが染みついてきていた。それすらも、彼女を責めさいなむ新たな理由となる。
死ぬことはできない。死んだら一族に会えなくなる。生き残っているかもしれない一族がさらに酷い目に遭う理由になる。
シランは一人の時、一族が、いやもう、でも諦められない、そんな言葉を繰り返し何度も呟いている。
(本当に、誰も彼もが大馬鹿だ)
ファランは陰鬱な過去に徒労感を覚えながら首を振った。
(こんなことをして、一体何になるんだろう)
過去のシランと、ファランのため息が、つぶやきが重なる。
彼女たちの疑問には、誰も答えようとしてくれない。
重たい鎖の音が、じゃらじゃらと耳奥にこびりついて離れなかった。
――そんなことが永遠に続くかに思われた、ある日。
奇妙に空気が澄んでいた。いつもはよどんだ地下室のはずなのに、何か、どこか様子が違う。
不審を感じ、牢でうずくまっている彼女が顔を上げると、牢番が崩れ落ちる。どうやら突発的な睡魔に襲われたようだ。
ぎょっとした彼女が身構えたまま硬直すると、どこからかこの世の物とは思えない旋律が流れ込んでくる。
歌いながら姿を現したその存在に、彼女はあっと口を開けた。
それは鳥だった。彼女がいつも見つめ続けていた鳥。
何にもとらわれず、何からも自由なそれは、牢の格子をすり抜けてシランの元へ降り立つ。
金属音が響いた。シランの足かせが外れた音だ。
彼女はしばらく壁に背をぴったりくっつけて、大きく目を開けて鳥を見つめていた。
やがて、その顔が歪み――彼女は獣のようなうなり声を上げて鳥につかみかかった。
なぜ、あんなものを見せた。
どうして、一族を助けてくれなかった。
何度も姿を現して、一体どういうつもりなのか。
お前を見ることのできるこんな目なんか、初めからいらなかった――。
シランらしくない、あらゆる負の感情に満ちた言葉が滑り出し、彼女の拳は透明な鳥をすり抜けて何度も何度も牢の床を叩き、やがて赤く染まる。
誰も騒ぎに気がつく様子はない。
屋敷全体が眠りに落ちていた。
シランと鳥の、二人以外すべて。
鳥は静かにシランを見つめているだけだ。それ以上も、それ以下も、何もしようとしない。
一通りののしり終わったシランは、何をしても無反応、触れることのできない相手に気疲れを覚えて壁にぐったりもたれかかる。
しばらくじっとしていた彼女がふと瞼を上げると、鳥は相変わらずそこにいた。
その目が自分と同じ紫色に染まっていることに気がついたシランが、ふと首をかしげる。
鳥もまた、同じ方向に首をかしげた。
いつかと同じような瞬間。
いつかと同じような展開。
シランの目からは涙があふれ出た。
声はもう、先ほど散々怒鳴り散らしたせいなのか出てこない。
彼女はただただ、声もなく、はらはらと大粒の涙を瞳からこぼし続ける。
鳥が薄暗い牢の中をゆっくりと歩いて彼女に近づいてきた。
シランは身を固くするが、逃げようとはしない。
ひやりとした嘴が、そっと彼女の頬に触れ、涙をすくう。
彼女はおそるおそる手を伸ばした。
初めて触れられた鳥は、通常の生き物と違って奇妙に冷たかった。
けれどなぜか、ひんやりした心地よさに導かれるように、身体の中に温もりができていく。
シランがこわごわと、直後に思い切って抱きついても、それは一切の抵抗をしない。
ぱちぱちと瞬きを繰り返すだけで、すべてをシランに任せている。
シランは涙をこぼしながら、再び鳥に悪態をつき始める。
色々なことを言い尽くした。
そして一番最後に。
「それなのにどうして、誰かに一番側にいてほしいときばっかり、いつも一緒にいてくれるの……!?」
ささやくように、ごくごく小さく、それでも確かに――確かに彼女は、そう言い切ったのだった。




