真名
それと目が合った瞬間、ファランの身体が反射的に大きくぶるりと震えた。
一度大きく寒気が走り、その後は硬直する。
両腕で身体をかき抱くようにしてみても、怖気は止まらない。
表面上は金縛りにあったがごとく、全く何も動けないのに、奥の方は震え上がってガタガタと揺れている。
誰に教えられずとも、本能は、身体は知っているのだ。
これがそういうものであると。
すべての思考が無になり、感情が消し飛ぶ。
沈黙の遠くに、この世の物とも思えない耳障りで耳心地のいい音が鳴っている。
視界は点滅を繰り返す。闇の中に、光の中に、幾多の知らない情景が浮かび上がる。
そこまで一瞬のうちに流れ込んできた情報を、はっと気がついたファランは振り切ろうとする。
頭を振りたかったが、身体は動かない。
ただ、抵抗の意志を示せば、波のように押し寄せてきた一連の感覚は同じようにあっけなく引いていく。
いや、あっけなくなんかなかった。引っ張られる。持って行かれる。
巻き込まれた足が取られ、あちら側に絡め取られそうになる。
(魔獣に近づきすぎてはいけない。彼らは、人ではないのだから)
それもなんとか乗り切ったファランが改めて瞬きし、目を細めれば、目の前には見慣れた鳥が翼をたたんでこちらを見上げているのが見える。
一瞬共有しかけた彼の世界は、一波過ぎてみれば心の底から恐ろしい物に思えた。
同時に、ほんの少しだけ切望する。いや、切望を知っているからこそ、恐ろしい。
そこは人の世とは全く異なるものだった。そこに至れば、個々の情愛など等しく惰弱なものに成り下がる。大いなる全が個であり、個は全と境界を曖昧にして存在している。
警告を発するように、胸の内側が熱く痛んだ。
(駄目だ、わたし――そちらのことを考えすぎては、駄目だ。わたしが、この世の人間でなくなってしまう)
ファランは自分の中の炎によって意識を取り戻し、自らを叱咤する。
護火の名残はゆらりと彼女の胸の奥でうごめいてから、間もなく消えてしまおうとする。
行かないで、と言いそうになってファランはこらえ、唇を噛みしめた。
鳥は空色の目でじっとファランを見続けている。
敵意や害意は一切感じられない。
けれど、それに甘えたり溺れたりしてはいけない。
彼は、まったくの無意識に、ファランをファランでないものに変えてしまう。
そういうことができる相手なのだ。
生唾を飲み込むと、喉が動く感触が気持ち悪い。口の中がからからなせいで嚥下がうまくいかないのだ。ねばつくのどがひっついて、そのまま離れず閉まってしまうような不快感。
それでもファランは何度か意識して深くゆっくり呼吸を繰り返し、自分を落ち着かせる。
(強靱な精神を持ち、古代の秘術を知り尽くし、優れた術士であったシランが、獣器達を駆使してでさえ、封じきることのかなわなかった存在――)
彼に悪意はない。おそらく善意もない。ただそこに在るだけ。それがすべてで、それで完結している。
人の手の届かぬ頂に位置し、下界のことなど知りもしない。
かつて、神とも呼ばれたもの。
(でも、わたしは――今、その存在を、動かさなければならない。大丈夫。わたしには、動かせるはず)
「真名を以て命ずる、無皇凰――」
胸元で手を握り、勇気を出して言葉を発しようとした瞬間。
ぱくり、と何気なく鳥が口を開いた。あくびにも似た動きで。
ファランの耳奥がキーンと鋭い音で射ぬかれ、言いかけの言葉が悲鳴に変わる。
(どうして、真名を使っているのに、制御できない――)
頭が内側から揺さぶられるような感覚に、ファランは思わず膝をつく。
(やっぱり、無理だって言うの? わたしに無皇凰を使いこなすのは――)
腹の奥に、胸の下に、押さえつけようとしていた根源的な感情は、のど元までやってきて今にも口から出ていこうとする。
幸か不幸か、ファランは叫ばずに済んだ。
それよりも先に、瞼の裏に鮮やかに蘇った光景に気を取られたのだ。
仰々しい祭壇が築かれ、天幕で彩られた屋外は紅色に染まっている。
(黄昏の空――)
ぼうっと大空を見上げていた彼女は、周囲の喧噪に釣られて視線を下ろす。
無数の陣や結界が敷かれたそこは、今やそのほとんどが無残に切り裂かれ、周囲に控えていた人間達が慌てたように走り回り、こちらを指さして怒鳴りつけてくる。
「どういうことだ、封印は失敗したのか!」
「裏切ったのか、この売女め!」
よく見れば彼らの何人かは、見覚えのある装飾品を――獣器を、身につけていた。
こちらが身じろぎすると、しゃらりしゃらりと衣装の飾りが鳴る。
ひどく風が吹き荒れていた。人々は飛ばされないように地面に這いつくばっている。シランだけが、しっかりと二本の足でまっすぐ立っている。
「シラン、どうなった! 奴は、奴はどこに? 教えてくれ――失敗したのか!?」
「シラン――シラン、無事か!」
「答えてください、シラン!」
よく聞いてみれば、罵声だけではない。
むしろ獣器を身につけている人々からは、気遣わしげな言葉すらかけられる。
彼らが等しく血相を変えているのに対し、こちらは至って平静だった。
身のうちに、力が宿るのを感じる。
かの鳥が、彼女の中に眠る息づかいが、鼓動が聞こえる。
これほど心穏やかになれた事、最近ではなかった。
彼女はおかしさすら覚えそうになる。
(――また蘇ってきた、シランの記憶。これはきっと……無皇凰を作り出した、その瞬間)
シランの目を借りてファランは過去を見る。
このときの彼女にできることはただ、シランの身に起こった事を追体験するだけだ。
大人しく、じっと待っている。
シランは祭壇上をゆっくりと下りて彼らに近づく。
すると、彼らは後ずさる。
彼女を恐怖の顔で見上げながら。
「だから言ったんだ、流民の女なんか信用できないと――!」
誰かが吠えた。
彼女は微笑んで両手を広げる。
「皆様方。ご安心なさいませ。儀式は成功いたしました。封印は成りました。これが、最後にして至高の獣器にございます。真名は、無皇凰。この魔獣のみは、誰にも支配することがかないません。ゆえに、わたしの身体に彼を封じ、わたしの身体を器として獣器と致しました。これで彼は、今までのように自由に空を飛ぶことはできません。だからもう、悪さもできないでしょう」
彼女の静かで、それでいて彼女らしからぬ晴れやかな言葉の調子に、ある者は驚きを、ある者は恐怖の表情を浮かべる。
そんなことが、可能なのか?
いやしかし、他に奴を見る目を持つ人間がこの場にいない――。
あの女、故郷の人間がどうなってもいいと言うのか。
「そのことに関しては心配ご無用。とうの昔に滅び果てたこと、存じ上げております。ですから今更何も致しません」
小声でざわめく周囲の中の一つの言葉にシランが返すと、指摘されたあたりが大きく跳ね上がり、直後青くなったり赤くなったりを繰り返しながら震え出す。
彼らに向かって人々の視線が一斉に集中した。
「今のはどういう意味だ!」
「まさか貴様ら――協定を破って、彼らに」
「し、知らないぞ! わしは何も知らぬわ!」
言い争いが始まりそうになるが、シランが再び動くと皆引き寄せられるように彼女の方を向く。
あっ、と誰かが声を上げたか息を呑んだ。
穏やかな微笑みを浮かべたシランは、祭具の一つだった小刀を手に、空を仰ぐ。
「後のことは、文に。これにて終幕でございます」
彼女が動く直前、勇気と賢さを備える幾人かがはっとして素早く声を上げた。
「真名を以て命ずる、無皇凰――!」
「無皇凰、止まれ!」
けれど、誰も間に合わない。
研ぎ澄まされた小刀は、シランの首筋に吸い込まれた。
ぱっくりと裂けた白い喉から、鮮血が飛び散る。
紅の光に、紅の色が散る。
静かだった。望んでいた静寂が、ようやくやってきた。
そして、彼女は終わる。彼女は闇の中に落ちていく――。
(この違和感……なんだろう)
すっと映像が途絶えると、徐々に徐々に感覚が戻ってくる。
前世の絶命の瞬間を想起させられた割に、ファランは至極落ち着いていた。
一つには、前回と違って今回は自分の優位性が揺るがず、回想が終わればファランに戻ってこられるという奇妙な確信と安心感があったから。
もう一つは――あの瞬間のみは、シランが心からすべてを受け入れ、望み、その通りになっていた事を、かつて彼女だった彼女だけは、これ以上ないほどはっきりとそうだと理解しているからである。
(彼女は成功した。少なくとも、あの場に起きた事のみは、すべて彼女の思い通りだった。けれど……だから、なのかな? この、何かがかみ合わないような、奥歯に物が引っかかって取れないような変な感じ。なんだろう?)
頭にもやがかかったような感覚。
シランの記憶、ファランの記憶、鳥の見せる映像。
あらゆるものが混沌で混ざり合い、何もわからなくなってしまいそうだ。
ファランは意識が混濁しそうになれば一度呼吸に集中してこらえ、落ち着いてから思考を再開させる。
鳥がいる。
シドがいる。
少年がいる。
早くしなくちゃ。
急がなくちゃ。
ともすれば焦燥感で一杯になってしまいそうな気持ちを何度も何度もなだめながら、冷静な思考を、判断力を失うまいと賢明に根比べを続ける。
(そう……ずっと前から思っていた。そしてさっき、今、それがもっと強くなった)
身体の奥に消えていった炎の温もりを賢明に楔として思い出しながら、漠然とした違和感の正体を、自分の疑問を言葉であぶり出そうとする。
(無皇凰は確かに、すべてにおいて規格外の存在だ。けれどシランは封印は成功したと言った。事実、無皇凰はわたしから離れられないし、わたしという転生体が現れるまでヒトの前に姿を見せなかったはず)
シランは成功していた――。
一つの定義を仮定すると、正体不明の疑問がますますふくれあがる感触がする。
(獣器は真名を以て縛られる。真名を唱えられれば、唱えた相手に支配される。だからシランの死後、すべての獣器は真名を人間達に公表され、流布された。もちろん、時が経った今では、自分の獣器が相手に封じられないように真名を独占しようとする人もいるけど――そう、ここが問題なんだ。なぜ、無皇凰はわたしの言うことを聞かない、わたしの言葉で止まらない?)
その輪郭をつかむべく、彼女は必死につかみかけた思考の糸の端に食らいつき、たぐる。
(真名が間違えている? そんな馬鹿な、死に際のシランは確かに無皇凰と言っていた、わたし自身だって間違えるはずもない。それともう一つの疑問。獣器は中の魔獣と外の器でできる一つ。どちらが欠けても成り立たない。わたし自身が獣器であるというのなら、わたしがわたしの真名を呼んで彼と共に縛られないのはなぜ? わたしは無皇凰と何度唱えても、「自分の墓の上を誰かが歩いている」感覚にはならない。半身なのに、片割れなのに、そんなことってあるの?)
一つ一つ積み上げても、いざ答えを出そうとすれば定義同士が矛盾する。
けれど定義の方を疑ったところで、解決策は出てこない。
シラン様――。
(だから、何度言わせれば。わたしはシランじゃなくてファラン――)
煮詰まりそうになったファランの脳裏にまたも蘇ってきそうになる幾多の言葉にイライラとしながらとっさに言い返した彼女は、直後大きく目を開き、雷に打たれたかのように立ち尽くす。
(……そういうことなの? こんなばかばかしい、単純な話だったの? でも、だとしたら――つじつまが合うじゃない。三百年前、皆で止めようとしたのにシランの自殺が成功した理由の説明がつくじゃない)
彼女の中の常識は、いやそんな馬鹿な、と落ちてきた案を却下しようとする。
その邪魔を遮って、ファランの思考は一つの結論を導き出す。
(無皇凰は真名――たぶんシランがそう言ったのは嘘じゃない。でも本当の事でもなかった。あの時、あの場で彼女は鳥にそう名前を与えた。けれどそれだけじゃない。彼にはもう一つ、名前がある。シランが儀式の前につけた、本命の真名が。不完全な真名だからこそ、無皇凰と呼んでも彼を従わせることはできない)
思考を組み立て終わった瞬間、呆然とする間もなく気配を感じる。
思わず顔を上げれば、鳥がぶるりと身を震わせた後、たたんだ翼をゆっくりと広げようとしている。
彼は彼女を見ている。
そのまなざしの鋭さが、今までと少し違う気がした。そこに何かが、今までにはなかった何かが含まれている気がした。
(わたしは今、彼の墓の上を歩いた。わたしは今初めて、彼のほんの一端に触れかけた)
ファランは確信する。
鳥の関心が強まる気配は、同時に境界が崩れ、輪郭のない幾多の情報が彼女の中に流れ込んであふれる予兆を感じさせる。
(それでも、やるしかない――わたしは必ず、お前の真名を探り当てる!)
今までは浮かぶ記憶と経験の嵐に揉まれるだけだったが、今度のファランは自ら渦の中に飛び込んでいく。
少年に強いられていたときと立場が逆転した。
前は、なだれこんでくるシランをファランが拒絶していた。
今度は無理にでもこじ開けようとするファランをシランが拒絶している。
顔のあらゆる穴からどろりとした液体が流れていく。
情報の洪水に脳が焼き切れる警告を身体が発する。
ファランは止まらなかった。恐れなかった。
彼女は自分の中の輝きを信じる。自分の中に灯った一つの光を握りしめるように、胸元でぎゅっと拳を作る。
(わたしはわたし。わたしは生きて帰る。わたしは鳥を従える――それで絶対に、シドを助ける!)
ばつん、と何か大事で太いものが切れたような音がした。
絹を切り裂くような女の悲鳴が響いた。