更けゆく夜
「シド、シド……どうして……?」
倒れ伏す男の顔を抱え込み、大粒の涙をいくつも落としながらファランは嘆く。
触れている身体が、流れ出していく血とともに冷えていく。
首筋に添えた指からは、本来力強く応えるはずの脈が――あるかないかの、弱々しい感触しか伝わってこない。
いくつもの事実が、彼女に現状を突きつける。
ファランは何度も、嫌だ嫌だとだだをこねるように首を振る。
嗚咽の声を上げそうになり、こらえようとし、また上げて――ついにはシドの身体をたたき出す。
けれど一切の応答はない。
静かだった。取りすがって突っ伏す彼女の髪を、やわらかく夜の風が撫でる。
シランの意識を引きずり出されたファランは、何かに釣られるように目を覚ました。
シラン、シラン、シラン。
闇の中で眠りに落ちていく彼女の周囲では、子守歌のように、あるいは呪詛のように、一定のリズムを刻んであらゆる声が彼女の名前を呼んでいる。
(ファラン)
再び眠りにつこうとした彼女は、より強くなった温もりを感じて顔をしかめた。
うるさい――。
わたしは――。
ねむっていたいの――。
だって――。
だれも――。
わたしなんか――。
(ファラン)
耳に心地よい声は、落ちていこうとする彼女の意識を引き止めた。
彼女の名前を何度も呼んで、怠慢を許さない。
(……シド?)
うとうととまどろんでいた彼女は、繰り返されるうちにはっと気がついた。
彼女を呼ぶ、声の主を。
(そうだ……わたしには、シドがいる。シドのところに、帰らなくちゃ)
そう、思った瞬間。
周囲で静かに唱えていた声が、にわかに強くなり、彼女を押しとどめようとしてきた。
シラン。シラン。あなたはシラン。
(違う、わたしはファラン――シドに拾われた、ファラン!)
抵抗する彼女に力を与えるかのように、どこからか熱が伝わってきて、灯る。
間もなく、彼女は自分が紅色の炎に包まれているのを知った。
意識が浮上する。
視界が、聴覚が、感覚が、戻ってこようとする。
少し、遠くで、彼女の身体は優しい温度に包まれている。
硬直するファランを――シランを、シドの大きな身体が――。
それを、現実世界で自分の身体が何をしているか認識した瞬間、がっとファランの中の何かがこれまえになく燃え上がるのを感じた。
(わたしの身体を返して、シラン! その人は、わたしのよ! あなたごときが、安易に触っていい相手じゃ、ない!)
熱は力になり、勢いを増し、内側から破って覆い尽くす。
主導権が逆転し――そうしてファランは、この世に戻ってきた。うっすらとシランだったときの記憶を保持したまま。
けれど彼女の道しるべは、あれほど力強く導いてくれたその人は、彼女の無事を確かめるまでもなく――目の前で、事切れつつあった。
(どうして、こうなってしまうの?)
シランの経験を共有する彼女には、誰よりもよくわかってしまう。
(ファランを守る。たとえ、自分に代えても)
シドがそうする男で、それしかできなかったのだろう、ということが。
――かつて紅炎熊のもとになった獣は、初めての子育てに奮闘する、大きな体躯の若い母熊だった。
賢く温厚な彼女は、元はなるべく人を避けるようにして山奥で暮らしていたのだという。
それが冬から春に変わろうという季節、栄養が足りなくなった彼女はやむなく山を下り、人里の畑や倉庫を荒らした。
そこで味を占め、定期的に人里を訪れるようになってしまった。
ある日彼女が戦利品を口に巣に戻ると、子の姿がどこにも見当たらない。
慌てて探し回った彼女は、我が子が人間達によって連れ去られていたことを知る。
彼女は間もなく我が子と再会した。
彼女を殺すための生き餌にされた我が子を、罠にかかりながら目の前で失った。
どちらが悪いと言うわけではない。どちらも生きるために、命をつなぐために必死だった、それだけだ。
唯一責められるべき点があるとすれば、激昂した母熊を、人間達が仕留めきれなかったことだろうか。
その日、悲しい咆吼を上げながら、あてもなくさまよう一匹の魔獣がこの世に生み出された。
穏やかな母親は、出会った相手を無差別にことごとく殺していく、恐ろしい害獣と化したのだった。
シランに封じられた、その時まで。
紅炎熊は好戦的な熊の獣器。特に人間の争いを、血を好む。その力は多く戦いに用いられ、彼女もまた人を屠る事を受け入れてきた。
けれどその本質は、復讐鬼ではなく、失った我が子を求める母親の無念だった。
ゆえにその秘技は、誰かの命を奪うものではなく――使用者の命を削ってでも誰かを助ける、そういうものだった。
(紅炎熊とは長い付き合いだ。お前が俺に会ったのより、もうちっと小さい年の時に、俺の故郷の村は夜盗に焼かれた。一緒になって殺されそうになった俺に、こいつが小熊、小熊って呼びかけてきやがった――まあ、だからそれが馴れ初めだな。それ以来ずっと一緒だ)
いつだったろう。
ファランが紅炎熊について尋ねたら、シドは考えるように黙り込んでから、いつになく穏やかな顔つきで、そんなことを教えてくれただろうか。
(無口な奴だが、そうやって呼びかけは時々してくる。意味がわかってから、俺は熊じゃねえぞって言ったら、シドって呼ぶようになった。……もしかしたら奴はまだ、俺のことを熊仲間か自分の子分だとでも、思ってんのかもしれねえけどな)
彼は確かそう、呆れるように、けれどどこか嬉しそうに、ファランに語って聞かせたのだ。
聞いたときはただ、グエンジュはシドと長い付き合いでうらやましいなあ、ぐらいにしか思わなかったが、シランの記憶が蘇った今なら、はっきりとわかることがある。
彼女は間違いなく、少年だったシドに重ねたのだろう。
夜盗達に囲まれ、放っておけば無残に私刑にかけられ殺され、遺体すら辱められるであろうその姿に――かつて同じ目に遭った、たった一人の愛しい我が子を、見たのだろう。だから放っておけなかった。
(紅炎熊の秘技――炎天宮浄癒護火は、自らの命を削って他者に癒やしと守りの加護を与える奥義の術。けれど、ゆえに――自分を治療することは、できない)
ファランの前で、シドは無敵だった。
いつだって、誰を、何を相手にしても勝って――けれどいざこうやって弱ったとき、彼は自分を治すことができないのだ。
「馬鹿、じゃないの……秘術を使って、わたしが起きなかったら、どうするつもりだったの? そしたら、完全に無駄死にじゃない。わたしを信じていた? 自分を信じていた? 馬鹿よ、あなたって本当にどうしようもない! うまくいったけど、こうして起きはしたけれど、それでどうなるって言うの!? 嫌よ、シド。一人にしないで、わたしを置いていかないで……」
呼びかけて揺すっても、固く閉ざされた瞼は開かない。
ファランはぐすぐすと泣きじゃくりながら、ようやく最初の興奮から落ち着き、自分にできることはないか、なんとかして傷を治療することはできないかという方に考えを向けようとする。
瞬間、ぱきりと響き渡った物音に、ファランははっと顔を上げる。
知らない間に庭に降り立っていたあの少年が、ぜえはあと重い息を上げ、ふらつきながらもなんとか立ち上がり、血走った目でこっちをにらみつけている。
「おのれ、この……死に損ないが、何をしたっ――シラン様は、どうして……」
「シドがわたしを助けてくれたのよ。この人が、他の何にも優先して、わたしに力をくれた。……まだ、何かするつもり」
ファランはシドを庇うように抱き寄せてから、少年をにらみつける。
少年を庇って、無皇凰から負わされた傷。
加えて、少年がファランに向かおうとするシドを止めようとして新たにつけた傷。
その二つがシドの致命傷になっていることは明らかだ。
彼女は今、少年に対して激しい怒りを、もはや憎悪を募らせている。
シドが身を挺して止めたのでなければ、今すぐ走って行って彼の武器を奪い去り、それこそ死に損ないに引導を渡してやりたいぐらいだった。
あきらめの悪い少年は、シド以上にボロボロのなりをしていてもまだ怪しく目を輝かせている。さえずる小鳥のように美しかった声は、今やすっかりかすれて老人のようにがらがらとしわがれていた。
「終わっていない――こんなことで、終わりにしてたまるものか。そうです、また、すればいい」
「もう一度、黒闇蜘蛛の秘技を使う? その状態で? あなた、今度こそ死ぬわよ。それに、さっきその大事なシラン様ご本人に真っ向から拒絶されたくせに、覚えていないの?」
少年はファランの激しい言葉に、つと動きを止める。
彼が微笑を浮かべながら頭を振ると、しゃらしゃらと飾りが音を立てる。
「だって――ねえ、シラン様。もちろん、あなたほどではないけれど、僕たちだって――いっぱい、いっぱい、嫌な目に遭ってきたよ。たぶん、普通の人以上に。狂うほどの目標がなければ、今までとても生きてなんかこられなかったよ。たとえ、シラン様が僕を、僕たちを拒み――恨みすら、するのだとしても。僕は彼女を蘇らせ、黒闇蜘蛛と一緒に全力でサポートする」
「シランが望んでいなくても?」
「だったらどうすればいい? どうすればよかった? 闇の中、すがるものもなく、誰からも嫌われてさげすまれて野垂れ死ぬ? ははは、そうなんだろうね。知っているよ。僕みたいな子は、本当は育っちゃいけないんだ。この世の中の欠陥品なんだ。どこかで正しく淘汰されなければいけなかった。でもね……それはさ、やっぱり、嫌なんだ」
少年が手を広げる。
ファランは彼の言葉を聞いているうちに、怒りの炎がしぼみ、消えてくすぶってしまって、なんとも苦い味が口の中に染みていくのを感じた。
この幼い少年には、分かち合う相手がただの一人もいなかったのだ。必要としてほしい相手に、そうしてもらえなかったのだ。わかってほしい相手に、わかってもらえなかったのだ。おそらく、シランがそうだったのと、同様に。
誰かが彼に、彼らに、優しく肯定の言葉をかけてやれば良かったのだろう。理解できる人が、共感できる人が側にいればよかったのだろう。
(お前、行くところがないなら一緒に来るか。俺が、面倒見てやろうか)
彼女は今でも覚えている。大きな影が、ぶっきらぼうに、温かい手を差し出してくれた瞬間を。
(そういう人が、この人にも、一人でもいたのなら)
でも、そうならなかった。人は誰一人として、彼に振り向かなかった。それで最後に、一匹の魔獣だけが、人を恨む獣だけが、彼の味方をした。
だから彼はもう、こうするしかないのだ。
間違っているとか、正しいとか、シラン本人がどうとか――もう、そういう段階はとっくの昔に越えてしまっている。
「もうね。苦しいのや嫌だよ。痛いのは嫌だよ。ぶたれるのも、引っ張られるのも、酷い言葉をかけられるのも、嫌だよ。だから全部なくした。あんなものいらない――ねえ、ねえ。シラン様? 僕ね、他に何もないんだ。……なんにも、ないんだ」
うわごとのように繰り返しながら、少年は焼けただれた手の指輪をそっと掲げようとする。
(皆、皆、馬鹿じゃない――!)
ファランは唇をかみしめる。
シドは――今この瞬間にも消えそうな勢いではあるけれど、かろうじてまだ息をしている。
置いて逃げたら、彼を邪魔に思う少年は差し違えてでもとどめを刺すだろう。
けれど、手負いとは言え、獣器使いを前にファランが今から何をできるだろう?
それに下手に手を出せば、この手で少年の命を奪ってしまうかもしれない。
そのこと自体は――たぶん、ファランはできる。
少年に対する怒りは冷めて、もはや哀れみのようなものに変わっている。ただ、発作的な感情の問題ではない。単純に、ファランにとってシドがとても大事で、彼はそうではないから、選べと言われたらきっとできるだろう。彼女にとってはそういう話だ。
ただし、それでは身を張って無皇凰から少年を庇ったシドの想いを、努力を、すべて否定することになる。
(でも、そんな、すべてを――彼を止めて、あなたを助けて、そんな都合のいい、奇跡みたいなことなんて、わたしに――)
あ、とファランの口が開いた。
庭には、穏やかな風が吹いている。
追うようにして動かした視線の先――それは、変わらずに、空でのんきに飛んでいる。
人の気なんか、些細な地上の出来事なんか、見向きもしないで。
少年に封印をされていたファランの身体。
けれどそれは、さっきシランに優位性を譲ったときにおそらく、無効化されている。
迷ったのは、ほんの一瞬だった。
少年が呪を唱えるのよりも素早く、彼女はすっくと立ち上がり、彼に向かって背を向ける。
目指す鳥は、そこにいる。彼女は空に向かって高らかに、吠えるように唱えた。
「真名を以て命ずる、無皇凰!」
ふわりふわりと庭を揺らしていた風が止み、空を羽ばたいていた鳥が弾かれたように鋭い鳴き声を上げて反応した。
時が止まった。周囲の色が、音が、動きが失せる。
彼女と鳥だけが流れゆく空間に残された。
ごくりとつばを飲み込んでから、ファランは怒鳴るように声を張った。
「あなた、なんでもできるんでしょう? 最強の獣器なんでしょう? わたしの片割れなんでしょう? だったら、叶えてよ。一度ぐらい、ちゃんとわたしの言うことを聞いてくれたっていいじゃない!」
薄闇の中、優雅に庭に降り立った鳥は翼を折りたたむと、そのままくるりとファランに振り返る。
大空を映す、ただただ澄んで美しい透明の瞳と――最凶と呼ばれた魔獣が、今初めてしっかりと、ファランのことを真正面から音もなく静かに見据えていた。
ファランもまた、彼の目をしっかりと見つめ返す。
彼女の戦いが、始まろうとしていた。