黄昏に吠える
世界が、赤い。
赤は、やがて黒に染まる。
夕暮れのわずかな光が闇に消えるように。あるいは、動脈から噴き出た血が空気を吸って黒ずむように。
赤、赤、赤。
争いの色。死をもたらす色。
何度目かの死線がやってきた。身体に空いた穴から抜け出していくのは生命力だ。この感覚はよく知っている。慣れ親しんでいる。
一瞬、別の光景を錯覚しそうになった。
そこでは、自分の身体はもっと小さく頼りなく、時刻は夜、場所はひなびた村だった。
確かに時刻は夜――それも真っ暗な深夜だったはずだが、よく何があったか、何を見たのか覚えている。
明るかったのだ。真昼のように、とまでは行かずとも、普通の夜よりはずっと。
奴らは馬鹿で、おまけに反吐が出るほどの悪党だった。
人間、上を見ればきりがないように下を見てもきりがないものだ。
畜生のような、と形容したなら畜生共が哀れに成る程の品なし。
そういうのも、この世には確かにいる。
そしてそういう半端な屑共は、赤でも黒でもなく汚らしい茶色を特に好む――。
――目が回る。足がふらつく。上と下と、右と左と、前と後ろがおぼつかない。すると意識はそこに向かって飛んでいこうとする。
寂れた村の物資周囲の家屋が軒並み燃えていた。
積み上げられた村人達の死体でできた焚き火は異臭を放ち、気持ちと身体が両方ボロボロにされて胃の中がすっからかんになった。
下卑た笑い声がうるさい。
このまま、すべて終わってしまえ……。
シャオシーオン。
雑音に耳を塞ごうとする手が止まる。
誰かが遠くで呼んでいる。彼に向かって、呼びかけている。親しい誰かを招くように。
シド。
響きはやがて別のものに変わる。
――シド!
彼の魂を、揺り起こす。
ほのぐらく、冷たく、穏やかな淵から、明るく、温かかく、苦しみに満ちた場所へ。
はっと目覚めたシドは、あともう少しのところでなんとか足に手をつき、体勢をとどめる。
左腕が、熱い。
冷えていくシドの身体をそこから温めようかとでもするかのように、どんどんどんどん熱が上がっていく。
あちらこちらで身体が限界の悲鳴を上げている。もうとっくの昔に白旗だ、降参だ。許されるなら今すぐにでも魅力的な誘惑に屈して眠ってしまいたい。
シド。
相棒の声がくっきりと頭に響くと、薄汚れ、ぼんやりと陰った意識が明確になる。
あの時も、今も、死にかけたときはいつだって、曇って死に引き寄せられる魂を、くじけそうになる心を、弱くなる身体を、いつだって彼の獣器は励まし、導いてくれた。
たとえそれが獣道なのだとしても、生きる道を与えてくれたのが紅炎熊で、その道を行くことを選んだのがシドだった。
息を吸い込もうとすると、肺が拒絶しようとする。
震えて動かなくなりそうなそれを、できるだけ衝撃にならないように小さく動かしながら目を開ければ、倒壊しかけの建物が、荒れ果てた庭が、一応無事らしい少年の姿が目に入った。
風はない。何も誰も、ぴくりとも動かない。
心臓がリズムを刻む度に背中がうずく。
シドは傷に気をつけながら、ゆっくりと時間をかけて音もせず立ち尽くしているらしい彼女の方に振り返った。
西日に照らされた少女は石のように突っ立っていた。
シドは彼女の方までしっかり向き直ってから、くらむ頭を、かすむ目を、妙な音の鳴る喉を抑えて彼女に語りかける。
「言ったはずだ。お前に人殺しは、させない」
優しく、厳しい声音を浴びて、しゃらんしゃらんと彼女の身につける装飾品が鳴る。
紫の瞳がぐらぐらと揺れていた。
唇が震え、薄く開くが、そこから言葉は出てこない。
彼女の澄んだ瞳の、深く深く奥までしっかりのぞき込んだまま、シドは右手で身体を抱え込むように、左手を前に突き出す。
「嵐志道の真名を以て命ずる」
唱えた瞬間、シドの左腕の腕輪が、深手を負って武装解除されていたシドの髪と目が、再び紅色に染まり上がる。薄闇に赤が灯り、徐々に光の強さが増していく。
彼がしたいと思えば、紅炎熊は何があろうとそれに付き従う。
びしりびしりと、ヒビの入るような音をきしませていて、なお、全力で、いやそれ以上に相棒に応える。
「其は紅炎熊。我が身体にして我が心、我が道を共に歩む輩なり。輝きと熱を祝福となし、闇と冷気を呪詛となす」
身体を引きずるように、倒れそうになりながら、少女に向かってシドはゆっくり呪文を唱えながら歩く。呪はシドと紅炎熊から力を引き出しながらも奪っていく。
少女はなおも動かない。驚愕に目を見開いたまま、傷だらけで歩み寄ってくるシドをただただ呆然と眺めている。
何度か足が止まりそうになる度に、彼は歯を食いしばる。励ますように、左腕が強く光り輝き、燃える。
風はまだ、吹かない。
がさり、とどこかで物音がした。
シドの足取りがさらに重くなる。
それでも彼は立ち止まらない。
庭に点々と落ちる染みは、ひどくなる一方だ。
どれほど、時間をかけてか。
シドは少女のところまでたどり着くと、荒々しく息を吐き、吸い、覚悟を決めたように両手を広げた。
大きな身体に小さな身体を抱え込み、無骨な、それでいてとても優しい手つきで彼女の頭にそっと左手を乗せ、目を閉じる。
「秘技、炎天宮浄癒護火――解放!」
腹から、身体の奥底から、絞り出すように呪文を唱え終わる瞬間、誰かの悲鳴が聞こえる。
鈍い音に、もう一度シドの身体が大きく揺れた。彼はますます強く、少女の身体を抱きしめる。もう、離すまいとするように。
左の腕輪から出でた赤い炎は、みるみるうちに少女の姿全体を包み込む。
呆然と、なすがままになっている彼女だが、苦しむ様子はない。炎はゆったりと彼女を包み込む。まるで、その穏やかな熱で彼女を芯から守ろうとするかのように。
やがて、びくりと片手が震え、おずおずと上がり、シドの腕に添えられる。彼の苦痛にまみれて厳しかった表情が、わずかにゆるんだ。
「ファラン」
髪を優しく撫で、息を吐き出しながら、シドは小さく、ささやくように呼びかけた。彼女の名を、思い出させるように呼んだ。
「戻ってこい。お前は、ファランだ」
ふわり、と風が巻き起こる。
穏やかに、シドとファランを中心に円を、ゆるやかな竜巻を起こす風に吹き消されるかのように、シドの姿、シドの腕輪、ファランを包む炎の光が、輝きが、鮮烈な色が褪せて失せて消えていく。
風に包まれながら、シドはその場に重い音を立てて崩れ落ちた。
その背中には、不可視の存在から傷つけられたものだけでなく、何本もの針のような突起が生えていた。
――彼に新たな傷を与える原因となった少年は、力を振り絞って男の行動を止めようとしたものの及ばず、苦しげなうめきを上げている。
焦点を取り戻していく少女の紫色の瞳から、瞬きとともに涙があふれ出した。
「……シド?」
彼女は、へたり込むように座り、男に向かっておそるおそる手を伸ばす。
一瞬触れて引っ込んで、二度目には荒々しい手つきで髪を、血の気の失せた顔を漁り、首元に触れたところでぴたりと止まる。
「ああ、そんな――嘘よ、嘘――」
彼女の美しい瞳から、次々と温かな水滴がこぼれ落ちては冷たい男の上に落ちていく。
少女が視線をずらすと、彼の左手には腕輪がある。
いつも鮮烈な赤を放っていたそれは、錆びたか焦げたかのように、すっかり鈍く変色し、色あせていた。
「嘘だぁっ、シド、なんで……返事をしてよぉ……!」
嗚咽を上げる少女の掌には、注がれた温もりがまだ残っている。けれど目の前の男をどんなにかき抱いても、彼の身体は冷たくなっていく一方だ。
残骸が、ゆるやかな風に吹かれて揺れている。
いつの間にか、あたりはすっかり夜の色に包まれつつあった。
(ここは、どこだ)
シドはぼんやりと思う。
何も見えない。何も聞こえない。けれど不思議と穏やかな気分だ。
――わたしたちって何なの?
唐突に、ぽつりとその問いは落ちてくる。
聞き慣れた、懐かしい少女の声。
現実世界ではあれほど返す言葉がなかったものを、ここでは簡単にシドは答えることができた。
(知るか、そんなの。すぐに答えられるなら、もっと他の道だってあっただろうさ)
言い切ってから、ちょっと驚き、それから彼は苦笑する。
あんなに悩んでいたのが馬鹿みたいだ。
そう、単純なことだった。下手な思考で余計な理屈を唱えようとしたから、あれほど苦労することになったのだろう。
ただ、あの時、ファランと初めて出会って、墓前で言葉を交わした時。
この、小さな小さな温もりを、世界中から疎まれたちっぽけな存在をふと、とてつもなく、守りたい、守ってやりたい、と思ったのだ。
無性に手を引いて連れて歩いて、見せてやりたくなった。
明け方の澄み切った川を。
朝の飛び立つ鳥の群れを。
昼の活気ある町の様子を。
夕方の寝静まっていく山々を。
夜の静かな田園を。
深夜の眠りの中に鳴る自然の息吹を。
春の騒々しい花々を。
夏の土砂降りの後の晴天を。
秋の虫たちのさえずりと実りの味を。
冬の静かな雪の上を。
見せて、聞かせて、嗅がせて、味わわせて、触らせて、喜んで、怒って、泣いて、笑って――。
この子どもを、そんな風に生きさせてみたい、そうさせてやりたい。
たとえいつかは途絶える命にしろ、このままでは、あまりにも――。
そんなことを、思ったのだ。
(俺たちがなんなのか、知らねえし、わからねえ。けど、俺はあの時、お前を生かしてやりたいと思った。誰かがお前に必要だと言ってやらなければならなかった。そのために俺が必要なら、それでいいと思った)
袖が触れ合うのも縁。
なら、つなぎあった手の縁を、離したくなかった。
その感情の名前までは知らないけれど、そういうことだったのか。
(なんだ、それだけのことだったなら、もっと早く、答えてやればよかった)
安堵するように笑うと、ふっと灯火が消えるように――後はもう、深く沈んで何もわからなくなった。




