紅 後編
少年の甲高い声に、シドは一瞬舌打ちしたい気分になった。
運んでいる間からすっかり大人しくなっていたせいで、半ば存在を忘れていた。もしかするとあの負傷っぷりだ、一時的に気絶していたのかもしれない。それどころではなかったので、暴れたりうるさかったりしなかったら構っていなかったが、ここに来て徒になったか。
少年は投げ捨てられた渡り廊下から中庭にまろび出て、美しい顔を紅潮させ、シランに向かって焼け焦げた両手を突き出して膝をつく。
「シラン様、シラン様! ああ、とうとうこの日が――」
「あなたですね、わたしを蘇らせたのは」
シランは少年に向かってシド同様、あるいはさらに冷たく聞こえる言葉を投げかけたが、その声がわずかに震えていることをシドは感じる。腕の重みも、先ほどに比べれば軽くなっているように思えた。
シドは試しに紅炎熊に心の中で呼びかけてみる。まだ動くことはできないし、応答らしいものはない。けれどやはり、錯覚ではない。身体にかかっていた負担が、少年が動き出す前よりもはるかに軽減されている。
少女が少年を前に明らかに狼狽している事を、緊迫した場面に慣れている彼は敏感に察知した。
首に小刀を突きつけていたシランの動きが止まり、少年にすっかり意識が向いているらしいことも含めて――ひょっとすると、これは危機どころか好機なのかもしれない。シランの注意が自分から逸れれば、紅炎熊を動かせるようになるのではないか。
ならば、自分が今するべきことは。
ひとまず、余計な刺激しないよう、黙ったまま次の展開を待っておく。
少年はシランににじり寄り、シランは釣られるように数歩下がる。
また、あの不穏な風が通り過ぎそうになった。
しかし、ふわりといくらか中庭の木々や草を揺らしただけで、突風は吹かない。
(……一体何に迷っている?)
少女はじっと、まじまじと少年の顔を見つめているが、表情がみるみるうちに変わっていく。夕焼けの赤に照らされていても、顔色が悪くなっていくのがわかるように思えるほどだった。
「そんな、馬鹿な」
血相を変えて呟くシランに、少年は淡く優しくほほえみかけた。
「シラン様。その通りです」
身じろぐと、ちりん、と彼の髪の飾りが揺れて鳴る。
「僕は、生き残ったあなたの一族の、末裔だ」
少年が言い切ると、硬直したシランの身体がカタカタと震え出す。
横で力なく地面に手と膝をついたままのシドは、やりとりを冷静に横で見ながら考えていた。
(嘘か、本当か? いや、そこはさして重要じゃねえ。可能性が零でないと言えるなら、それだけで意味のある事なんだろう。奴の顔立ちがファランに似てるのは確かだ。ひょっとしたらそうなのかもしれねえ。シランもそう思ってるから、たぶん揺らいでいる……)
シドは目を閉じる。
ほんのわずかに、左腕に力が、温度が灯った気がした。
少女の、動揺を押し殺すような声が聞こえる。
「嘘です。皆、死んでしまったはず。わたし一人を残して、全員死んだのです、あれは――」
「あなたが見たのは、襲撃を受けた後の集落の様子だったはず。つまり、全員が確実に死んだところは見ていない――見られなかったはずだ。でなければ、希望がなくなってしまう。望んでいたのでしょう? 誰かが生きていてくれることを。僕たちが遠くからあなたを想っていたのと同じように」
シランはうわごとのように何かをブツブツ呟きながらゆるく、ごくごく小さく首を振る。
少年はしかし、たたみかけるように言葉を並べ、彼女の拒絶を許さない。
「シラン様、おかわいそうなシラン様。卑劣な野蛮人共に、確かに僕たちの祖先のほとんどは惨殺されました。けれど、何人かは連れ去られ、そして……屈辱的な境遇ではありましたが、それでも僕たちは生き延びたのです。細々と、命を、血をつないで。きっと僕だけじゃない、探せばまだいるかもしれない。遠く離れた辺境の地で、あなたの苦労を風の便りに聞くことしかできず、ついには訃報を耳にし、それでも僕たちは待った、待ち続けた。あなたが帰ってくる、この日を、ずっと――ずっと、待っていた!」
酔ったように語る少年の言葉には、わずか十数年しか生きていない、それだけにとどまらない重みが感じられた。
三百年間、苦渋に耐えながら神の復活を待ち続けた不遇の一族。
その歴史が、彼の双肩にずしりと重たく乗っているような、そんな重圧感。
少年にあがめられている彼女は今や、思わずだったのだろうか、小刀を首から放し、ぶらぶらと頼りなげに揺らしながら何度も大きく首を振る。
口にしているのは、もしかすると彼女の本来の言葉なのかもしれない。
何にも乱されることはないという風情だった彼女が、今やすっかり少年の言葉に、一目でわかるほど揺れている。
「さあ、シラン様! 復讐を始めましょう! 僕たちをこんな目に遭わせた奴らに、目に物を見せるのです!」
目を閉じていたシドは、はっと見開き、顔を上げた。
少年が昂ぶるままに最後の言葉を紡げば、またも空気が変わる。
身体を揺するようにしていたシランの動きがぴたりと止まり、彼女は紫色の目で少年を見つめている。
その視線の、なんと冷たいことか。
夜に変わっていく空気が、それよりも早く冷めていく感覚。
「もしもあなたの言っていることが本当だったとして――そうでなかったとしても、一族の不幸は、確かにわたしの不始末の結果です。わたしが余計な事をしなければ、あんなことにはならなかったのでしょう。ですが――」
少女は一度言葉を切ってから、かっと目を見開いた。
「そんなことを言わせるために、こんな未来を迎えるために、この身を犠牲にしたわけではない!」
シドはとっさに、さらに低く身を伏せる。強風はあたりの物をなぎ倒し、空にさらい、周囲の屋敷を蹴散らして破壊する。
なんとか顔を庇いながら状況を把握しようと懸命に目を開けると、体重の軽い少年があおられて吹き飛ばされ、渡り廊下の柱に身体をぶつけたのが見えた。
「シラン、様――」
喀血しながら、少年はうめく。
おそらく、彼女が自分に危害を加えるなど考えもしなかったのだろう。
ぽかんとした、何が起こっているのかわからないという顔。
それはこれから徐々に悲嘆に、ともすれば怒りに変わるかもしれない。
けれどその前に、押し殺し、抑えつけ、出すまい出すまいと賢明につとめていた感情をついに暴かれた少女が、嵐の中心で叫んでいる。
「なぜです、なぜですか! こんなことなら――こんな風になってしまうのなら、あのまま滅びていてくれた方が、まだマシだった! なぜ追いすがってきて――あの人達と全く同じ事を、他でもないあなたが、あなたが! 言うのですか!」
「シラン様っ――」
「あれほど力を使うなと、それだけは、この身が滅びるとも破るなと言っていたのに! それがわたしたちの掟だった、誇りだった! でも、それを捨てさせてしまったのは、他でもないわたしなのです。ああ、わたしが全部悪い――」
シランの絶叫から、シドは漠然と理解する。
掟を破ってでも守りたかった一族の滅亡――それは、絶望。
どこかで捨てきれなかった生存の可能性――それは、希望。
けれど、結局どちらにせよ、同じ事だったのだ。
一族が生き延びて、その末裔がここにいるのだとしても、それは彼女が愛し、守りたかったものともはや異なる物になってしまっている。
――この身が滅びるとも。
それが一族の掟だったのなら、穏やかな永眠を望んでいたシランを無理矢理たたき起こし、自分たちの復讐にその力を使えと叫ぶ彼らは何者なのだろう?
シラン。
力を、もっと、力をよこせ。
彼女の目に今、映っているものは――。
(ヤバい!)
荒れ狂う中、動くようになった身体を、相棒である紅炎熊を片手にシドは走り出す。
空気が歪む。
大いなる意思が集束する。
見えない刃が、混乱し、嘆く彼女を守るべく、矛先を向ける――。
無防備で、死にかけの少年に向かって。
飛び出した身体があおられそうになるのを地面に押しとどめる。
飛来したものが頭に当たって視界にぱっと赤が飛び散る。
足下が風と、風に吹かれてうごめくものたちによってすくわれそうになる。
ばしゃりと音を立てたのは踏み抜いた川だろうか、水深が浅かったのが幸いだ――。
幾多の障害の中、腕を伸ばし、身体を伸ばし、ここだと想う場所まで躍り出ると、衝撃に備えてぐっと力を込める。
一際大きな風が吹いた。
踏ん張るように前屈みになっていた姿勢が、しなって背をそらす。
釣られるようにして、ぼんやりと目を開ける少年の顔から、破壊されている屋敷の屋根へ、そして赤い空へと視線がずれていく。
片腕が、燃えるように熱い。
それ以上に、背中が熱い――それはすぐに、痛みへと変わる。
声は出ない。代わりに口から赤い液体が吐き出される。
凶鳥の刃に背中をざっくりと裂かれたシドを中心に、中庭はしんと静まりかえった。




