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紅 前編

 あたりは重たく目にまぶしい紅に染まっている。


 怒りなのか、悲しみなのか。

 暗い目をする少女に向かって、シドは言葉を探す。


「シランか?」


 結局、最初に投げかけたものはそんな言葉だった。

 確認のようであり、そうであってほしくないという未練のようでもある。


 少女はファランの顔でふっと顔をゆがめた。

 十四の娘がするとは思えない、皮肉と哀愁に満ちた表情を見せる。


「あなたがそれを尋ねるのですか? わたしを呼び覚ましておいて?」

「……言いたいことはわかるが、相手がちげえよ。悪態吐くならふさわしい相手にやることだな」


 やや吐き捨てるような言いように、さすがに少々むっとしたシドが言い返すと、少女は紫色の目を細めた。視線がシドの左腕に、赤い腕輪に移動する。


紅炎熊グエンジュ?」


 彼女がささやくようにつぶやけば、シドの左腕はほのかに温かくなる。

 まるで、呼びかけられて応えるかのように。


 獣器を目にした一瞬だけ、娘の冷えた頬に赤みが、氷のようなまなざしに揺らぎが生まれた気がした。彼女に浮かんだ感情は、遠く懐かしい何かを思い出す――そんなもの、なのだろうか。

 しかしシドが数度瞬きをすれば、もとの取り付く島もなさそうな顔に戻ってしまう。


「そうですか。お前も変わりましたね。わたしが死んでから、ずいぶんと時も経ったでしょう」

「三百年。お前が獣器を作ったのは、三百年前と聞いている」


 シドがシランの独り言に対するように言えば、彼女はごくごく小さく「そう」とだけ言葉を発した。感情を読み取りにくい、冷たい声だった。


「先ほどはいきなり、失礼を致しました。あなたも、わたしを呼び起こした方々の一人なのかと思ってしまったので」

「んなこったろうと思ったぜ。誤解は解けたか」

紅炎熊グエンジュにはそのような力はありませんし、見たところ術士でもないご様子。また紅炎熊グエンジュとの相性の都合上、あなた様自身もそのような事をする方とは考えにくいです」


 落ち着いた様子で静かに話す彼女を、シドは複雑な顔で見守る。

 ファランも年の割に大分静かで大人びていた子どもだったが、目の前の少女はそれをはるかに上回る。

 大人どころかもはや老人の域まで感じるほどに情緒の枯れた表情、周囲を雰囲気だけで圧倒するようなかたくなな態度。それらはなじみにない異国の衣装をまとっていることもあってか、彼女が俗世から離れている存在であることを強調しているようにも見える。


 ファランにも浮き世離れした雰囲気というか、高嶺の花じみたところや人見知りなところはあったが、こうして比べてみればはるかに彼女の方がとっつきやすい態度だったことがわかる。

 同じ顔をしているせいか、少女の人を寄せ付けない異様な様子が際だって見える。

 そこそこ図太いことに定評のあるシドでも少し眉を寄せたくなるような感じだ。


「ですが、そうなると疑問も残ります。あなたはなぜ、ここにいらっしゃるのでしょう。わたしに何かご用ですか。叶えてさしあげられることなんて、ほとんどないけれど」


 首をかしげた彼女に合わせてしゃらりと髪飾りが鳴る。

 奇しくもそれは、先ほどシドがきつくお灸を据えた少年が身につけていたものと同じ、ないしひどく似たものだった。

 シドはそれを今すぐむしり取りたくなる衝動にかられたが、こらえる。彼女に触れようとしたのを感知するかのように、一瞬庭にたちこめる重圧が増したのだ。


 こちらのすべてを見透かすかのように深紫の目を細める少女に向かって、シドは迷い、結局は素直に答える。


「俺はただ、ファランを迎えに来た。それだけだ」


 するとやや好意的な態度になりつつあった少女が、一瞬にして元に戻ってしまう。

 彼女が何気なく上げた片腕に握っているものを認識し、シドの血相が変わった。


「何しやがるんだ、やめろ!」


 シランがどこから持ってきたのか手の中に収めているのは、抜き身の小刀だった。

 駆け寄って止めようとするシドの前を、突如庭を揺るがすほどの突風が流れる。凶悪なそれは、シドとシランの間に割って入るように吹き抜け、間の木々をなぎ倒し屋敷の屋根を破壊する。轟音が響いた。

 とっさに飛び込むのをやめたシドの腹部の装備がぱっくりと裂けた。腹部を守るために服の下に仕込んでいた胴巻きさえもがすっぱりと切られ、さらされた表皮にじわりと血がにじみ出す。

 ひとまず少女と距離を保ち、腹を押さえてにらむようにしたシドに、彼女は自分の首元に小刀をあてがいながらも冷たく言い放つ。


「もっと、離れてください。今のでわかったでしょう。わたしはこういう存在です」

「知ってるよ、経験者だからな」


 シドは舌打ちまじりに答えて腹から手を離した。手で探ってみたところ、腹部に負った傷はごくごく浅く、放っておいてもふさがる程度の物に思える。腹に力を込めようとするたびにじわりと自己主張されるのは億劫だが、致命傷にはほど遠い。まだ大丈夫だ、と彼は見えない敵を前に静かに考える。


「いいか。テメエの中身がどうなってようと、それはファランの身体だ。前世だかなんだか知らねえが、勝手に傷つけるんじゃねえ」

「……それが、彼女の名前ですか。あなたは、現世のわたしに戻ってきてほしいのですか?」

「そうだ」

「残念ですが、それは無理です」

「どの意味で? 理由は?」

「一つ。魂の優位性がわたしにあります。わたしの現世の人格は、特に術士などではないのでしょう? なら、わたしの方が力が強い。だからあなたの望む彼女はもう戻ってこられない」

「確認するが――それは、ファランが死んだ、ってわけじゃねえんだな?」

「……ええ。わたしの中で深く眠っている、とでも言えば近しいでしょうか。永遠に覚めない眠り、ですけれどね」


 わずかに、本当にほんのわずかに、シランの言葉にはシドに対する同情のような、哀れみのようなものが感じられる。それを上回って、彼女はシドに今や明確な敵意のようなものを芽生えさせつつある。言葉には棘があり、シドを貫き傷つけようとする。


「もう一つ。もし万が一、現世の人格が戻ったとして、わたしたちは凶鳥の片割れです。その意味が三百年後も伝わっていること、そうでなくてもあなたが人並み以上に賢く、わたしの恐ろしさが見えていることを祈ります。わたしは本来、人に御することができない存在をこの身に宿す女です。彼はわたしのためにあらゆることをする。それはけして人のためにならない事も含まれる。そういう、生きている限り、人にあだなす存在です。こんなもの、在ってはいけない。三百年前だって、だからこそ死を選んだのに」


 シドは反論しようとしたが、口を開けた瞬間にふくれあがった殺意に動きを止める。

 見ることも、聞くことも、触れることもかなわない存在。

 それは片割れの意を汲み、濃厚な敵意をシドに向かって投げつける。


 彼にも先ほどの自分の言葉が彼女の何かよくないものに触れてしまったのだろうと言うことはわかる。が、一体どこにどうして彼女が怒りのような感情をにじませているのかがわからない。

 それに、本人の口からファランが戻ってこない可能性が高いこと、このままでは彼女たちの意に反して人を傷つけることを告げられた。


 ならば、大昔に約束したことを、遂行するべきなのだろうか。

 シランが今言った事と同じような事を、昔シドも言った。

 拾った幼子の小さな手を握って、言い聞かせた。

 そのときが来たら。


 ――けれど。


 シドは迷っている。この局面において、彼はまだどちらにも踏み切ることができない。

 それは目の前にいる人物がファランではないから。

 そして、ファランが戻ってこない可能性が、彼の中で零ではないから――。


「あなたにわたしは止められません。邪魔をするのなら、大人しくなっていただきましょうか」


 シランは自分の首筋に小刀を突きつけたまま、シドを、シドの左腕をにらみつける。


 突如締め付けるような痛みがシドの左腕を襲った。紅炎熊グエンジュは深紅から酸化するようにみるみるうちに黒ずみ、重みを増し、シドは立っていらずに膝をつく。紅炎熊グエンジュの名を呼んでみるが、いつものような応答がない。相棒は今や、黙ったままシドをぎりぎりと拘束する枷になりつつある。


「わたしはすべての獣器の親。それはつまり、こういうことです」


 シドの動きを封じたことを確認したシランは、どこかつまらなそうにつぶやいた。


 全身にびっしりと汗が浮かぶのを感じながら、シドは抵抗を試みる。

 無慈悲な瞳をしばらく彼に向けていたシランは、やがてゆっくりと目を閉じて、首筋にあてがう小刀に力を込めようとする。もだえるシドは、動くどころか言葉をかけることすら許されない。

 紅炎熊グエンジュと、見えない鳥。

 二つの力が彼を押さえつけ、何もさせない。

 シランの唇が薄く震えた。


「……さようなら、愚かな人よ」


(これで、終わりだってのか。本当に、これでいいのか――ファラン!)


 言葉にならないうなり声を上げるシドの前で、凶鳥の片割れは、どこか穏やかな微笑みすら浮かべながら、その命を絶とうとする――。


「シラン様!」


 そこに、絶叫のような少年の声がとどろいた。

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