洗濯日和
ファランはこれからの作業のため、髪を素早く後ろにまとめた。ちょうど蝶の髪留めが役に立つ。同じく慣れた手つきで小綺麗な柄の紐をたすき掛けにし、すっかり仕事人の格好だ。そのまま洗濯物かごと石けんや板、棒などの一式を詰め込んだたらいを器用に抱え込んで、機嫌よく鼻歌を歌いながら宿の外に一度出る。
雨風をしのげる場所、硬くもでこぼこもしていない地面というのも貴重だが、こういうとき一番嬉しいのはある程度綺麗で清潔な水が保証されているということだろうか。
旅をしていると不便だ。特に女の身には。
移動中、野営中だと何日も服を洗えないことなんてざらで、さらにひどいと水浴びにちょうど良い川を見つけられずに過ごすこともある。人里に来ると水回りが充実しているのは本当にありがたいことだと思う。
シドはある程度年を取った男だからか、その辺りいまいち気が利かない。
まあとりあえず食って寝られて着れる服があればいいだろうという感性の彼と、繊細な乙女心ついてからのファランは争いが耐えなかった。
「二、三日程度風呂入らなくても死にゃしねえから平気だよ」
「そういう問題じゃないのっ! 設備があるのに利用しないなんて信じられない、シドの馬鹿!」
「お前、だってよ、そっちのつけたらさらに宿代高くなるじゃねーか!」
「さらにって何よ、元から最低料金じゃない、これ以上下がらないわよ! 銀貨1枚にこだわりすぎでしょ!? シドはケチよ!」
「よく言うぜ、稼いでんのは俺なのに」
「わたしだってちゃんと自分の食い扶持ぐらい確保してるもん!」
「あーそうだった、こいついつの間にかちゃっかり働いてたんだった。いやそれにしてもよ、銀貨一枚が大きく響くことだってある。たとえばファラン。三日ぐらいおやつが腹一杯増えるぞ」
「いつまで食べ物一つ渡しとけば黙る幼児扱いするつもり!? やりくりするからそこまで切り詰めなくても大丈夫だって言ってるでしょ!」
「というかそれも気になってたんだよ、なんでいつの間にか当然のようにテメエが財布管理担当みたいになってるんだよ、俺ァまだ納得してねえぞ! あと一緒のもん買ってもテメエ相手だと交渉相手がまけやすくなるのもだ、原理は理解するが――」
「人聞きの悪いこと言わないで、わたし何もしてないもん、売ってる人が気を遣ってくれるだけ。あとシドに握らせとくと普通のところで切り詰めすぎるからでしょ。とにかく、最低値の宿代で済ませて他をおろそかにするのはやめて」
「わーったよつければいいんだろ――女将、風呂ォつけろや! こうなったら引くほどぴっかぴかになってやっからな、見てやがれ!」
「そうね、できるものならやってみるといいわ! シドがわたしより後に出てきたことなんかないくせに!」
「てめーが長風呂すぎんだよ――」
……こんな怒鳴り合いを何度繰り返しただろう。
そして何度目の前で痴話喧嘩もどきにつきあわされる人間の目を遠くさせたことだろう。
ファランだって自分が根本的に彼に迷惑をかけていること、シドが自分と一緒でいなければ何倍も自由に行動できることはわかっている。
だから、どうしようもないことには何も言わない。
野宿中に温かい風呂に入りたいとか、街道で脚が痛くなるのは嫌だから移動手段を借りたいとか、もっと美味しい物、温かい料理が食べたいとか、絹でできた綺麗なおべべが着たいとか、上等な化粧道具をそろえたいとか――どう考えても無理な状況でねだったことはない。
彼女はきっと、シドが思うよりずっとシドの顔色をうかがっている。彼が「本当に駄目」な気配を出す話題には触れない。たとえば仕事のこととか、昔の話とか。
けれど、逆にどうしようもあること、「これは言える」と判断したことならば、最近では遠慮なくシドに言い立てるようになっていた。
何せうるさく言わないとわからないような男なのだし、一緒に暮らして変なこと溜められたら気にくわない、だったらさっさとはき出しとけと言ったのは昔のシドだ。まだファランが寡黙な頃ではあったが。
成長した彼女は、口を出すのに加え、議論が平行線になったらさっさと先手を打ってしまうという対処法も身につけつつある。
先ほども、シドは自分の洗濯物を持って行かれることに抵抗はしたが、ファランがさっさとやってしまえばあっさり諦めてしまった。
口は出しても手を上げられたことはない。たぶん彼が力で訴えるときが来るとしたら、ファランがよっぽど二人の命にとって危ないことをした時ぐらいだろう。幸いにも彼女は賢明な上、お告げ付きである。なので今に至るまで不幸な場面には遭遇せずに済んでいる。
彼女は鼻歌を歌いながら、自分の行動の結果を軽く夢想する。
せっせと日頃より多少良い石けんで洗い、お日様の力を借りてふわふわに仕立て、ついでにほつれなども少し直して戻したなら、少なくともシドは文句より先に礼を言うだろう。
「おうおめえ……よくやってんじゃねーか」
と。
微妙にこめかみをひくつかせながら。
初回で見ると怖いかもしれないが、照れ隠しと負け惜しみなので問題ない。
そういう所が好きだ、とファランは思う。好きでたまらない、と感じる。
言わないとわからないと言ったが、言えば理解や譲歩、完全にできなくてもその努力を示す辺り、かなり良物件だ。
シドに連れられて色々な場所、色々な人を見てきたが、女がうるさく言っても嫌な顔をしない――いや思いっきり嫌な顔はしているが、聞き流さずちゃんと対等に話を聞いて返してくれる男というのは少ない。
特に自分のような面倒な事情を持つ小娘を、一体誰がシドほどきちんと見て聞いて気にかけてくれると言うのだろう?
――一切の下心もなく。
はあ、とファランのため息を柔らかい風がすくい、彼女の髪をくすぐって流れていく。
ファランは宿の裏手から、うるさい気配がする方に向かって足を進める。
シドは二度寝にふけっていたようだが、近頃どんどん日が沈むのが早くなっていっている。お日様も顔を出している時刻だ、急いで用を済ませてしまわないと。
何人かすれ違う人達と簡単な挨拶を済ませながら、目指す目的地は井戸。
水がない場所で動物も植物も生きていけない。人の定住する場所には、必ず水が――まあ天地の運が悪ければ枯れていることもあるけど――少なくとも、飲める水のある場所という情報が保証されている。
ただ、往々にして良いことづくしとはいかないもの。環境が整っている分、ファランにとっての天敵もそこにはいる。なんとなく目的地に近づくにつれ、自然と足取りが重くなってしまう。
「あらぁ!」
「まあ!」
「おはようございます」
すぐさま笑顔を顔に貼り付け全力の社交辞令モードになった彼女は、今し方まで会話に花を咲かせていた女達が自分を見た瞬間はっと黙り込んだことは無視して井戸までさっと駆け寄り、つるべを落として手早く作業を開始する。
ここからは、時間と気力の勝負だ。
「ファランちゃん、おはよう!」
「あらあらまあまあ、ファランちゃんじゃないのぉ!」
案の定、彼女が密かに並びたくないと思っていた女性達にあっさり取り囲まれてしまい、隣の位置をキープされ、早くも深く息を吐き出して嘆きたい気分である。
が、この程度でめげていてはお話にならない。
ファランはそつなく彼女達に応じながらも、さっさと桶に水を組み込んで洗濯物を突っ込んだ。
「今日もせいが出るわねえ、若くて美人で家事にも熱心で、うちの馬鹿にも見習わせたいぐらいよ」
「本当、ファランちゃんみたいな子だったらあたし、嫁に来ても何も言わないわ」
ほら来た。
じゃかじゃかごしごしと最初の作業を開始しつつ、ファランは薄く微笑みを浮かべて聞いてますよ、という顔に出しつつ、密かにしばらく聞き流す姿勢に入る。
井戸端会議は貴重な情報源であり、お節介な女性はうまく使えば貴重な貢ぎ相手になる。
主婦達の覚えがめでたいと、様々な種類の差し入れに預かることが出来る。
ファランが今、無骨な男と二人旅をしておいてそれなりの格好をできているのも、こうした女の園に放り込まれ続けた結果、あれこれと世話を焼いてもらえたからという部分が大きい。女の印が来たときだって、運良く街にいたからこそ、それはもうあれこれ至れり尽くせり世話をしてもらった。
シドと野宿してる最中に来ていたらと思うとぞっとする。
たぶん彼はこう、目を泳がせて途方に暮れた顔で、なぜかしょんぼりしながらも世話を焼いてくれたのではなかろうか。
……それはそれで、見てみたかった気もする。
ともかく、ファランは10を越えてからこちら、会う人会う人に「これから美人になる」「美人だ」とコメントされ続けるような顔立ちの上、素直で人の言うことをしっかり覚えているたちである。
シドは度々嫌がっているが、彼女が行く先々で目立つのはもうある程度仕方のないこととも言える気がした。
ちなみにファランは通常の旅路では男の子の格好をし、顔を隠している。
髪飾りをつけるなど娘のなりをするのは人里、それもこういった大人の女たちがたくさんいて、なおかつ人通りの多いような町だ。
綺麗な小娘の旅道中はさすがに危険が多すぎるし、人里でも田舎だとやはり若くて綺麗な娘という秩序を乱す存在がいることは好ましくない。
当初は町でだって男の子の格好をしていたが、あるときファランが女であることを知った女衆たちにシドはうんざりするほど責め立てられたらしい。(二人の関係はシドが保護者、ファランが身寄りがなくなって仕方なく引き取られることになったシドの親戚、ないし知人の子、というような形で説明される事が多い。ただの親子で説明するにはファランが少々美人すぎたらしいので)
それで妥協策が今の形だ。
ファランが美形の少年の格好をしていると発生する面倒がなくなったのは望ましかったが、その分女同士の面倒ごとも避けられない。
ファランは深入りされることと、シドとの二人旅についてとやかく言われる事を嫌う。
大抵の人間は、いかにもわけありな雰囲気の二人連れに対し、一定以上関わりを持とうとはしない。
だが、女たちといると必ずその手のことについて、彼女がどんなに消極的な態度を示していても言ってくる人がいるのだ。
心の底からファランの事を案じて言っているということも、理解は出来る。
それで助けられたこともある。
でも、シドと離れろと言うのなら、それはただうるさいだけ、余計なお世話だ。
ろくな暮らしができない?
十分生きさせてもらっている、言うことだって聞いてもらっている。すべて満足というわけではないが、これがうんざりするほど嫌だと思った事はない。
いつか一緒に死んでしまう?
――なんて、愚かな。
それこそ本望だと言うのに。
聞き流しならも一応なんとなく把握している話題が、ようやく燐家の嫁に対する愚痴に移ってほっとしたファランが、ふと額をぬぐいがてら顔を上げると、井戸の上に太陽を背に止まっているものが見える。
楽しそうに会話を繰り広げている他の女たちはその存在に気がつかない。
なぜならその鳥には、形も影もない。
ファランが自分に気がついたことを悟ると、それはほう、と軽く鳴き声を上げた。たぶん挨拶のつもりだ。空気をうっすら、ゆるくふるわせ、軽い風を起こす。彼女以外には聞こえない音。彼女以外には理解出来ない鳥の声。
ファランはさりげなく鳥に向かって微笑み、素早く手元に目を戻して作業を再開する。
(そうね、今日はとてもよく晴れそう)
心中で思うと、同意するように上からほう、と鳴き声が降ってきた。
ほう、ほう、ほう。
鳥が穏やかに心地よいテンポで鳴いている間、周囲の喧噪は、つかの間ではあるが、ほとんど聞こえなくなっていた。
そしてそれが羽ばたいた瞬間、風が吹いて女衆たちの洗濯物を一つ、屋根の上までさらっていった。