蘇る最凶
「あはは、あは、あははははは!」
突如けたたましく笑い出した少年に思わず振り返ると、ただれた両手を腹に抱え込むようにして、彼は笑っていた。先ほどまでの惨敗っぷりはどこへやら、瞳に狂気をたぎらせ、あたかも勝利の余韻を楽しむかのような余裕を取り戻している。聞き苦しい耳障りな声にシドが顔をしかめると、少年は床を転げ回って歓喜の声を上げている。
「僕の勝ちだ、僕の勝ちだ! この勝負には負けたけど、僕の勝負には勝った――」
吠えていた少年は、不意に言葉を切ると、咳き込み始める。不穏な、嘔吐音のようなものを耳にしたシドは歩み寄る。うつぶせのままびくびくひくついていた彼にむかってしゃがみ込み、少々乱暴にひっくり返せば、床が、少年の胸元が、べっとりと粘性の高い何かで汚れていた。赤黒いそれは黒装束の上では目立たず、けれど口元を汚す様や鉄さびの臭いでシドは目を見開く。
少年の目は焦点が合っておらず、おぼつかなげに空をさまよい、元は薔薇色が浮かぶ美しい色白の顔色は今や青ざめながら土気色に染まり、それでも彼は目尻を下げ口角を上げることをやめない。
「……何を、した」
少年を抱え込むようにしてのぞきこんだままシドが険しい声をかけると、誰かにそっくりな紫色の目を瞬かせた彼は、とろりとゆるんだ表情になる。
「あなたと戦いながら、ずっと秘技を併走させていただだけですよ。大成功だ。全然気がつかなかったでしょう?」
何てことはないように口にされた言葉にシドは驚愕する。
秘技を使うというのは、獣の封印を一時的に解除するのと似ている。発動するときには必ず、真名と定められた呪文を唱えなければならない。
ということは、少なくともシドと戦い始める前に少年は呪を完成させ、ずっとシドにわからないように使い続けていたということである。
そんなことができるのか? しかし少年は成功を確信して笑い、それを証明するかのように屋敷に充満する威圧感のような気配はふくれあがり続けている。
実際まんまと出し抜かれた形のシドは、疑念を抱きながらも事実を認めざるを得ない。
そしてもう一つの事実が――急に身体に変調を来した少年の様子こそが、その無茶な離れ業をやってのけたということを証明している。
「お前、そんなことをしたら――」
「僕の意思だ、僕は望んで黒闇蜘蛛に食われてる!」
命がいくつあっても足りない、まして幼い身体で負荷がかからないわけがない。
シドの言葉は激昂するように怒鳴った少年に阻まれる。彼の口からまた赤黒い液体が飛び散った。
どの感情を見せても、少年は少年らしく無邪気なままだ。
彼の見せる仕草や態度はいちいち、本当に幼い子どもそのものだった。
ただ、やっていることや、一部の思考がシドには理解できないほどに歪んでいる。
一体何がそこまで駆り立てる?
困惑するシドに、おそらく声を聞いて方向がわかったのだろう。うつろな目をしたまま、少年はどこか皮肉の混じったような笑みを向ける。
「いいんだ、この身体にガタが来るならそれはそれで。そうしたら次を探すよ。黒闇蜘蛛が導いてくれる。彼は僕を裏切らない。僕が彼を裏切らないように。僕は死なないよ。身体が朽ちたら別の入れ物を探すんだ。僕はそうやって、永遠にシラン様に仕え続ける」
少年は自分の生命力と引き替えに黒闇蜘蛛から最大限力を引き出し、怪しげな術にも精通しているようだった。そんなことが可能なのかシドにはわからないが、彼の知識を持ってすればできることなのかもしれない。
それでも、話がうますぎる。黒闇蜘蛛にだまされているのではないか、良いことばかりを吹き込まれて、危険の可能性とか、失わなければいけない対価を失念しているだけなのではないか。
そんな風に目を覚まさせる言葉をかけてやろうとも思うのだが、言葉が喉に引っかかって出てこない。
恍惚に満ちていて、どこかうなされているようでもある言葉が続く。
「僕はずっとね、一人だったんだ。見ることも聞くことも話すことも嗅ぐことも味わうことも触ることも世界を歩き回ることも――なかった。檻の中の珍獣。何にもなかったんだ。全部、黒闇蜘蛛が教えてくれた。アルデラが来てくれなかったら、僕はこの世に生まれてさえいなかった。シラン様という光を手に入れることもできなかった」
少年が手を伸ばす。シドの頬を、古傷を細い指がなぞった。その手もまた、不健康な色に染まりつつある。ふと目で追うと、彼の親指についていた漆黒の指輪はさび付いたかのようにくすんでいる。
――身を削っているのはお互い、ということなのだろうか。
「あなた、優しい目をしてますね。辛いことにあってきて、容赦はないけど、根はとても優しい人なんでしょうね。人が好きですか? 人を愛して、愛される人なんですか――?」
ぐっと握られた拳が震え、少年の血や吐瀉物に汚れていてさえ美しい顔が歪む。
「だったら、ざまあ見やがれ」
甘い甘い、さえずるような口調と一転し、腹の底から絞り出されたような低いどすのきいた声が漏れる。
それはまさしく、黒と闇を持つ銃器に適性を持つ人物の根底に満ちる本質だった。
すべてを恨み、呪い――それでも自分の光を求める、狂気。
シドは少年を突き飛ばそうとしたが、もう一度自分のいる場がぐらりと地鳴りのように大きく揺れて天井がきしみながらぱらぱらと何かのかけらのような物を落とすのを見ると、直前で動きを止め、舌打ちしながら少年の身体をひょいと抱え上げる。
少年の指から黒い塊を外すかどうか迷い、結局そのままにして肩にかついで歩き出したシドの腕をぼんやり熱くするものがある。
「仕方ねえだろ。俺だって本当は嫌さ、こんなしょうもねえガキ放っておいておきてえよ。このまま死んだ方がよっぽど本人の、世界のためなのかもしれねえ。だが、テメエの生命力なくしてくたばるなら自己責任だろうが、生き埋めになるかもしれない可能性を放っておくわけにもいかねえだろ。……お前が俺を拾った時から決めてることだ」
なだめるように紅炎熊に声をかけると、シドの相棒は今少し熱を持っていたが、そのうちにいつも通りすっと引いていく。シドはほんのわずかに目尻をゆるませてから、再び険しい顔に戻る。
「それに、もしかするとこいつの知識が後で必要になるかもしれねえ。……俺の嫌な予感が当たっていれば、な」
封印の消えた扉を破り、屋敷を大股で歩き出す。地鳴りのようなとどろきはやまない。
シドは不意に空を感じた。外に通じる廊下から思わず足を止めて振り仰ぐそこは、血のような紅色に染まったまま何も変わって見えない。
けれど、たぶん。
「……いるのか」
どこか既視感を覚え、つぶやく言葉に返す相手はいない。何もいないように、シドには見える。
全身を圧迫するような威圧感につきまとわれるのを感じながら、シドは口をひき結び、嫌な気配のする方に向かって歩く。走るのはなぜかはばかられた。どんよりと立ちこめる空気が足取りを重くする。
やがて彼がやってきたのは、少年と最初に出会った中庭の部分だ。道中で死体人形達が皆倒れ起き上がってきていないことを確認したシドは、それでも慎重な手つきで鍵をかけた扉を開ける。
赤く染まる中庭から襲いかかってくるものはいない。
かわりに一人の人物が中庭に立ち尽くしている。
それは、見覚えのない装飾に身を包んでいたが、シドのよく知っている少女だった。
「ファラン――」
少年をその辺に適当に放り投げ、名前を呼びながら近づくシドだが、一方で確信があった。
振り返った彼女の目を見て、さっと自分の顔が曇るのを感じる。
「なぜですか。なぜわたしを起こしたのですか。二度と目覚めたくなんか、なかったのに」
同じ顔、同じ声、同じ身体であっても、こうもはっきり違うとわかるものか。
ファランにはどこにいても周囲をほんのり優しく照らすような、穏やかな太陽のような明るさがあった。目の前の女にはそれがない。凍てつく冬の夜の月のように冴え渡っている。
冷えた美貌の持ち主が、どこかこちらを責めるような調子を含みながら、憂いに満ちたまなざしを向けてくる。
シドはその場に立ち尽くし、ほぼ無意識の反射的に少し前に傷つけられた頬に手をやる。
知人の身体を持つ見知らぬ女がこちらに振り返った瞬間、場にこもる漠然とした敵意と圧迫感はますます大きいものになっていた。