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凶鳥の片割れ 後編

 シラン様、シラン様。

 遠くで、近くで、誰かがずっと呼び続けている。


 彼女は微睡みの中でかすかに抵抗を示す。


 お願い。

 わたしを呼ばないで。わたしを起こさないで。

 思い出したくなんかない。目覚めたくなんかない。

 わたしは、ずっと、間違えてきた。


 けれど優しくも残酷な闇は深く深く彼女の中に入り込み、揺さぶって覚醒を促す。


 とどめられていた彼女の記憶が、やがてゆっくり再生を始める。



 ***



 そして、ある日。

 人気のない場所を歩いていたシランに襲いかかったものがあった。

 それは通りすがりの物取り――少なくとも、公にはそういうことになっている集団――だった。



 結果から言うならば、シランは無傷で難を逃れることできた。身につけていた獣器達が主を守ったからだ。


 しかし、シランの動揺を敏感に感じ取った獣器達がここぞとばかりに派手に暴れたせいで、騒動は隠しようがないほどに大きくなってしまった。

 おかげで、獣器がただ魔獣を封じるものではなく、その力を利用することをもできる道具なのだと人々が知るところになる。


 シランは安全性の問題を説いて抵抗したが、結局獣器を取り上げられ、その使い方を、力の引き出し方を教えるように迫られた。

 彼女はそのたびに根気よく、何度でも言い返した。


「おやめください。獣器は使い手を選びます。主が取るに足らぬと感じれば、たちまち隙を見て食い殺すでしょう。残念ですが、あなた方のような方には手に余ります。彼らはまだ生きている。逆に食い殺されてしまいます」

「コツ? 安易に獣器を扱おうとするから、彼らも反発するのではないですか。見てください。聞いてください。触れてください。感じてください。人間か――そうと思えないならせめて、馬や犬など、生涯の相棒になりうる動物に対して思うのと、全く同じように。そうすれば、彼らもあなた方に心を開きます。魔獣よ道具よと侮り乱暴に扱うから、手ひどく噛まれることになるのです」

「わたしが彼らを従えていられる理由があるとすれば、わたしが彼らを遠ざけすぎず近づけすぎないからでしょう。また、封印をしたのはわたしです。そのことでわたしを恐れているのかもしれません。わたしが特別なわけではありません。わたしが流民だから彼らを従えているわけではありません。ただ、あなた方があまりにも彼らを知ろうとしないだけなのです」


 一度獣器の力が行使されたことを知った人々は我も我もと手を出したが、何人かはちっとも彼女の忠告に耳を貸さず、挙げ句失敗して手ひどい怪我を負った。

 中には彼女の言うことを紳士に聞き、あるいは正しく理解し、獣器を安全に扱うことができる者も出てきた。しかし彼らの誰も、シランほど獣器の力を引き出すことはできず、シランほど獣器と結びつきを深めることはできなかった。

 失敗しても、成功しても、ますますシランに対する罵倒は激しくなっていく。


 ――薄汚い流民はやはり知識と力を独占し、我々に刃向かう。生意気だ、不愉快だ、憎たらしい――。




 連日人々に口汚く罵られ、疲労したシランは、こっそり屋敷を抜け出して、誰も来ない静かな場所――屋敷近くの墓地、その裏山に夕方になると登ることを習慣にしていた。


 この頃になるとルゥリィともすっかりぎくしゃくした関係になってしまっている。

 他に頼れそうな相手は、遠方に住んでいたり社会的な立場がシラン同様微妙だったりで、彼女は自然と一人で過ごすことが多くなっていた。


 裏山を登っていくと、頂上付近にちょうど都を見渡せるような大きな老木がある。シランは草原出身だったが、高い所に上がるのは嫌いではなかった。空に近づけた気がすると、無性に嬉しくなる。山に登ると、日頃の喧噪から少しだけ遠ざかったような気がする。

 墓地近くの山は都人からは忌避されがちで、柄の悪いものたちすらも不気味がって暗くなるとよりたがらない所があった。一方、シランは死人を恐れない。生者の方が強く、そして何倍も恐ろしいことを身に染みて知っている。


 彼女は太い木の枝の上に陣取り、ぼんやりと紅色に、やがては夜のとばりに包まれていく都の光景を長目ながら、膝を抱え、重い息を吐く。


(なぜ理解できないのか? 我々をさげすみ、馬鹿にしている? それは、あなたがたの事でしょう! 器に封じたとは言え、獣器は魔獣。その力を意のままに操ろうなんて、おこがましい。彼らは気に入った者になら、惜しみなく力を貸す。一方的に搾取されて、いい気分になるはずがないではないか……)


 同じ人のはずなのに、同じ言葉を話しているはずなのに、どうしてこうも自分の言っていることは相手に届かないのか。シランの心は消耗し切っていた。

 ふと彼女が空を見上げると、曇天の中をきらきらと輝くものが飛んでいる。

 目を細めた彼女は、あっと思わず息を呑んだ。


(鳥? まさか、こんなところで。ずいぶん久しぶりに見た気がする。昔――草原にいた頃はそれこそ毎日でも、いつだって眺めていたものを)


 気まぐれな鳥は、無害な時もあれば、大災害を起こす時もある。都に現れて何をしようと言うのか。もし被害が出たら、また自分のせいにされるかもしれない――。


 シランは緊張し、顔を青ざめさせて注意深く見守っていたが、今日の彼は鳴きながら空を舞っているだけ、それ以上おかしなことはしようとしない。

 ほっと身体から力を抜いた後、シランはその鳴き方がずいぶんともの悲しげなことに気がつき、首をかしげた。


(鳥よ、何を嘆いているのか。日に日に少なくなっていく同胞達のこと? お前の仲間ももうずいぶんと減ったことでしょう。わたしが獣器に封じてしまったから。彼らの力をあわせれば、いずれお前にだって手が届くようになるかもしれない。かつては不可侵の神とも呼ばれたお前。きっと最後の、最高の獣器になる――この手にすれば、わたしのことも、誰も)


 空に向かって、鳥に向かって手を伸ばしながら考えていたシランは、直後おのれのしていることに、思考に愕然とした。おそるおそる顔に触れてみると、彼女の美しい顔はいつの間にか醜悪な笑みに歪んでいる。血の気が引き、めまいがした。


(なんということ。これでは――こんな風な考え方では、わたしが嫌悪する傲慢な都人と、何一つ変わらないではないか! わたしはいつからこうなってしまったのだろう? どうしてこんな風になってしまったのだろう……)


 自己嫌悪に陥る彼女の耳に、変わらずどこか寂しげで、それでいて美しい鳥の鳴き声が響いている。

 その音は宝石同士がこすれ合うように美しく、どんな柔布よりもなめらかで、聞いている耳から身体の内側からすべてが洗い流され透明になるかのような澄んだものだった。

 目を閉じれば、聞こえるのはただ風と鳥の鳴き声のみ。夜の涼風が彼女の身体をくすぐり、服の裾をひらりとすくって流れていく。

 シランは喉にせり上がってくるものを感じた。


(ああ、帰りたい。あの場所に、あの頃に。父上のおっしゃっていたことがすべて正しかったとは思えないけど、わたしのしていることが間違いだったとも思いたくはない。ここにいると、何もかも失って、わからなくなる。一体わたしは、どうすればいいんだろう……)


 ずいぶん長い間顔を埋めていた彼女は、鳴き声が消えたのを感じた。鳥はまた、どこかに消えていったのだろうか。

 直後、かさりと側の木の枝が揺れる。何の気なしに釣られて視線を向けた先、心底ぎょっとさせるものがあった。


 思いがけないほど近くに、具体的にはすぐ側の木の枝に、遙か彼方で悠然と翼を広げていたはずの鳥が降り立り、彼女をじっと見つめている。

 空を、大地を映すみずみずしいその二つの目で、じっとシランを見つめている。


 驚いて声を上げそうになるシランだったが、なんとか自制心が勝る。魔獣を下手に刺激するのは命取りだ。まして、こんな近くで。

 息を飲み込んだままじっと、瞬きすら忘れて見つめ合っていると、鳥もまた彼女をじっと見据え続けている。


 緊張が、どれほど続いたことだろう。

 一瞬だったかもしれないし、永遠だったかもしれない。


 動いたのはシランの方だった。

 相手から敵意を感じない事を理解し、ゆっくりと息を吐き出す。

 彼女が弱々しく首を傾けると、真似をするように鳥は同じ方に首を傾ける。


 そのどこか人間じみた動きに思わず小さな笑い声をあげてしまったシランは、こらえきれずに身体を震わせ、やがて笑い声は小さな、そして大きな嗚咽へと変わっていく。


 一族を離れてからずっと、絶対に泣かない、泣くものかと決めてきた。

 若く、流民で、女のシランが泣いたところで、守ってくれる存在がいないどころか、きっとつけ込まれてしまう。善意を向けてくれた相手がいなかったわけではないけど、都で彼女に向いていたのは圧倒的な悪意だった。

 いつしか、それとも最初から、ルゥリィにさえも、無意識のうちにそうやって壁をつくって、彼女は人を寄せ付けずに過ごしてきた。


 故郷を捨て、都になじめず、彼女の居場所はどこにもない。獣器を作ること。かろうじてそれが、彼女の存在意義を保っている。


 そうしないと生きていけないと思った。

 それがますます自分を生きづらく追い詰めている予感があっても、他の方法を知らなかった。

 他に正しい道を教えてくれる人がいなかった。


 ――昔はいたのかもしれないけれど、若かった、いや今も若い彼女は耳を塞いでしまった。


(一体何をやっているのだろう、わたしは)


 大口を開けて、まるで雛鳥のように。

 塩まじりの温かな液体が目からあふれるほどに、喉が痛んで音を絞り出す度に、彼女は一枚一枚、自分の何かが剥がされていくのを感じる。


 そして、柔らかくもろく崩れて溶けたシランの心の隙間に、それはするりと潜り込んできた。

 寄り添う様に彼女の側に身を寄せた存在と、彼女の境界が曖昧になり、混じり合う。




 魔獣を恐れ、敬い、寄り添うことはあっても、けして心を許してはいけない。

 その絶対の禁忌を、すっかりとほどけてしまったシランはつかの間、完全に忘れさっていた。




 あっと思った時にはもう遅い。

 彼女の視界に、あらゆる場所の映像が関を失った水のように流れ込む。

 それは空だった。大地だった。太古であり、今であり、未来だった。

 大空を舞う。眼下で時が流れ、地が動き、命が巡っていく。

 気が遠くなるほどの長い、ゆったりとした時を、泳ぐように飛んでいく――。


 そしてその中に、見覚えのある草原で、見覚えのあるテントや荷車が見える。

 それらが汚らしくも無残な赤色と黒色に包まれ、炎や煙がぶすぶすと煤と灰をまき散らし、けぶっている映像が映っているのが見える。テントの下敷きになった小さな子どものただれた手、うつぶせに倒れる老人の背から生える凶器、かけ去って行く馬たちの足音、若い女の断末魔のような悲鳴――。


 シランはその映像が何であるか正確に悟った瞬間、喉がちぎれんばかりに叫んだ。

 途端に映像はふつりと切れ、鳥は逃げるように飛び去って行く。

 けれど彼女はもう彼には構わず、髪を振り乱し、まるで狂ったようにか細く甲高い声を上げて絶叫し続けた。


「馬鹿な、そんな馬鹿な!」


 ――あれは。

 鳥の見た光景が、同調したシランの中に入ってきて。

 あれは、そう。彼女が愛し、心を鬼にして、捨ててまでも守りたいと思ったはずの。




 故郷が滅んだ――その瞬間を、映していたのだった。




 ***


 シラン様。シラン様。


 やめて。わたしは知っている。彼らの声がもう二度と聞こえることがないことを。


 黒く、黒く。心が染まっていく。

 気高くありたい、優しくありたい、賢くありたい。

 すべての美徳の価値が零に、無に還る。




 一体、わたしはなんのために。




「シラン様、目を開けて」


 彼女は聞く。闇の中でうっとりと響く少年の言葉を。

 彼女は見る。闇の先の紫色の瞳を。




 ――あれほどの間違いを犯して、わたしはまたするつもりなのだろうか。


 賢明に己をたしなめようとする理性に勝る感情。それは後悔と、思慕。


(皆死んでしまった――けれどもし、誰か一人でも、生き残ってくれていたのなら)


 あふれる想いは関をやぶり、彼女を現世に押し流す。




 花がほころぶように。

 重々しい門が開くように。

 彼女はゆっくりと瞼を上げる。


 胸の内側で、何かが、誰かが、うめき声を上げて消えていった――そんな喪失感を感じながら、目覚めたシランはきょとんとゆっくり瞬きをした。止まらない涙がぽつぽつといくつもいくつも流れ落ちていく。


 凶鳥の片割れは、そうして再びこの世に現れた。

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