激突 前編
中庭の庭園には緑と白を基調にした色合いが、いかにも人工的に計算された比率で配置されている。
川がちょうどあちらとこちらを隔てるかのように庭の中央に流れ、そこにかしずくかのように美しい石が並べられたり、彩るためにか周囲に青々した緑がしげっていたりと、閑散とした屋敷の中でここは何やら静かに忙しい。
庭から見える空は淡く金色を帯びた紅色に染まりつつある。時刻はすっかり夕方にさしかかってるらしかった。
シドの左腕もまた紅に包まれる。それを見て黒ずくめは「わっ」と軽く驚くような小声を上げた。この場の声だけ聞いてみると、いかにも純朴な少年が突然始まった発火現象に驚いたようにしか思えない。紅炎熊は戦いの始まりを告げるかのように、あるいは己を自己主張するか、シドを鼓舞するかのように、一度強く燃え上がってから落ち着く。
しかし、一連のことをきっかけに、シドの容姿はいつもの冴えない茶髪と茶色の目から、赤く燃え上がる髪と赤い目に変わっている。時刻のせいもあって、まるでシドが陽に紅色に染められたかのような見た目だった。彼の容貌がいくらか変化したのを確認すると、あちらは再び「おお」と簡単のような無邪気な声を漏らしている。
赤く染まった光景を軽く見回して――目の前の庭がいかにもきちんと手入れされているのにもかかわらず、相変わらず黒ずくめの小柄な人物以外に全く人の気配がないことを確認して――シドは木々が互いを邪魔をしない位置まで一度歩いて行ってから、腕を組んで仮面をにらみつけた。
「侵入者の自覚はあるからな、こっちから正体を明かす方が道理だろ。俺の名はシド。一時期は戦場で最も会いたくない男とも言われていた。別に自慢じゃないが、悪運が強いもんでね。俺が参加する荒事では大体周りの奴らがバタバタ死んで、俺だけが生き残る。まあそういう疫病神みたいなもんだ。……ただしおれは、子どもを殺さないし、殺せない。これは俺個人の信念のようなものでもあるし、呪いじみた誓約に近いものでもある。つまり俺が今どんだけテメエが気にくわねえと感じて憎悪を募らせようが、俺はお前をこの手で直接死に追いやることはできねえ、その辺はひとまず理解して安心しろ」
おや、とでも言うように相手が首をかしげるのを――自分の言葉に反応を示すような奴ではあるということを認識しつつ、シドは言葉を続ける。
「だが、だからといってこのまま見過ごしてやる理由にはならない。オイタをわざわざ見過ごしてやるほど懐の大きい大人じゃあないんでね。こっちの目的と要求は簡単だ。今日俺はここに、世話のかかる奴を迎えに来た。短い黒髪に紫のつり目、こんぐらいの身長のふてえ小娘だ。名前はファラン。そいつを帰せ、それ以上は何も言わねえ。先に言っておくが、そんなものは知らない、ここにいないは通らないぞ、こっちで調べはついてる。お前が獣器使いで蜘蛛だってこともわかってる。たださっきも言ったが、俺はそこそこ名の売れた人殺しだ、いざ争ったらけが人は確実に出る。こっちの言う通りにするってんなら、拳骨一発ぐらいで済ませて帰ってやらないこともない。……考えて選ぶんだな」
「……なんかまた、ずいぶん不思議って言うか、面白い人が来ましたね、アルデラ」
あまり大声ではないが一つ一つに強い力が込められている言葉を大人しくふむふむと聞き届け、声変わり前の高い声で小さく呟いてから、仮面の少年は自分の胸に手を当てる。
「まあ、そちらが丁寧に身元と目的を明らかにしてくださいましたので、一応ならっておきましょうか。僕の名前はメイディン。自分が何者であるかということについて説明するのは、ちょっとややこしいので色々省きますが、端的に申し上げればシラン様の忠実なしもべであり、彼女に仕える祭司です。獣器使いであることはあなたのおっしゃる通りで、蜘蛛の使徒……って言っていいのかな、アルデラ」
少年は時折自分の手に向かって呼びかけるような仕草をする。
シドはじっと彼の右手に視線を集中させ、目を細めた。
「んー。でも、どんな人が邪魔しに来たのかと思ったら、こうなのかあ。びっくりしたなあ。踏み込んできておいて名乗りを上げるのもとんちんかんだけど、まさか自己紹介ついでに最初に自分の弱点を言うなんて。ひょっとして、僕たちはその分舐められているのかな?」
相手が仮面を被っている以上、表情どころかどこを見ているかも判然としない。しかしシドは最初に一気にしゃべりつくした後は、黙したまま微動だにせず中庭の先の少年を見据え続けている。
黒ずくめの彼は考えるように仮面に手を当て、顔を動かしている。
「……そう。愚直で不器用な人なんですね。最初に言いたいことは全部言って、なんならついでに嘘が言えないから本当のことばっかり言って――あえて不利なことも混ぜた、だからちょっと謙遜気味に言っているけど、手練れであるということも確かなのだと。情報は与えたのだから後の展開は僕に任せる、ということなのでしょうか。それに世の中には死より怖いことなんていくらでもある。あなたはその少々物騒な武器を使って、僕を殴るつもりはあるようだ」
少年は中庭の先に見える廊下を、シドから見て左側に向かってゆっくり歩き出した。ぎしりと床が不満げな音を立てる。シドの方は動かずに静観を保っている。
「まあ、いきなり殴りかかってこられると思っていたので、あなたが存外理性的なのは僕にとって嬉しいことなのです。少し話をしませんか」
シドが肯定も否定もしないと、少年はそのまま続けていく。
「シラン様をご存じですか? 三百年前に獣器を作った本物の方です。彼女は流民の一人で、たぐいまれな術士でもありました――」
「そのくだりは別の奴から聞いたよ。お前と違ってこっちには多少の協力者がいるんでね」
遮られると少年は足を止め、くるりとシドに身体ごと向き直る。彼にとって意外なタイミングで話を切られたのだろうか、直前にはつんのめるような動きもした。ただ、おどけたような動作をしている割に少しだけ醸す空気が変わったような気もする。
それらをすべてとても冷ややかなまなざしで見つめてから、シドは言う。
「シラン様だかなんだか知らねえし、正直テメエの素性にも、所属しているらしい団体にも、この場所にも、それほど興味はねえ。べらべら話してくれるってんなら聞いてやらねえでもねえが、正直時間の無駄だ、あんまり続けるならそっちの時間稼ぎも疑わせてもらう」
「あれ? そんな怖い顔しないでほしいなぁ」
「ガキを殺せないとは言ったが甘くするとは言ってねえぞ。こっちは現状テメエに不審しか抱いてないんだ、そこは自覚しろ」
「……別に、そんなこと言われても」
「もう一度言うぞ。俺はただ、面倒見てる奴がいなくなったから迎えに来た、それだけだ。もし仮にファランがお前と一緒にいたくているってんなら、まあ俺の方が野暮になるのかもしれねえが――」
「それはもちろん、シラン様は僕と一緒にいることがいいに決まっている。あなたは野暮だ、帰ってください!」
「うるせえ、他にも言いたいことはあるが、まずあいつはファランだ。それ以外の何者でもねえ。勝手に別人の名前で呼ぶな」
「……シラン様は――」
「ファラン! ……何度も言わせるな、馬鹿が。もうご託はいいからさっさと本人連れてこい。確かにテメエと相思相愛の末の逃避行ってんならもうここで縁切ってやるよ。だがそれを俺に納得させるのはテメエじゃねえ、ファランだ。お前とは話が通じねえ。俺はあいつの保護者だ、このまま大人しく帰るにしろあいつの無事な顔を見ねえとなんも始まらねえ」
互いに相手の言葉に被せるように、打ち切るように会話の応酬をするようになると、空気がみるみると険悪になっていく。少年が腰に手を当てて、ゆっくり頭を振りながら息を吐いた。
「少しは話し合いの余地があるかなとも思ったんだけど、結局これかあ。ちょっとぬか喜びさせられた気がするなあ」
庭園に風が吹く。それは全く自然のものにしては、奇妙に生ぬるく、気持ちの悪い感覚をわきおこさせた。少年は何度も繰り返し首を振っている。ふらふらと頼りなく見えるその動きは、本来落ち着いて据わっていなければいけない場所にあるものが収まっていないせいなのか、奇妙な嫌悪感を想起させる。
「っていうか、考えてみればあなた……そうだ、シラン様のこと、ずっと独り占めしてた悪い奴なんじゃあないですか。この期に及んでまだ続けると? 強欲ですねえ、気に入らないなあ……」
頭を揺らしながら少年が片手で仮面を押さえる。
シドもほぼ同じタイミングでふわりと左腕を浮かせた。
「まあ、いっか。どうせこうするつもりだったんだ。変わらない」
シドは振り返る。いや、さっと自分の周囲を見回した。
長い廊下がいくつも交錯し、広々とした屋敷の中に不気味な気配がただよいつつある。
廊下の角から前触れなくふらりと現れたのは、少年と同じような黒ずくめの仮面の集団だ。どれもこれも自分で動いている人間としては奇妙な脱力感を帯びながら、両腕を前に突き出してするすると廊下を滑ってくる。
ありとあらゆる場所から、シドのいる所に向かって黒ずくめの等身大人形のような集団が身体を引きずり迫ってくる。
シドが少年の方をもう一度見ると、彼は中庭の吹き抜け部分から奥の廊下に向かって引っ込んでいくところだった。そちらの方からも、さっととっさに数えられないほどの数の黒ずくめ達が投入されてくる。
「あなた、いりません。死んでください」
無邪気な声が消えるのとともに、じりじりと距離を詰めていた集団がシドに向かって飛びかかってくる。
素早く中庭に降り立ったシドの腕で、先ほどよりもさらに鮮やかな紅蓮の炎が上がる。
「行くぞ、紅炎熊!」
シドが声をかけるのと同時に、彼に襲いかかろうとしていた廊下の先頭集団がまず巨大な火柱に包まれた。




