愛糸絡ませて
浴槽の湯には、見たことがないような種類の薬草らしきものがいくつか浮かんでいる。
頭がくらくらする湯船からようやく出されると、ファランは丁寧に身体を拭かれ、しっとり湿った髪を梳かれる。
少年がねっとりしたため息を吐きながら彼女に触れる合間、指を組むような仕草をすると、ファランの身体は糸で吊された人形のように勝手に引っ張られて動く。彼はそうして、見えない糸のようなもので彼女を操ってここまで移動させてきたらしい。
何の気なしに少年の方に目を移すと、手元に妙に意識が寄せられる。しかしその意味を考え、解釈する前に、思考はふわふわと霧散してしまう。
自分が裸であることにも、服を着せられる段になってようやく気がついたぐらいだった。
ぼんやりした頭では考え事がうまくいかない。そうでなくても気を張っていないと、あの別人の意識に身体を持って行かれそうなのだ。
ファランは奥歯をかみしめながら、目を閉じてわき上がる不快感にぶるぶると耐えている。
「おかわいそうに。そんなに抵抗しなくてもいいんですよ、シラン様?」
上等な肌着を奇妙に優しい手つきでまとわせながら、少年は心のこもった言葉をかける。
どの態度も一貫して善意に満ちあふれているのに、何一つファランには嬉しくないのだから、これがより一層おかしく感じる原因なのだ、と彼女はようやく気がついた。
少年の態度は明るすぎる。ファランの渋い反応に対して。
風呂場に一緒に入っていた関係上、ファランの頭部にあった覆いや拘束は外れているが、代わりなのか額に不思議な模様を描かれていた。無皇凰は相変わらず影も形も見えない。湯をかけられても落ちない赤色の妖しの染料は、ファランの意思が弱まり、彼女が他人の記憶を思い出していると徐々に薄まっていき、彼女が自分を取り戻そうとすると鮮やかな朱色に戻る。
少年の格好も、今現在は黒装束と仮面から濡れても構わないような白い薄手の着物へと変わっている。着ている服もどこか遠くの異国の物を彷彿とさせる。
ファランよりもさらに幼い顔立ち、変声期も迎えていないらしい彼は、背丈だけならファランより少し低い程度だろうか。成長期前の細くしなやかな身体をしているが、そこからは想像も出来ない怪力を度々発揮する。
黒装束姿も異様だったが、素顔をさらしている今の方がさらに印象は悪化していた。
彼は透き通るような真白い肌に、思わず目を見張ってしまう一面の若白髪を背中に垂らし、整ってはいるが浮き世離れした容貌に微笑を浮かべ――さらに、ファランと同じような紫色の瞳をしている。
そしてその整いきった見た目をあえて崩すかのように、あるいは彩るかのように、顔に謎の入れ墨を入れているのだ。
顔に落ちないような模様を入れるなんて、罪人かよっぽど危ないはみ出し者のすることだ。その割に、粗野ではなく上品なぐらいの所作に見える。
一目でわかる、彼女にとっての異分子。
加えて本来同居しないはずの情報をいっしょくたにしている混沌の塊。
彼のあらゆる要素が、単体では成立しうるが組み合わさるとちぐはぐな印象を受ける、そういうものだ。
「逆らおうとすればするほど苦しいはずです。ゆだねて任せておしまいなさい。それが正しい流れです」
彼が湯上がりのファランの着せているのもまた異国の装いだ。
どこか旅芸人を思わせるしゃらしゃらと鳴る装飾品が端々につく色鮮やかな布を、基本のシンプルな白い肌着の上からまとわされる。
視界に映る室内は、広さや調度品の雰囲気からしてどうやらそれなりの豪邸のようだが――その割にはまったく人の気配がない。
(彼はずっと一人で行動しているようだけど、なぜこうまでも周囲に人がいないのかしら)
彼女は疑問に思わないでもなかったが――なんとなく、その件について問いかけてもろくな答えが返ってこない気がしたので、黙ったままだった。
少年の細い指が頬をなぜ、顎のラインをなぞってから離れていくのを見つめていると、ファランは自分の目がさっき何に反応したのかを理解した。
指だ。真白い指に一つ、黒い塊――右手の親指に、少し大きめの指輪。よく見ると蜘蛛の装飾がある。
これが黒闇蜘蛛、とファランは直感した。
だが、名前がぱっと浮かんでも、その細かい能力がわからない。自分の現状などから相手を見えない糸で操るようなものかとも思うが、ならば自分が今受けている、この妖術のようなものは何なのだろう?
問いかけるように指輪を追って目を向けると、少年は真白い頬をほんのり紅潮させて言う。
「ああ……気になりますか? 僕が使っているのは黒闇蜘蛛の術と、それから表の歴史から忘れ去られたような秘術の類いです。あなた様のように複数の獣器を従えることができれば一番良かったのですが、それはさすがに無理だったので、代わりの方法を求めるのにはずいぶんと骨が折れました。それでも僕は、僕たちはなしえたんだ。これもすべてあなたのため。……まあでも、このようにわざわざ口に知るまでもなく、シラン様が完全にお戻りになられたらすぐご理解できることでしょう。あなた様は随一の術士だったという話ですから」
「わたしは……ファラン……シランなんかじゃ、ない……」
鈍痛のする頭のまま、焦点の合わない目のまま、ファランはなんとか彼に向かって拒絶の言葉をかける。努力すると、鈍くゆっくりしたテンポながらなんとか言葉を紡ぐことができる。
すると少年は、不快というよりも哀れみの目をファランに向けた。彼女の着替えが一段落したのだろうか、真正面に回り込んできて両手を取り、座らせている彼女としゃがんで目を合わせる。まるで聞き分けの悪い幼子に根気よく言い聞かせるような、優しいまなざしで猫なで声を上げた。
「あなたはシラン様の生まれ変わりです。背中に翼があり、無皇凰を従えている以上、それは間違いないのですよ」
「そんなの、知らない……」
「おかしいなあ、もういくつかの記憶が蘇ってきているはずが? 三百年前にあなたが生きていた時の思い出――先ほど拒絶してしまったようですが、僕があなたに施した術は魂を眠りから呼び起こす」
「あんなの……わたしじゃ、ない……」
「否定なさいますな、シラン様。お辛いのはわかります。あなたの障害は挫折と苦悩続きだった。周囲は無理解で、誰もあなたを愛してくれなかった。でも僕はあなたのことがよくわかる。僕はあなたを愛して差し上げられる。まもなくシラン様としての人格がお目覚めになれば、僕の正しさもわかっていただけるでしょう。当代の復活を恐れることはない。僕はあなたの側を離れないから」
「そんなこと……望んでない……」
繰り返すファランの抵抗に少年はため息を吐き、一瞬だけ紫色の瞳から奇妙な輝きを持った光が消える。
にごった暗闇のようにどろりとしたまなざしを受けて、ファランは自分の身体に、背筋に震えが走るのを感じた。
「申し訳ございませんが、現世のあなたの人格にはそこまで興味がないのです。僕はシラン様一筋ですから」
「違う……わたしだけじゃない……シランだって、戻ってくることを、望んでいない……」
ファランの世迷い言を無視しようとした少年だったが、彼女がシランの名前を出すとおや、と言うように首をかしげる。
焦点の合わなくなっているファランの瞳の奥で、渦巻く煙のようなもやがうっすらと見える。するとそれを見つけた途端、少年の瞳が今まで以上の輝きを取り戻す。
「シラン様が戻ってくることを望んでいない? それはきっと、生きていらしたときと同じ扱いを受けることを恐れているのでしょう。ご案じなさいますな。シラン様が戻られること、そしてその願いを叶えて差し上げることが僕と黒闇蜘蛛の願いでもある」
「シランの、願い……」
「もちろん、言うまでもない――人間達への復讐、でしょう? あなたをおとしめた者どもに思い知らせてやるのです。誰が真に上に立つ者か――」
「そんなことを、わたしは望んでなんかいなかった」
突如、凜とした声が響き渡る。少年は雷にでも打たれたかのように硬直し、数歩後ろによろめき、興奮を抑えた低い言葉で尋ねかける。
「……まさか、シラン様?」
ファランは酩酊しているような状態だったはずが、奇妙に澄んだ瞳で少年をしっかりと見据え、操り糸の支えなしにしっかりと背筋を伸ばして座っている。表情もファランの時とは違う。どこか冷めていて、もっと落ち着いた雰囲気を、この少女はまとっている。ファランの身体でしゃべる、孤高のたたずまいを備えた魂。
「わたしはずっと、あらゆることを間違えていた。……そのことに気がつくのが遅すぎたのです。わたしはあれ以上、これ以上望まない。なぜ眠りから覚まそうとするの?」
「いいえ、いいえ! あなたは間違えてなどいなかった――あなたは素晴らしい方だった、僕は知っている! あなたの優れた力を、あなたの研ぎ澄まされた精神を、あなたの高潔な心を、あなたの甘美な魂を、ただ――」
「一体何を知っていると? わたしはお前に見覚えがない」
雰囲気の変わった彼女もまた、少年に対して硬く拒絶の態度をとり続ける。
しかし先ほどまでの何があっても相手にしていないような状態と違い、今の彼は彼女の一挙一動に顔を赤らめたり青ざめたりと忙しい。
「僕は――僕は、確かにそう……今は何も関係ないかもしれない、けど。蜘蛛が、教えてくれた。蜘蛛があなたのことを覚えていて――いろんなことを知っていた。蜘蛛は全部話してくれた。僕は――僕は、最初は何も持ってなかった。でも獣器が助けてくれた。――ねえ、僕はあなたと似ているんだ」
少年は冷たい言葉をかけられると、多少動揺するように心臓のあたりを押さえるが、何よりも驚喜の方が勝るらしい。うっとりと陶酔しきったまなざしで、自分が飾り立てた少女を視姦する。
「わたしは素晴らしい人間なんかではありませんでした。最低の女でした。だから、ああするしかなかったのです――」
少女は重たい徒労感に満ちた言葉を少年にかけ続け――そして突如、糸が切れたかのようにふっつりと黙り込み、がくりと頭を垂れる。
「ああ、シラン様!」
シランは――ファランは気絶しているようだった。
かけよって慌てて再び椅子に苦しくないように座らせ、世話を焼こうとし始めた少年が不意にぴくりと眉を動かし、表情のない顔で振り返る。
「……侵入者? しかも、獣器使いだと? このタイミングで……まったく面倒な」
どこか遠くの気配を探るように、目を細め、耳を澄ませた彼は独り言のようにつぶやく。
しかし良く聞いてみれば、親指の黒い指輪からカチカチと小さな音が少年に何かを告げるようにつぶやいているのだ。
彼は最後に一度だけ名残惜しげに気を失った少女の背を撫で、その足をうやうやしくとって何度も接吻すると、それで切り替えたように俊敏に動き出し、手早く自分の黒装束装備をととのえ始める。
「いいえ、いいえ、黒闇蜘蛛。もちろん最善は尽くしますが、踏み込んでこられる可能性も十分考えられます。儀式と平行で行うのは少しきついですが、僕たちで迎え撃ちましょう」
帯を締め、脚と手を覆い、上着と頭巾をあっという間に着込んで最後に仮面を装着する。
「獣器使いならば、万が一ぐらいには話が通じるかもしれない。そうしたら協力者が増えるだけ。でもね、別に理解されなくても全然構わないんだ。むしろその方がいいじゃないか、素晴らしい! だってほら、そうしたら殺す理由ができるでしょう? それに今気がついたんだ。僕以外の獣器使いが皆いなくなれば、シラン様に一番近いのは僕たちだ――ね、ね。そうだろう、黒闇蜘蛛?」
指輪を撫でながら発せられる彼の幼さの残る言葉には色濃い狂気がにじみ出ていたが、相方の蜘蛛はどこか嬉しそうに、いっそ満足だとでも言うように、牙を大きく鳴らして答えてみせた。




