凶鳥の片割れ 中編
野を越え、山を越え、谷を越え、川を越え、朝と夜を何度も繰り返し――ずっとずっと歩き続けると、少女はようやく大きな都にたどりついた。
一目で流民とわかる人間に、都人の目は好奇に染まっているか、冷たく凍えている。
彼女は臆さず、冷静に観察し、情報を集め、そして一人の人に会いに行こうと決めた。
その人は大層お金があり、身分もあり、けれどとてもお人好しで好奇心があると聞いたので、旅支度のまま身一つで、大きな御殿のような屋敷の扉を叩いた。
案内された先で出会ったのは、彼女と同じぐらいの年頃の少女で――名を、ルゥリィと言った。
シランは彼女の前に進み出て注意深く相手の顔をうかがい、大勢の付き人、仰々しい屋敷の調度品、豪華絢爛な衣装にくるまれて素直そうに輝く鳶色の瞳を見ると、丁寧に礼をしてからゆっくりと語り出した。
「わたしは元流民ですが、一族から勘当されてここに参りました。わたしが流民の知恵を外に広めるべきだと主張したからです。この身一つで出て参りましたので、帰るところも行くところもございません。あなた様はとてもえらい方で、なおかつ慈悲深いお方だとうかがいました。ぶしつけなお願いではございますが、どうかわたしを使っていただけませんか、お嬢様。けして後悔はさせません」
周囲は一斉にざわめく。
ルゥリィは急に言われて驚いたようだが、シランのどこか気品に満ちた態度を見ていると、年が近い事もあって親しみを覚えたようだった。
「あなた、とても大胆な方なのね。けれどけして愚かではないと思うの。今までお会いしたどなたよりも、静かで澄んだ綺麗な目をしていらっしゃるもの。あなたのような方に側にいてもらえたら、わたしは毎日が楽しくなると思うわ」
反対をしたものがいないわけではなかったが、言葉をかわすうちにすっかり彼女のことを好きになってしまったルゥリィは、強くシランを迎えることを訴えた。
シランはルゥリィに仕える下女の一人になり、最初は彼女の信頼を得ることに尽力した。
一月も経つ頃には、ルゥリィはすっかりシランの虜になっていた。
病弱で高貴な身分の彼女は幼い頃から外を自由に出歩いたことがなく、シランの語って聞かせる様々な話をとても面白がった。
また同じ話をするのでも、他の者よりシランが話す方がより機嫌良く聞くようになった。
ある日、二人でため息が出るほど美しい庭を歩きながら、ルゥリィは言い出す。
「わたくしはね、斎宮なのよ。斎宮ってわかる? 貴人がつとめる巫女のこと。笑っちゃうでしょう? お屋敷がこんななのに、巫女なのよ」
ルゥリィは、ないものなどない、と言い切ってもよさそうなほど広大で物にあふれた屋敷をぐるりと見回し、ため息を吐く。
彼女は恵まれているが、そのことをそれほどありがたがっていないのではないか、とシランは感じた。
シランは黙って聞いている。彼女はルゥリィが話したいときに邪魔をしたことがない。
「信心なんて薄い方なのに、病弱で、貴い血を引いているからとかで、小さい頃から神様の近くに引っ込められて……他の子が遊んだり勉強している間、ただただ祝詞を唱え続けて、ろくに好きなことをさせてもらえなかったわ。だから年頃になった今になって、こんな風に甘やかされているわけ。誰も皆、わたくしに本当のことを話してくれないの。わたくしを子どもだと思っているから。でも事実よね。わたくし、何も知らないんだもの。それなのに斎宮だから、わたくしが何か言うと神の言葉だってありがたがって――ああ本当に、馬鹿みたい!」
ルゥリィは振り返り、その真っ白な手でシランの薄汚れた手を取る。
「シラン、わたくしがあなたに側にいてほしい一番の理由はね。あなたはわたくしに嘘をつかないからなの。あなたの話すことは、しばしばとても恐ろしいわ。飢えや病気、争い、そして獣。わたくしはずっと、そういったものとは遠ざけられてきた。汚れるからって。でもずっと思っていたのよ。汚れなき人間なんているの? 生きていたら誰しも――だからあなたに側にいてほしいの。あなたはわたくしに、そんなこと話しては駄目なんて言わないでしょう?」
シランはじっとルゥリィを見つめてから、微笑んだ。
「お嬢様。わたしはあなたを選び、選ばれて、光栄に思います。やはりあなたは大事にされているだけのお人ではありませんでした。あなたになら、わたしの本当の目的をお話しできます」
「本当の目的? なあに、話して」
「お嬢様、魔獣の話はあなた様もいくらか聞いてらっしゃいますね? あの恐ろしいけだものたち。わたしはお話ししましたように、元流民です。彼らを封じる術を知っています、実行のための心得もあります。けれど彼らも強力で、わたし一人の力では封印はなしえません。わたしは魔獣達を封じるために、そのために力を貸してくださる方を見つけるために、はるばる都までやってきたのです。力と、心を持つ方を見つけるために――」
ルゥリィはシランの話を聞きながら、きらきらと鳶色の目を輝かせた。彼女がみじろぎすると、頭のかんざしのかざりが揺れてさらさらと音を立てる。
「まあ、シラン! なんてこと! 話してくれたってことは、わたくしはあなたに協力できるかしら?」
「はい、お嬢様。どうかお嬢様のお力をお貸しいただきたいのです。……ですが、その代わりに、ただ一つだけ、わたしも叶えていただきたい望みがあります」
「もちろんよ。お願いってなあに? 言ってみて?」
シランは一度ルゥリィから離れてから、膝をつき、あたりをうかがって他に人がいないことと念入りに確認してからその願いを口にした。
「流民に――わたしの一族に、どうか二度としいたげられない権利をいただきたいのです。わたしたちに、人として生きる権利をください。流れ者であるから、ただそれだけで、野良犬のようにさげすまれ、憎まれるのはつらいのです。わたしはあなたのために、あなたの愛する人々のために尽くします。あなたもどうか、わたしの愛する人々のためにほんのわずかでもお力を貸してはいただけませんか」
ルゥリィは目を見張ってから伏せ、考え込む素振りをした。
「シラン――あなたの話したことが本当なら、わたくしたちはとてもひどい人間だわ。わたくしは、同じ都人として人々の行いが恥ずかしい。一体どれほどのことができるかはわからないけれど、あなたの頼みなんだもの――絶対に、叶えてみせるわ」
シランは感極まったように息を漏らし、深く頭を垂れた。
その瞳には、一筋の涙が宿っていた。
シランとルゥリィは協力し、まずは魔獣退治をすすめていくことにした。
彼女たちは驚くほど馬が合い、ルゥリィはシランをたくさん重用した。
最初は流民であるシランが話の中心となることにとまどいや不審を見せた者達も、次第次第に彼女を信用するようになる。
シランは期待に応え、時には無謀と思えるような課題まで瞬く間に解決してみせた。
功績があればすべてルゥリィのものとし、自分はあくまで彼女の案の実行人に過ぎないという態度を崩さなかった。
一つ、また一つと成果を上げ、一匹、また一匹と魔獣達を特別な器に――獣器の中に封じて回った。
ルゥリィがシランを大事にし、彼女の活躍が増えるほど、周囲のシランに対するやっかみや嫉妬は増していく。
賢いシランは嫌がらせの類をまったく相手にせず、相手にもその機会を与えないように気をつけていた。
ルゥリィにも何度か自分を持ち上げすぎないよう進言したが、正義感の強いルゥリィは周囲の無理解に逆に憤り、ますますシランを守ろうとした。
シランはなるべくルゥリィにそういった場を見られないように苦慮するようになり、するとますますシランへのいじめは悪化していく。
彼女たちに味方がいなかったわけではない。
魔獣退治、獣器作成のために集めた中に、心強い理解者も何人かあった。
けれど、獣器のために集まった人々はけして一枚岩でなく、力を持っても心を伴わないような輩も中にはいた。
人が集えばその分いさかいは起こり、世間知らずなルゥリィにも異分子であるシランにも、やがて抑えきれないほどにふくれあがっていく。
(やめて)
順調なはずの魔獣退治がいつからか人々の争いに妨げられるようになり、ルゥリィとシランも互いを庇うあまり仲違いを起こしてしまう。
(それ以上、思い出したくない)
ルゥリィの庇護が薄れると、シランに対する風当たりはますます強くなる。
(そこから先は、嫌だ)
そして、ある日ついに――。
(いやだって、言ってるでしょう!)
ファランは渾身の力を込めて叫んだ。言葉にはならなかったが、勢いのおかげか頭の中に広がっていた見知らぬ映像や思考、感情達が途端に霧散し、視界がぼやけ――水音とともに、彼女はひっくり返りそうになる。
喉の奥に鉄の味が広がり、口を押さえて咳き込んでいると、誰かの手が倒れそうになる彼女の身体を引っ張って支える。
「おやおや、もう少しでシラン様がお戻りになられるところだったのに、抵抗してしまったのですか?」
むっとする香の匂いの中、ファランは痛む頭で自分の置かれている状況を理解しようとする。
見知らぬ少年。
香草のつけられた湯船につかる自分の身体。
混乱する頭の中。
――ここから逃げなければ、ととっさに思って動こうとする身体を、思いの外強い力を持つ細腕が押しとどめる。
「いけません、シラン様。湯浴みが終わったら、お着替えがありますから」
少年は邪気なく、邪悪な微笑みをファランに向かって浮かべる。
彼の背後で、大きな蜘蛛が牙を鳴らす音が小さく上がった。




