凶鳥の片割れ 前編
知らない誰かの目。
知らない誰かの記憶。
知らない誰かの世界。
――いつか、どこかであったこと。
どこまでも続く草原に立ち、青空を見上げていた。
輝く太陽の下にきらきらと透けて輝く遠くの翼を見つめながら、流民の幼子は傍らの男の袖を引く。しゃらり、と綺麗な音が鳴った。
「おとうさま、あれはなに?」
「あれ?」
「おそらをね、ふしぎなとりがとんでいるの」
「どこに?」
「あそこ。ほらー」
彼女が指さす方向に、男は手をかざして目を細め、それから笑って彼女を抱き上げた。
「それはきっと、私たちには見えない鳥だね」
「みえないの? おとうさまには?」
「ああ。お母様にも、他の皆にもきっと見えないよ。私たちの代では、お前以外には誰も彼を見ることができないんじゃないかな。曾祖母様の代にはいたらしいが……そういう、特別な鳥なんだよ。お前は幸せな子だね、シラン。神の寵愛を賜ったんだ」
彼女は大きな紫色の目を瞬いてから、きゃっきゃと機嫌よく笑った。
遠くでそれに応えるかのように、透明な鳥がほう、とゆっくり鳴いた。
――いつか、どこかであったこと。
本のページがめくれるように、はらりはらりと情景が過ぎていく。
最初の頃は本当にただただ幸せな記憶だ。
初めてのこと、初めてのもの。失敗もあったけれど、それすらも楽しく愛おしくて。
毎日が輝いていた。
お前は本当に出来た子だね。恵まれた子だね。幸せな子だね。
父が、母が、家族が、周囲が彼女に向かって声をかけ、水を吸う土のように彼女は幼い頃から貪欲に知識を吸収し、技を高めていく――。
そのうち、また急に一つの時、一つの場所で景色が止まった。
はるかかなたの地平線に向かって太陽が傾いており、草原はほんのり茜色に染まっている。
少女が――以前より少し大きくなった少女が空を見上げていると、鳥が上空をほんのり赤く染まりながら飛んでいく。
それを見送って、彼女はきびすを返した。
しゃらりしゃらりと衣装についている飾りが歩く度に音を立てる。
荷馬車の集まっているあたりまで戻り、夕飯の支度をしている人々と挨拶を交わし、子ども達の遊びに軽くつきあってから一つのテントへと入っていく。
間もなく暗くなっていく事を見越してか、室内にはうすぼんやりした明かりが灯っていた。意外にも簡素に整理されている族長のテントをぐるりと見回してから、彼女は奥で新しい細工物を作っている男に声をかける。
「お父様」
「なんだね、シラン」
彼は作業を続けようとしたが、娘が入ってきて自分の前に座ると、一度手を止める。彼女が真剣な顔をしていたからだろう。
少女は紫色の目をじっと父に注ぎ、静かに口を開いた。
「わたしたちはなぜ、まわりの人々からしいたげられねばならないのですか? なぜ行く先々で、こわい顔をされ、石をなげられなければならないのですか? わたしたちが彼らとは違うからですか? それはいけないことですか?」
少女は父親に向かって、はきはきとした言葉を投げかけ続ける。
彼女の外見は一族の特徴をよく反映していた。
真っ白な肌、紫の目。それは、彼らが訪れる町の人々とは大きく異なっている。それに加え、少女は母に似てとても美しい。しかしひとたび町に行けば、一族では喜ばれるそのすべての特徴が罵声の対象となる。
族長は――父は彼女の質問にしばし黙ったまま考え込み、やがて頭を振ってゆっくりと答え出す。
「自由であるということは、そういうことだ。彼らは土地に縛られているが、その土地に守られてもいる。我々はどこにも縛られないが、誰も守ってくれない。シラン、そのうちお前にもわかる日が来る。流民が悪いのではないように、定住者もまた悪ではないのだ」
少女は唇を引き結び、ひとまずは父の言うことにうなずいて引き下がる。
そういえば夕飯がそろそろできあがりそうなのよ、と彼を伴って外に出た彼女は、再び空を見上げた。
「お父様、鳥が飛んでいるわ。さっき行ってしまったはずなのに、わざわざもどってきたのかしら」
首をかしげる彼女の視線を追って、父は目を細め、彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
「シラン、お前は幸せ者だね。私たちの大切な、神の寵愛を賜りし者よ」
少女は素早く父を見上げた。
その顔にはありありと不満が浮かんでいたが、結局黙ったまま、ぎゅっと拳を握りしめて終わった。
――いつか、どこかであったこと。
再び時がばらばらと過ぎ去っていく。
この頃になると、知識がもたらすものが楽しみだけではなくなってきた。
なぜが増えても、答えてくれるものが少なくなっていた。
彼女は誰よりも理解が深く、ゆえに時折誰とも話ができなかった。
見上げた先にある鳥の見た目をどんなに説明したところで、結局彼らにはあれが見えないのと同じように。
少女は次第に、鳥の出現について周囲に報告することが少なくなっていった――。
また、ある一点で時が止まり、ゆっくりと流れ出す。
すっかり静まりかえった草原は星のカーテンの下でさわさわと揺れていた。
雲一つなく輝く夜空の中を、うっすらと影が飛んでいき、ほう、ほう、と音を立てている。
それを見上げていた少女は、ふと視線を下ろすと、立ちすくんでいた目の前のテントに入っていく。
「お父様」
「なんだね、シラン」
夜も更けているというのに、彼女が訪ねてくることを予感していたとでも言うのだろうか。
すっかり白髪の増えた長老は、寝支度を整えながらも机の前に座り、彼女がやってくると皺の増えた顔を上げた。
昔と比べて大分大人びた面立ちになってきた彼女は、一度息を吸い込んでから、おだやかな微笑を浮かべて話を切り出す。
「わたしたちは、一所にとどまらず、色々な場所を歩いて生活していますね。そのために、あらゆる知識を持っています。その中に、魔獣に関するものがあります。魔獣は普通の獣よりも強力で、人にとって脅威です。けれど、わたしたちにとってはもっと身近なもの。この知識を他の人に分けることは、わたしたちのためにはなりませんか。わたしたちは秘密主義が少々過ぎると思うのです」
きらきらと目を輝かせて話す美しい娘に、族長は思いため息を吐き、つとめて優しい声で答えようとする。
「シラン、お前はまだ若くて心優しい娘だ。今は周囲に対する哀れみと憎しみや、自分の自尊心と折り合いがつかないのかもしれない。しかし、我々の秘術は公にしたらより多くの不幸を招く、そういうものだ。お前もきっと、いつか必ずわかる時が来る。彼らを我らの思い通りにできるものと思ってはいけない」
少女はぴくりと目元を一瞬ひきつらせたが、すぐに笑顔を保ったまま聞き返す。
「なぜですか、お父様。人はわたしたちの事を邪魔に思っています。だから平気でひどいことをする。わたしたちの知識は、彼らにとってとても役に立つもののはずです。そうしたら、周囲の人だってもう二度とわたしたちを疎まないでしょう、さげすまないでしょう。
わたしはもう、母のような人を、姉のような人を、弟のような人を、そして叔父のような人を、二度と一族から出したくありません。力を、知識を、わたしたちを守るために使うことはできないのですか。それとも人よりあの獣達の方が尊いとでも言うのですか」
すらすらと述べる彼女の言葉に、老いた父は痛ましげに何度も首を振ってから返す。
その言葉には昔ほどの強い響きはない。けれど、どこか最後の一線を越えない、というような不思議と強い意志が感じられた。
「わたしたちは、確かに少し多く獣達について知っている。共に生きる隣人のようなものだから。でも、わたしたちが知っているのは、本当にほんの少しだけだ。そこにおごってはいけない。まして、獣をすべて悪とし、わたしたちをすべて善とする見方は間違っている。
シラン、シラン。賢い娘、可愛い娘。同じように、誰かを一方的に悪いと思って、誰かを一方的に善いと思ってしまうのは危険だ。人を、獣を、世界を恨んではいけないよ。誰もが皆、一生懸命生きているだけなんだ」
「では、わたしたちの家族が殺された事は? 母は町で盗みを疑われ、棒で酷く叩かれたのが原因で死にました。彼らが一生懸命生きていたから? 弟は食べ物にありつけなかったせいで病気になり、薬をもらえずに死にました。彼らが一生懸命生きていたから? 姉はその弟の薬をくれると言った男の人達に連れられ、そのまま帰ってきませんでした。……彼らが一生懸命生きていたから? 叔父は魔獣の一つに喰われ、叔母達はおかげで働き過ぎで身体を壊しました。彼らが一生懸命――もうたくさん! あなたはあれに、あれらのことに、なんとも思わなかったと言うのですか!?」
父の言葉に早口で言い返す娘は次第に語気を荒げ、ついに最後は机を叩いて激昂し、立ち上がって父を見下ろす。
長老はしょんぼりとうなだれたまま、手を組み、それでも彼女にたしなめる言葉をかけ続ける。
「……お願いだ、わかっておくれ。仕方のなかったことなんだよ、シラン。仕方がなかったんだ。誰を恨んでも、いいことなんてない」
彼女は怒りを顔ににじませたまま、テントを出て行く。
見上げた星空は相変わらず美しかったが、今はにじみかけた涙で曇って見える。
彼女はぐっと目元を乱暴にぬぐってから、テント裏に座り込んで足を抱える。
(誰もが一生懸命生きているのは、まだ理解します。生まれにある程度従わなければいけないという理屈にも。けれどなぜ、わたしたちだけが一方的にすべて我慢しなければならないのですか? わたしたちの在り方は、そんなにも罪深いと言うのですか? 獣とはわかり合えない。ならばせめて、人とはわかり合いたいと思うわたしは間違っているのですか)
遠くの空では、鳥が鳴き声を上げている。
彼女が見上げると、もう姿は見当たらない。ただ遠くから声だけが聞こえてくる。
少女はふっと顔を自嘲にゆがめた。
「お前はいいわね。自由で、何も考えずに飛んでいけるだけで。なのにわたしたちとお前では――何もかも違いすぎると思わない?」
ほんのりと暗い光が紫色の瞳に宿る。
鼻をすすり、つぶやいても、彼女の言葉を聞く者は誰もいなかった。
――いつか、どこかであったこと。
流民達が、大きなテントの中に集まっている。
中央の布団には長老が寝かされ、苦しげな呼吸を続けている。
彼は傍らで薬草を煎じたり湯を沸かしたり汗をぬぐったりと忙しい娘に向かって手を伸ばす。彼女が気がついてそっと取ると、彼はもごもご弱った口を動かした。
「シラン。どうか、幸せになっておくれ。わたしたちの、愛しい……」
それを言い終えると、ばたりと手が落ち、彼の身体から力が抜けた。
沈黙が場を支配してから、誰からともなくすすり泣きの声が漏れ出す。
それをしかるように言葉をかけてから、娘は父の瞼を閉じ、くゆる煙の中で弔いの言葉を朗々と唱え始める。
彼女の目には、もう涙は浮かんでいなかった。
(違う、違う。こんなのは、わたしの記憶じゃない。わたし、こんなこと知らない。わたしは、ファラン。シランなんかじゃない――)
現世の少女のささやかな抵抗はすぐに渦に飲まれ、頭の中にまた別の情景が浮かび上がる――。
「本当に、行ってしまわれるのですか?」
早朝のまだ日も出ていない暗い草原。
馬にまたがり、旅支度の装いをした少女に向かって、流民達が集まっていた。
「シラン様までいなくなってしまったら、我々はどうすればいいのでしょう」
「次の族長がいなくなってしまいます」
「あなたほど秘術に精通した方はいらっしゃいません。どうか考え直してください」
口々に不安を告げる彼らを見回し、少女は柔らかなまなざしを向ける。
「愛しいわたしの家族。父が生きていたら、わたしのことを許さなかったかもしれません。けれどわたしは、自分が生まれてきたことを後悔したくない。わたしたちにはもっと良い道があるはずなのです。それを探しに行きます。皆様に不孝とならないよう、わたしは誠心誠意尽くして参ります。わたしのことはもう亡き者とお考えください。もしもすべてがうまくいって願いが聞き届けられたのなら、そのときだけ戻ってきます」
なおも少女をとどめようとする人々を、腰の曲がった老婆が前に出てきて止める。
「ここで、この時期に次の族長となるべき方が旅立たれるのもまた導きかもしれませぬ。旅路は困難だらけでしょう。しかしあなた様は我らの希望。ゆっくりと滅びていく一族にいるよりも新たな場でのご活躍を祈るのが、せめて我らにできること……」
年配の老婆に言われると、渋っていた人々もやがて反対の口を閉ざし――彼女との別れを決意する面持ちになる。
「シラン様、どうかお達者で」
「お元気で」
「お幸せに、神の寵愛を賜りし人よ」
順番に一人一人と手を握って言葉を交わしてから、少女は愛する故郷を後にする。
振り仰げば、空には鳥が飛んでいる。
彼女はもう、それに向かって声をかけることはなかった。
一族のために魔獣達を――神の寵愛とやらを売ることを、決意したのだから。




