かしましい朝
かつて世は人の手に余る魔のけだものどもで満ちていた。
通常の獣よりはるかに身体も大きく、特別な力を宿すそれらは、都を破壊し、里を襲い、田畑を荒らし、天を、地をかき乱して思うまま暴れ回り多くの死者を出した。
あるとき、ついに一人の賢人が、けだものどもをうち倒すべく人の中から立ち上がった。
賢人は集った選りすぐりの術士達の力を借り、次々と特別な器――獣器の中にそれらを封じて回った。
ほとんどのけだものは、彼女と彼女の勇敢な仲間の前に屈し、人の世にはおおむね平和が訪れた。
しかし彼らの全力をもってしても、ただ一つの存在だけは終ぞ鎮めること、器に収めることがかなわなかった。
見えず、聞こえず、匂わず、味わえず、触れることも許されない、孤高のけだもの。
次々と仲間達が倒れる中、賢人はその災厄をもたらす存在を追い続け、何度も戦い、最後には自らの命と引き替えに呪いをかけ、ついには国から追い払うことにも成功した。それだけのことをしても、一時的に退けることしかできなかった。
賢人は死の間際、人々に警告を遺している。
あれは、けだものの王は、必ずまた戻ってくる。
獣器が彼を呼ぶ限り、けだものどもが楔から解き放たれる時を望む限り。
人よ、私の死の後、翼を持つ女子――凶鳥の片割れを探せ。
見つけて、これを確実に封ぜよ。
さもなくば、かの凶鳥は再び天空を舞い、地上に地獄をもたらすであろう。
ゆめゆめ忘れることなかれ。
情をかけることなかれ。
その子は災厄の子、惨事の招き手、大過を犯す不幸の使徒なり。
――そして彼女は死んでいった。
それから、三百年ほど時が過ぎようとしていた。
* * *
爽やかな朝の宿に、騒がしく声が響き渡る。
「シド、シド、シード! 起きて、起きてよ、はーやーく!」
かしましく声を上げているのは一人の少女である。
勝手知ったる顔で男の寝ている部屋に押し入り、掛け布団をひっぺがしてべしべしと勢いよく叩いていた。
年は十四。髪は黒、長さは顎の辺りで切りそろえられていて、片側に大きな蝶の髪飾りをとめている。目の色は状況によって赤にも青にも黒にも見える深紫で、きらきらと活発に輝いていた。古着を自分で仕立て直してぴったりサイズに合わせた着物に瞳と合わせるかのような藤色の帯を締め、それでいて男の子のように短い膝上の裾がひらひらと揺れる。
彼女こそ、その昔男達に追われ、熊のような男に助けられた山奥育ちの訳あり娘である。
対して彼女を拾った方、顔に傷のある男は、早朝にのっそり起きて少し活動した後、寝床にのそのそ戻ってきて今まで惰眠をむさぼっていた。上着と靴を脱いでいるのは寝ていたからだろう。短い袖のシャツからのぞく太く毛深い腕は、少女の朝っぱらからの猛攻に耐えられなくなったのだろう、かばうように顔を覆う。
「るっせえな、んなにキャンキャンわめかなくても聞こえてるっつーの」
男は不機嫌そうなどす黒い声を上げるが、少女がひるむ様子はない。今や寝床に転がる男のさらに上にちゃっかり座りこんで、小山のような身体をぺちぺち叩きながら見下ろしている。
「返事しないからでしょ、シド。おはよう」
「うーん……」
「おはよう、シド!」
「わめくなっつの、早いなテメエも。つーかなんなんだよ、朝っぱらからよ……」
「今日は晴れるからお洗濯するの。あともう朝って言っても午後に近いから。起きて」
「はあん、いつものお告げか」
「そう。わかったら早く出して。あと起きて。ほーら、ほーら、は・や・く!」
「うわっ何するんだ、やめろ俺の上で跳ねるな、わかったわかってるよ、あっちだっつーの!」
シドはうなりながら部屋の隅を指さした。そこには彼が昨日まで来ていた物が積み上げられている。
すると彼女はぱっと男の上からどいて、傍らにあったかごをひっつかむと、部屋の隅まで走って行ってせっせと男の服を回収し始める。ついでに彼が散らかしっぱなしの部屋の私物も、せっせとたたんだり片付けたりしていた。彼が寝起きにぶつぶつ文句を言うたび、彼女はそれらの作業を続けながらも必ず元気に言い返す。
「ったく、チビの頃は気にもならなかったけどよ、重たくなってからもやりやがって、腰に来たらどうすんだっつーの」
「わたしそこまで重くないもん、シドだってこの間軽いって言ったもん」
「本当ふてえ跳ねっ返りに育ったもんだ、誰だこいつをこんな女にしたのは」
「跳ねっ返りにした張本人が何か言ってるのが聞こえるっ」
「最近じゃ俺が何言ってもなーんも聞きやしねえだろうが、カカアみたいにでかい顔しやがって」
「シドがだらしないからでしょ?」
「昔は黙って黙々と言われたことやってた時もあったのによ。あーあの頃は可愛かった――っておい、ファラン!」
ようやく寝台の上で起き上がり、首を振り、大きなあくびをし、首に手を当ててゴキゴキと鳴らしながら少女を恨めしく見やった男だが、彼女が出て行く寸前に手元に視線を向けるとぎょっとした顔になって止める。彼女は立ち止まって振り返り、小首をかしげた。
「何しれっと行こうとしてるんだ、待ちやがれ」
「なによ」
「それは持ってくな」
「洗い物でしょ?」
「分けといただろうが。そっちの山は俺が自分でやる分なんだよ」
「どうして」
頬を膨らませた少女に向かって男はやれやれとでも言うように深く息を吐く。すると彼女は彼の視界の外でにわかにますます機嫌を悪くしている。
「……下着だ」
「だからなに」
「お前な、年はいくつになった」
「十四。シドの二十三歳下」
「俺のことはいいんだよ」
明らかに説教モードの男だったが、彼女が質問にすらすらと答えた上余計な事まで付け足したので、眉間の皺を増やした。
すると少女の方は洗濯物の山をしっかり抱え込んだまま、今度は逆にしてやったりと喜んだような、小生意気な顔になる。しかしそんな顔をしていても大層愛らしい。
男の渋面がますます悪化する。
「そろそろ勝負酒は控えた方がいいと思うよ、シド。この間二日酔いがひどかったでしょ。飲み比べの時はなんでもありませんって顔してたけど、その後裏で吐いてたの知ってるんだからね。眠りこけたシドの代わりにわたしが掃除したんだから」
「るせぇよ、俺の勝手だろうが。それともなんだ、俺の弱味でも握ったつもりか?」
「よくない。シドには長生きしてもらうって決めてるもん。それにいくら鍛えてたって強くたって、年には勝てないんだよ、老化を止めるのには限界があるんだよ、わかってる?」
年には、の辺りが琴線に触れたのだろうか。
ぴくぴくこめかみを引きつらせながらも腕を組んだままだった男が、寝台を叩いて吠えた。
「他の連中から何余計な事吹き込まれた知らねえが、俺はまだ四十前だっつーの! ったくこれだから若い奴はすぐ調子乗りやがって、覚えとけよ! テメエだって油断してるとすぐババアになるんだからな!」
「シドより先にはならないもーんだ!」
「何と張り合ってるんだよこの馬鹿――おい、ファラン、ファラン!」
少女は男の大声をかわすように身をすくませ、翻し、パッと部屋から駆けて行ってしまう。
その手に、男の洗濯物の山――当然下着も入ったままだ――を抱えて。
慌てて寝台から起き上がり、散らかっている宿屋の部屋を大股で横切って扉までやってきた男だったが、廊下に顔を出すと既に少女の姿はない。身体の小ささのせいか、やけにすばしっこい奴なのだ。
代わりに隣の部屋からひょっこり扉を開けて顔を出した青年が、シドに向かって愛想良く手を振った。
「おはよーございますシドさん! 今日も若い美人さんとおさかんっすねー、うひゃひゃ、うらやましいっすよー!」
のんきな知人の挨拶を受けた時には怒る気もせず、「うるせえよ……」とシドはがっくりうなだれる。その後さらに話しかけてこようとする隣人を放置して、身支度を調えるために一度部屋の中にのっそり戻っていった。