砕かれた蝶々
山道を駆け上がりながら、シドは深く息を吸い込み、叫ぶ。
「ファラン!」
木々を、空気を震わせる声に対する応答はない。
山は、森は、不気味なほどに静かだった。
「ファラン!」
ナーク――正確には青水蛇――の様子や状況から判断するに、彼らは何者からか襲撃を受けたのだろう。
ならば、まだ襲撃者が潜んでいるかもしれない場所で、こうやって己の存在を主張することは、本来悪手ですらある。
それを思い出させるためだろうか、彼が叫ぶと紅炎熊が反応するかのように、ほんのり熱くなる。
しかしシドは走りながら叫ぶことをやめない。
冷静な思考が頭の片隅に残ってはいる。それよりも圧倒的な、熱の塊のようなものに身体を突き動かされる。
居場所がばれる? 知ったことか、むしろ手間が省けるからさっさと出てこい。
そう思いながら突き進んでいくと、やがて紅炎熊の呼びかける声も消える。
いつも通り、シドに任せてゆだね、自分は手伝いに徹することに決めたのだろう。
理解の早い相棒にシドは感謝し、ねぎらうようにぽんぽんと叩いた。すると獣器も応えるように熱を持つ。
静かな迎撃姿勢を維持しつつ、わざとらしく存在を主張して走って行くと、案の定木々の影から黒い塊が飛び出してくる。
それに走り様、言葉もなく解放した紅炎熊の炎をたたき込んだ。
長年の経験と勘で、燃え切っていないと感じたらしばし足を止め、様子を見てから焼き尽くし、そのまま朽ちると思えば見守ることもなく突き進む。
いささか無情に過ぎるように思える処理なのは、向かってくる者達にまったく生気を感じないからだ。
木偶が何体も飛びかかってきてうるさい、と顔をしかめながらシドは走って行く。
間もなく見覚えのある光景が――山小屋が見えてきた。
「ファラン!」
もう一度深く息を吸ってから大声で呼んで耳を澄ませるが、返事の気配はない。
小屋の中に駆け込むように飛び込んで、すぐに手に引っかけていた荷物をその場に落とし、飛び出す。
室内はぱっと見た限り、それほど荒らされた形跡がない。また、沢で釣りをするような道具が見当たらなかった。ならばそっちに向かっていったとひとまず推測をして、すぐに向かう。
(最短距離をと思って山道を突き進んできたのが裏目に出たか。あのまま川を上れば良かった)
密かに舌打ちしつつ草場を踏み分けたシドは、急に速度をゆるめ、やがて立ち尽くして絶句する。
沢に向かう小道の途中に、見覚えのある物が散らばっている。
それは魚籠であり、小さな網であり、釣り道具であり――そして、見覚えのある布だった。
ふらふらと近づいて拾い上げれば、無造作にうち捨てられているのは切り裂かれた女物の上衣――昔、古着屋でシドが選んでやり、その後ファランが丁寧に繕ってはいつも大事に着ていたはずのものだった。
しかも上衣だけではない。
とても見覚えのある、彼女をよく包んでいたはずの布きれ達が――よく見ると靴までも――どれもばらばらに切り刻まれて、山の小道の中に乱雑に散らされているのである。
ぶくり、とシドの首元に力が入って膨らむ。
血走った目で周囲をさっと見渡すが、中身はどこにも見当たらない。
肩を怒らせたままさらに川に向かって歩き出そうとしたシドは、再び急に立ち止まり、かがみ込む。
それは、彼女の頭をよく飾っていた蝶型の髪飾りだった。
ファランは整った顔立ちをしていて、旅の最中はおしゃれとは無縁の生活をしていたことが多かった。
けれど機会があれば必ず蝶の髪飾りを取り出して、せっせと水鏡に映したり、女衆のかしましい意見を聞いたりして、いつまでも飽きもせずに付け直していたものである。
蝶の髪飾りは、彼女の八つまでの育ての親である尼僧の形見でもあった。
老婆と幼子の貧しい二人暮らしの中、どこでどういう伝手を得てもらってきたものか、尼僧はファランにそれをよこしたのだと言う。
ファランがいつも大事にしていた、時折一生懸命磨いてはことあるごとに身につけたがった、大切なお気に入りの髪飾り。
それが、切れ切れの布達と同じように、ばらばらに砕けて道に落ちているのである。
さながら、蝶の死骸のよう――そしてファランの抜け殻達を象徴しているような、むごい有様だった。
どうやら一度うち捨てられた後、それで壊れなかったからと念を込めて強い力でたたきつけられたらしい。たとえば、足で踏みつぶしたとか――。
シドは歯ぎしりするほどに両顎を強くかみしめたまま、そっと懐からたたんだ小布を持ち出し、その中に蝶の残骸を一つ一つ丁寧に、それでいて素早く拾い、包みこむ。
終わると立ち上がり、そっと左腕を撫でた。
「紅炎熊」
小さく呼びかけてみるが、相棒に反応はなく無言だ。
ということは、ファランも残党も周囲にいないのか。
そう判断してくるりときびすを返そうとしたシドの側の藪ががさごそと揺れる。
無言で左腕を突き出した彼の前にひょいと現れたのは、見覚えのある細目の顔だ。
「だから、待てと! 言うただろうに、まったく! 川流れの次は全力疾走の山登りと来た。連れは明日が怖いな、これは動けんぞ。脚はそこそこ鍛えられているが、川泳ぎは全身使うものでな。まあ我のせいではないが、小僧は納得するかのう……」
ぶつくさ文句を言いながらも、ちゃっかりシドを追いかけがてら自分達の荷物も回収してきたらしい青水蛇に、シドは鼻を鳴らして腕を組み、にらみつける。
「ここで何があった」
「さて、小僧は貴様を探しに行くところで山を下りる途中だったからな。娘っこの方がどうなっていたのかまでは、我にもわからぬよ」
青水蛇は小道まで出てくると、広がる惨状を目にしてこれはひどい、と軽く肩をすくめる。人間に比べると大分反応が薄いのは、やはり身体を借りていても彼が魔獣だからなのだろうか。ともかく、シドがじっと熱い視線を注いでいると、うながされるように口を開く。
「蜘蛛の襲撃を受けたのよ。貴様も先ほど散らしていたがな。連れが戦好きなら我も相手をしてやらんこともなかったのだが――まあ、元々これなもので、逃げの一手よ」
蛇がひょろっこい自分の主の身体を叩いているのを尻目に、シドは再びしゃがみこみ、切り刻まれた布にもう一度手を伸ばす。今度は一つ一つ拾い上げながら、裂かれた切り口をなぞったり、見比べたりしている。
(ずいぶんへたくそな切り方だな。獣器を使ったというより、こっちは本物の刃物でやったんだろう。血の匂いが全くしないのは、素直に喜んでいいことなのか? たぶん、服を脱がされて連れて行かれたんだろうが、それにしては――)
蛇が後ろからひょいっとのぞき込んでくるのをなんとなく背中で察したまま、彼は観察と推測を続けつつ、無造作に質問を投げつけた。
「蜘蛛だと? そいつも獣器か? 虫が獣器にいるなんて初耳だがな」
「それはそうだろう。末席も末席、子器と同類とみなされて当然の奴だからの。どうやら三百年越しの下克上のつもりらしい、執念深いことだ。しかも主に恵まれたようでな――いやはや、奴と馬が合うなんてよっぽどの性悪に違いないぞ、現にこの有様よ」
蛇は嘆いているような、面白がって茶化しているような、ナークにどこか似た調子でしゃべっている。
それにしても微妙にシドと会話がかみ合っていない感じはあるが。
「しかしやはり所詮は虫けら、何もわかっていない。何にせよ目論見は失敗するだろうよ。我は放っておいても構わないと思うがね、熊よ」
そう思っていたら、どうやら蛇はずっと紅炎熊の方に語りかけていたらしい。
人の身体を使って図々しい奴め、と思っているシドの左腕で、そっと熊が語りかけてくる。
――シド。
やはりシドの獣器は、蛇に応えることもなく、ひたすら主の決断を待っているようだった。こっちもこっちで徹底している。
シドは鼻を鳴らし、素早く地面に散らばった布きれ達をかき集めながら断言した。
「放っておく? 冗談じゃねえよ、ファランが連れてかれたんだぞ」
手早く集めたファランの落とし物を、一度小屋までとって返して丁寧にしまい込み、今度は魚籠や釣り道具たちを片付けようと戻ってくると、座り込んだままの蛇がつと目を細めた。
「人間が度しがたいのは元々だが、我にはお前も十分奇っ怪だよ、熊や。そうしたところで小熊が戻ってくるわけではなかろうに」
うなり声のようなものを左腕から感じて、シドは驚き、思わず身構える。
紅炎熊が、感情のようなものを、それも不快感のようなものを示したのだ。とても珍しいことだった。
蛇は冷たい目で左腕をにらみつけていたが、そのうち目を閉じる。すると呼応するように紅炎熊の熱も引く。
そこに風が一つぶわりと吹くと、がくりとナークの頭が落ちるが、すぐに本人がそれをとどめ、いかにも重たそうに額のあたりを押さえた。
「――うう、ひどい頭痛……一体、何が、どうなって」
「ナーク、戻ってきたのか」
(あの野郎、本当気に入らねえ奴だ。一方的に好きなだけ言い捨てて、代わりやがった)
シドは内心蛇に向かって舌打ちするが、獣器に身体の支配権を渡して消耗しているらしいナークをそのまま放っておく気もないらしく、とりあえず様子を見るように側に膝をつく。ナークはぼんやりと細目の焦点をシドに合わせた。
「あ、れ。シドさん? ――ファランちゃんは!」
「出遅れた、もう連れて行かれちまってる。青水蛇から蜘蛛の襲撃があったことは聞いた。ただ、奴の話し方だとわからないことだらけだ。お前の口からもう一度、何があったか説明できるか」
慌てて立ち上がろうとするのを手でとどめたシドが促すと、頭を押さえたまま、ナークはゆっくりとしゃべろうとする。
「蜘蛛……そう、おれっち、あいつの手足からなんとか逃げて、川に――」
「手足ってのは、木偶人形みたいな奴らか? 道中で燃やしてきたんだが」
「さっすが、乱暴者ぉー……そっすね、おれっちには……あれは、人間の死体みたいに思えたっす」
ナークは震えて両手で自分を抱きしめるようにしながら言うが、そうだろうと思っていたシドは特に感動なく流す。
「あとあいつ、シラン様って何度も言ってて」
「シラン? なんだそれは」
「三百年前に獣器を作った本当の人間の名前らしいっす。その転生体が、凶鳥の片割れなんだと。彼女の無念を、今こそ晴らすんだと――」
ナークはその瞬間、シドから無言で立ち上がった怒気に気圧されたらしく、ひっと息を呑む。
「ファランは、だから連れて行かれたってのか。蜘蛛とやらは、ファランに無皇凰を使わせるつもりなのか、それが目的だってか」
かすれた低い声で言うシドの目はすわりきっている。ナークは震えながら、そっと言葉をかけた。
「シド、さん」
「状況はわかった。止めて、連れ戻す。手伝え、ナーク」
「シドさん、駄目だ」
「うるせえ、邪魔すんなら俺一人で行く――」
「違う、相手は子どもだ、正真正銘ガキなんだよ、蜘蛛の使い手は!」
ナークの叫びに、さっさと見切りをつけて歩き出そうとしていたシドの身体が硬直する。
ナークは肩を荒げたまま何度か呼吸を繰り返し、少し落ち着いたところで改めて言った。
「あんたに子どもは殺せない。紅炎熊にも。だから、無理だ」
情報屋でもあるナークが、シドの有名な噂の一つを知らないはずがない。
赤い熊は、子どもを殺さない。奴は子どもに甘い。
事実、シドは今まで子どもを手にかけたことはないし、どれほど汚れ仕事に手を染めることがあっても、子どもを殺す依頼だけは受けなかった。
ファランと過ごすようになってからは、特に。
瞬き一つすらせずに止まっていたシドだが、一度風が強く吹いて手の中の魚籠をさらっていこうとすると、それをきっかけに再び動き出す。
ナークも、その後を追うようにゆっくり立ち上がった。
「シドさん」
「人の事、殺人鬼みたいに言うのはほどほどにしてもらおうか。別に殺さなくたっていくらでもやりようはある」
「でも、あいつは話の通じるタイプの人間じゃなかった――それが、ヤバすぎる力持って暴れてるんだよ」
「だったらなおさら拳骨くれてやんねえといけねえだろうがよ、年長者の仕事だ」
「シドさん――」
「俺ァな!」
怒鳴るように振り返ってから、シドはゆっくり息を吸い、今度は落ち着いて、肩を下げてから話し出す。
「俺ァ、正直まだファランに答えが出せてねえ。あいつの顔見ても何言ったらいいかなんてわかんねえ。しかも約束破って一度は背中向けて逃げ出したろくでなしだ、もう愛想尽かされててもしょうがねえ、むしろ尽かしていてほしいぐらいだ。……けど、こうなったら迎えに行ってやるしかねえだろうが。俺しかそういう奴がいねえんだ、あいつは」
言い終えると、シドは口を開いたままのナークをぎろりと強くにらみつけ、小屋に向かって歩き出す。
その後ろ姿が遠ざかりかける時になってようやくナークははっとすると、慌てて走り出しながら呼びかけた。
「ま、待つっす! 一人でかっこつけてんじゃねっす、おれっち別に、手伝わないなんて言ってないっすよー!」