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悩む熊と川流れの蛇

 シドが特に意味もなく、何度も川で顔を洗っていると、左手がほんのり温かくなった。耳の奥がゆらりと揺れる。


 ――シド。


「……珍しいな。なんだよ」


 片腕の相棒に応じるが、熊の獣器はほんの少し自己主張すると、あとはしらんぷりな顔をしてしまった。

 シドは嫌な顔をしてから、ため息をつき、ぶんぶんと左腕を振る。


「話すならちゃんと最後まで言ってけよな。それともなんだ、お前もいい加減、ケリつけてこいって言うのかよ……」


 紅炎熊グエンジュ青水蛇スィーダと違って、かなり無口である。

 どこまでが獣器の個性なのかは不明だが、シドがどれだけ悩んでも、唸っても、彼の左腕の相棒は基本的に静かに見守るのみだった。

 ただ静かに決断を待ち続けるが、一度シドが動き出すと一緒についてきて手伝い、終わるとまたひっそり戻っていく。文句を言われたことはない。紅炎熊グエンジュはいつでも黙ってシドに付き従う。

 そういう意味では、非常に都合のいい道具だった。


 疑問に思わなかったわけではないし、もっと知りたいと思ったことも、かつてはあった気がする。

 が、どれほど問うても一切答えてくれないので、シドもそのうちそういうものかと思って接するようになった。


 紅炎熊グエンジュは恐ろしく無口だし、コミュニケーションに関してかなり消極的ではあるが、元が魔獣のこの獣器は、実は人間並の知能を持っているのだろうとシドは推測している。


 シャオシーオン。

 最初にそう呼びかけられたときは、まったくわかっていなかった。何か、鳴き声の一種だろうと思っていた。


 シャオシーオン。

 出会ったのははるか昔。一面の赤の中、皆が死んでいく中で、自分の耳に響き続ける音があった。

 シャオシーオン。

 ――ここに来い、自分を使え、と言うように、何度も幼い少年に向かって夜盗の腕で光っていた獣器は呼びかけた。

 彼はそれに従い、そうして紅炎熊グエンジュを手にして生き残った。


 もう、何十年も昔の話だ。



 小熊シャオシーオン

 紅炎熊グエンジュの呼びかけが意味を持つ言葉だと知ったのは、もう少し大きくなってからだ。

 あてる漢字を知った少年時代――もうそのときには少年傭兵としてある程度名前が売れていた――のシドは、一瞬きょとんとしてから、顔をしかめてぼやいた。


「おい、俺ァ熊じゃねえぞ。シドだ」


 熊は何も言わなかったが、それ以来呼びかけてくるときは必ず「シド」と言うようになった。


 だから、こちらの言うことを理解していたり、自分の意思のような物を持っていたりはするのだろう。

 それにしても蛇のようにペラペラしゃべらないから、何を考えているのかはまったくわからないが。



 ――シド。


 彼が再び無意味に水の中に手を突っ込もうとすると、たしなめるように獣器が呼びかけてくる。

 手すさびを封じられた男は、いかにも腹立たしげに悪態をつきながら髪をかきむしった。


「じゃあ、どうしろってんだよ……」


 シドが今うだついている川を上っていくと、そのうち山小屋にたどり着く。

 彼がファランを置いてきた場所だ。

 ナークはうまく見つけられていないが、意外にもシドはこんなに近くに身を潜めていたと言うことになる。


 別れて一月、シドの中の問題は一向に解決しなかった。むしろ日に日に悪化した。

 何をしても何かにつけてファランの顔を思い出すし、気を抜けば彼女がいる体で行動してしまうし、挙げ句の果てには季節柄寒がっていないか、山小屋で一人寂しがっていないか――なんて暇になると考え始めているんだから、これはもう駄目だ、自分は筋金入りの駄目男だと早々に音を上げた。まったくもって情けない男である。


 三十七歳。それなりの年。そのうち、少女と過ごしたのはたったの六年。

 そしてこの有様である。未練たらたらなんてもんじゃない。

 ナークが彼の様子を見たら、さぞかし舌を回して全力でコケにしたことだろう。



 その割に、では本人に会いに行くかと立ち上がろうとすると、まったく足が動かない。


 単純な話、どういう顔をして、どういう言葉をかければいいのかわからないのだ。

 会いに行くのが正しいのかも判断しきれない。



 ファランはシドと過ごした六年間、一度も片割れの力を使用しなかった。

 あの夜、突如シドに向かって牙を向いたのは、彼女の心境が昔と変わったからだろう――ということは、さすがに鈍いシドも理解している。


 では、自分はどう応えるべきなのか?

 まったく正解が見当たらない。

 そもそも置いてきたことが良かったのかもわからないが、あの状態で一緒にいて口論の果てにオウドが暴走なんかしたら――それこそ最悪だ。

 自分がファランを殺すかもしれないことはあっても、ファランに自分を殺させるつもりはない。

 だからシドは一度離れた。

 ――が、離れてみたら、やっぱりどう考えてもこのままハイさようならとはいかないことに気がついた。

 そう思っても肝心の解決法だけが見当たらない。

 だったらまた一緒に暮らしましょう? ふざけんなどんな顔してやりゃいいってんだよ。

 ではやはり、さようなら? ……主に自分が大丈夫なのだろうか、それで。元は一人だった時の方が長いのに、なぜこんなていたらくになっているのか。


 シドはそのようにモダモダ悩みながら、こそこそ身を隠し続けている。



 確かにその昔、シドはファランに自分のことを父親と思うなと言った。

 たぶん、そういう優しい存在として振る舞えないから、変に期待してくれるなという意味だった。


 シドは出会ったときのファランとちょうど同じくらいの年に村を焼かれ、故郷を離れて一人で生きてきた。

 家族というものがどういうものだったか、もうほとんど思い出せない。

 戦場や旅育ちの自分が、世間のまともな家庭を与えてやれるとは思えない。

 だから、本来はそういう感じの意味だったのだ。


 けして、男として惚れてくれろとか、そんな方向に解釈してほしかったわけではなく。

 というか、なぜそういう話になっているのか、未だに理解できておらず。

 寝耳に水だったというか、にわかには信じがたい。


 そりゃ近頃色気づいてきたなあぐらいには思っていたが、一体何を考えているんだあいつは、自分の父親と同じぐらいの年の男だぞ、どう考えても頭をおかしくしているに違いない、正気でシドのような男に惚れるなんてありえない。それに今までそんなつもりはなかったのに、いきなりそう見ろと言われてもどだい無理な話で――。


 ――だったら、わたしたちってなんなの。


 彼女の鋭い言葉を思いだし、ぐさりと来たシドは盛大に息を吐き出す。


 結局の所、シドを悩ませているのは、ファランの言葉に対する自分の答えが見つからないことだ。


 もしファランが普通の娘だったなら、いくらでも強引な解決方法があった。そもそももっと早く、誰か適当な人間に預けていたはずだ。

 しかし、ファランは凶鳥の片割れ――見えない鳥をその身に宿し、ふとした瞬間に力を使ってしまえる人間だった。それはけして彼女のせいではないが、そのせいで彼女の立場はとても危うい。


 今までは、自分と一緒にいることで、自分が彼女を守ることで鳥が力を使わずに済む――そういう風に安定した関係を続けていられるなら、それでいいと思っていた。

 けれど彼女が一度でも鳥を使った以上、自分とこれ以上いることが彼女にとって良いこととは思えなくなってしまった。

 かといって、難しい事情を持つ彼女を託す適切な相手が浮かばない。下手をすれば、またあの黒ずくめのような一団がどこかから現れないとも限らないのだ。


 一時的にナークに任せてはいるが、これからさきずっととなると問題も出てくるだろう。

 第一、ナークはファランの秘密を打ち明けられたわけではない。


 ――いや、ひょっとしたら、もう自分の知らないところで打ち明けて、二人で生活するようになっているのでは?


 ファランは賢い。シドがいなくても、信頼できる相手、頼れる相手を見抜き、適切に使って生きていくことができるだろう。

 ナークは不満がないわけではないが、シドに比べたらずっとファランと年も近いし、獣器使いだ。ファランの事情にだって、一般の人間よりは理解し優しく取り合ってくれるだろう。

 だとしたら、自分が今出て行くことはかえって邪魔になるのではないか。むしろ自分がいなくなることでファランに新しい生き方をさせるという目的を、自分で潰すことになるのでは――。


「ああ、くそ、また頭がこんがらがってきた。俺たちって何なのか、だと? 知るかそんなこと、わかってたらとっくに口にできてる。これだから考え事は嫌いなんだよ、頭悪いし学もねえのになんだってこんな難題ふっかけられてんだ――」


 ――シド。

 再び長考に入りかけたシドに、紅炎熊グエンジュが呼びかけてくる。


「だーっ、わーってるよ、お前がこんだけうるさいってことは――」


 彼はそれを、煮詰まっている自分に対する相棒のたしなめなのかと最初は思ったが、ふと違和感を覚えて顔を上げる。


 ――シド。


 耳慣れた響きは、彼に周辺の注意を喚起するものだった。シドは一度そうと気がつけば素早く行動する。


 立ち上がり、川から岸の荷物の方に下がりながら左手を構えたシドの前に、突如大きな水柱が上がる。

 紅炎熊グエンジュで対抗しようとしたシドは、しかしすんでのところで言葉を飲み込んだ。


「ナーク!?」


 水柱の中からずぶ濡れで現れた知り合いに向かって驚きの声を上げると、彼はシドを一瞥してから水を飛ばすように首を振り、ざぶざぶ川の水の中を歩き、岸辺へ、シドの荷物へ一直線に向かっていく。

 顔をしかめたシドは、無遠慮に彼の手ぬぐいでがしがし頭をぬぐっている男に向かって、再び紅炎熊グエンジュを構えてから話しかけた。


「……じゃねーな。お前、蛇の方か」

「いやはや――久しぶりに大分ひどいめに遭ったぞ」


 手ぬぐいを頭にひっかけたまま、ナークの姿をした者は、今度は袖を絞っている。

 細い目から、それでも見える瞳孔は異常に鋭い。態度からして、シドの言葉に半ば肯定しているようなものだろう。

 シドが近づいて側に仁王立ちになり、腕を組んで怖い顔をしても商人の獣器はおかまいなしだった。


「どういうつもりだ」

「何、小僧は荒事が苦手で、おまけに泳ぎ方がへたくそなものだから、途中から代わってやったまでよ」

「そういうことを聞いてるんじゃねえ」

「貴様が前に言い当てたことではないか。昔の自由には及ばないが、案外このねぐらも気に入っている、今からなくすのは惜しい。それにしてもまったく、人というのは放っておくとすぐに死ぬから気が抜けない。連れはなかなか得がたい居心地の良さゆえ、まだまだ長生きして楽しませてもらわねば」


 からから笑いながらのらりくらりと答える蛇に、シドは大げさに首をひねった。


「純粋に好意でのっとったって? ……信じられねえな」

「安心するが良いさ、どうせ長時間はこうしていられない。小僧の身体が弱ってしまうからな、我の本意ではない。もう少し面倒見てから適当に返すよ」

「大層な贔屓っぷりじゃねえか。こいつのどこがそんなに気に入ったてんだ?」

「何かをするのにいちいち理屈をこね、言葉での説明を求めたがるのは人のさがであるな。ほんに窮屈で情緒のないことよ。我々はもっと単純なのでな。気に入ったから、認めたから、手を貸す。ただそれだけ。それ以上を求められてもな」


 ナークに好意的な態度を見せているとは言え、かなり勝手なことをしている獣器にシドは渋面を崩せない。

 が、その渋い顔がなんとか身体を乾かそうと四苦八苦しているらしい蛇を見ているうち、ますますひどくなった。


「お前、ドジってただ川に落っこちた――ってわけじゃねえな。ファランはどうした」

「まあ待て、焦るでない。少々やっかいなことに――こら、待てと言うておるだろう!」


 蛇の答えを最初の方だけ聞いたシドは、血相を変えすぐに荷物をひっつかむと、止める間もなくたちまち山道をものすごい速さで走り出した。




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