惨敗の駆け引き
「ファランちゃん!」
ナークが慌てて止めようと呼びかけると、存外彼女は簡単に立ち止まり、彼の方に顔を向ける。
至って落ち着ききった態度に、ナークは自分が激しく動揺していることこそ何かの間違いなのではないか? という気すらしてきそうだ。
だが、雰囲気にのまれず冷静に思い出してみれば、この場に一番いなければいけない人物がなぜかいない事故現場がここである。
男ナーク、なんとかしてファランちゃんのために立ち回るっす!
拳を握り、気を取り直して口を開いた瞬間、先んじてファランの方が声を上げた。
「わたし、どのぐらい寝てた?」
「えっ――んーと、五日ぐらいっすかね」
「そう。ちょっとおなか空いたかも」
虚を突かれたが、てっきりシドについて色々矢継ぎ早に言われるかと思ったナークにとっては、この方向性に話が進むのは好都合だ。
このままファランの体調を気遣う会話をすすめ、彼女を落ち着かせてから一番の難題に入ろう。その間に自分もなんとかうまい手を考えつけるかもしれない。
彼はそう、これからの流れをイメージしてひとまず安堵し、柔らかな笑みを浮かべる。
「あっ、こいつは失礼したっす。そうっすよね。えっと、何か食べるもの――」
「ありがとうナーク。でも先に顔を洗ってきたいから。水も飲みたいし」
「あっ、はいっす、そっすよね。じゃあそっちに井戸があるから――」
「大丈夫。ここ、何度か来た事がある所だから、場所はわかるよ」
「そうなんすか?」
「そう。それで、シドがいなくなったのはいつ?」
「たぶん昨晩っす――ふぐうっ!?」
ニコニコスムーズに応答していたナークだったが、最後の最後で答えた直後に吹き出した。
思わずファランの顔をガン見するが、彼女はやっぱりねとでも言いたげな自嘲の顔を一瞬してから、しれっと真顔に戻る。
ナークに浮かぶ汗は、さっき一瞬引っ込んだかと思ったがますます増えそうだった。
このやり方は見たことがあるぞ。
いったん汎用的で答えやすい別の話題――特に日常的な、なんてことはない生活ネタが望ましい――で気をそらせて肩の力を抜かせ、その後さりげなく自然な延長で本題に入る。すると前の流れで相手は気が抜けているため、本来ちょっと言いにくい答えでもノリで口にしてしまったりする――そういう感じの、会話テクニック、というか交渉テクニックの一つだ。
そういえば昔、ナークが戯れでファランに教えたことがあったかもしれない。
それを師である自分に何の躊躇もなく応用して使ってくるとは、さすがファランちゃん――。
って、のんきに褒めている場合ではない。むしろ本職の自分がこのまま無様に負けっぱなしでいいのか。ここは僭越ながら、会話のペースという物を取り戻させていただきたい所存。
ナークは早くも崩されまくりの自分のペースを取り戻そうと、きりりと顔をすませて気を取り直そうとした。
「この小屋にたどり着いたのが昨日の昼過ぎだったっすから。でも――」
「シドったら、わたしが起きるのを見越して夜逃げでもしたのかしら」
「そっすね、よくわかっていらっしゃる――ンンンっ!?」
ファランの言葉には何の感情も読み取れない。怒りも、悲しみも、憎しみも。彼女はただただ淡々と、起きた出来事を説明するだけ、事実を並べるだけ。静かな調子でしゃべっている。
一方のナークはうっかり余計な事を口走っては、直後に気がついて奇声を発し、後悔に青くなるばかり。
何故だ。自分は弁論術の達人、おねーさんとそつなく楽しく会話をこなす程度の遊び人。優しく立ち回って完璧なフォローをしようとしているはずなのに、フォローすら封じられ続けている。相手に隙を与えず、それでいて的確に自分のほしい情報だけはきっちり引き出していく少女。それがファランちゃん、いやもうマジ今度から姐さんと呼ばせてもら――。
いや、心の中で変な煽り文句つけてる暇があったら口と頭を動かすっす、自分!
ナークは自分の顔色が悪くなる一方なのを感じながらも、それでもなんとか諦めない鉄の心でいようと努力している。
と、ファランが再び歩き出した。今度はなんだとナークがあわあわ口を動かしながら追いかけていくと、彼女はゆっくり歩きながら、ちらと少しだけ振り返って苦笑する。
「大丈夫だよ、追いかけようなんて思わないから。あの人足が速いし、本気で歩かれたらわたし達なんかとても追いつけないわ。言ったでしょ、ちょっと井戸まで行ってきたいだけ。心配ならついてきても全然構わないけど」
「あの、ファランちゃん」
「置いていったって事は、そういうことなんでしょう。シドにはシドの考えがある。それに元々約束を先に破ったのはわたしみたいなものなんだもの、こうなったって文句は言えないわ」
(……拝啓、森の熊さん。絶賛家出中のあなたにこそ、この空気を届けたいっす。なんなんすかあんたの面倒見てる子、娼館のおねーさん以上に全く慰める隙を与えてくれない所か、本業に主導権を与えてくれないレベルの凄腕なんすけど!? あんたの教育方針は大体放置だったようにしか見えないっす、何をどう間違えたらこんな子に育つの! おれっちが手心加えて説明するまでもなく、完璧に状況把握してるじゃないっすか、そして絶妙におれっちに深入りするなと釘を刺してくるじゃないっすかー!)
もはや涙をぬぐいつつ、敗者として負け犬の遠吠えを上げたくなってきているナークである。
ファランは井戸までたどりつくと、つるべを手慣れた手つきで落とし、冷たい水で顔をゆすぐ。よく見れば片手に手ぬぐいを持参しており、ぽんぽんと顔をぬぐってから井戸の淵に手を置いてすっと視線を上げる。
深紫色の目に見つめられ、ナークはどきっとして姿勢を正した。
「ナーク、どうせシドが余計な伝言残していったと思うけど、気にしなくていいからね」
「……えっ。あの、それ、どういうことっすか」
「さっきも言ったけど、この小屋ならシドと何度か使ったことがあるの。最初は寝ている間に移動が済んでいたみたいだし、起きたばっかりだったから、ちょっとわからなかったんだけどね。この季節なら近くに実が落ちる場所もあるし、川で魚もとれる。わたし、一人でもやっていけるから。街道はあっちの方から下りて……」
ファランが手を上げて林の向こう側を指さそうとするので、あっけにとられていたナークは慌てて遮って両手を振る。
「いやいやいや何言ってんの、馬鹿言うなよ。こんなところに女の子一人なんて、できるわけないっしょ。ダメダメダメ、絶対ダメっすから」
「でも、ナークだって、予定とか仕事とか」
「おれっち元々適当人間っすからなんともでなるっす。シドさんがいつ帰ってくるかもわからないのに」
「そっか。シド、帰ってくる日、言わなかったんだね」
んもー、おれっちのばかー、今日こんなのばっかり! とナークが自分で自分を殴っていると、ファランは井戸をのぞき込むように視線を下ろし、つぶやく。
「じゃあますます、本当に出て行ったのかもね。……これからのこと、考えなくちゃ」
ナークが立ち尽くしている間に彼女はくるりときびすを返し、小屋の方へ戻っていってしまう。
「ごめんナーク、少し一人にさせて。ちょっと落ち着いてゆっくり、考え事がしたいから……」
そんな言葉を残しながら遠ざかる後ろ姿を見送って、ナークは拳を握りしめ一つ強く決意する。
よし、あの男を殴ろう。
自分は武闘派ではないが、これはなんというか、男としての義務だ。
シドに一発グーパンしないと、なんかこう、色々と腹の虫が収まらない。
ナークは少しだけ小屋の方をうかがうが、そこからファランが出てくる様子はない。
一人にしてくれとの言葉もあったし、しばらくはそのまま中にいるだろうと判断して、彼は井戸の中をのぞき込んだ。
「青水蛇ァァ……おれっち達、良いお友達っすよね? 少なくともお前がそん中だと窮屈そうだからたまにおれっちの身体を貸してあげる程度には、良い仲間っすよね? つーかぶっちゃけお前はおれっちにそこそこ借りがあるはずっす、つまり何が言いたいかというと、ここで仕事しなかったらおれっちはこん中にお前を投げ落とすっすからね! おれっち今回は結構本気でお前に怒ってるっすからね! この人情のわからない、薄情者の蛇め!」
低く唸るように発声しながら耳に手をやると、耳飾りからするりと蛇が出でる。一度ナークに振り返って呆れたような顔をした気もするが、ナークが彼にしては珍しい形相でさっさと下りろとでも言うように親指を下に向けると、シャーと不満そうに一声鳴いてから井戸の底に下りていく。
ぽちゃん、と水の中に蛇の頭が入った音がした瞬間、ナークは静かに目を閉じた。