熊と雛の思い出
少女は男が土を積み立て、石を最後にどさりと上に置くまで側で立ち尽くしたまま、微動だにせずに側で見守っている。
やがて男が重たい息を吐き出しながら額をぬぐい、促すように彼女に振り返ってあごをしゃくると、よろめくように歩みだし、盛り土の側にそのあたりからつんできた花々を手向ける。
しばらくその前で呆然としていた彼女は、ふと作業を終えた男が自分の横で両手を合わせているのを見る。彼女もならうように両手を合わせ、記憶の中からこういうときに紡ぐべき文言を探して細々と唱えた。
それがすべて終わったのを見届けると、男が思い出したように自分の荷物を漁って陶器の瓶を取り出し、中の液体を盛り土の石の上に注ぐ。
「酒だよ。……まあ、ばあさんが酒豪かはわからんが、俺は元から大したもん持ってないんでね。それに酒やら塩やらは清めにもなるんだろ? ま、そういうことで我慢してくれや」
問うような視線を少女が向けると、男はそう説明した。
そう、と少女はつぶやいてから、ほのかによい香りがするようになった、濡れた墓石に目を向ける、
「かかさま、しんじゃったの」
「オウ」
「もう、もどってこないの」
「そうだなあ。埋めちまったから」
「土の下、さむくないのかな」
「……なんも感じねえよ。苦しいこともつらいことも。眠ってんのと同じだ。永遠に覚めないだけでよ」
熊のような男はそのまま黙り込もうとしたが、その後の沈黙に耐えられなくなったのか、ちょこんと膝を抱えるようにしてうずくまっている少女の隣にやってきてどっかりと腰を下ろし、ばりばりと頭をひっかいた。かと思うと、ぬっと大きな手を出して、その大柄な身体と無骨な動作、少し前に男達をあっという間にのしたのと全く同じ手なのに、妙に優しく、そしていかにも不慣れな手つきで少女の頭を優しくぽん、と叩いた。
「まあ、その、なんだ。所々作法と違った所もあるだろうが、俺とお前で――特にお前が心を込めて、きちんと弔ってやったんだ。身体は土の下で朽ちて世に巡り、魂は肉の器から解放されてまた正しい輪廻の流れに乗るだろう。そしたら遠い先、どこかでまた別の場所で遭うこともあるかもしんねえ。……それを俺たちがまた認識できるかはともかく、な」
少女はなんとなく、彼は自分のことを慰めようとしてくれているのだろうということは理解する。
彼女の育ての親――今は土の下で目を閉じている彼女も、生前言っていた。
人が死んだら、身体は自然に還し、すると魂は輪廻の輪に戻っていき、また別の場所で新しい身体を得てこの世に生まれ出る――そうして、命とはつながっていくのだと。
自分の膝を抱え、足下を見つめたまま、少女はぽつりぽつりとつぶやき出す。
かたわらの男に話しかけているようでもあるが、さほど大きくなく風に流されてしまいそうなその声は、どちらかと言うと誰に届けるつもりもないようなものに思えた。
「わたし、忌み子なんだって。悪いものがついてるんだって。見える? あそこに鳥がいるの。かかさまは、それを人に教えちゃいけないって言って、わたしのことをここにずっとかくしていたの。こわい人がくるからって」
少女は近くの木の枝を指さす。彼女にはくっきりと、そこで悠然と毛繕いをしている鳥の姿が見えている。
男は少女の指先を追ったが、じっと目を凝らすような顔をした後、頭を振った。
「悪いが、そいつは確かに、俺にはわからねえ鳥なんだろうな」
「今、あっちに飛んでった」
「……木が揺れたのだけ見えた。それだけだ」
「そう」
少女は目を閉じた。風が木々を揺らす音だけが響く。
彼女はつかの間、このまま目を開けたら鳥は見えなくなっているのではないかとふと思いつく。
けれど深紫色の目を開けてみれば、それはやっぱりそこにいて、彼女に向かってほう、と鳴いてみせた。
「かかさまが死んじゃったのに、なんとも言わないのね、お前は。人の気なんてなんとでもないのね、本当に」
少女は自分だけの特別な守護者に愚痴るように投げかけてから、ゆっくりと立ち上がった。
膝を払っていると横から咳払いがする。
男を見上げると、彼はまた何度も自分の首のあたりをひっかきながらぶっきらぼうに言い放つ。
「お前、行くところはあるか」
「……ない。どこも」
「これからどうする」
「……どうしよう」
少女は墓石を見ながら、自分の表情が苦笑いのようなものにひくつきかけるのを感じる。
かかさま――どこの誰ともわからない捨て子の彼女を拾って、実の子のように慈しんで育ててくれた尼僧。突然現れた凶刃から少女をかばい、もうこの世にいなくなってしまった人。
彼女には他に身寄りというものが一切なかった。
一応、生前の育ての親の遺言を守るなら、なるべく鳥の助けを借りないようにしながらも山奥で、誰とも関わらず、一人で暮らしていくのが、これからの正しい生き方なのだろう――。
「死にたいか」
「死にたくはない」
急に空を裂いて投げかけられたのは、鋭い刃のような言葉だった。
それをとっさに打ち返すように答えてから、はっと目を見開き、少女は男の方を見上げる。
彼はこっちを見ていなかった。彼女が見つめていた鳥を、見えもしないはずなのに、何かを感じようとでも言うのか、そちらをじっとにらみつけている。
鳥は少しだけ、男に対して不満そうに鳴いた。
少女はびくりとしたが、それ以上それが何もする気配がないのでほっとする。
「……どうしてわたしが、そうならないといけないの」
落ち着いてきた彼女は、先ほどの唐突な男の問いに今度は自分が問いかける。
一度わき上がると、次々と新たな物がわきあがっては彼女の口からあふれていった。
「ずっとおもっていた。なぜ人はオウドをわるいって言うのかな。どうしてほうっておいてくれないのかな。あの人たちだって、さわぎ立てなければ、何もおこらなかった。かってに来て、かってにみだして、かってに死んで――それでもぜんぶ、わたしがわるいの? わたしのせいになるの? わたしががまんして、うけいれなきゃいけないことなの? ……わたしが、『凶鳥の片割れ』だから」
かかさまから言い聞かされ、彼女も知識としては既に知っている。
かつて、時の賢人ルゥリィは予言した。
災厄の子、惨事の招き手、大過を犯す不幸の使徒となるその存在について。
ファランの背中にはその予言の通りの「翼」の模様がある。
それは生まれたときから彼女の背、肩甲骨のあたりにある、動く入れ墨のようなもので、ファラン本人からは特に意識されることはない。
ただ、ファランにだけ見える鳥を寄せ付け、鳥と共に呼応して羽ばたくのだと言う。
凶鳥オウドの片割れ。予言された、翼持てる女子。
そういう自分は、元から生きている価値がないとでも言うのだろうか。
この山奥で、誰にも知られず生きていく。それは確かに、緩慢な死と似ている。
人々に、自らの存在を詫びながら、この山奥に一人きり。
彼女が悪いから、彼女はそうするしかないのだろうか。
彼女は本当は、「そうだ」と答えなければならなかったのだろうか。
――たとえ心がどんなに納得していなくても。
男が言いたいことはそういうことなのだろうか。
黒い、暗い感情が彼女を覆い尽くしていきそうになる。
すると鳥が鳴いた。その鳴き声はまるで彼女を励ましているように、誘っているような調子に聞こえる。
彼女は一歩足を踏み出そうとした。
そう、人の誰がわからなくても彼女は知っている。あちら側に完全に行ってしまえば、こんな風にこちらで思い悩む必要はないのだと。
甘やかな香りが、心地よい音色が、明るく温かな光が彼女を導く――。
「お前、一緒に来るか」
それを断ち切るように止めたのは、やはり男の声だった。
彼女はぎくりと、弾かれるように立ち止まる。きょろきょろ見回し、今の言葉は何の間違いなのだろうかと困惑する。
「俺と一緒に来るか。山奥で一人でいても長くねえし、居場所が割れちまってるんだ、さっきの奴らの仲間がまた来ないとも限らねえ」
冴えない茶色が目に入る。男は今度はこっちをきちんと向いてしゃべっていた。その力強い輝きに無性に引き寄せられるように彼女が見つめ続けていると、彼は腕を組み、顔をしかめ、客観的に言って大分怖い形相のままとつとつ続ける。
「勘違いするなよ。俺はかかさまとやらと違って、お前の父親にはなれねえ。が、お前が何あっても泣かねえって約束するなら……その、なんだ。稼げる仕事じゃねえが、大した趣味もねえ、蓄えがまったくないこともねえし、衣食の面倒ぐらいは見てやれるかもしれん。それに、もしお前が誰かにその見えない鳥のことで迷惑かけちまうようだったり、お前自身がもうこれ以上生きていたくないと考えるようになったなら――そのときは、同行者のよしみ、かかさまとやらの遺言でもある。誰かに迷惑かける前に、俺がテメエの面倒みてやるよ。褒められたことじゃねえが、仕事で慣れてるからな。他の奴らよりは楽に逝かせてやれるって保証してやる」
「それってわたしを殺すってこと? あなたが?」
「お前が俺についてきて、どうしても他に道がなくなったら、だ」
少女は考えた。
熊のようなこの男は彼女の前で、彼女を追ってきた男達をあっという間に片付けてしまった。あの不思議な燃え上がる赤い腕輪といい、とても普通の人間ではないのだろう。手慣れていたあたりからも察するに、木の実や川魚などを細々集めていた尼僧や少女とは全く異なる、猟師よりもさらにおぞましい――たぶん、そういうことをして生きてきた人間なのだろう。だから殺すという言葉にも奇妙な重さがある。
それなのに、なぜかその言葉はとても彼女をほっとさせた。
殺してやろうか、と言われることで、逆に自分が今生きているのだと保証してもらえたような気がした。
本当にばかげた、錯覚のような物なんだろうけど。
「凶鳥の片割れっつったって、ようは見えないそいつがお前以外の人間にも危害を加えないなら何も問題ねえんだろ。俺はその……人身御供みたいなのが、嫌いなんだよ。何も悪いことしてない奴に一人だけ我慢させてのうのうと生きてる奴が嫌いなんだよ。だからお前が望むなら、ここから連れてってやる」
男はしゃがみ、彼女と目を合わせた。
「お前はまだ自分で考えるにはあまりに幼すぎるし、世の中を知らなすぎる。色々知った後で答えや結論を出せばいいんじゃねえのか。お前の育ての親からすると、俺の言ってることは無責任なのかもしれねえが……俺が責任持って連れて行く以上、万が一がありそうだったら、その前に片付けてやる。俺が言えるようなことは、それだけだ。……それで、どうだ」
「……ほんとうに? ほんとうにわたしが、『いっしょにいきたい』って言ったら、そうしてくれるの?」
「ああ」
――そう、このときは、シドはファランと同じ目の高さ、同じ視点でしゃべりかけて、彼女の答えを待ってくれたのだ。
彼女はしっかりと彼の目をのぞき込んで、ふと首をかしげた。
「どうして? どうして、わたしにそんなことしてくれるの?」
二人はしばしにらみ合いのようになって、先に根負けしたのは男の方だった。
「さあな」
彼は素っ気なく言うと鼻をひっかいてそっぽを向いてしまった。
そして彼女が「行く」と答えると、驚くほどあっさりその無理難題を請け負ってみせたのだった。
元々、子どもが嫌いというわけではなかったのだろう。
でも、とても扱いに慣れているとは言いがたい様子だった。
シドがなぜ、明らかに苦労をさせる未来しか見えないファランを背負い込む気になったのか、結局今もはっきりとした理由は聞かせてもらってないままだ。
(シド。知っている? あの言葉でどれほどわたしが救われたか。あの時、他の誰でもないあなたが来てくれて、わたしがどれほど運の巡り合わせを天に感謝しているか。それなのに、こうなってしまったら思わずにはいられない。どうしてわたしを拾ったの、ひと思いに見捨ててくれなかったの。後で嫌になるぐらいなら、最初から期待なんかさせてほしくなかった。それとも、やっぱりわたしが間違えているの? どうして好きにしていいって言うのに、あなたを好きになることは許してくれないの――?)
彼女は自分の瞼からぽつりと滴が落ちていくのを感じる。瞬きでこぼれるそれをぬぐって――はっと目を開けた。
見上げた視線の先にぼんやりと、やがてくっきりと映ってくるのは、見慣れない天井と民家で。
どんなに見回しても、どこにもシドの影も、形も、荷物すらも見当たらない所に、一人で寝かされていた。