出会い
(いや、いや、いや!)
少女は恐慌状態にあった。
森の中を必死に駆ける、その足取りはおぼつかない。
彼女の服も髪も足も、泥にまみれたりひっかけたあとが残ったりと痛々しい様である。
音は一つではない。
もうずいぶん長い間追いかけっこを続けているが、追っ手が諦めてくれる様子はとんとなかった。
「いやっ、こないで、こないでったらぁ!」
彼女は藪をかき分けながら叫ぶ。
小枝にひっかかった髪が数本抜けた痛みが走ったが、かまわずに進む。
かろうじて森の中という状況が、男達と自分との距離をある程度保つことに貢献しているが、それも時間の問題、少女は既に疲れ切っているところを気力だけで動いている状態に等しい。
それでも、絶対に追いつかれては駄目だ。
彼らは自分を狙っている。
正確には、自分に宿る存在を狙っている。
一緒に暮らしていた年寄りの尼僧は、彼女にことあるごとに言って聞かせたものだ。
「よくお聞き。それはね、一緒に暮らしていくにはあまりに大きすぎる脅威なのじゃ。人を救いもするが、多くの人を害することもあろう。婆以外には、隠してけして明かさぬことじゃ。人はそれを受け入れられぬ」
そんなことはない、オウドはわたしのいうことなら、なんでもきいてくれるんだから。
幼い彼女は反抗した。
生まれたときから一緒だった存在が、彼女に悪いことをしなかったから。
けれどあるとき、いつものように尼僧が諭す言葉に自分が激しく言い返した瞬間、育ての親の首に赤い線がぱっと走るのを見てしまった。かすり傷ではあったが、彼女だけにはその線を作ったものの存在が、意図が、ありありと見えてしまっていた。
部屋の片隅を凝視し震える彼女に向かって、養母である老婆は微笑み、首筋からうっすら血を滴らせたまま優しく言って聞かせた。
「よーく見ておきんさい、こういうことじゃ。それはお前だけの神様、あたしらの神様にはなってくれん。それは生涯お前を守る、けれどお前に害をなすものには容赦しない。わかっておる、それに悪気は一切ないとも。ただただ純粋に、お前を守りたいだけ。じゃが、その純粋さが時によっては刃になる。鋭く、激しく、お前の大事な存在をも傷つけるようになる。……あたしの言っていることが、わかるようになったかい」
幼い彼女は老婆の首と、それのくちばしを濡らす赤を見比べる。何度目をこすっても変わることはなかった。それは確かに、彼女がほんの少し向けた敵意に反応して、ずっと彼女を養ってきてくれた育ての親に牙を剥いたのだった。
彼女はそのとき初めて、自分の力が恐ろしい結果をもたらすものであることを知った。
自分の力? 否。
老婆には見えず、彼女にだけ見える存在の、力。彼女はただそれを借りているだけだ。
山の猛獣に遭うこともなくたどりつける山奥の遊び場。
橋から落ちそうになったときに吹き荒れた突風。
溺れそうになったときに一瞬で干上がった川。
手をかざしただけで発生する冬の暖炉の火。
ほしいと思ったときにいつでもすぐにできあがる道。
それがひ弱な人間という生き物にとってどれほど恐ろしい事なのか、彼女はそのときようやくほんの少し理解できたのだった。
だから、そのときからは極力それに頼ろうとせず、どうしてもというときだけ呼ぶようにした。
老婆の教えを真面目に忠実に守り、山奥でずっと二人、身を隠すように暮らしてきた。
(それなのに、どうして)
時折山は、自然は貧しい二人暮らしに牙を剥く。老女と幼女は無力だった。時には折れそうになったこともある。すると彼女の守護者は決まって危ないときに出てきては翼を広げ、彼女と彼女が守りたい存在を庇護した。
彼女に逆らうことなく、普段は彼女の影で眠り、彼女が必要とするときだけ目を開けた。
(誰にも迷惑、かけてなかったのに)
彼女が8つになった春、つまり今。
どこからどうやって聞き当てたのか、彼らはやってきた。
婆の言うとおり、少女を捕らえ、彼女の忠実な片割れを殺すためにやってきた。
(どうして! 何もなければ、何もしない――オウドはわたしを守っているだけなのに!)
彼女は唇をぐっとかみしめ、薄紫色の目を細めた。
光の少ない黒い森の中の様子が不思議とくっきり見えている。
これも、彼女を守る存在の力の一つだ。
――迫りつつある危険に際し、彼女の奥で今まさに重たい瞼を上げようとしている、それの力。
(どうして放っておいてくれないの――何もしなければ、オウドは起きないのに、何もしないのに)
彼女はたくみに森の中を動き、追っ手達を翻弄し続けた。
ところがとうとう、ある場所までくると悲鳴を上げた。
「ああ、そんな!」
彼女は足を止める。見下ろした場所からぱらぱらと小石や土のかけらが落ちていき、慌てて数歩下がる。
枯れていたか腐っていたか、この前の嵐の影響か。木々が根こそぎごっそりと滑り落ちたらしく、目の前には断崖絶壁が現れていた。
振り返って別の方に行こうとするが、当然後ろからはかき分ける音が聞こえる。ならばと左右に顔を向けるが、いつの間にか回り込まれていたのか、そちらの方からもがさごそと音が鳴っている。
崖をのぞく。
……地面は遙か下、激しい傾斜の斜面はごつごつ岩が切り立っていて、下りるのは無理だし落ちたら岩肌に当たって助からないと思う。そうこう迷っている間にも音はすぐ側まで近づいていくる。
ぐす、と鼻を鳴らしながら振り返ると、茂みの中からちょうど追っ手が姿を現した。
数は三。
皆同じような黒ずくめの着物に黒ずくめの頭巾、おまけに奇妙な仮面のようなもので顔を隠している。
少女が青ざめて息を呑むと、ちょうど彼女を真後ろから追ってきていた、今は三人の真ん中にいる人物がくぐもった声を上げる。
「そこまでよ。ここまでかなり手こずらされたが……こちらに来なさい。我らも幼子に無体を働くのは心苦しい」
「いや! 絶対行くもんか! かかさまを、かかさまをよくも――」
少女が叫ぶと、三人は無言で顔を見合わせ、じりじりと包囲網を狭める。彼女は蒼白なまま、強いまなざしで彼らをにらみつけた。頭の中がぐつぐつと揺れ、震えている。
(かかさま、あなたは最後に逃げろと言った、でも逃げられなかった。どうすればいいの? わたし、このままだと約束を破ってしまいそう――)
ふわり、と彼女は肩の辺りで切りそろえられた黒髪が風に浮くのを感じる。
(――やめて)
ますます血の気をなくしながら、彼女は迫る追っ手にではなく、彼女の内に向けて言葉をかける。
(やめて、お願い。怒らないで、オウド、何もしないで――出てきちゃだめ、いやなの! わたし何も考えてない!)
彼女には今や、カチッカチッとくちばしを鳴らす音が聞こえてきている。
守護者は明らかに不機嫌だった。そしてこの癖は、彼女が助力を控えるようになってから自然と発生するようになった合図のような物。
これから力を使うよ。
そう言うかのように、決まってそれは事を起こす前に彼女に向かってくちばしを数度鳴らしてみせるのだ。
手袋に包まれた手が、少女に向かって伸ばされる。
彼女は目を閉じた。
(ごめんなさい、かかさま。でももう――)
その一瞬前、ぶわりとそれが毛を逆立てるのが目に入った――。
「おう、ちょっと待ちな」
そして、まさに緊張が高まったその瞬間。
場違いな声が、その場に響く。
はっとして彼女は目を見開き、三人の怪しい追っ手達も慌てた様子で振り返る。
やがて森から大げさなほどの音を立てながら一人の男が現れた。
髪はくすんだ茶色。服装は率直に言って薄汚れ気味、少しだらしない着崩し方をしている。おそらく旅の荷物を、片手に、肩に引っかけていた。
さらによく見ると、顔の左半分には大きな獣に引っかかれたような傷が走っており、彫りの深い顔にさらに威厳、というか威圧感を与えている。
一言で彼の印象を表すなら、熊だ。熊のような男がのっそりと立っている。
その男はぐるりと一団を見回すと、少女の番になった途端、彼女が目的とでも言いたげにぴたりと見据え、次いでにっかりと白い歯をむきだして笑ってみせた。
「おう、おめえだよ、おめえ。追いついてよかった」
異様な雰囲気に飲まれたかのように動けずにいる彼らの中で、男はごそごそ懐を漁り、きらりと光る何かを取り出した。
「これ、さっき落としてっただろ。渡そうと思って追っかけてきたんだ」
そう言って差し出したのは、蝶型の髪飾り。
少女ははっとして、頭に手をやる。
貧しい二人暮らしの中、ある日ふと尼僧が縁あってもらってきたというそれは、少女の身を着飾る大切なアクセサリーだった。
しかし、追われている途中、どこかに引っかけて落としてきてしまったのだろう。
この男は一体――。
呆然とする少女は、再びびくりと身体を震わせ、緊張する。
少女を囲んでいた男達は突然の邪魔者の方を先に片付けることに決めたようだった。
逃げて、と叫ぼうと口を開いたまま、彼女は硬直する。
「問答無用ってか。じゃあこっちも遠慮はいらねえなあ」
仮面の三人が自分に向き直ると、突然現れた男は待ってましたとでも言うように目を輝かせた。手早く荷物をその辺りに投げ捨て、左腕の袖をまくり上げる。
男のたくましく太い前腕には、妙に目を惹く赤い腕輪が嵌められていた。
それを上に掲げて、彼は一言――いや、一声吠えた。
「火炎熊!」
直後、男の腕が、そしてあっという間に全身が突如炎に包まれ燃え上がる。
いきなりの焼身自殺に、今まさに男に飛びかからんとしていた仮面達は明らかにうろたえている。
少女も思わず口を覆って悲鳴を上げるが、たちまちそれが喉の奥に引っ込んでしまう。
火柱の中にありながら、男はまったく無事だった。
しかし、その容貌が一変している。
くすんだ冴えない茶髪だった髪と、同じように茶色かった目が、両方とも真っ赤に――まるで炎のような紅蓮に染まっている。そして、他の部分は収まっても、彼の左腕、腕輪をつけていた部分だけは、相変わらず炎に包まれたままだ。それなのにちっとも熱そうなそぶりを見せない。
あっけにとられている周囲の中、男が目にもとまらぬ速さで足を踏み出し、手前の一人目にぶんと腕を振る。
ありえない展開の連続についていけなかったのだろうか、少し抵抗しようとしたらしい動きが見えたが、狙われた方は結局頭をしこたまぶん殴られて吹っ飛んでいった。
その勢いのまま、赤い男は二人目の前まで来たかと思うと蹴り飛ばし、振り返って剣を振りかぶった三人目に肘をたたき込む。
あっという間の出来事だった。
両手を握って立ち尽くす少女の前で、男は息を荒げることもなく、倒れた三人を見回してパンパンと軽く手を払う。包んでいた炎が消えていき、髪と目も元通りになった。
彼女はどこかで響く鳥の鳴き声を聞き、ますます目を丸くする。すると荷物を拾ってこっちを向いた男が、またにっかり歯を見せて愛想良く笑った。
「何だおめえ。そんなにかっぴらくと、目ン玉こぼれっちまうぞ」
これが、少女と男との出会いの瞬間だった。